第二話 赤いノート

 星奈(せいな)は、今いる場所が、いつもの夢の中だと気がついた。

 そこは図書館だった。上にも横にも本棚が無限に続き、天井も壁も見えない。電灯も松明もないのに、不思議と明るい。夢でないとあり得ない光景だ。

 星奈の前には書見台があり、そこには赤いノートと黒い万年筆が置かれている。ノートの表紙には流れ星の絵が描かれている。

 星奈は微笑むと、本の表紙を開いた。

『星奈ちゃん。こんにちは。給食は美味しかった?』

 縦書きで一言、そう書かれている。書写のお手本のような、綺麗な字だ。

 星奈は万年筆を手に取り、文章の隣に返事を書く。星奈の字は、最低限読むことはできるものの、お世辞にも綺麗とは言えない。

『こんにちは。給食はまあまあ。コンビニの方が美味しいよ』

 返事を書き終えると、次のページに、ひとりでに文章が浮かびあがる。

『そうか。でも、ちゃんとお昼ごはんを食べられて、よかったよ。ところで、何か気づかない?』

 星奈は小首をかしげる。すると、また文章が現れた。

『そろそろ五時間目が始まるよ。起きて』

 チャイムの音で、星奈は目を覚ました。

 一年二組の教室だ。国語の山井先生が入ってくる。朝礼係の「気をつけ、礼」の後、授業が始まる。

 星奈はあくびをしながら教科書を開いた。

 あの不思議な夢を見始めたのは、ちょうど一ヶ月ほど前。ゴールデンウィークが明けた頃からだ。毎晩寝るたび、あの赤いノートで文通をする。

『調子はどう? 今日はどうだった?』

 その日のことについてざっくりと尋ねてきたり、

『今日は疲れてるみたいだね。運動会の練習、お疲れ様』

 こちらを労ってくれたり、

『明日は雨が降るよ。傘を忘れずにね』

 ちょっとした予言をくれたりする。

(早く会いたいな。また眠らないと)

 星奈はうつむき、目を閉じる。しかし、さっき寝たばかりなので、全然眠れない。仕方なく、顔を上げて黒板の上の時計を睨む。長い長い五時間目と六時間目を耐えぬき、放課後になると、すぐに教室を出た。脇目も振らずに、まっすぐ家に帰る。両親はまだ帰ってきていない。

 自室に入ると、机の上に宿題を広げる。本当はすぐにでも寝たいが、そうすると『宿題をやってないでしょ?』という文が出てきて、その瞬間起きてしまう。夢から追い返されてしまうのだ。だから、夢に入る前に宿題をやらなければならないのだ。星奈は頭をフル回転させて問題を解く。

「よし、終わった!」

 星奈はベッドに潜りこみ、固く目を閉じる。しかし、今度もまた、眠れない。全然眠たくないのだ。意地でも寝ようと、心を無にしようとする。しかし、頭の中にはどうでもいい考えがとめどなく思い浮かび、ますます眠れない。そうこうしているうちに、階下で玄関ドアが開く音がした。親が帰ってきたのだ。星奈は渋々、ベッドから出た。

 帰ってきたのは母だった。母はすぐに夕食を作り始め、星奈はそれを手伝った。夕食のカレーが出来上がった頃、父が帰ってきた。

 三人で食卓を囲み、カレーを食べる。

「星奈。学校はどう? 友達、できた?」

 母が尋ねた。

「うん」

 星奈は頷く。

「どんな友達?」

「よく図書館にいる。色々話をしたりするよ」

 嘘は言っていない。母が想像する友達とは全く違う姿形だが、正真正銘本当の友達だ。

「そうか。本好きの子なんだね。良かった良かった。小学校の時は大変だったけど、中学校は楽しそうだね」

 母は安心したように笑った。

(別に大変じゃなかったよ。そっちが勝手に騒いでただけじゃん)

