【第1章|かつての針子たちの楽園】
〔第1章:第1節|トンネルを抜けると〕
——二年ほど前。
売り文句であった「白銀の世界」は、あまりに鬱屈的であった。
降り頻る豪雪は、快晴であったなら見えていたのであろう山々と、広い田畑にせせらぎや野生動物たち——雄大に連なっている自然のその全てを、寒々しい真白に塗り潰し、窓外の風景は殺風景を通り越して、不動に近かった。
『ベルトライン・東北』。
真紅の西洋気触れの寝台列車は、その雪景色を緩やかに進んでいた。
ひと昔前なら、派手な天候での鉄道車両の運行は「即中止」と決まっていただろうが、低速でも進行し続ける列車の剛情な姿は、近年の技術発展を明確に体現していた。
雪も列車も好きではなかったが、長い休暇と貯金を持て余し、衝動的にチケットを取ったのは自分だ。——仕方ない。自己責任である。
通常通り出発した運行会社もどうかとも思ったのだが、それが売りの一つなのだからそれはそれで、提供する側としては好都合なのかもしれなかった。
——物事の裏側に関しては常に、明瞭には知る由も無い。
ガタンゴトン。列車が揺れた。
食堂車は鬱屈とは真逆の、煌びやかな甘美さを誇っていた。
外を覆う積雪同様、テーブルクロスやカーテンは全てが純白。内装全体は上品な金装飾と素朴な木目で織り成し、ガラスや銀食器たちは小さなシャンデリアからの輝きを、より一層輝かしく車両内の四方に照り返す。
細部まで豪華に配われ、美しい——そんな雰囲気で満たす、この優雅な空間に。
十四時半。座っていたのは、一人の青年だけだった。
傍から見るとかなり不機嫌そうな顔で、その視線は真白の外を眺め、黄昏ている。目の前の皿には野菜と生魚の混ぜ物が置かれていたが、フォークは皿の端にかけられ、手がつけられた様子はなかった。
白い背景に薄く映るのは、切らずに放置していた蒼みの強い長めの黒髪。頭頂部から肩近くまで、頭に沿って丸まって流れている。不服そうな目付きと気力の無い顔立ちはより青臭さを強調しており、首の下に見えている淡い青色の長袖も、深く暗く見えていた。
頬杖の上でへの字に歪んだ口元は、世界に対し不満を振り撒くよう。視線は確かに窓の外へ飛ばしているが、しかし何も見ていないようでもあった。
この場にいるため注文したものの、食欲はなかった。刻まれて集められた尊き命の最期は、青年にとって金属で突くだけの、持て余す玩具に成り下がってしまっていた。
つい数分前までは他にも乗客がいた。アラブ系のターバンみたいな布を巻いた女が二人。その前は白人の親子が。その前は一人の老婆と、付き添いの若い女が。半分くらいは出て行くときに、青年に頭を下げていった。
青年は後方車両へのドアを背に、最も近くの右側の席に座っていた。寒さから逃れるため、通路側に腰を落ち着けており、流れていく外の景色と入れ替わる中の人々を——その一連を、見届けていた。
——今はまた独り。いつも通りだった。
ガタンゴトン。
しばらく出入りのなかった前方のドアが、静かに開いた。
心地の良い静寂——しかし胸中のざわめきを破った者を、青年はチラッと視る。
入って来たのは一人の女——妙に鋭敏な雰囲気を纏う女だった。
外と同じく白い革のジャケットと黒い細身のレザーパンツとブーツ。濃紅色の髪が構えるように側頭部と後頭部を囲い、襟元で綺麗に切り揃えられている。前髪は自然に切られているようだが、黒いひと束だけが袈裟のように、頭頂部から鼻の上に重なっている。
背が高くスラリとした女だった。
自分には関係ない——と思ったが、女はブーツの音を立て青年の前まで来た。
「…………」
テーブルを挟んで、沈黙と視線が交錯する。
遠目で見た際は分からなかったが、眉間に被さったひと束の髪、その両側に構えられた鋭い眼光が、今は青年を貫くかのように真っ直ぐ向けられていた。
だがそれは、睨むと言うよりは訴えるような——窺うような視線であった。
青年にとっては知らない顔だったが。
「…………」
二人の間に、沈黙が続いた。他には誰もいない。
何かに納得したように、向ける視線は一切変えず、女が静かに口を開いた。
「こんにちは」
妙に強い、突き刺すような声だった。それでいて感情は感じない。
「……どうも」
立ったまま見下す女に青年は、頬杖のまま脇目程度の挨拶を返した。
「座っても?」
