第五朔月

第十六話 舞い踊る焔との戯れ①

 一ヶ月というのは早いもので。特にこと・・忙しいと、尚更なおさら早く過ぎていくものだ。

 今月は、研修医の受け入れやら学会の準備やらで、院内は慌ただしい雰囲気だった。私も例に漏れず忙しくしていて、気付けば日が落ちていた……なんて日も多々あった。


 そんな中、今日は新月だ。つまりガイトさんに会える日。せめて約束の時間には間に合うように、仕事を片付けないと。

 ……そう、思っていたのだけれど。


「ふぅ……これでよし、かな。たまき先生もお疲れ様」

「はい、お疲れ様です」


 そう、今日は約束の日……の、はずだったのだけれど。私は今、まだ院内にいた。

 ……実は、外来で急患が来たのだ。それもかなり重い症状の患者さんで、私はその対応に追われることになり……。居合わせてくれた先生も手伝ってくれて、なんとか患者さんは持ち直したのだけれど……。


「先生、ありがとうございました。助かりました」

「いやいや、気にしないでください。こういう時はお互い様ですから」


 そう言って、先生は「それじゃあ」と帰って行った。私はその背中を見送ってから、ふぅ……と息を吐く。


「……もう、こんな時間かぁ」


 ふと時計を見ると、時刻は午後八時を過ぎていた。……約束の時間は過ぎてしまったな。ガイトさん、怒ってないだろうか。フゥは、もう帰ってしまっただろうか……。


 病院で働いていれば、こういうことは少なからずある。でも、患者さんを第一に考えるのは医師として当然のことだ。だから、私は仕方ないことだと割り切っているし、患者さんを助けられたならそれでいいと思っている。決して誰かのせいにするつもりはないし、不平不満をこぼすつもりもない。

 ……だけど。だけど、今日だけは。ガイトさんと約束していた今日だけは、何も起きてほしくなかった。


 視線を時計から、窓に移してみる。反射して映るのは、疲れた顔をした私だけ。ぼんやり眺めていると、私ひとりだけが取り残されたような気がして、なんだか悲しくなってくる。


「……帰ろ」


 私はそう呟いて、白衣を脱ぐためにロッカールームへと向かった。



 着替えを済ませ、帰り支度を整えて、私は病院を出た。闇の濃くなった夜空を見上げながら、私は歩みを進める。……いつまでも下を向いてはいられない。明日も、明後日も、変わらず患者さんはやって来るのだから。安心させる立場の私が、暗くなっていてはいけないのだ。そう自分に言い聞かせて、私は歩く。星もまばらな夜空の下を、歩く。


 ……そういえば、フゥに初めて会ったのもこれくらいの時間だったな。あの日も今日みたいに忙しくて疲れていて……。早く帰って休みたいと思っていたんだっけ。

 それなのに、私はいつの間にか別世界へ迷い込んでしまっていた。そしてそこで出会ったのが、ガイトさんだった。


「ふふ……なんだか懐かしいな」


 思わず笑みがこぼれる。……初めて出会ってから、四ヶ月くらい経っただろうか。今でも鮮明に思い出せるくらい、ガイトさんの存在は私の中で大きい。


 ……ガイトさんは、今何をしているだろうか。睡眠の必要のないガイトさんだから、拠点でのんびりしているかもしれない。あの長い四本の腕で、掃除をしたりして過ごしているかも。それだと、蛇のような尻尾は掃除の時に邪魔にならないのかな。……いや、むしろ掃除が捗りそうかも。

 四本の腕に雑巾やらほうきやらを持ち、尻尾の先でハタキを操るガイトさんを勝手に想像して、私はまた笑みを深めた。『フゥ、そコドいてクダさ〜イ!』なんて声まで聞こえてくるみたいで……。


「ふふ……っ」


 やっぱり、ガイトさんのことを考えていると楽しい。自然とほおが緩んでしまう。……やっぱり、会いたい。会って話したり、触れ合ったりしたい。……あたたかい手と、優しい心を持つガイトさんに。

 そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、目の端をふわりと何かが掠めた。……この、光は。


「……フゥ?」


 足を止めて、そうつぶやく。……フゥだ。あの、特徴的な光を放つのは、きっとフゥしかいない。

 私はそう確信して、辺りを見回す。すると、少し離れた所に橙色の光が見えた。その光は私の声に反応するかのように、ゆらりと揺れた。そして光は私の元へどんどん近付いてきて……。


「わ、わっ……!?」


 私は思わず目をつむった。ぶつかるくらいの勢いでやって来た光。フゥなら炎でできているから、熱さに身構えたのだけれど……。そんな衝撃は来なくて、ただ身体の周りにほんのりあたたかさを感じて、私はそっと目を開けた。

 やって来たのは、やっぱりフゥだった。私の周りをくるくる飛び回る、炎の蝶。いつもより回る速さが少し速いように感じるのは、気のせいだろうか。……それよりも。


「フゥ、ずっと待っててくれたの?」


 約束の時間はとうに過ぎているのに、フゥはここにいる。……ということは、そういうことだろう。

 私の問いかけに、フゥは飛び回るのをやめて私の正面にやってきた。そして、まるで頷くようにくるっと一回転する。


「……ありがとう。嬉しいよ」


 そう微笑みかけると、フゥはまた嬉しそうに飛び回った。その様子を見ていると、なんだか癒される気がするから不思議だ。心がぽかぽかとあたたかくなるのを感じる。……あぁ、やっぱり、いいな。

 私は、フゥがこうして待っていてくれたことが嬉しかった。でも、同時に申し訳なさもあった。


「……ごめんね、フゥ」


 私はそう呟く。……約束の時間に遅れてしまったから。誰かに見つかる危険性もあるフゥを、待たせてしまったから。


「私、今日はどうしても早く帰りたかったんだけど……急な仕事が入っちゃって……」


 言い訳のようにも聞こえる私の言葉だけれど、これが事実だ。……でもやっぱり、申し訳ないなという気持ちはぬぐえないわけで。


「こんなに待たせちゃって、本当にごめんね。……でも、今日はもう遅いから。ガイトさんも、きっと心配してるよね。だから、帰っても……」


 そう言いかけて、私は口をつぐんだ。……“帰ってもいいよ”なんて、私はフゥに言える立場じゃない。約束しておいて、それを反故にしてしまったのは私なんだから。……こんなの、自分勝手だ。

 一度暗くなり始めた思考回路はなかなか元に戻らなくて、私は何も言えなくなってしまった。……すると、そんな私の側にフゥは飛んできて。そっと、私の頬にり寄るような仕草をした。

 右頬に、フゥのあたたかさが伝わってくる。……そのあたたかさに、私はハッとした。


「……ありがとう、フゥ」


 私は、フゥを優しく手で包みながらそう呟く。……そうだ。私の都合でフゥに迷惑をかけてしまったのは事実だけれど。それでも、こうして私を待っていてくれたのだ。迎えに来てくれたのだ。なら、それをありがたく受け入れようじゃないか。

 そしてガイトさんにも、会いに行こう。待たせてしまったことを、きちんと謝って。……それから、時間が許す限りたくさん話そう。たくさん触れ合おう。


「フゥ、連れてって。ガイトさんのところへ」


 私は包んでいた手をそっと開いて、フゥにそうお願いした。するとフゥは嬉しそうにくるくると回り、私を先導するように飛んで行く。私はその小さな灯りを、しっかり見つめて歩いた。

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