 星奈は一言いってやりたかったが、我慢して味噌汁を飲んだ。

「この前のテスト、一番だったな。偉いぞ」

 父が言った。

「毎日宿題をしっかりやってるからね」

「そうか、そうか。でも、たまには休むんだぞ」

 三人で夕食を食べた後、星奈はすぐに支度を整えて、ベッドに潜った。今度はすんなりと眠りにおちた。

 星奈はまた図書館にやってきた。あたたかい光で満ちたこの空間にやってくると、星奈の心は安らぐ。星奈が最も寛ぐことのできる場所は、学校でも家でもなく、この図書館だ。鼻歌を歌いながら、書見台のノートを開いた。

『こんばんは、星奈ちゃん。今日もお疲れ様。どんな一日だったの?』

 星奈はペンを取り、今日一日あったことを、洗いざらい本に書いた。朝食のトーストが焦げていたこと。体育の授業が卓球だったこと。その授業で、先生に二人一組を作るよう言われ、星奈が余ってしまったこと。そのため、星奈は先生と卓球のラリーをしたこと。数学の授業で、先生が黒板に書いた数式が間違っていたこと。それを指摘したかったが、委員長に先に指摘されてしまい、言い出せなかったこと。思い出せる限りのことを、星奈は書いた。

 友達は、文字の大小やフォント、記号でリアクションをとった。どんなにくだらないことにも『ホントに!?』『星奈ちゃん、よく頑張ったね』と返してくれる。また、ただリアクションするだけではなく、今日一日何をしていたかも教えてくれる。『逃げていく魔物を捕まえてた』とか『夢の海から美味しい食べ物を釣り上げた』とか。詳細を教えてほしいと書くと、美しい挿絵を添えて教えてくれる。それは幼い頃に読んでもらったおとぎ話みたいな世界だ。

『私もそっちに行きたいな。今度連れていってよ』

 星奈はウキウキしながらページに書きこむ。

『あ、もう朝だ。起きる時間だよ』

 突然、無慈悲な文章が浮かび上がった。

『ええ? もっとおしゃべりしたいよ』

『ダメ。ずっとはここにいられないんだよ。でも、一ついいことを教えてあげる。朝起きたら、勉強机のにあるカラフルレインのファイルを学校に持っていってね』

『カラフルレインのファイル?』

 カラフルレインとは、今流行りのアイドルグループだ。星奈はいくつかカラフルレインのグッズを持っていた。ファイルはその一つだ。

『あれは大切に保管しているんだよ。学校になんか持っていきたくないよ』

『明日一日、持っていくだけだよ。そうしたら、きっといいことが起きる。だから絶対に持っていってね。それじゃあ──おはよう』

 目覚まし時計の音が鳴り響いた。星奈は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日を恨めしく思いながら、身支度を整える。部屋を出る前に、机にある件のファイルを、リュックサックに入れた。朝食を食べ、学校に向かった。

 星奈は誰とも挨拶をせずに教室に入り、自分の席に座った。一時間目の授業の準備を始める。

「あ、あの」

 背後から声をかけられた。星奈の肩がビクリと跳ねる。

 振り返ると、クラスメイトの女子が一人いた。

「驚かせてごめんなさい。あの、そのファイルについて聞きたくて。それ、カラフルレインのファイル?」

 女子は星奈の机を指差した。机の上は、リュックサックから出した教科書とノートの山でいっぱいだ。その山の一番上に、件のファイルが置かれていた。

「そうだよ。コンビニのキャンペーンでもらった」

「水野さん、カラフルレインが好きなの?」

「うん。にわかだけど」

 女子は目を輝かせた。

「にわかとか関係ないよ! ちょー嬉しい! このクラス、レインについて知ってる人が全然いなくて、つまらなかったんだ」

 その女子──東野さくらは、カラフルレインについて次から次へと喋った。グループの雰囲気の良さ、楽曲の素晴らしさ、一年前のライブについて。星奈は頷くばかりだったが、彼女の言うことには共感した。