「……どうぞ」
女は椅子を引くと、青年の向かいに座った。
「……記者か?」
「違う。——私はグレンと言う」
座った女——グレン。
「……知らない名前だ」
「当然だ。初対面だ。——君にとっては」
「…………こんにちは。グレン」
含んだ発言に思うところはあったが、その所為で、心の隙間に僅かな緊張が生まれた。言い訳のように挨拶と名前を復唱すると、直後に懐かしさが通り過ぎていった。学生の頃の外国語の授業が始まる際の、挨拶のように感じたからだ。そして挨拶は済んだと思ったが、授業のような文言は続いた。
「調子はどうだ?」
「……絶好調だ。——そっちは?」
「お陰様で。順風だ」
「そうか。……何者だ?」
「? ……私は、グレンと言う」
青年は片眉を上げて見せると、グレンは鼻から短く息を吐いた。同時に、肩肘を張る青年に対し、強張ったように見えていた顔付きが少しだけ緩やかになった。
「冗談だ。怪しく思うだろうが、あまり気を張らなくて良い。——貰っても?」
グレンは窓枠の下に置かれた、水の入ったピッチャーを指して言った。
「……お好きに」
「では」
返されて置いてあったコップを立てると、水を注いで自分の前に。それを見届けた青年は、再び問う。
「記者じゃないなら、何の用だ?」
「確かに記者じゃないが、その話ではある。——『グレイヴィス』の件は功労だったな」
「……そうか」
「——黒人の彼が『よろしく』と言ってたぞ」
————ッ⁉︎
無気力な表情筋から掌が離れ、自然と背筋が伸びていく。青年はここにきて初めて、グレンを正面から真っ直ぐ見据えた。
露わに驚く青年に、グレンは笑みを溢し返す。
「…………何者だ?」
「私はグ——いや。……君は見事だった。後先考えずに動いたこと以外は、だが」
「……どうも」
「それが君の良いところでもあったが」
「……そうか」
心臓が激しく鼓動する。全身が熱を持ち、毛穴から何か噴き出るような錯覚が強まる。
頭の中でも同じように、少し前まで煙たがっていた記憶が、怒涛に溢れ出した。青年はそれとなくフォークに手を伸ばすも、グレンの視線がそれを追う。
「そのフォークは食器だ。もし武器が欲しいというのなら、これを貸そう」
グレンは少し屈むと、雪原のようなクロスの上にコトッと小さく音を立てて、フォークと同じく銀色であり、装飾的でもある——しかし食器ではなく、この場に似つかわしくないほど、明瞭な武器を置いた。
中央に金の十字線が走る、左右対称の短剣。
後に『
『グレイヴィス襲撃事件』。
——一年前。
このご時世にしては珍しく、詳細不明として処理された一件。
青年にとって後味の悪い嫌悪感が強く残った事件であり、高卒で軍へ入隊し、二年ほど国防に勤めていた頃に起こった事件だった。
春の中旬。昼過ぎ頃。浮かれた空気の蔓延する街。
ビルの谷間に騒音と芳しい香りを反響させていた、収穫祭のような名目の祭事。
非番だった青年。たまたま通り過ぎただけだった。
——ビル間の路地に入り込んだ、三人の男女を目撃した。
男二人と女一人——全身黒ずくめで目深に野球帽を被り、男は黒いボストンバッグを、女は黒いリュックサックをそれぞれ背負っていた。
……普通に、怪しい。
誰が見てもそう思っただろうが、誰も三人を見てはいなかった————青年以外は。
角を曲がり、三人の姿が消えた。
当時の青年はグレンが言っていた通り、後先考えずに彼らの後を追った。喧騒が遠ざかる。
古いビルの裏口——ドアノブを破壊し、入って行った三人。まさか、所有者に頼まれたわけでもあるまい。青年もビルに入る。入ってすぐのエレベーターが、上に向かっている。
デジタル数字は「5」で止まった。自分もここで止まってれば良かった。
肩で息をして辿り着いた五階——屋上へのドアは閉め切っていたが、僅かに空気の流れが残っているのを感じる。
乱れた呼吸を整え————深呼吸を一つ。
意を決してドアノブを回し、開け放った。
「——ア?」
屋上の光景は、すぐ下で祭りが行われていることを忘れるような、非日常的なものだった。
いたのは三人——全員、異国の顔立ちであった。
向かって右側に立つのは、白人の男女ひと組。左側に立つのは、黒人の男二人。
四人の奥の柵近くには、黒いバッグが三つ置かれ、側には一メートルほどの円筒状の塊——何故ここにある?
