第二話 四季を巡っていく

 あれからも、ずっと動き続けていた。


 その仕組みに、日がな一日、退屈に蝕まれながら病床に伏した祖父に訊ねたが……。


「爺ちゃん。起きてる?」


「ぁぁ? どうした颯飛」


 相不変に嗄れた声を震わせて、見えているかは定かではない右目を緩やかに眇める。


「この懐中時計って、父さんの?」


 寝衣から疎らな斑点を垣間見せ、痩躯で起き上がらんと布団の上にか細い手を突いた。


「無理しなくていいよ! 寝たままで大丈夫だから」


「どれ? もっと近くで見せてみろ」


 祖父は鋭く注視する。


「ずっと昔からあったんだろうな。型がかなり古い。詳しくはちーっとも覚えてないが、見ていると、不思議な気分にさせられるな」


「そう……。ありがとう、爺ちゃん。それで、この時計ってさ、一回ゼンマイ巻けば、三日くらいは平気で持つものなの?」


「んー?どうだろうな。でも、大抵は二日に一回程度はするもんだと思うがなぁ」


 唐突に大の字で寝転がる祖父を尻目に、曇天の下に干された洗濯物へと目を向けた。


「そうなんだ……」


「あの子はまだ元気か?」


 疾くに一瞥する。


 心ここに在らずと言わんばかりに、ぼーっとした眼で天を見つめて過去に耽っている。


 そんな何気ない言葉が、まるで今の空色のように俺の気持ちを深い闇の底に沈ませるとも知らずに……。


「あぁ、うん。多分ね」


 こうして何のヒントも得られずに、祖父との会話はあっさりと終わりを告げた。


 冬の見る影も無くなった日暮れ時。


 緑側の床に寝転がり、ほんの一瞬だけ一息付くように緩慢に目を閉じていた。


 少し早めに飾り付けた風鈴に、生暖かなそよ風が靡いで、心地よい音色を奏でている。


「もう時期、夏が来ますね」


「うん。そうしたら直ぐに夏休みだ」


「まだまだお仕事が山積みですがね」


「それでも俺は、夏が待ち遠しいよ」


「えぇ、そうですね」


 香織さんと交わす、ゆったりとした、たわいもない会話が、静かに睡魔を誘っていく。


 瞼の裏の真っ暗闇の中に、微かな燦々たる陽光が差し込んでいた。


 段々と夜の訪れが遅くなっている。


「では、お食事のご用意に取り掛かりますね」


「今日は何?」


「筍を使った炊き込みご飯に、アサリの味噌汁と、カツオのお刺身ですね」


「はは、ご飯の旬はまだ春なんだね。んんーまだ眠いけど、いい匂いがしたら勉強に集中できないからなぁ。よっし! もう一頑張り!」


 石のように重い上体を床から引き剥がし、流れるまま颯と跳ねるが如く立ち上がった。


「次は何の話をしようかな」


 庭先の花壇に丹精込めて育んでいる、向日葵にそっと目を向ける。


「琴音……待っててね」


 また、夏が来る。


 同じようでいて、少し違う夏が。


 年中無休の懐中時計の裏蓋に、たった一枚の綺麗な色をつけた花びらを詰めて、蝉が小煩くさんざめく並木道を進んでいった。


 けれど、そう多くは進めない。


 両手で数えるほどの回数を超えたとき、並木道には燃ゆる焔のような色を帯びた、無数の紅葉がコンクリートを覆い隠していた。


「もう……秋か」


 高校三年の春から、著しくその数が減り、彼女の元に物語を届けられていなかった。


 日々の多忙から募ってゆく疲労が、土日に突如として襲い掛かり、ふと眠りこけ、目を覚ませば、真夜中なんて事もザラにあった。


 そんな戯言を盾にして、今日は紅葉の葉を摘んだまま、クルクルと回転させている。


 きっと琴音は自らを蔑ろにするように、身勝手な俺の方を心配するのだろう。


 そんな思慮が自然と目を泳がせ、灰色の廊下の窓の外に視線を向けさせた。


「ん? 凄いな」


 病院の中庭に咲く一本の紅葉の樹に、間近で一目見んとする人たちが溢れ返っていた。


 けれど、其処に彼女はいない。


 きっと誰かを待っている。


 そんな想いが、俺の脚を駆り出した。


 また寒さの堪える冬が来る。逃げることも忘れることもできない、極寒の日々が……。