 星奈はさくらと話すようになった。最初は水野さん・東野さん、と呼んでいたが、次第に星奈ちゃん・さくらちゃんに変わっていった。

 さくらは、星奈より明るく、よく喋る人だ。得意な科目は体育で、走るのも速いし、卓球のスマッシュも弾丸のようだ。一緒に組むと負けなしである。

 さくらの紹介で、他のクラスメイトと話すことも増えてきた。数人で机を囲んで給食を食べるようになった。

 星奈の日常は賑やかになった。しかし、一番の友を忘れることはない。毎晩眠り、図書館でその日あったことを教えていた。

(今日は何を話そう。家庭科の授業で、指をいっぱい刺してしまったことでしょ? さくらちゃんがペン回しできるようになったことも教えよう。後は給食の時に聞いた噂話とか)

 今日も、ワクワクしながらベッドの中で目を閉じる。

 しかし、気がつくと朝になっていた。

(あれ? 図書館は?)

 次の日も、その次の日も、星奈は夢を見なかった。あの図書館に行こうと思っても、全然行けない。学校の休み時間や放課後に眠ろうとしても、話しかけられてばかりで眠れない。

 夢を見ない日々が過ぎていく。

「星奈ちゃん、今日の放課後だけど」

「ごめん、今日は無理!」

 放課後。さくらの誘いを断り、星奈は学校を飛び出す。家までの通学路を走る。もう何日会ってないのだろう? 早く会いたい。会って話をしたくてたまらない。

(早く眠らないと。あの子に──あれ?)

 星奈は立ち止まった。

(あの子の名前、なんだっけ?)

 必死に記憶を辿る。向こうから名乗られたことはない。本の題名があの子の名前だったはずだ。必死に、本の表紙を思い出そうとする。だが、表紙の題名の部分だけ分からない。何度もめくった赤い表紙なのに、題名の部分だけ記憶に靄がかかっている。

(どうして? どうして思い出せないの?)

 頭が痛む。星奈はその場にしゃがみ込んだ。

 その時、カチャ、という、ドアが開いた音が鳴った。

 音のした方を見る。そこには、レトロな雰囲気の洋館があった。白いドーム状の屋根と太い柱が印象的だ。ガラスの玄関ドアの上には灰色の看板がある。そこにはエレガントな字で『新月書林』と書かれている。玄関ドアは半分開いており、ドアの目立つ位置に『探している本あります』というチラシが貼られている。

(さっきまで、こんなところに店なんかなかった。『新月書林』……あの話は本当なの?)

 星奈は店の引き戸を開けた。

 中は、夢で見た光景と同じだった。天井も壁もない、無限に続く書架。不思議と明るい空間。

 違う点は、入り口の脇にカウンターがあり、その奥に人が座っていることだ。黒髪をポニーテールにした女性で、司書のように見える。

 司書らしき女性は星奈を見ると微笑んだ。無言で奥を指し示す。

 奥へ歩いていくと、書見台が見えた。聖奈は駆け出した。

 書見台の上には赤いノートと黒い万年筆が置かれていた。ノートの表紙には、流れ星の絵と──リューナ、という題名があった。

「リューナ……そう、リューナちゃんだ……」

 名前を見た瞬間、星奈の脳裏に、昔の記憶が蘇った。

 小学生の頃、リューナ、という名前の友達がいた。クリーム色のコートを着た、長い三つ編みの女の子。赤いノートに、絵をたくさん描いてくれた。

 両親はリューナのことを空想上の友達だといい、もっと別の子と友達になれと言ってきた。しかし星奈は、リューナは実在すると信じて疑わなかった。他に友達を作る気など、毛頭なかった。

