第十話 リムナ族の心臓石柱(注:ゴア表現あり)
『お疲れ様です。なんとか、帰りの飛行機が飛びそうです。明日の仕事には出られます』
スマートフォンの画面には、メッセージアプリのチャット欄が映しだされている。
羽々本霄(はばもとしょう)は、画面をタップし、返信を書く。
『お疲れ様です。無事帰れそうでよかったです。ですが、無理しないでくださいね。どうかお気をつけて』
送信ボタンを押し、スマートフォンをカバンにしまう。そして前を向いた。
霄は格式高い雰囲気がある、窓がない小部屋にいた。
腰掛けるソファは柔らかく、素人でも高級品だと分かる。彼の前にあるローテーブルは脚に繊細な美しい蔦の装飾が施されている。部屋の四隅には金色の燭台が置かれ、そこに立てられた蝋燭の火が部屋を──そして、テーブルの横に鎮座する石柱を、照らしている。
石柱は、高さ約二メートル・横約五十センチ・幅約六十センチ。灰白色の直方体の石柱だ。風化が進んでいるようで、角は丸く、表面はつるりとしている。
石柱の一面、床から一メートル六十センチのところに、心臓が杭で打ち付けられている。霄は医者ではないので、確かなことは言えないが、心臓の形はおそらく人間のものだろう。
奇妙なことに、心臓はまだ脈打っている。切れた血管の断面と杭が打たれた箇所から、血が流れ続けている。流れ出た血は石柱の一面を赤黒く染め上げている。石柱の下には大きな受け皿が置いてあるが、この受け皿から血が溢れるのも時間の問題だ。
この石柱の名前は、『リムナ族の心臓石柱』という。霄が買ったものだ。何故買ったかというと、これが霄の前世と関係するからである。
霄には、前世の記憶がある。
魚類、植物、菌類、人間。オスやメスやそれ以外。色々な生物に生まれては死に、それを繰り返してきた。
それらの経験が妄想ではないと証明するため、霄は前世で経験した出来事を調べてきた。調査し証拠を集め、成果を論文にまとめ、功績を上げた。霄は、表向きは歴史研究家として働き、その傍ら、己の魂のルーツを調べている。
さて、今回この石柱を買ったきっかけは、SNS上の匿名の友人から得た『探している本が見つかる本屋』の話だった。
最初は眉唾かと思った。しかし調べると、ある地域では、くだんの本屋の伝承があるらしい。しかも、偶然にも霄はその地域に別件の用事──ある記念館のパーティーへの参加──があった。
(この用事を済ませたら、この本屋を探そう)
そういうわけで、霄は長めの休暇を取った。用事を済ませた後、本屋を探してまわった。
果たして、本屋は見つかった。本屋ではオークションが開催されており、そこに霄が探していたものがあった。
見た瞬間、「これだ」と思った。その石柱に、見覚えがあった。
遥か昔、草原でこの石柱を見た。周りにはラバとテントがあった。荷物を持った人々が歩いていた……。
霄は是が非でも手に入れると決意し、大金を叩いてそれを獲得した。
そして現在、支払いと発送の準備のため、霄は石柱と一緒にこの部屋で待機している。
本屋を発見するまでの道のり。心臓石柱を手に入れるための白熱したオークション。ここまで、すでに記録に残しておくべき出来事の連続だった。だが最も重要なことは、これからだ。
流れ続ける血。表面に刻まれた、未知の言語の文字。これらの謎を解明しなければならない。難題だ。
クスクス……
突然、笑い声が聞こえた。
霄は部屋を見回した。誰もいない。
「すまない、驚かせてしまった」
女性の声がした。少しもごめんなさいと思っていない言い方だ。
心臓石柱の後ろから、女性がひょこりと顔を出した。にっこりと微笑むと、テーブルを挟んで霄の向かいに座る。
鮮やかな赤色のロングヘアと金色の瞳が印象的な美女で、身体のラインを強調した黒一色の服を着ている。第一印象は、映画で見るような女スパイだ。
「どなたです?」
霄は冷静に尋ねた。今まで様々な出来事に遭遇してきた。変な本屋、変な石柱。女が一人現れたところで、もう全く驚かない。
「私はエン。そこの心臓の持ち主だ」
「心臓の?」
「そうだ」
エンは、胸元に手を当てた。
「今から大体五百年くらい前に心臓を抜かれて、そこに杭で固定されてしまったんだ。心臓を取り戻したくても、自由の身ではない私にはあの杭を抜けない。だから石柱と共に、長い間、この本屋にいた」
にわかには信じられないことをサラリと話すエン。しかし、テーブルの横にある心臓石柱が真実だと教えてくれている。
「お前は? 何故石柱を買ったんだ?」
「その石柱の来歴を知りたいからです」
そう言った後、怪しまれるかと思い、霄は付け足す。「私は研究者ですから」
「ふうん。なら、私が教えてやる」
「いいんですか?」
霄にとっては好都合だ。調査の材料になる。
だが好都合すぎる。突然現れた、人間かどうかも定かでない女性が、石柱の来歴を明かしてくれるだと?