軍で見たことがある。殆ど使ったことはないが、何がどうしてか——「迫撃砲」のように見える。ご丁寧にも三脚のような器具が、きちんと自立して傍にあった。
六つの瞳からの視線が、青年に収束する。
三人の視線——残り一人——左の手前にいた黒人の男の視線は、青年ではなく自分の胸から真っ直ぐ突き出た、細長い金属片を見下ろしていた。
「——なンだ? まだ増エンのか?」
妙なイントネーションの濁声と共に、突き出た金属片は黒人男の胸の中へ戻っていった。赤く染まった穴だけが残ると、その肢体は力なく床に倒れた。
背後に立っていたもう一人の黒人男は、足元に崩れ落ちた死体の原因である、その十字架のような金属——剣を一度振るうと、鮮血が床に繁吹く。
黒人男は相対していた黒ずくめの白人二人を見て、普遍的な私服を着ている青年を見た。
その顔はどこか楽しげに——嘲笑うような下卑た面を浮かべていた。
「余所もンかよ……。マズッたな……」
青年からしてみれば他の三人——と一人だった者の方が、全員余所者であったが。
もっと言えば、剣を手に立つ黒人男の格好さえ、明らかに常識とは異なるモノだった。
白を基調とした装いで胸に金色の十字線を施し、それ以外の箇所は、細長い連接模様が鱗状に連なっており、口から下と手首までの全身を覆っている。その上で、手にしている剣以外にも右腿に、一本の短剣を納めているのが見える。
軍の情報にはない未知の戦闘服。如実に分かる——やたら材質が良さそうだ。
最初に動き出したのは白人の女。
戦闘服の黒人に向かって飛び出し、手にしていた二股の工具を振り翳す。
後から振り返ってみれば、初めて人の「死」を目撃したにも関わらず、よく冷静に動けたものだった。
女の工具を弾く黒人を尻目に、青年は残った白人男に向いた。相手がこっちに向かってきたのだから、強制参加だった。白人男はポケットからナイフ——二十センチくらいの刃物を見せた。青年は素手であったが、非番でも新人でも、現役の軍人——突き出された手首を掴むと、背負い投げが綺麗に決まる。床に叩き付けた白人男の手首から、ナイフを剥ぐように捥ぎ取ると、勢いのまま床を滑らせ、届かない所へ流す。白人男は筋肉質ではなかったが、それでも力が強かった。手足が暴れかけたが、青年はすぐ馬乗りになると白人男の両耳を掴み、後頭部を数回床に打ち付けた。
アドレナリンが暴走したように、無我夢中だった。五、六回——白人男の身体から力が抜けた。
目線を上げるとこっちを背にして、白人女が床に投げ出されていた。白人女は素早く立ち上がったが——「待て‼︎」——一歩遅く、背中の真ん中から剣先が貫いて出てきていた。
「殺すな‼︎」——と出掛かっていた言葉を飲み込み、投げ出されるように倒れてきたその体を、抱えるように支えた。
…………。——既に事切れている。
黒人男はずっと嗤っていた。その様子は、青年には馴染みのない人格性だった。
「……何故殺した?」
青年は静かに訊いた。
正直、生死や命がどうこうというよりも、目的や理由が不明なことが、不可解であった。
「お前は何だ?」
叫びたい気もしたが、叫ぶようなことでもない気がした。返事は返ってこないだろう——と思った通り、黒人男は答える代わりに剣を振るった。
ただ振るったのではなく、放ったのだ。青年——ではなく、その背後——起き上がった白人男に向かって。女の死体を抱えるように腰をついていた青年は、身動きが取れなかった。
投げられた剣は白人男の足を狙ったようだったが、突き刺さったのは惜しくも屋上。
黒人男は青年の傍を通り過ぎると、柵の前に置かれていたバッグに近付いた白人男に、右腿から抜いた短剣で斬りかかった。
