第九話 夢と黄金

(どうしてこんなことになったの?)

 深山由貴(みやまゆき)は、ぎゅっとスカートの裾を握った。スカートには大きなシミができている。とめどなく流れる涙が作ったシミだ。

 由貴は薄暗い小部屋にいた。周りには古い本や巻物、石板、ガラクタにしか見えないような物品が積み上げられている。

 病で職を失ったのが先月。生活が苦しくなり怪しいバイトに応募したのが先週。黒服の男に捕まったのが一昨日。目隠しされた上で車に乗せられたのが昨日。ここに連れてこられたのが今日。

 これから一体どうなるのか、全く分からない。よくないことが起こることだけは確実だ。

 悪い想像が際限なく膨らむ。由貴はすすり泣く。

「うるさいな。一体誰だ?」

 由貴は驚いて顔を上げた。

 いつの間にか、ガラクタに埋もれるようにして、女性が座っている。

 燃えるような赤色の長髪に金色の目。天井の明かりを受けて、ほのかに輝くきめ細やかな肌。どこか異国の雰囲気がある美女だ。服装は、黒いノースリーブと丈の短い黒ズボン、黒いショートブーツと、身体の輪郭がはっきり分かる。モデルのような均整の取れた身体である。こんな場所でなければ、由貴は彼女を芸能人だと思っただろう。

「誰?」

「私はエン。ここの商品だ」

 エンはさらりと『商品』という言葉を口にした。

「商品ですって?」

「そうだ。ここはオークション会場だ。ほら、そこにある小窓から覗いてみろ。客が見える」

 エンが指差した方を見る。確かに、三十センチ四方の窓がある。由貴は涙を拭うと、窓に近づき、外を見た。そして、

「──ヒィ!」

 悲鳴を上げて窓から離れた。

 一度深呼吸する。きっと見間違いだと心に言い聞かせ、もう一回外を見る。

 見間違いではなかった。

 化け物がいた。

 シャンデリアが輝く、豪華な大広間。そこに、化け物がひしめきあっている。タコのような触手が床を這い、何かの骨の集合体が椅子の上で蠢いている。タキシードを着たセミが柱にとまり、巨大なクモがその横で糸を垂らしている。作り物やコスプレには見えない。

 ちらほらと人間もいる。しかし仮面をつけていたり変な飾りをつけていたりと、普通ではない。

 由貴は窓から後ずさる。酷い光景、悪夢そのものだ。酸っぱいものが込み上げてきて、その場で吐いた。

「商品を汚すなよ。店の奴らが起こる」

 背後でエンが言う。彼女の声それ自体は、やや低めの聞く者を落ちつかせる美しい声だ。しかし、こめられた感情は氷のように冷たい。

「なんでそんな態度なの? 怖くないの?」

「別に。お前は何故ここにいる?」

「分からない! バイトに応募したら、突然ここに連れてこられたの。そりゃあ怪しいバイトとは思ってたけど、まさか人身売買なんて」

 由貴は両手で顔を覆う。

(こんなことなら、もっとまえに仕事を辞めたらよかった)

 頭が痛い。最後にちゃんと寝たのはいつだろうか。昨日? 一昨日? いや、もっとずっとまえから眠っていない気がする。仕事に忙殺されていた頃は、眠る余裕がなかった。病気になってからは、眠ろうと目を閉じても、先行きの見えない不安で頭がいっぱいになり、眠れなくなった。子どもの頃は、すやすや楽しそうに眠る子だと親に言われたのに。

(もっと寝て、美味しいものを食べて、旅行に行けばよかった……)

 後悔してもしきれない。再び涙がこぼれ落ちる。

「人身売買?」

 エンは首を傾げる。

「いや、違う。ここはそういう店ではない」

「え?」

「ここは本屋だ」

 エンは両腕を上げて、周りの本や石板、ガラクタを指し示す。

「お化け、怪異、妖怪。そう呼ばれる者を相手にした本屋だ。色々と変わったものを売っている」

「それがなに?」

「人外の本屋だが、店主は人間を尊重している。この世界の本の大半は人間が書いたものだからな。この店は人間に優しい。時と場合によるが」

 最後の一言が由貴を落胆させる。結局恐ろしい店ではないか。

「窓の向こうにいる客も、人間には優しいか無関心かのどちらかだ。彼らは書籍や文物を目当てに来ている。人間ではない。だから私はてっきり、お前のことを迷子か、あるいは盗人なのではないかと思っていたが……」