「もちろん。そうだ、店員にお茶を貰おう。長い話になるからな」
エンは鼻歌を歌いながら小部屋の外に出て店員を呼んだ。すぐに店員は二人分のティーセットを持って現れた。
エンは紅茶を一口飲むと、話しはじめた。
約五百年前。いや、四百年前。それとも七百年前? とにかく、それぐらいまえの話だ。
私は大草原を彷徨っていた。
当時の私は根無し草だった。目的地があるわけでも、風景やなにかを楽しむでもない。ただ、地平線まで広がる草の海を歩いていた。
ある時、ぽつんと生えている木の木陰で休憩している時。数人の男女が私のもとへやってきて、話しかけてきた。
「一人でなにをしてるんだ?」
「見ての通り、休憩している。あてのない一人旅だ。お前達は?」
「我々は、リムナの一族のものだ」
草原地帯には、多くの人間が草原を移動しながら暮らしていて、リムナ族もそうだった。山羊の乳を絞り、ロバに荷物を乗せて移動し、テントで眠っていた。
話し合った結果、私はリムナ族についていくことになった。私は彼らが知りたい情報や貴重な品々を持っていて、私は数日間の宿が欲しかったからだ。
休憩していた木からほど近い、緩やかな丘のふもとに、人間はテントを張っていた。
草原の緑に、テントの白がよく映えた。テントの周りにいる者達は、私を笑顔で迎えた。すぐに客人用のテントへ案内してくれた。
薄暗いテントの中で一人になった時。彼は音もなく中にやってきた。
一見すると、純朴そうな顔立ちの若い男だった。しかし、手に槍を持ち、背に弓を背負っていた。彼は、リムナ族の戦士だった。
「お前、何者だ?」
開口一番、そう言われた。不快な感じではなかった。興味津々のキラキラした目で私を見ていたからな。
「ただの旅人だ。寿命がやたら長いこと以外、人間の旅人となにも変わらない。あなたは? 何故人間と暮らしているんだ?」
私達には人間と人外を区別する知覚がある。この時も、お互いが人外だと一目で分かった。
「俺は神だからな」
彼は自信満々の笑みでそう言った。
「神だと?」
「ああ。俺はカタリ。リムナ族の戦の神だ」
カタリ、という名前を聞いた瞬間、霄の鼓動が急に速くなった。脳の中で火花が散る。
(思い出した。あの石柱に刻まれているのは、カタリを讃える歌だ)
リムナ族は、草原に石柱を立てた。石柱には、道標や注意書き、過去にあった出来事、神へ捧げる詩歌を刻んだ。
今、霄は昨日のことのように思いだせる。ある祭りの夜、人々は石柱を囲い、カタリへ捧げる歌を歌い、酒を飲み、肉を切り分けて食べていた。幸せな光景だ。
だが、脳の片隅で、何かが警告を発している。これ以上は思い出すな、と。
「どうしたんだ? 妙な顔をしているが」
「い、いえ。その、神は実在することに驚いていたんです」
「神が実在するかは知らないが、人間はしばしば、私達を神と崇める」
エンは紅茶を一口飲む。
「私達が神と崇められた場合の対応は、大抵二つだ。無視するか、面白がって神のフリをするか。カタリは後者だった。
普段は人間に化けて暮らしつつ、時々神として巫女や族長の夢に現れ、意味深な、しかし特に意味はない言葉を伝える。翌日、人々が頭をひねって『神の神託』を解読しようとしている姿を楽しむ。彼はそういうやつだった」
「それは……なんとも悪趣味ですね」
昔を懐かしむ目で遠くを見るエン。
「そうだな。とはいえ、真面目に神を演じていた時もあった。リムナ族は盗賊にも敵襲にも負けなしだった。彼がきちんと人間達を守っていたからだ。人間のために獲物の動物を狩り、夜には火を囲んで歌い、祭りの日の劇をみて涙を流した。よく笑い、よく泣いた。今にして思えば、彼は人間と共に生きることを心から楽しんでいたよ」
優しい口調で喋るエン。彼女はカタリを好いているのだ、と霄には分かった。
「お前は恋をしているか? 好きな人はいるか?」
突然、エンが霄に問うた。霄は「は、はいえ……」と曖昧な返事をする。
