第二章 プレスコット伯爵夫人の奔走
第9話 結婚式と初めての夜
結婚式は貴族としてはあり得ないほど簡素なものだった。場所は王都内にある由緒正しく……人気のない教会で行われた。花嫁衣装も母のお下がりを手直ししたものだ。
肩の空いたドレスに金糸の花が編み込まれており、胸には金色のネックレス。裾は引きずるほど長く、三重のフリルにはレース編みが施されている。流行遅れだし歩きにくいのは仕方がないとしても、母から娘へと年月を隔てた布地はいくら洗ってもうっすらと黄ばみが残っていた。
料理も晩餐におまけが付いた程度だ。ついでに神父は、一度高齢を理由に引退した老人である。今もジェラルディンの前で半目になりながら、宣誓の言葉を述べている。何より異様なのは出席者の少なさである。
プレスコット側はもちろん、マクファーレン側の親族縁者もほとんど来なかった。主立った出席者は父と兄夫婦くらいだ。
多忙や領地の窮乏が理由だが、それだけではあるまい。
アーチボルトの求婚を断ったのは、間違っていたのだろうか。今更ながらに悔いが込み上げる。それでも、結婚を間近に控えた娘が、別の男と結婚などうまく行くとは到底思えなかった。
互いの家名に傷が付く。自分だけならいざ知らず、アーチボルトもただでは済むまい。父の気性からすれば斬り殺されてもおかしくなかった。一時の感情に身を任せれば待っているのは身の破滅だ。どちらにしても不幸が避けられないのなら墓穴は少ない方がいい。
ジェラルディンの
十日前と変わらず凡庸な顔立ちで、非現実的な増税を強いるような悪徳官吏には見えない。アーチボルトと別れた後に手紙も書いたし、結婚式の直前にも問い詰めたのだが、テオは知らぬ存ぜぬの一点張りだった。
「まあ、何とかしますよ」
最後には根負けしたようにそれだけを言った。何が何とかなるのだろう? 増税を取りやめるのだろうか。それはそれで喜ばしいが、王国の窮状がなくなったわけではない。将来、もっと過酷な重税が降りかかるようでは困るのだ。そこをもっと詰問したかったが、式の時間が来た。
本心すらつかめない、
その男が、生涯の伴侶となるのだ。薄ら寒い誓いの言葉を述べ、婚姻証明書に互いに署名する。
結婚式はつつがなく終了した。
今夜からプレスコット家の館に住む。実家にあった部屋よりも小さくて、薄暗い。壁紙だけは急ごしらえで張り替えたらしいが、カビ臭さは抜けていない。窓も小さい上に向きも悪いので、昼間であっても薄暗い。
それが花嫁であり伯爵家の女主人となるジェラルディン・プレスコットの部屋だった。王宮のように豪華絢爛な部屋を期待はしていなかったが、やはり花嫁が初夜を迎える部屋としては似つかわしくないように思える。
そのくせ、天蓋付きのベッドだけは上等なのは実家のマクファーレン家から運び入れたからだ。ベッドの縁に腰掛けながら天窓から月を見上げる。
今まで目を逸らし続け、考えないようにしていた現実がとうとう、目の前に迫っていた。
待っている間も気恥ずかしさが込み上げて来る。顔が熱を持って仕方がない。そのために風呂にも入り、膝下までのナイトウェアはいつもより薄く、肌に貼り付く。覚悟はともかく、今こうして準備をしているのだ。夫との初夜を迎えるために。
これから何をするか、何をされるかという知識はあったが、己が出来るかどうかは別問題だった。果たして自分に可能なのだろうか? 柄にもなく緊張している。今から隣国に乗り込んで敵将の首を取ってこいと言われた方がよほど気楽だった。
ここに来て往生際の悪い本音が腹の底からわき上がってくる。本当は結婚などしたくないのだ。愛してもいない、尊敬も出来ない相手に嫁ぎたくない。妻になどなりたくないのだ。
情けなかった。いくら武芸を磨き、『銀翼姫』などともてはやされていても、いざとなれば幼子のようにただをこねる。これでは、そこいらの小娘と変わりないではないか。
貴族の誇りや武人としての名誉や心構え。そういうものを剥ぎ取れば、残ったのは望まぬ結婚におびえ、
友人のモリーは家のために泣き言一つ言わずに嫁いだ。その方が、はるかに貴族の子女としても立派だし、大人だ。それに引き換え己ときたら。何が家のためだ、何が王命だ。今まで自分は何をしてきたのか。無力感や自嘲や後悔に苛まれ、目頭が熱くなりかけたところで唇を噛みしめた。