遅れて——慌てて立ち上がった青年は、女が握っていた工具と床に刺さっていた剣を取る。白人男は迫撃砲のような円筒装置を、黒人男に向かって投げる。黒人男はそれを受け流し、円筒装置は床を転がる。青年も参戦し、鋭い剣戟の左右の武器で弾く。左手の工具で黒人男の短剣を受け止め、右手の剣で白人男のナイフを弾いた。
白人男の右手から鮮血が舞う——斬るつもりはなかったが、ナイフを握っていた手の甲を、青年が持つ剣が深く裂いた。青年は構わず追撃を試みるも、鮮血を目で追った一瞬の隙を突かれ、黒人男に背中を強く蹴られた。顔から床に投げ出され、剣が手から離れる。
白人男は手を押さえながら二、三歩下がると、リュックのもとへ。黒人男は剣を拾う。
「Oh,SHI——」
青年は伏せたまま顔を上げると、白人男は薄い四角形の塊を手にしており、丁度背後へ——下の祭事中の公道へ! 放ったところだった。
——嫌な予感がした。
そして、それは的中した。
頭上から物が降ってきたら、普通に危険だ。だがわざわざそのために、異国から男女三人組が、円筒装置を持って不法侵入を試みた——だけじゃないはずだ。
青年は急いで立ち上が——った瞬間、衝撃音と振動。一度ではなく、二、三度響き渡る。
幾重の悲鳴が下から上がってくる。
爆発物。
命の断滅に囚われてしまったが、こっちも止めるべき相手だった。
と思ったときには、黒人男が十字架を一閃——白人男の首に一線。
血が噴き上がり、白人男は首に触れながら、膝から崩れ落ちた。
————————。
……………………。
沈黙が跨ぐ。
——動かなくなった外国人の死体が三つ。
その中に立つ、戦闘服の黒人と青年。
「……お前、ホントに何なんだよ」
黒人男はニヤリと深く微笑う。
その長身が嘘のように、突発的と言えるほど早く、青年の前に身を屈めて迫ってきた。青年は工具を構えたが、リーチがあまりに違い過ぎた。
僅かに上から突いてくる刺突攻撃——目に見えぬほどではなくとも、それは無造作にも見える——しかし精密さがあるような、「猛攻」と呼べる攻撃だった。間合いや距離感が不安定に錯視するほど、上下に波打つぐにゃりぐにゃりとした刺突の連撃を、青年は心許ない工具で精一杯に弾く。
——その間、黒人男はヘラヘラと嗤っていた。
一杯喰わせてやりたいと思ったが、防戦一方の青年に、突破口は訪れなかった。そうこうしているうちに、背中が柵に接触。
無数の鋏が口を開閉し襲ってくるような視界の中で、黒人男は不意に——ブレるように身体を揺らし、青年の顔に剣先を突き出してきた。
偶然か才覚か——工具の二股がその剣先を捉えたが、その方向までは捉え切れなかった。
黒人男は青年の間合いに入ると同時に、剣の刀身を工具の股に固定させたまま、戦闘服の左脇へと入れた。
その手を押さえるチャンス——とはならず、青年の左手が動く前に、黒人男が剣の柄頭を素早く突き出し、青年の額に真っ直ぐ突する。
脳が揺れる——ほどではないが、怯ませられて、隙は充分に突かれた。
黒人男が青年に足払い——倒れた青年を床に叩き付ける。青年は手を伸ばしたが、殴られる方が早かった。
視界は暗転。
「仮にも軍人であるのなら尚更、法や規律を守るべきだろう。一時撤退や通報に尽力することもできた。——でも君はそうしなかった。何故だ?」
「……さあな。慢心してたんじゃないか? ——それか、英雄願望でもあったのかもな」
自嘲。
どうせ全ては、後の祭り——と、割り切ったわけじゃない。
単純に他人から問われても、「よくわかんねえ」というだけのことだった。
「知ってるか?」
代わりに、青年自身にわかっていることを告げる。
