第八話 二度目の死が訪れるまえに
私は幽霊だ。気がつけば、この新月書林という本屋にいた。
名前はなにか、生前なにをしていたのか、一切覚えていなかった。いつ生まれいつ死亡したのか、何も思いだせなかった。
店員は気がすむまでここにいて読書してよいと許可してくれた。この本屋は怪異が営む本屋なだけあって、幽霊にも寛容だ。この点に関しては、今でも感謝している。本が無かったらあり余る暇に押し潰されていただろう。
新月書林は普通の本屋ではなかった。千変万化に変わる内装に、無限に続く書架。そして、人類が積みあげてきた文物があった。
紙の書物だけではない。粘土板や結縄、音声や映像もあった。人類が作り伝達してきた情報を収集しているのだ。とはいえ、見るものに解釈を問う絵画や歌詞のない音楽はない。言語やわかりやすい記号を用いていることが、書架に並ぶ条件らしい。
この本屋は奇妙なサービスを人間に提供している。本を探す人間に、彼らが求めるものを渡すサービスである。一度読んだことはあるが、題名を忘れてしまった本。それを探す人間を、新月書林は招き入れる。そして望みの本を渡すのだ。探していた本を見つけて喜ぶ客の背中を、私は何人も見てきた。
一度、店員に聞いたことがあった。なぜこのようなサービスをするのか、と。店員は笑ってこう答えた。店長の趣味です、と。何度聞いても、返答はその一言だけであった。本当に趣味なのか、なにか別の思惑があるのか。私には知りようもない。
とにかく、私はこの本屋に住み、悠久の時間を読書で潰していた。本は無数にあり、全く退屈しない。とはいえ、ずっと文字を追っていると疲れてくる。
そういう時には、本を閉じてお喋りをする。話し相手は私と同じようにこの本屋に住み着いている、女の怪異、エンだ。エンは真紅の髪と黄金色の瞳が特徴的な美人で、口元に微笑を浮かべて私の話を聞いている。
お喋りにも飽きたら、本屋の客を観察する。時には手助けすることもある。
この前、女子中学生が「幼い頃に読んだ魔法の本」とやらを探しに新月書林に来た。はたして彼女は目的の魔法書を得た。
その魔法書の表紙を見た瞬間、非常に嫌な予感がした。あの書はなんだろうと考え、すぐに思いだした。
その本は魔法を与える代わりに読者の魂を喰う外道の書であった。今まで多くの人間が本の犠牲になったのだ。
哀れな少女は表紙を開いた瞬間、本に囚われてしまった。本の邪悪な魔法が心に入りこみ、読むのをやめられなくなった。
だから、私は少女の鼻先で、手で軽く空気をあおいでやった。本屋は埃だらけだったので、彼女は盛大なくしゃみをした。それによって呪縛が解けた。彼女は本を手放し、本は床に落ちた衝撃でバラバラになってしまった。
彼女は何が起きたか分かってないようだった。直近の記憶を本に食べられたのか、かなり混乱していた。店員に促されるまま、本のページを一枚だけ持って本屋から出ていった。
私は存在しない肺からたっぷり息を吐きだし、安堵した。彼女が死なず、健康なまま店を出られたことを喜んだ。
だが、店員は冷たい目で私を見ていた。
「困ります。勝手なことをされては。次からやめてください」
何故店員が怒っているのか、私には理解できなかった。
「あの魔法書を読んだら、あの子は死んでしまう。読ませない方がいいに決まってるだろう」
「死ぬからなんだというのです。客が探している本を渡すことが、この店のサービスです。それを邪魔しないでください。やめてくださいね」
そう言うと、しかめ面の店員はぷいっと踵を返し、店の奥へ去った。
店員と入れ替わるようにして、エンがやってきた。
「また来るぞ」
「なんだって?」
「あの子どもは自分の身に何が起きたか分かっていない。ただちょっと不思議な経験をしたと思ってるだけだ。それに、あの本に目をつけられている。縁があるんだ。またあの本が読みたい、魔法がほしいと思うだろう。それでいつか再び店に招かれるぞ。そしてあの魔法書を手にとるんだ」