確かに片思いの相手はいる。同じ研究室で働いている、同期の女性だ。笑顔が素敵な女性で、霄は密かに慕っていた。先ほども、彼女のメッセージが届いた時も、霄は密かに喜んだ。たとえそれが、研究室仲間が集まるグループのメンバー全員に向けて、新婚旅行先から送られたテキストだとしても。彼女が霄に思いを向けることは決してない。しかしそれで霄は満足だった。彼女が幸せであればそれで良いのだ。
「昔、私は恋に浮かれる人間達が理解できなかった。だが今は深く共感できる。恋をテーマにした芸術作品が大好きだ。愛とは素晴らしいものだね」
エンは自分のカップに、ポットから紅茶を注ぐ。そして話を続ける。
滞在中、私は料理や乳搾りを手伝いつつ、時間ができた時にはカタリのそばに行った。人外同士、話が弾んだ。心を開いて話ができる相手は本当に久々で、とても楽しかった。私は、人間にはとても話せないような特別な旅の思い出をした。カタリもまた人前では言えないリムナ族の話をしてくれた。
時には、カタリのために働くこともあった。
この国では、人と人、あるいは人と物の、運命や繋がりを『縁』という言葉で表すのだろう? 奇遇なことに、私も運命を操作する力を持つ。私はこの力を使い、リムナ族の領域に動物を呼んだこともあった。カタリの手伝いをしたいと思ってな。楽しかったよ。本当に。
……だが、そういう時間はいつか終わるものだ。
とある交易が盛んな都市にやってきた時だった。その日、カタリは妙に浮かれていた。私は都市に来たことが嬉しいのかと思っていたが、そうではなかった。彼は市場の一角にある、大きな薬草屋に入った。
カタリが中に入った途端、奥から一人の女が飛び出し、歓声を上げて彼に抱きついた。
店にいた客達は、何事かと驚きつつも、幸せそうな二人の様子を見て、つられて嬉しそうに微笑んだ。奥からやってきた店主と思しき老爺は、「店の真ん中で騒ぐんじゃない」と彼らをたしなめるが、声音はとても優しかった。
私は隣にいるリムナ族の人間に尋ねた。あの女は何者か、と。人間は私から目を逸らして答えた。
「あの娘はフーメア。族長の娘だ。三年前からこの薬屋で働いていた。彼女の妹は病弱で、巫女の祈祷も効果がなかった。そんな時、フーメアの枕元にカタリ様が現れ、薬草について学ぶよう神託を受けた。だからこの店で修行をしていたんだ」
「へえ。二人とも随分仲が良さそうだね」
「まあ……あの二人は婚約しているからな。その、幼い頃から仲が良い上に、彼はとても優秀な戦士だ。族長の娘の結婚相手として申し分ない」
頬を桃色に染めた二人は、最高の幸福の只中にいた。皆が──私を除いた全員が、彼らを祝福していた。
私は、店の後ろに隠れ、下唇を噛んでいた。
あれほど惨めな気持ちになったのは初めてだった。自分自身と周囲に怒りと憎しみを覚えたのも初めてだった。
私は棚の影から二人を観察した。カタリとフーメアは、強い絆で結ばれていた。運命を操作できる私だからこそ、分かった。二人は生涯共にいるのだと。一方、私とカタリの結びつきはか細く、簡単に切れてしまうものだった。旅の途中、一時過ごしただけの知り合い。それだけだった。
二人は共に店を出て、リムナ族のテントに戻った。族長も他の人々も、二人を温かく出迎えた。
カタリは、私にフーメアを紹介した。フーメアは大きな黒い目を輝かせ、私を見た。
「あなたが旅人のエン様ですね。私はフーメアと申します。カタリ様からお話は伺っております。悠久の時を旅する方だと」
「フーメアは素晴らしい目を持つ。我々の正体が分かるのだ」
カタリはまるで自分自身の功績かのように、誇って言った。私はただ、適当な返事をした。
フーメアが来てから、人間達は忙しくなった。都市の市場で食べ物や布を買い込み、族長のテントにはいつも誰かしらが出入りしていた。どうやら、数ヶ月後、巫女が定めた縁起の良い日に、カタリとフーメアは祝言をあげるらしい。その準備で大忙しだというのだ。
二人は、時間が許す限り一緒にいた。同じテントで食事をとり、各々の馬に乗って草原を駆け巡り、丘の上で共に夕日を眺めていた。
