第6話 鉄子、苦しむ。



 眠ったままどこかに連れて行ってもらうどころか、起きたまま異世界にまで連れてこられてしまったので現実は残念過ぎるのだが……。


「……って、テツコちゃん? おい、テツコちゃん? テツコってばよ!?」


「……へっ? あ、あれ、ナハさん? ど、どうかしましたか?」


 我に返ったのぞみがナハを振り返る。

 ナハがふぅ、と大きく息を吐いた。


「準備できたよー。渡されたナイフ、出して出してー」


 そう言われてのぞみは前方を振り返った。


 そこには、同行していた聖騎士たちに捕まって取り押さえられている、緑の肌の小さな魔物、ゴブリンがいた。


「グッギャァアアウウゥゥ」


 何を言っているのか、のぞみにはもちろん理解できなかった。そもそも、小さな緑の肌をした人型のモンスター、ゴブリンが発しているそれが言語なのかどうかも、分からないのだ。


 ただ、ゴブリンは同行していた聖騎士3人によって、完全にダンジョンの地面に押し付けられ、押さえ込まれていた。


「ほれほれ、テツコちゃん。とっととアイボからナイフ取り出して、ちゃっちゃとそこのゴブにとどめぇ刺してやってぇ、押さえてんのも大変なんだからさぁ」


「え……」


 確かに、のぞみも、のぞみのレベルを上げるとは聞いていた。


 しかし、それが、こうやって、地面にうつ伏せに押さえ込まれたゴブリンを殺して、という風には聞いていなかった。

 いや、そもそものぞみはどうやってレベルを上げるのか、想像もしていなかったのだ。ラノベを読まない、ゲームもしない。それがのぞみだった。


 虫も殺さぬ、とまでは言わないが、のぞみは生き物を殺した、という記憶がない。


 もちろん、肉を食べるので、のぞみ自身が知らないところで殺された生き物を頂いてはいる。


 そういうことは分かっているが、のぞみ自身が自分の力で、目の前で生き物を殺す、というのは大きく違う。


「最初はすごいぜぇ。『成長加速』のおかげで、ゴブ1匹でいきなり2つ、レベルが上がるんだからなぁ。『勇者』ってマジ、チートだよなぁ」


 のぞみにはナハが言う、『勇者』のすごさがよく理解できなかった。


「ほらぁ、あのへんだよ、あのへん。あっこがちょうど心臓ぐらいだからさぁ、あっこにぶすっと、刺して終わり、はい。確か『閃光のナイフ』だっけ? いーねー、閃光とか! かっけー! アスナじゃん! テツコちゃんなのに!」


 のぞみは動けなかった。


 アカツキはのぞみがゴブリンを殺すことを躊躇していると見抜いた。

 元々、こういうことには縁のない日本で暮らしていたのだ。そこは理解できる。


 こちらの世界ではゴブリンが殲滅すべき対象だからといって、それを自分の手で殺せるかと言われたら、それは少女にとって簡単なことではないだろう。


 だが、だからといって、このままにして、のぞみが固有スキルを使えないというのはよくない。


 この先、この国の支配層に、戦闘も、生産もできない『勇者』とみなされたら、いったいどうなることか……。


「ナハ、少し、静かにしてくれ。ノゾミくん。辛いだろうし、こんなことはしたこともないだろう。だが、やるんだ。ここでは、この世界では、これを乗り越えないと、生きてはいけない」


 アカツキはのぞみに寄り添うように立った。

 その反対側にはちょっとすねたような顔をして、ナハが立っていた。


「あ、アカツキさん……」

「大丈夫。大丈夫だから。まず、アイテムボックスからナイフを取り出すように念じて……」

「は、はい……」


 自分の意思ではなく、誰かの指示に従って動く。のぞみは、そうすることで、のぞみ自身が感じていた忌避感から目を反らした。


 のぞみは心の中で『閃光のナイフ』と念じた。すっと右手の中にナイフが握られた。


 のぞみの手にある『閃光のナイフ』は勇者専用装備では、ただひとつのナイフだ。握る部分は赤いひもで飾られており、抜き放つと刃の部分がうっすらと赤い光を放つ魔法の武器のひとつ。


 短剣や長剣、細剣、両手持ちの大剣などはいくつも勇者専用装備があったが、ナイフは『閃光のナイフ』だけだった。


 のぞみが短剣でさえ、手にすることを躊躇したため、このナイフがのぞみの装備として選ばれたのだ。


「そのままじゃ下へ刺せないから、逆手に持って。そう、そうだ……」


 アカツキに言われるままに、ナイフの向きを変えて、のぞみは握りなおす。


「両手でしっかり握って、さっきナハが言ってたところ、あそこが心臓だから、狙いを定めて……」


 のぞみの目に涙があふれてくる。でも、身体はアカツキに操られるかのように、その指示通りに動く。

 間違いなく、のぞみの身体を動かしているのはのぞみ自身だ。でも、自分の身体じゃないような気がしてくる。


「そうだ。そこだよ。さあ、両手でナイフを握って、思い切って、振り下ろして!」


 のぞみは、のぞみの両腕がゴブリンの背中に向かってナイフを振り下ろすのを見つめていた。涙があふれてくる、その目で。


「グッギャアアアァァァ……っ」


 ゴブリンの断末魔がダンジョンに響く。


 のぞみの腕がナイフを刺した背中からあふれてくるゴブリンの血は赤かった。緑の肌が、赤く染められていく。


 のぞみは、そこへ、今朝食べた朝食をぶちまけたのだった。


「レベルアップじゃねぇじゃん! ゲロリンパワーアップじゃん! ウケるーっ!」


「ナハ、少し黙ってろ」

「はいっス、ツキさん……」


 ナハは先輩勇者であるアカツキには割と従順だった。


 だが、後輩勇者であるのぞみのことは、この一件で完全に見下したのだった。






「使えるようになったかい?」


「……いいえ、まだみたいです」


 のぞみのステータスを確認しても、まだ固有スキル『鉄道』は『現在、MPが不足しているため、使用できません。』と書かれたままだった。


 レベルはナハが言った通り、3に上がっていた。


 のぞみはあの後、嘔吐した汚物がかかった聖騎士たちに謝罪した。謝り倒した。謝って謝って、謝りまくった。


 聖騎士たちは気にしなくていいと言ってくれたが、のぞみからすると気にならないはずがなかった。


「……辛いかもしれないが、続けよう」

「は、はい……」


 アカツキの声は優しい。だが、妥協は許してもらえそうになかった。


「この世界で生きていくために、力は絶対に必要なんだ。耐えてほしい」


 アカツキは、アカツキの信念で、これがのぞみにとって必要なことだと考えていた。


 そうしてこの日、のぞみはゴブリンを刺しては吐き、刺しては吐いた。胃の中身がなくなってからは、音だけが漏れ出るようになった。


 2匹殺してレベル4、5匹殺してレベル5になったが、固有スキル『鉄道』は使えないままだった。


 のぞみの手はゴブリンの血と油と、のぞみ自身の胃液にまみれた。


 アカツキから、明日以降もダンジョンに来ることが告げられて、この日のダンジョン探索は終わった。


 ただ、のぞみの黒い瞳が、死んだ魚のように濁っただけだった。





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