 静かに影を伸ばしていた。


 徐に天を仰ぐ。


「フー」


 ふと零した白息が、空に立ち昇っていく。


 珍しく都心に降り積もった牡丹雪を、サクサクとした音を立てて踏みしめていく。


「数センチだろうけど、足元が掬われるな」


 軽率に履いたブーツに瞬く間に雪が入り込み、もう既に足の感覚は完全に死んでいた。


「ハァァァ」


 悴んだ両手を温めんと、ため息を零すかのように雀の涙の生暖かな白息を吐くが……。


 絶え間なく降り注ぐ雨雪が、ポツポツと体に当たって、体温が徐々に奪われていくのを肌身で感じながら、淡々と進んでゆく。


 そんなじわじわと襲い来る恐怖を晴らそうと、周囲に目を配るものの、誰一人として、その影は見当たらない。


 静寂。


 真っ白な雪景色は雑音さえも掻き消して、強情で強かな子供たちの影さえも見えない。


 数メートル先が途方もなく遠方に感じ、たった一本道の筈なのに迷ってしまいそうだ。


「……見舞いって大丈夫なのかな?」


 そんな最中、脳裏を幾度と行き交うのは、嫌に現実味を帯びた憂慮の念であった。


 見舞いの時間は過ぎているのだろうか、いや、それ以前に、開いているのだろうか。


 けれど、その想いとは裏腹に、永遠かに思われた道のりは、唐突に終わりを告げた。


「あ、着いちゃった」


 今日は手持ち無沙汰だ。


 ……。


「雪か」


 久々に子供心を蘇らせんと、徐に降り積もった雪に手を伸ばした。


 覆い隠された小枝や石を、福笑いかの如く融通の効かない指先に鞭を打って、顔無しの雪だるまに一つ一つ、嵌め込んでいく。


「よっし!」


 完成とは言えぬものの、もう限界を超えて頭がぼーっとし始めたので、歩み出した。


「山本さん⁉︎」


 受付の看護師が目を見開いて、瞠目する。


「今日って見舞いは大丈夫なんですか?」


「歩きで来られたんですか?」


「えぇ。何せ、こんな大雪ですから」


「あぁ……」


「……? あの?」


「……」


「じゃ、失礼します」


 茫然と言葉を失ったまま立ち尽くす看護師をそーっと横切って、歩みを進めていった。


 視界の端には今もまだ、大粒の雪が降り注ぎ、静寂に包まれた廊下の灰色さをより一層、引き立てていた。


 琴音はきっと驚くだろう。それは異なる意味なのだろうけど、窓ばかりと見つめ合う時間が少しでも減るのなら本望だ。


 胸を意気揚々に躍らせて、足で扉を開く。


「颯飛⁉︎」


 まるで壊れかけの玩具のように虚な眼が、清澄なる潤いに満たされていった。


「今年はもう来れそうにないからさ、どうしても今日、行きたかったんだ」


「だからって、こんな大雪の日に……」


「いやぁ苦労したけど、そこまでじゃないよ。あぁ、今日はこれを持ってきたんだ。一面雪景色で他には何にもなくってさ」


 己の背に隠した雪だるまを翻し、机の上にそっと載せる。


 ちょっとばかり雑な雪だるまに、琴音は、物憂げな表情を掻き消して、微笑んでいた。


「もう……馬鹿なんだから」


「今日はさ、あの話のつづ……」


 また春が来る。


 望んでもいないのに、求めてもいないのに、時は、四季は平等に理不尽に流れてゆく。




 畳の上に眠りこけたまま、年を越え、鏡に映るのは、無造作な前髪が際立ち、微睡んだ眼をする己自身であった。


 歯ブラシを咥えて、ふらふらと居間に行き、視界の端に捉えたカレンダーに目を向けた。


「ん?剥がし……忘れか?」


 カレンダーは月をいや、年を跨いでいない。


「……」


 元旦を迎えて、除夜の鐘を聞く間もなく眠りこけてしまったせいなのだと、自らに説得することさえも叶わぬ出来事であった。


 ただ茫然と半開きの口を閉じることなく、緩やかにぶら下がっていた歯ブラシが、ほんの小さな音を立てて、床に落ちた瞬間。


「ぁ……は?」


 再び、時が動き出した。

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