第三話 終わらない一年

 満開の桜の木々たちは、その鮮美透涼なる容姿を掻き立てていた、淡いピンクの花びらたちを惜しみなく、周囲にばら撒いていた。


 ……。


 息をするのさえ忘れてしまいそうな、至福のひとときの筈なのに、俺の頭の中あるのは周囲の人々の動向であった。


 同じ日にち、同じ時の、過去の俺と同じ行動を慎重に取りながら、周りに目を凝らす。


 緊張で脚が強張りながらも、同じように、ゆったりとした足取りで歩みを進めていく。


 並木道の桜に触れんと肩車をした仲睦まじい親子と、それに一切の興味を示さぬ仔犬を、降り積もっていく花びらを平然と踏みしめる少年たちを、視界から切っていく。


 そして、病院に辿り着くとともに、俺の傍には、一際強かに色濃く染まった、たった一枚の桜の花びらが舞い散っていく姿があった。


 全ての光景が同じ。

 まるで過去の記憶を流しているような、明晰夢でも見せられているような感覚だ。


 ひらひらと降りてゆく花びらの下、そっと掌を差し伸べて、ひらりと真ん中に載せる。


 まだだ。


 そう告げたのは、脳裏に駆け巡っていく幾つもの錯綜した感情に他ならないのだろう。


 習慣に取り憑かれた者たちと、淡い夢を抱いた俺の幻想かもしれない。そう、何度も自らを欺くように言い聞かせ、彼女の元へと足を運ばせた。


 空虚であるが故に、泥濘に嵌ったかのような足を無理に弾ませて、灰色一色に染まった長きに渡る廊下を進んでいく。


 ガラガラと何かを引き摺るような音とともに、誰かがこちらに向かってくる。


 一瞬、ピタリと完全に止まりかけた足を、再び進めていき、遂にその人影とすれ違う。

 