「俺が目を覚ましたとき、あの屋上は警察に包囲されて、俺自身も拘束されてた。ハッ……当然だ。外国人の死体が三つと、複数の爆発物に砲台装置まで転がってたんだ。犯罪現場としては、異常にクオリティが高いからな。——戦闘服姿の黒人剣士なんて誰も見てなかったし、死んでた外国人の死因は落ちてたナイフだと。……俺の指紋がベッタリ付いた、刃渡り二十センチのナイフだと断定された。一人の首を斬って、二人の心臓を貫いた刃物だ。俺は尋問で洗い浚い喋ったが……結局『物的証拠がない』と言われ、粗方の話は妄想で処理された」
「事後処理が甘かったことは謝罪する。我々の当初の計画では、怪我人も目撃者も——接触者も誰もいないはずだった。君の登場と結果的な妨害は想定外だった上、我々も諸事情により、早急な撤退を要していた。ついでに言えば、存在も行動も世間に知られることは避けたかった——だから、すまなかった。あの一件は、君の所為でも責任でもない」
頭を下げたグレン。本人の軸のある印象が強い所為か、それは誠実であるように思えた。
「……お陰様で、半年くらい前までは、記者と追いかけっこの日々だった。俺が——アンタらと俺が知ってる情報を、世間は喉から手が出るほど欲しがってたからな」
青年の中では、今更怒りが湧くようなことじゃない。
割り切れずとも、終わったことだった。
素直に謝罪を受け入れても良かったが、胸の奥底から少しだけ漏れ出た負の感情が、受容ではなく保留を選んだ。グレンは頭を上げる。
「事態の収集に乗り出した国は、国際問題を恐れた。理由はともあれ、外国人が三人死んだんだ——不問にするため事故に見せかけ、俺は蜥蜴の尻尾切りになった。現場にいたのが、新米の軍人だったことが、都合が良かったんだろう。そいつがとち狂った妄想を喋り散らす前に、秘密保持契約を結んだ。除隊の通知と、退職金代わりの口止め料を引き換えに。罪に問われなかっただけマシだとも思ったが、事件自体の詳細は、未だによく知らない。俺はただの捨て駒だ」
——例によって、軍人の個人情報は漏れたが。除隊よりも、匿って欲しかった。
グレンは黙って聞いていた。
青年はすっかり思い出していた。——事情はどうあれ、あの黒人は一発殴りたい気がする。これは誰かが死んだからとかではなく、ただ怒りをぶつけたいだけの衝動だ。
「……アンタらは、『グレイヴィス』を知ってるのか?」
気を散らすために、グレンに問う。
『グレイヴィス』——現場にあったリュックの裏地に、そう書かれていたらしい。
正確には『Grayvis』であり、これはニュースでも報道された。
しかし、奇跡的に、爆発物による死者はゼロであり、軽傷者が数十名のみという、結果的に青年が、大きく胸を撫で下ろし安堵したこの一件は、爆破テロとしては失敗だったため、テロではなく襲撃事件と名付けられた。治安の悪化に伴う類似事件の増加や、国の沽券の問題で名付けたという噂もあるが。
グレンは「尤もだな——」と、口を開いた。
「その名前は故人のだ。——近年この国に不法入国し、悪徳商売を始めようとした者たちの、その元締めの名前だ」
「元締め? その名前がバッグに書かれていたのか?」
「書かれた成り行きは不明だが、まあそうだ。グレイヴィス——グレイヴィス・アルフレックソンは、『レトバ暗殺団』という組織が内部抗争によって分裂した際の、片方の首領だと聞いている。あの爆発物と発射装置は、もう片方の首領がいた、向かいのビルに向けての誘導攻撃だった」
「誘導攻撃?」
「派手に立ち振る舞って騒ぎを立て、別の場所へ誘導する計画——だったらしい。だから死者が出なかった」
……そこそこ、大きな事情があったらしい。真実かどうかは知らないが。
————?
「『レトバ』の一件は、世間に知られると良くない事情があったが故、色々あって、我々が手を出した」
インターネットで検索すれば、事件関係者として、青年の名前が——そして付随する除隊の話や個人情報が、尾鰭が本体と言い得るほどに、玉石混淆わんさか出てくる。
——なら『レトバ』は? グレイヴィスは? グレンは?