「フーメア。この先、永遠に私と共にいてくれるか?」
夕暮れの丘の上で、カタリはフーメアに花を渡し、そう尋ねた。
「私と共に草原を駆け巡り、昼も夜も、夏も冬も共に過ごしてくれるか? 肉体が滅び、魂の旅へ出たとしても、私のことを覚え、いつかまた添い遂げていてくれるか?」
フーメアは笑顔で「はい」と言った。彼女の豊かな黒い巻き毛が、風になびいた。
「もちろんでございます。私の魂はあなたのもの。私の全てを、あなたに捧げます。死すら、私とあなたを引き裂くことはできないでしょう。あなたのことを決して忘れません。永遠に」
二人は抱き合った。長い影が草原の上に落ち、木陰に隠れている私の足元まで延びていた。
人外との誓約は、人間の口約束とは違う。この誓いは必ず果たされる。二人は生涯、添い遂げるだろう。
だから、私はこの時決意した。二人の運命を引き裂こうと。
分かっていた。ああ、それはもう、本当によく分かっていた。二人の仲がとても深く、お互いを思い合っていることを。
私は毎晩、何度も諦めようとした。しかしそれはできなかった。二人が生涯共にいる? 考えただけで虫唾が走った。カタリのそばにいるべきは、ちっぽけですぐ死ぬ人間ではない。私だ。そう思った。
二人の仲がどれだけ深かろうと、私には関係ない。神との誓いも関係ない。私は運命を操作できるのだから。
その日の夜、皆が寝静まった後、私は彼らの運命を切った。簡単なことだ。私にしか見えない運命の糸をチョキンと切るだけだ。
そして、次の夜明け前。リムナ族がいる交易都市で、大火事が発生した。
火元は都市のどこかで、正確な場所は分からない。空気は乾燥し、風は強かった。火は草原を舐め、あっという間に広がり、町と、リムナ族を含む多くの遊牧民のテントを飲みこんだ。人々は逃げ出したが、約半数が逃げ遅れた。
二日後、雨が降ってようやく鎮火した。しかし、それで終わりではなかった。生き残った人々は飲み水を求めて泉に殺到した。怪我人は多く、物資は全く足りていなかった。病気が蔓延し、人間は次々と死んだ。程なくして、生きている者は私とカタリ、そして瀕死のフーメアだけになった。
カタリは、フーメアを抱き抱えて丘の上に座っていた。二人がよく一緒にいて、あの誓いをした丘だよ。
彼は小声でフーメアに何か話しかけていたが、突然振り返り、離れた場所で立っている私のところへやってきた。
「お前だな」
カタリは怒りの形相だった。剣を抜き、私にきっ先を突きつけた。
「お前がやったんだろう。お前は運命を変えられるということを知っているぞ。さあ言え。俺に嘘は通用しない」
私は認めた。そうだ、私がやったと、白状した。
すると、彼は剣を私に突き刺した。鎖骨の間から、こう、腹の下まで、縦にまっすぐ皮膚と肉を切った。胸骨を剥がし、肺の間から心臓を掴んだ。血管を引きちぎって取り出し、石柱に杭で打ちつけた。
血をゴボゴボと流しながら倒れる私に、カタリは冷え冷えとした声で言った。
「エン。今この時より、貴様は俺の奴隷だ。命令だ。俺とフーメアの運命を結びつけろ。どんな力も叶わぬほど、強く強く結びつけろ。彼女をこの世に繋ぎ止めろ」
私はそうした。意志など関係なく、身体が勝手に二人の運命を操作した。文字通り、私は彼の道具になってしまった。
とはいえ、私の力でも、死にかけの人間を回復させることはできない。フーメアはすぐに死んだ。
だが死んだ後、すぐに転生した。
「転生した?」
霄が一言呟くと、エンは「ああそうだ」と頷いた。
「彼女の魂はこの世に繋ぎ止められた。肉体が死んでも、魂はまた別の生き物に生まれ変わる。カタリの望みは叶えられた」
そう言うと、エンはのんびりと紅茶を楽しむ。
一方の霄は、茶どころではない。人の肉が焼け焦げた強烈な臭いと、泉のそばで積み重なった死体の腐臭を思いだし、気分が悪くなっていた。
「お前、転生し続ける気分はどうだ?」
霄は「え」と声をあげ、目を見開く。
「気づいていたのか」