エンは床を見た。私もつられて視線をやる。バラバラになったはずの本は、いつの間にか綺麗さっぱり消えていた。
次の訪問は、それから数年後のことだった。彼女の背は伸び、着ている制服は以前と別のものになっている。顔つきはいくぶんか大人びていたが、まだあどけなさが残っていた。
彼女は店員に導かれるまま、例の魔法書を手にとり、読みはじめた。今回は、書店の中に埃が舞っていなかった。なので、くしゃみさせることは諦め、上から数冊の本を落とすことにした。怪我しないように、薄く柔らかい本を選んだ。私は幽霊である。人間の目には見えないし声は聞こえないし、肌に直接触れられない。だからこういう方法を使うしかなかった。
降ってきた本が頭に当たり、彼女は魔法書の罠から逃れた。今回も彼女は酷く混乱していた。どうやら魔法書を読むと、その直前の記憶が消えてしまうようだった。彼女は首を傾げながら店を出ていった。
今回も彼女を守れた。彼女が無事なことがとても嬉しかった。人助けは気持ちよいものだ。
店員が険しい顔をして俺のもとへ来た。
「またやりましたね」
「見殺しにはできない」
「営業妨害です」
店員は手元に抱えていた本を開いた。そこに書かれている言葉を読みあげた。すると私の周りにバチバチと雷のような光が弾け、私は身動きが取れなくなってしまった。手足を動かそうとすると、静電気に似た衝撃が走り、感電したかのように痺れてしまう。
「じっとしていてください」
店員はパタンと本を閉じると、書架の奥へ消えた。
そして、ニヤニヤ笑顔のエンがやってきた。
「おやまあ、かわいそうに。これではもうなんにも触れない。あの子も助けられないね」
「全く動けないわけじゃない。なにか方法を考える」
「そこまでして、あの子をこれからも守り続けるのか?」
「当然だ。あれを読ませてはいけない。死んでしまう」
「何故守るんだ?」
私の不意をつく問いだった。何故? そのようなこと、考えたこともなかった。
「人を助けるのに理由がいるか?」
「いらないと思うが、随分熱心だと思った。あの子が好きなのか? 愛しているのか?」
「あ、あい?」
面食らう。しかし言われてみれば、確かに私はあの少女を好ましく思っていた。恋仲になりたいわけではない。また別の種類の欲求だ。大切にしたい。守りたい。庇護したい。幸せな道を歩んでほしい。
「そうだな。愛してる」
私の答えを聞くと、エンは満足そうに頷いた。
「なんだよ。気持ち悪いな」
「いやあ、ごめんごめん。私は愛というものが大好きなんだ。まあせいぜい頑張れ」
女妖怪はくすくす笑っていた。
私は、この縛めを破ろうと試行錯誤した。無理矢理動こうとすると、痛みがどんどん酷くなり、とてもじゃないがこの激痛には耐えられなかった。店員が持っていたあの本を手に入れようかとも考えたが、無限にある本から探すのは不可能だった。エンになにかよい手立てはないか尋ねたが、「知らない」としか言われなかった。
なにもできない日々が続く。エンが慰めに古い映画やラジオを流してくれるが、私の関心はあの子どものことだけだった。次に本屋に来た時が、あの子の最期だ。あの子の死ぬ姿を見たくなかった。
毎日毎日、毎分毎秒、時計の針を見た。今日来るのか、今日じゃなかったら明日か、明後日か? もう一生来ないでくれまいか。魂が捩じ切れそうだった。
恐れていた日がついに来た。
店のドアが開き、入ってきたのはあの子だった。もう少女とはいえない年齢になっていた。髪を明るく染め、垢抜けたおしゃれな装いをしていた。
彼女は店の奥に進み、ある書架の前で立ち止まった。あの魔法書に手を伸ばした。
その時。
「おやおや、また来たんだね」