 骨と皮ばかりの病衣を纏った中年男性と、前方から看護師に追われながらも、無邪気な笑みを浮かべて走っていく子供達を。


 そして、永遠に続くかと思われた道行きに唐突な終わりを告げた。


 身体中に鼓動を鳴り響かせ、立ち往生。


 震えた心を落ち着かせんと、ため息を零すかのように、酷く乱れた呼吸をゆっくりと整えていく。


「ハァァァ……‼︎」


 そして、そして、そして、徐に扉を開いた。


 そこにいたのは、大空をぼーっと眺めて、誰かの来訪を静かに待ち侘びている彼女の姿だった。


 緩慢にこちらに振り返り、さながら生気の失われた真っ黒な瞳に人影が映った瞬間。


「琴音……遅れてごめん」


 琴音はまた、静かに微笑んだ。


「いいよ、許してあげる」


 俺は四季を繰り返している。そう、確信したのと同時に、琴音の笑みに目を奪われた。


 少しでも長く……笑っていてほしい。


 そんな細やかな願いを込めた懐中時計とともに、ただ一人の殺風景な病室へと足を踏み込んだ。


 もし、これが夢であるならば、どうか、もう少しの間だけ、見ていたい。


 あと数年だけ。


 ほんの数年だけ。


 願わくば、終わらないで欲しいとさえ、心の中で強く想って……。


「今日はどんなの?」


「少年と懐中時計の物語かな」


「そっか、楽しみ」


 俺が懐中時計を翻すと、カチカチカチと、淡々と時を進めていく姿に、琴音は心なしか気持ちを沈めていった。


「ど、どうした?」


「あぁ、ごめんなさい。ただ、もう動いてるんだって」


「あぁ、そっか」


 彼女の元にそっと差し伸べた。


「?」


「今度止まった時は琴音にやって欲しいから、今の内に回し方覚えておく?」


「……ありがとう颯飛」


 そう言って、琴音は


 これが、後に尾を引くとも知らずに……。


 俺は時計に魅入ったその姿に、釘付けになっていた。



 どんな時間の中でも四季は巡るらしい。

 そう気付いたのは、生暖かなそよ風が吹く黄昏時であった。


「もう時期、夏ですね」


「そうだね」


 夜が段々と遅くなっている。


「今日の晩御飯は?」


「さ……」

「筍の炊き込みご飯に、アサリの味噌汁。そして、鰹のお刺身……でしょ?」


 俺は香織さんの言葉を遮って、食い気味に言い放った。


「正解です……」


 茫然と見つめるのも束の間、フッと微笑んで、買い物袋に再び、視線を戻す。


「中身を見られたんですね」


「あぁ、バレた?いやぁ、お腹空いちゃってさ。もう晩御飯が待ち遠しくって、ついね」


「全く食いしん坊ですね、颯飛さんは」


「そうなんだ。もうお腹ぺこぺこで、此処から動けそうにないよ」


「なら、大急ぎで作らせていただきます!」


 意気込んだ表情でエプロンを後ろに巻く。


「ありがとう」


 ……。


 また夏が来る。


 庭先の花壇に丹精込めて育てている、向日葵が開花の時を静かに待ち侘びている。


 違うのにまた同じ夏。


 小煩くさんざめく蝉たちが居並ぶ奥へと、石焼きかの如く焦がすような熱さが、コンクリートを石焼きにした道を進んでゆき、心なしか顔つきの良い琴音の元へと向かう。


 向日葵が枯れ果てるまで、足繁く。


 また紅葉の葉を摘んで、戯言を並べるまで。


 だが、問題は冬だった。


 これが時戻りの一度目なのか、あるいは……。


 俺は完全装備で平坦な道のりを、難なく進んでゆき、あっさりと着いてしまった。


 仄かに赤く染まった指先で、キンと冷えた扉を開き、目を見開いて唖然とする琴音の傍に、ゆっくりと歩み寄っていく。


「歩いて来たの?」


「うん。別に苦労はしてないよ」


 これが今年最後の琴音との時間だ。


「……?」


「ん? どうした?」


「いいえ、ごめんなさい。てっきり颯飛の事だから、雪だるまでも作ってるのかなーって」


「……あ」


 己が手持ち無沙汰であることに今更気付くとともに、いつものように心を殺して、此処に居ることを自覚した。


 まるで乱雑に積み上げられた雑務を淡々とこなすかのように、琴音と言葉を交わし、早く早くと、時が過ぎゆくことを密かに願ってさえいる自分がいた。


「……ごめん」


「えぇ!別に怒ってないよ。むしろ、わざわざこんな大雪の日に来てくれて嬉しいの」


 額に手を当てて、蹲るように俯く。

 指先が小刻みに震えるほどの力を込めて、果実を握りつぶすかの如く握りしめた。


 この一件に関わらず、俺は一連の流れが、作業になりつつあった。自らの欲求を満たすが為に惰性でこの場に赴いているに過ぎない。


 もしかしたら、これは啓発なのだろうか。

 そもそも、俺の訪れにどんな感情を抱いてるかも知らない。知ろうとしていない。


 俺は……お。


 まるで氷のような涼しげな掌を、俺の左頬に当てがった。


「顔を上げて」


 その言葉に応し、徐に顔を上げる。


「笑って……。私は嬉しいの、それだけで」


 琴音はまるで桜の花びらように儚く消え入りそうな笑みを浮かべていた。


「あぁ、あぁ」


 そして、また春が来る。

 また少しばかり異なるか、あるいは……。


 除夜の鐘をテレビ越しに耳を欹てて、静寂極まれり居間に座禅を組んで、目を瞑った。


 張り詰めた緊張の中、一分一秒の一刹那。


 時が止まったかのように、カチ、カチ、カチと緩やかに秒針が進んでいく。


 107の煩悩が振り払われていき、遂に最後の終わりの鐘が、鼓膜の奥にまで鳴り響く。


 徐に閉ざした瞼を開く。


 その先にあったのは……。


「ハァァァ、行くか。見舞いに」


 淡く澄んだピンクの花びらが、惜しみなく儚く舞い散っていくあの並木道へと。


 三度、見慣れた者を横切っていく。


 そして、桜の花びらを握りしめて、謎めいた笑みを零しながら、ただ道だけを見て、彼女の元へと、歩みを進めていく。


 きっと、これから先も、ずっと俺は……。


 扉の先、琴音の頬に涙が伝う。


「え?」


 胸の内から沸々と湧き上がっていた感情が、何かの糸がふっつりと切れた。


「颯飛。おかしいの……時間が」

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