「もちろん。私は二人の運命を繋ぎ直したが、私とお前の運命も繋いだままだ。いつかこうして会うと、分かっていた。オークション会場にいた時から気づいていた。記憶は曖昧になっているようだったから、最初から話した。思い出してきたか?」
「……少しは」
「そうか。私は命令に従い、運命の糸を辿って転生したフーメアを見つけた。彼女は虫に生まれ変わっていた。どこの草っ原にでもいるような、小さな羽虫だった。しかし再会したのも束の間、羽虫はより大きな虫に食べられてしまった。
次にフーメアが転生したのは、岩に生える苔だった。カタリは大切に苔を世話した。しかし日照りが続き、枯れてしまった。
その次は犬。カタリは可愛がった。しかし、飢餓で死んだ。
次は木。カタリの努力虚しく、山火事で燃えた。
次は菌。熱で死滅した。
次から次へ、フーメアは数えきれないほど多くの生物に生まれ、死んだ。カタリは彼女の魂を追いかけた。どんな姿のフーメアも、彼は大切にした。
そうして、長い年月が経った。フーメアはある時、人間に転生した。カタリにとって、待ち侘びた時だった。再び共に愛し合う日々が来る、と」
霄は、考えていた。
今までの転生の記憶を辿る。患難辛苦の生、何度も何度も経験した死。何故、このような日々を送ってきたのか?
全てはこの日のため。遠い昔に愛を誓った相手と再会するため。
(本当にそうだろうか)
霄は首を捻る。なにかが引っかかる。なにか大事なことが思い出せていない気がする。
紅茶を一口飲む。すっかり冷めた紅茶が喉を潤す。
「カタリはどこだ?」
「え?」
「貴女がここにいるのなら、カタリもいるんじゃないのか? 貴女を従えている神はどこに?」
エンはきょとんとしていた。だが、不意に大きな声をあげ、手を叩いて笑い出した。
「あっははは、そういう意味か! なるほど。お前は大きな勘違いをしている。お前はフーメアの生まれ変わりではない」
「なに?」
「いやあ、すまない。そんなに忘れているとは思わなかったから」
エンの金色の双眸が、蝋燭の光を反射し、きらりと光った。
「お前はカタリの生まれ変わりだ」
フーメアが再び人間として生を受けた。私がそう知らせると、カタリは喜んだ。すぐに、転生した彼女がいる村へ向かった。影からこっそり、赤ん坊のフーメアが成長していく様子を伺った。
しかし、彼女は変だった。全く泣かないし笑わなかった。母親にも父親にも懐かない。部屋のすみでじっと座り、ほとんど動かない。常に何かに怯えていた。両親は魔物が憑いているのではないかと疑い、あらゆる神職の人間を呼んで彼女の回復を願った。しかしまるで効果はなかった。
心配したカタリは神職者を装い、転生したフーメアに会いにいった。
部屋で二人きりになった瞬間、フーメアはカタリの足にしがみついた。
「お願いですもうやめてください、もう私を解放してください、カタリ様、もうお願いです、助けてください」
カタリは目を白黒させた。
「は? 何を? 何が?」
彼女は顔をあげた。その顔には自分でつけたと思われる、たくさんの引っ掻き傷がついていた。
「貴方の腕の中で死んだ後、また生きて死んで生きて死んで生きて死んで、死んで死んで死んで死にました。私は覚えています。全部全部覚えてます。火に焼かれ牙に貫かれ飢餓に狂い日に焦がされ毒を飲み串刺しにされ溺れ轢かれまた火に焼かれ病に苦しんで」
「大丈夫、もう大丈夫だ!」
カタリはフーメアを固く抱きしめた。
「これから俺がそばにいる。もう怖い思いはさせない」
「無理です!」
フーメアはカタリの腕の中から逃げだし、窓のそばまで走る。
「もう無理です、ごめんなさい、誓いは果たせません。なんにも覚えていたくありません、あなたのことは好きだけど好きじゃない、もうつらくて苦しくて、なにも覚えていられない。全てを忘れたい。お願い、あなたが、私のことを少しでも好きなら、私を助けてください。誓いを破りたい私をお許しください、お願いです」