「……そもそも、アンタら何なんだ?」
グレンはコップに水を注ぐ。青年を一瞥すると、気まぐれのようにもう一つのコップにも水を注いだ。
「簡潔に言うならば——非公的な戦闘部隊だ。法も社会も倫理も関係なく、『正義』のために——『正義の天秤』を均すために、ときに命を護り、ときに命を奪う」
「正義の戦闘部隊? ——ヒーロー集団か? ちょっと前から流行ってるな」
近年、治安と情勢の悪化に伴い、各国政府の不信感から都会を中心に世界中のあちこちで、「自警団ムーブ」が起こっている。主に覆面と武装によって、誰彼構わず「悪」だと決めつける者たちによる所業————私的制裁————悪行が、軍でも問題となっていた。
グレンは真っ直ぐ、青年を見る。
「悪いが少し違う。——明確な『正義』を矜持とし、その矜持のために動く。その辺のごっこ遊びではない」
「人を殺すような奴らだってのは、身に沁みて分かってる」
「人殺しには反対か?」
グレンはコップから手を離した。その口振りは、さも当然というものだった。
「軍にいたなら体感してるだろう? 世界は年々悪化しているし、情勢も治安も、徐々に悪化の一途を辿っている」
……確かに、身に染みて知ってはいる。
少子高齢化の進行や、軍や警察の人員不足が、国内の暴動や要鎮圧事件を、年々増大している。入隊した手の訓練期間でさえ、事件の鎮圧や警察の援護に、幾度か緊急要請を受けた記憶もある。
「——『グレイヴィス』は一端に過ぎない。我々は君との接触前から——はるか昔から、世界の影で戦ってきた」
「……そうか。ついでに演説してこい。同志を集めれば……新しい宗教が作れるぞ」
「君の両親のように?」
流れるように言われて、再び驚いてしまった。——その自覚すらなかった。
グレンは淡白に続ける。
「何を驚いてる? 調べれば君の個人情報は、幾らでも出てくる。君の名前も、その証拠の一つだ」
「…………煽ってんのか? お陰様で、だ」
青年は一人っ子。軍に入ったのは——両親と袂を分つため。
両親は宗教家であった。新興宗教の幹部で、幼少期は苦労を強いられた。だが一応の常識人であったために、成長に伴い、その呪縛は消えた——直接的には。
しかし、拭いきれない血の跡のように、その呪いは幾度か、間接的に青年を苦しめた。それは社会的立場であり、生活習慣であり。
生殺与奪を握られていては、自分の人生は歩めない——友人関係すら持てなかった。
いつも——また独り。
不殺非暴力を掲げる両親への反抗として、苦労して入隊を希望したのだ。
以降、両親とは会っていない——会おうとも思っていない。残穢として、実に個性的な本名だけが、改名されずに青年に残っている。——苦しめている。
「嫌な記憶を思い出させたようだ。重ねて詫びる」
「……『グレン』って調べたら、アンタのことも出てくるのか? ——『グレイヴィス』みたいに」
「するのは勝手だが、この車両は今、何故か電波障害が起きている。この車両から出るか妨害電波をジャックするかしないといけないだろう。ついでに、前後の外には私の身内が待機してるから、その者たちを排除しないといけない上、極め付けは、『グレン』というのは偽名だ。出てくるのは何か知らないが、どうせ私のことではない」
用意周到——だった。やり過ぎなくらいに。
何故なのか? 何故、誰も入らないように——誰にも見られないようにしているのか。
今更、青年を見つけ出した理由。
目の前の短剣。先は青年に向いている。
背中から肩へ——腰から爪先へ。血流を強く感じる。顎と目頭が熱くなり、潤った視界が目の前のグレンに、威嚇として、眼光に乗せた警戒心を主張する。
グレンは何も変わらない様子で話を続けた。
「——『ミッドナイト』を知ってるか?」
「『ミッドナイト』?」
予想外の言葉だったが、「夜」の意味を持つ英単語の話ではないだろう。
「十年くらい前の話だ。君がまだ小学生だった頃か——」
そこまで聞けばわかった。
「歓楽街のやつか? 忍者みたいな格好で、刀を持った覆面の……真夜中にだけ現れる、自警団。確か……単独犯だったな。数十名の悪人を殺し回ってた……だっけか?」
「そうだ。正確には二十七人だ」
「大戦犯だな。この数年見ないのは、アンタらが仕留めたからか?」
「——あれは私だ」
平然と、グレンは告げた。口元がワザとらしく、一瞬笑った。
「——『
「なら、俺を殺すのは容易いな」
記憶によれば、ミッドナイト——グレンはまだ、懸賞金が懸かってるんじゃなかったか? ——いっそこっちから嗾けるか?