「迷子でも盗みに来たわけでもないわ。連れてこられたの!」

「そうか。この本屋が人間を売るとしたら、その人間にはなにか特別な価値があるのだろう。例えば、口伝を知っているとか」

「クデン?」

「昔から伝えられている伝説、人から聞いた噂話。子どもが寝る前に枕元で語ったおとぎ話。そういう、文字に残されない物語を売る場合は、語れる人間を連れてくるしかない。とはいえ、まだ生きている人間を商品に、それもオークションに出すことは今までなかったが。お前はどんな物語を知ってるんだ?」

 小部屋の外から、ベルが鳴る音がした。

「皆様、お待たせいたしました。今日はお集まりいただきありがとうございます。早速、取引を始めたいと思います」

 明朗な声が聞こえてくると同時に、小部屋のドアが開いた。黒いスーツを着た男と女が、ドアの近くにある本や巻物を外へ運ぶ。彼らが外へ出るたびにいちいちドアが閉じられ、ご丁寧に鍵までかけられるため、逃げだす隙はない。

「さて、最初の商品はこちら。『虹の密言』でございます。金貨千枚から開始です」

「二千!」

「五千!」

 興奮した声が聞こえてくる。中にはシュー、やギャギャギャ、など、動物の鳴き声にしか聞こえない音も混じるが、問題になってなさそうだ。あっという間に数字が大きくなっていく。しかし、数字を叫ぶ声はだんだん少なくなり、やがて沈黙が訪れる。すると、カン! というハンマーを打ち付ける甲高い音が鳴った。

「三万! 三万で落札されました。それでは次の商品です──」

 次から次へと、淀みなくオークションは進む。時々小部屋が開き、スーツの二人組がガラクタを外へ運んでいく。

「お、次は私だ。じゃあ、さよなら」

 突然、エンが呟いた。そして、煙のように姿が薄れ、消え失せた。

 唖然としていると、アナウンスが流れてくる。

「次は『リムナ族の心臓石柱』です。価格は金貨五万から」

 由貴はどうしても気になり、窓から外を見た。舞台は全く見えない。しかし先ほどは気づかなかったが、会場の壁にモニターがついていることに気づいた。モニターに、商品と値段の推移が表示されている。由貴は客が視界に入らないよう気をつけつつ、モニターを見た。

 大きな石の塊が映っている。石の真ん中あたりには赤いなにかがくっついていて、そこから赤黒い液体が滴り落ち、石柱を赤黒く染めている。

「十五万! 『リムナ族の心臓石柱』は十五万で落札されました」

 由貴は石柱を染めてあげている物体について考えないことにした。石柱も、エンのことも、全て忘れることにした。

 オークションは続く。ガラクタだらけで狭かった小部屋は、どんどん広くなっていく。

 物が全て無くなり、しばらく経った後、由貴はスーツの二人組によって部屋から出された。二人とも無言だった。由貴は機械的に足を動かした。恐怖のあまり、なにも考えられなかった。

 暗い通路を通った後、眩しいライトの下に立たされる。客席からの無数の視線が全身に突き刺さる。由貴は下を向いた。前を見たくない。

「さて、皆様。本日最後の商品です。深山由貴です。金貨百万からスタートです」

「百五十万!」

「二百万!」

「三百万!」

 数字が、由貴の頭の上を矢継ぎ早に飛んでいく。

「一千万!」

「一千二百万!」

「一千三百万!」

 興奮した声がいくつも飛び交う。会場の空気が熱気を帯びていくのが分かる。

(こんなに頑張って私を買おうとするのは誰だろう)

 ふと、由貴は思った。

(必死に値段を言い合って……このオークション、分からないけど、値段は安くなさそう。どうして高いお金を払ってまで私を買おうとするんだろう)