泣くつもりはなかった。涙を流せば、これまで築いてきたもの全てが崩れ去る気がした。たとえ貴族として不出来な娘であろうと、他人からつまらない意固地と馬鹿にされようと譲るつもりはなかった。ジェラルディンに残された、最後の
鼻をすすり上げた時、扉をノックする音が聞こえた。心臓が跳ね上がる。
上ずった声で返事をすると、テオが入ってきた。
「やあ、どうも」
結婚式の衣装から着替えており、白くて軽そうなシャツとズボン。寝間着だが丈があっていない。まるで背伸びしたがる子どものようだ。
テオは頬をかきながら考え込んでいたが、ジェラルディンの隣に座った。ベッドが軋みを上げる。ジェラルディンの体がわずかに傾き、引き寄せられる。テオも風呂に入ってきたらしく、わずかに髪が濡れている。何を期待しているのか、顔が赤い。それがますます腹立たしかった。
沈黙が流れる。心臓の音が耳障りだ。静まれ、と願うように胸を押さえる。テオに期待していると思われるのは我慢がならない。
気まずい空気に口を開き掛けると、先にテオが真正面を向きながらうわごとのようにしゃべり出した。
「その、色々とご不満もあろうかと思います。正直に言って、自分でもこの結婚は正しかったのか、迷っています。僕のような男が、あなたに相応しいのか。ただ、こうして夫婦になった以上は、最善を尽くすつもりです。至らぬ点もあろうかと思いますがよろしくお願い致します」
求婚のつもりなのだろうか。せめて、真正面から言えばいいのに。そんな意気地もないのか。落胆していると、ベッドについた手が重なった。それがテオのものだと悟った瞬間、虫の這いずり回るような嫌悪感がよじ登ってきた。
反射的に張り飛ばそうと手を上げかけた時、テオは静かに立ち上がった。
「では、僕はこれで。お休みなさい」
軽く挨拶をしてテオは出て行った。あとには固まったままのジェラルディンが取り残された。しばらく静まり返った部屋で呆然としていたが、テオが戻ってくる気配はなかった。
とっくに自分の部屋に戻ったのだろう。プレスコットの屋敷は三階建てになっており、ジェラルディンに与えられた部屋は二階である。二階の奥がテオの部屋だ。
少なくとも今日は、ジェラルディンを抱くつもりはないらしい。これで終わりなのか、と拍子抜けした気持ちだった。ジェラルディン個人としては良かったが、貴族の娘として、プレスコット家の妻としてはあまり良くない状況である。
子を産み、育てるのは貴族子女の嗜みである。
何故、テオは己を抱かなかったのか。情欲を抱かぬ程の聖人君子でもあるまい。むしや男としての機能に問題でもあるのだろうか。それならそれと言ってくれなければ困る。プレスコット家の行く末に関わる問題だ。
あるいは、別に言い交わした女でもいるのだろうか? あり得ぬ話ではない。商人時代に付き合っていた女の一人や二人、いても不思議ではない。それなら相手は平民だろう。愛人として囲うつもりなら相談には乗らねばなるまい。
それとも、ジェラルディンに女としての魅力を感じないのだろうか。それならそれで構わない。好きでもない男に言い寄られても気持ち悪いだけだ。女としての矜恃もあるが、今はほっとしたという気持ちの方が強い。
そう考えると、あくびが出た。気疲れしたせいか、睡魔がやって来たようだ。
「考えるだけムダか」
いっそ追いかけて問い質そうかとも考えたが、今からテオの元へ向かうのもためらわれた。気まずいとか恥ずかしいというのもあるが、万が一、初夜の続きを求められたらと思うと嫌悪感と
明日にしよう。既に寝ているかもしれない。テオとて夜中に押しかけられても迷惑だろう。勝手な言い訳と自己弁護を並べながら扉に鍵を掛け、ベッドに倒れ込む。
これでもしテオの気が変わっても今夜は入ってこられない。今夜の件を父が知れば、さぞ落胆し、稲妻のごとき叱責を受けるだろう。けれどそれは明日の話だ。
今は何もかも忘れて眠りたかった。
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