 星奈は表紙を開いた。

『ごめんなさい』

「ごめんなさいじゃないよ! どうして夢に出てきてくれないの?」

 万年筆を取らず、ノートに向かって叫ぶ。

『もう会わない方がいいと思ったんだ。夢の中にしかいない私より、現実を大切にしてほしくて』

「夢も現実だよ。夢を見たという現実だ。私、思い出したよ。小さい頃、私と一緒に遊んでくれたでしょ?」

『うん、そうだよ』

「小学生の時も、いつの間にかいなくなってた。なんで?」

『成長すると見えなくなるし、会えなくなる。そして、いつか私のことを忘れる。そういうものなんだ。私はずっと君のそばにいるけど、君はそれが分からなくなるんだよ』

「でも、また会いにきてくれたのは?」

『一つは、いつも一人ぽっちでいる君のことが心配だったから。もう一つは、君とずっと友達でいたかったから。夢の中だけでもと思って、もう一度会いにきてしまったんだ。でも間違いだった。君は私に会うために、授業中に寝ようとするでしょ? それは良くない』

「じゃあ学校では寝ないよ。家に帰ってから寝るようにする。だから──」

『駄目』

 ページいっぱいに大きな文字が現れた。その後、ひとりでにページが捲れる。

『君をこちら側に引きずりこもうとした私が言えた立場じゃないけど、どうかお願い。現実の世界で、友達を作ったりして、生きてほしい』

「リューナちゃんまでそういうことを言うの? どうして!」

 星奈の目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。

「お父さんもお母さんも、友達を作れだのなんだの言う。でもそんなのいらないよ! リューナちゃんさえいてくれれば!」

『本当にごめんなさい。でも、私はどうしても君にそちら側の現実世界で生きていてほしい。こちら側に来てはいけないよ。少なくとも今はまだ』

 背後で咳払いがした。振り返ると、カウンターにいた司書らしき女性が立っていた。

「お客様。そろそろ出口の扉が閉まります。お帰りください」

「えっと、お代はいくらですか?」

「お代はいただいておりません。これはサービスです。どうぞお持ち帰りください」

 女性は玄関ドアを指し示した。大図書館の書架と書架の間に、ポッカリと四角く切り取られた空間があり、そこから真っ白な光が差し込んでいる。

「もう忘れないよ」

 星奈はノートを閉じて胸元に抱え、出口へ向かって走り、白い光の中に飛び込んだ。

 気がつくと、星奈は通学路のど真ん中に立っていた。周りは住宅街で、あの白い洋館は影も形もない。洋館があった場所は、フェンスに囲まれた草ぼうぼうの空き地だった。

 手元に視線を戻す。赤いノートがあった。夢と比べて、随分古くボロボロだ。

 表紙をめくり、中身を見る。ページには全て、絵が描かれていた。風景画や人物画が描かれている。絵には見覚えがあった。小学生の頃、星奈が描いた絵ばかりだ。だが、それらに混じって、明らかに大人が描いた絵があった。精緻な風景画や幼い星奈を描いた似顔絵だ。

 ノートを持って、トボトボと、星奈は歩きだした。

「おーい、星奈ちゃん」

 背後から名前を呼ばれた。振り返ると、さくらが手を振りながら、星奈の方へ歩いてきた。

「星奈ちゃん、ちょうど良かった。スマホのメッセージ、見てくれた?」

「え? あ、ごめん。見てないや」

 星奈はスマートフォンを取り出した。さくらからメッセージが届いている。届いたのは、一時間ほどだ。いつの間にか、そんなに時間が経っていたらしい。

「カラフルレインのライブチケット……の抽選券?」

「うん。今日発売の写真集にくっついてたんだよ。もし抽選が当たったら、一緒に行かない?」

 さくらは屈託のない笑顔で星奈を見る。星奈もつられて笑った。

「うん、行こう。一応お母さんにも聞いてみるよ。いいって言うと思うけど」

「やった! 夏休みが待ち遠しいなぁ」

「まだ応募すらしてないよ」

 星奈はさくらと並んで通学路を歩き、家へ帰っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る