青年は短剣をチラ見。急速に口の中が乾いた。
「証拠隠滅のために、俺を二十八人目にってか?」
グレンはそれを見て笑う。
「いや——スカウトしに来た」
…………スカウト?
お茶を飲んでたら吹き出してただろう。スカウト——? そのくらい、突拍子もない言葉に聞こえた。
——スカウト?
「……人殺しになれって?」
「剣を手にした方が良い、と言ったんだ。——これからの、君の人生を想像してみろ」
……そんなもん、この半年延々と反芻した。
「取り敢えず、アンタらのことを通報する」
「物的証拠が一つもないのに、か? 私も警察機関も、君の古巣だって、空論の押し問答を相手にはしない。——もっと現実味のあることを考えてみろ」
「…………」
「不快に感じたなら謝るが——君は厳しい訓練を受け、その精神も志も、骨の髄まで鍛え直されたものであったはずだが……いとも簡単に、自分自身の衝動に引き摺られた。その結果どうなった?」
「あれは非番だったし、俺は別に——」
「なら、あの日屋上にいた理由を訊こうか」
「それは……偶然で、たまたまだ。なんならアンタらの所為だ」
「来いとは言っていない。君の不都合は結果的に招いたかもしれないが、屋上に来たのは君の意志だった。——何がどうであれ、君はあのときあの場に来た。自らの立場や、苦労して手に入れた順調を捨ててまで」
「…………」
問い詰めるような言い草に聞こえたが、強く否定はできなかった。
「その衝動——精神を、人は『正義』と呼ぶ」
「……仰々しいな。——『愚行』とか『蛮勇』とか、『厨二病』とかで良いんじゃないか?」
「勿論、そう呼ぶ状況や視点もあるだろう。君の正義は、まだ研ぎ澄まされてない。線引きや適性が不安定で曖昧だ。だがそれは君自身が理解してなくとも、君の衝動が知っている。良くも悪くも——君の身体はこれからも、『正義』によって動くことがあるだろう。だが——」
才能や力があっても——
「使い方を知らなければ、『正義』は諸刃の剣だ——衝動的な君は特に。そんな未来が、あと何回あると思う?」
「…………」
「君はまだ若い。自分に怯えて一生を過ごさせるには……その『正義』を、鞘に納めっ放しなのは、あまりに惜しい」
「……買い被りだ」
「買い物にしては確かに高いが、その価値はあると見ている」
「……アンタのその組織に入れば、俺の衝動は『正義』に成れると? 大犯罪者率いる無法者の戦闘部隊に?」
「私の『正義』は、きちんと制御されている。諸刃の剣ではなく、掲げられた十字剣の一本として。犯罪かどうかなど関係ない。方や倫理も。——少なくとも、我々には」
「どうしてそんなに『正義』に固執する? 法も倫理も関係ないなら……ただ悪人を殺したいだけなら、さっさと殺せば良いだろ」
我ながら、元軍人とは思えない言葉だったが、軍の『正義』は国の『正義』だ。個人でもなく、ましてや衝動的なものじゃない。社会的な道理であった。……社会的な。
脳裏が自問する——それで、順調を失ったのでは?