 先ほど、エンに言われたことを思いだす。

『この本屋が人間を売るとしたら、その人間にはなにか特別な価値があるのだろう』

『文字に残されない物語を売る場合は、語れる人間を連れてくるしかない』

 由貴は人生を振り返る。

 地方都市で生まれ育った。平凡だが愛情深い両親、それなりに楽しかった学生生活。大きな幸運も不幸もない、普通の人生。

「二千五百万!」

「二千八百万!」

「四千万」

「現在四千万、四千万です。他の方はいかがですか?」

 生まれも能力も、これといった特別なものはない。今までの人生の中で、高値がつくような出来事もない。誰かに語れるほどの体験をしたことはない。強いて言うなら、仕事で心身をすり潰されて病気になっただが、大金を払う価値はない。

「よ、四千百万!」

「四千二百万」

「四千さんびゃく、いや四百万!」

「四千五百万」

 由貴は仕事をしていた頃を思いだす。早朝から深夜まで上司の罵倒や同僚の陰口に耐えて働いていたのに、給料は雀の涙。安いとは思っていたが、世の中はこういうものだと思っていた。疲労のあまり、転職という発想もなかった。

「五千万」

「五千万、五千万です。他にいらっしゃいませんか? どなたかいらっしゃいませんか? 五千百万などいかがです?」

 今はどうだろう。最悪の状況ではあるが、由貴に高い金を払うだけの価値があると認める者がいるのだ。

「五千万! 金貨五千万で決まりました!」

 競売人の興奮した声が会場に響きわたる。

 由貴は顔をあげた。背の高い、上から下まで真っ暗な衣装に身を包んだ異形が、大きな黒い翼を器用に曲げて札を掲げているのが見えた。

 その後、由貴は別室へ連れていかれた。最初の小部屋とは打って変わって綺麗な部屋だ。部屋の中央でじっとしていると、ドアが開き黒尽くめの異形が入ってきた。顔も真っ黒で、目鼻口も表情も、何も分からない。しかし、由貴は不思議と怖いと感じなかった。

 異形は由貴の前に立った。黒い翼を大きく広げる。由貴の目の前に闇が広がった。



 ピ、ピ、ピ。規則正しい機械音が聞こえる。

 由貴は目を開いた。真っ白な天井が見える。横を向く。心電図のモニターがある。

「由貴、由貴! 起きたの?」

 突然、視界に母の顔が入った。母は記憶の中より老けている。両目の瞼が赤く晴れている。

「昨日家に警察が来て、道端であなたが倒れていたって教えてくれたのよ。だから慌てて来たの。ああ、目が覚めて本当によかった……」

 母は由貴の肩にすがりつき泣く。由貴は老いた母の背中に腕をまわしながら、先ほど見た悪夢を思いだす。安堵のため息をつく。

「心配かけてごめん。ごめんね……」



 病院の外の電線に、黒い鳥が二羽留まっている。カラスにしては異様に大きい。

「いいんですか、ご主人。せっかく高い金を払って競り落としたのに手放してしまって」

 片方の鳥が、カチカチと嘴を動かし、隣の鳥に尋ねた。ご主人と呼ばれた方の鳥は、鷹揚に頷く。

「ああ。私は彼女の夢を少し食べられたらそれでよいのだ」

「あの人間の夢はそんなに美味しいのですか?」

「そうだ。あの子は夢を見る天才だ。何者にも囚われない唯一無二の美しい物語を夢で見るのだよ。私は少しその夢にお邪魔し、物語を体験して、夢を食べるのさ」

「そんなに素晴らしいのですか? 良い夢を見る人間なら、他にも大勢いますが」

「あの子の長所は、目覚めたら夢のことを綺麗さっぱり忘れてしまうことだ。他の人間は、夢の内容をある程度覚えている。一度夢の内容を覚えてしまうと、人間自身が夢をコントロールできるようになり、夢が不味くなってしまう。しかし、あの子本人は自分が素晴らしい夢を見ていることなど、全く知らない。知らないからこそ、美しい夢を見ることができるのだ」

「そうなんですか。今回、オークションに出てラッキーでしたね」

「本当にそうだ。少し前に、たまたまあの人間の夢に入ってからというものの、物語の味を忘れられなくてね。ずっと探していたんだよ」

「なるほど……私も食べていいですか? 味が気になります」

「もちろん。だが他の連中には言うなよ。取り合いになったら大変だからな」

 二羽の鳥はじぃっと由貴を見つめる。

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