カタリは呆然としていた。筋肉が強張った反笑いの顔で、とめどなく涙を流すフーメアを、無言で見つめていた。
だがやがて、彼は「分かった」と言った。
「今まですまなかった。長い間、苦しませてしまった。誓いは無かったことにする」
フーメアは安堵のため息をついた。「ありがとうございます」と小さな声で言うと、後ろの窓から飛び降りた。
カタリは悲鳴を上げて窓に駆け寄った。慌てて窓の下を見た。この部屋は二階で、下は石畳だった。助かるはずもない。血が石畳を赤く染めていた。
「エン」
彼に呼ばれ、私はドアの影から姿を見せた。
「貴様は、まだ俺と貴様との運命を結びつけたままだな?」
「そうだ」
「俺とフーメアとの運命も結んだままだな?」
「そうだ」
「なら、命令だ。私がいいと言うまで、ずっとそのままでいろ」
カタリは服の下に隠し持っていた銃を取り出した。それの先をこめかみにあてた。何をする気かと聞いたら、こう答えた。
「人間になれたら、また愛しあえるかもしれない」
そして彼は引き金を引いた。
「どうだ? 思い出せたか?」
彼は頷いた。
「人間になった気分はどうだ?」
「……どう、と言われても困る」
彼のスマートフォンの通知音が鳴った。エンは画面を開けとジェスチャーする。
研究家の仲間が参加しているグループに、新しいメッセージが投稿されていた。投稿者は、彼が思いを寄せる、あの女性だ。
『帰ってきました! いやー、最高の旅行でした!』
そのメッセージの下に「おかえり」や「お疲れ様」などの反応が並ぶ。
「その女がフーメアの生まれ変わりだ」
エンが言った。
「人間になったお前には気づけないだろうから、教えてあげた。良かったな。今度こそ恋仲になれる」
「なれない。斎藤には伴侶がいる。先週から今日までハネムーンに行ってたんだぞ」
「奪い取ればいいだろう。命令すればいい。私なら、彼女と伴侶の縁を切ることができる」
「嫌だ。そんなことはやりたくない。彼女の人生を台無しにしない」
「本当に? 彼女と結ばれたくないのか? あれほど熱心に愛していたのに? せっかく長い時をかけて再会したのに? 私に命令しないのか?」
「彼女はただの友人。それだけだ」
嘘をついた瞬間、彼の心は少し痛んだ。だが、もう運命だの縁だのに縋る気にはならなかった。
「俺は帰る。その石柱はいらない。お前は勝手にしろ」
彼はソファから立ちあがる。
「本当にいいのか?」
「ああ」
ボチャンという水音がした。
見ると、石柱の下の血溜まりに、心臓と杭が浮かんでいた。
「勝手にしていいんだな。つまり、私は自由だ」
エンが心臓を拾いあげる。そして彼に向かって微笑んだ。何かを期待するかのような笑みだ。
「ねえカタリ。以前の私は軽率だった。もうかつてのような、無茶苦茶な運命の操作はしない。だから、また私と友人になってくれるか?」
彼は、己の失言にようやく気づいた。
「待て、俺は──」
カタリではない、と言おうとして、口を閉ざす。
エンはかつて何をした? 嫉妬に駆られ運命を操作し、結果的に大勢の人間を殺した。そのことを後悔するそぶりはない。エンは人間を積極的には殺さないが、己の欲望のためなら、どれだけ多くの人が死んでも気にしない。そして、今もまだカタリと親しくなろうとしている。口では反省したそぶりをするが、内心は分からない。
一方の霄は、対人外の抵抗手段は一つも持たない。霄が親しくしている人にエンの魔の手が迫った時、彼らを助けられない。
「──お前は、これからどうするんだ?」
「さあ。まだ何も決めてない」
エンは服の下に心臓を持った手を突っ込む。黒い服の布が腕の動きに合わせて盛り上がる。次に服から出した血塗れの手に、心臓は無かった。
「いつでも連絡をくれ。俺の過去を知る仲間だ。歓迎する」
「ありがとう。嬉しいよ」
エンと霄は握手する。
強烈な血の臭いを嗅ぎながら、霄は決心する。
いつか必ず、エンを殺す、と。
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