グレンは浅く息を吐くと、少しだけ落ち着いた——問い詰めるようだった口調から、元の淡白な口調へと戻った。
「世界はこれからもっと悪くなる。——いや、元々かなり悪かった」
グレンは水を飲んだ。ガラスの中の液体の反射が、テーブルに置かれた十字架を輝かせる。
「少し込み入った話をしよう。——約百年前の話だ。二度の世界大戦を知っているだろう? 君の古巣が誕生するきっかけとなった戦争——当時の軍は、議定書や条約に抵触する可能性があるにも関わらず、生物兵器を造ろうとして、とある山奥の僻地にある村を占領した」
突然の情報量だったが、不思議と青年は付いて来れていた。付いて来れていた上で——
「知らない話だ」
「だろうな。この辺りの事情は、歴史の教科書には載っていない。——軍はその村に人体実験場を創設し、住んでいた住人たちに加え、とある人外種族の一党が、実験材料として連れて来られた」
「とある人外種族?」
「君の常識は何段階かアップデートが必要で、世界は君が思っているよりも、ほんの少しだけファンタジーだと、言っておこう」
「……アンタが言ってるのは真実か? 急に信憑性が薄まってきたぞ?」
「——史実だ。数ヶ月間の不当な拘束と、軟禁生活を強いられた彼らは結託し、抵抗組織である、〈いろは士陣隊〉を結成した。そして軍に対し、命の尊厳のために、できうる限りの抵抗を試みた。最終的にその試みは成功し、実験場の村は崩壊——研究資料は、共に消滅した。
残念ながら、〈いろは士陣隊〉の大半は戦死したが、四人だけが生きて村からの脱出に成功した。その四人は以降の歴史において、そういった事例を防ぐため、各々が信じ、掲げ、必要とする『矜持』のために、名前と形を変え、それぞれ四つの分派に別れ、歴史の陰で活動を始めた。——その意志は、現代まで継承され続けている」
「それがアンタらだと?」
「矜持や信念に基づくことが、我々の戒めであり、過去を忘れないための力となる。——その一派である『正義の天秤』が、我々の矜持だ」
「……そんなにベラベラ喋ると、例え物的証拠がなくても、俺がどこかにタレコむかもしれないぞ? 噂話でも、あるとマズいんじゃないか?」
「根深いな——だが、君はタレコまない。この情報を話すことはない」
「何故?」
「君はこの半年で、メディアに対し嫌悪的だ。これ以上注目されるのは、あまり好ましいとは思っていない。弊害の方が多いだろう」
「匿名でだって言うことは言える。アンタ個人ならともかくとして、その歴史に関する物的証拠なら、集められるかもしれない」
「そこまでするメリットがない。君の人生は一度破綻した。信用を失ったにも関わらず、再び疑われるようなことを進んで行うのか?」
「…………」
グレンは微笑する。
「おまけで言えば、私が見込みがあると思った者は、そんな無意なことはしない。スカウトを断ったとしても、やたらと口外することはないだろう」
「……そりゃ、どうも」
「私は元来、机上の空論も遠回しの空中論争も、得意ではない。だから端的に——言い方が気に入らないのなら、君への待遇——メリットを言おう」
「メリット?」
「君の個人情報は、電子の海をのびのびと泳いでいる。その所為で君は、一般企業での就職にかなりの難を強いられている。誰の所為とかはさておきで、だが。——『正義の天秤』を均すと誓うなら、私が経営する会社に所属できる。収入源と職業と、手厚い福利厚生と——そして飢え続けるはずだった君の『正義』が、その精度を磨き満たされることを約束する。軍に入るとき、形だけでも『この国を護る』と誓わなかったか? ——表の道は断たれたが、裏の道なら空いてるぞ」
「…………」
「それとも貯金が尽きるまで大して興味のない旅を続け、見つからない自分探しに明け暮れるのか? こう言っては何だが、今の君は、電車の旅が楽しそうには見えない」
「————自分の生活のために、人を殺せと?」
「人以外もだ——必要なら必要なだけ殺せ。だが殺すのが目的じゃない——殺すだけが手段じゃない。あくまで、基本的に、戦闘が専門であるだけだ。不必要に、命を奪う必要はない。殺さずに済む場合もあるし、そう済ませる方向で動くときもある。殺傷も犠牲も戦争も——ただの結果に過ぎない」
「…………」
ガタンゴトン。列車が揺れた。
「だが、冷たく聞こえるかもしれないが、『正義』は厳しく断定的なものだ。慚愧や倫理に囚われると、必要なときに必要なことができなくなる。——いいか? 善良な者が些細で衝動的な悪意に巻き込まれ、命や尊厳や人生を、いとも容易く失うこともある。その輪廻も波紋も、元を辿れば『正義』の不執行によるものも多い。……君も私もよくは知らない、百年前のとある村での出来事のように」
善良な市民が。山奥の村が。ビル間の祭事場が。
「——世界には、『正義の天秤』が必要なんだ」
列車はトンネルに入り、外の暗闇に相反するように、二人の周りは光を放っていた。
「——君の『正義』を、我々と共に体現してみる気はないか?」
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