エンが彼女の前にすばやく割りこみ、魔法書を引き抜いた。
「あの、その本が読みたいんですけど」
「知ってる。君は何度もここに来て、これを読もうとしている。なぜこれを読みたいんだい?」
「魔法がほしいから。なにか役に立つ魔法がほしいの。それを渡してください」
「渡すよ。貴女に意地悪なんかしない。もちろん、本屋の商売の邪魔もしない。でも、渡す前にもう一つだけ。他に欲しい本はないのかい?」
「他に?」
「この本屋は長居できない。そこの店員に、すぐに帰らされるぞ。それなら今、読みたい本を一気に手に入れて、家に帰ってから読めばいい。その方が得だぞ。ここは魔法だって手に入れられる本屋だ。どんな本も物語も揃ってる。一度読んだ本しか貰えないというルールはあるけど。さあ、なにがいい?」
「えーと……なら、引っ越しで捨てちゃったカラフルレインの写真集とか、あとは──」
彼女は漫画や小説のタイトルを列挙した。それが終わると、「昔読んだ、こんな話、あんな話」について話しつづけた。店員は彼女が求めた本を台車に乗せて運んできた。それを見て喜んだ彼女は、更に「こんなお話を読んだことがあって」と言いだした。
店員が数往復し、「そろそろお帰りの時間です」と言いだした時。
「あ、じゃあ、最後に一つだけ。こんなのはありますか? 昔、父が聞かせてくれた話です。森に住むキツネザルが、お城のお姫様に一目惚れして──」
彼女は父親から聞いたという物語を語った。
その物語は、聞き覚えがあった。
どういうことか、自分でも分からなかった。信じられない思いで、彼女の語りを聞いた。どうして私はこの物語を知っているのだ?
店員は小さなため息をついた。
「ああ、そのお話ですか。それなら、そこに。あなたの後ろにありますよ」
パチンと指を鳴らす。その途端、私を縛っていた電撃の戒めが霧散した。
なにが起きたか分からずにキョロキョロしていると、彼女と目があった。
「……パパ?」
彼女は二歩、三歩と私に近づいた。
「パパだよね? 写真で見たことがある。パパ、分かる? 娘のさくらだよ」
「さくら……」
その名前を聞いた瞬間、私は全てを思いだした。
愛しい妻と娘との、三人暮らし。幸せな日々だった。
毎晩、私は幼い愛娘に物語を語って聞かせていた。桃太郎や浦島太郎といったものでは満足せず、私はオリジナルのお話を作っては、ランランと目を輝かせる娘に語った。
しかし、その幸せな日常は突然終わりを迎えた。話のネタになるかと思って読んだ本が、本物の魔法書で呪いの本だったのだ。私はページをくる手を止められず最後まで読み、死んだ。そして気づくとこの本屋にいたのだった。
「パパ、会いたかった! 一緒に帰ろう。またお話、聞かせて!」
「もちろん」
そう言ったが、内心では分かっていた。彼女に物語を語ったら、私は消えるだろう。
私は物語のために、この本屋に存在していたのだ。ならば、物語を語り終えたら、私の役目は終わる。その時が二度目の死だ。
「たくさん聞かせてあげるよ」
さくらは持っていたトートバッグに、店員が用意した本を詰めこむ。パンパンに膨らんだそのカバンを、私は持った。
私は空いた手でさくらと手を繋ぎ、歩きだす。最後に振り返ると、店員とエンが並んで立っていた。店員はいつもの営業スマイルだ。エンは微笑みを浮かべていた。
「よい一日を」
エンが手を振った。私は手を振りかえした。
ふと、今までのことを書き記そうと思った。文字にして書き残しておきたいと思った。さくらや、より未来の人々のために。そして自分のために。私が消えゆく前に、さくらに語ったお話や、新月書林や、エンのことを書き残して起きたいと思った。
私はさくらと共に、薄暗い店内から明るい外へ出た。
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