第29話 心根
ギルバルトがターヴォル——統制庁に身を置いてから瞬く間に年月が経過した。
統制庁が密かに掲げていた理念は〝世界の統一〟であり、最終的にはこの『クヴェルア』全土をその名の通り〝統制〟するというものであった。
ギルバルト自身も思わず鼻で嗤ってしまいそうな大層な目標だった。しかし、その諜報機関に所属し、数年に渡り活動をしていると決して絵空事ではなく、この国は本気でそれを成そうとしているのだということが嫌でも理解できた。
〝争いの無い世界を〟という、人類の悲願とも言える大業を掲げたターヴォルという国は、以前のギルバルトと同じように争いの芽を強制的に摘むことによって、潜在的な火種を潰していくのだった。
全く人道に反したことだが、ギルバルトはこのやり方を否定できる立場にはいなかった。むしろ、対話によって平和をもたらす段階はとうに過ぎ去り、犠牲が出ようともそれを強行する者こそが真の意味で平和をもたらすのだと、頭のどこかで強引に理解しようとしていた。
国際法のグレーゾーンで動く彼ら一般型諜報員や場合によっては武力行使が統制庁に認可されている実働型諜報員エノゴスらの活躍によって、各地で争いを扇動し、意図的に戦争を起こさせた後にターヴォルが介入してどちらかを制裁するというマッチポンプを繰り返していた。
そして短い期間でターヴォルを含めた西側の大陸諸国へ次々と諜報員を送り込み傀儡国家としてターヴォルの手中に収め、時にはターヴォルが有する圧倒的武力を用いて支配下に置いていった。
そうして、五年もしない内に西側諸国が内包する数十の国々はターヴォルと融合するように一枚の壁となっていった—————。
◆
『お前には、機関情報部員には長期間パホニに滞在し、東側の情報を収集してもらう』
ターヴォルへと渡って数年、統制庁直下の活動に慣れてきた頃、その指令は下った。
パホニの情報管理技術はターヴォルと比肩するほどである。その為、内部工作の為に人員を手配するとなれば、どこまで調べてもその素性がシロでなければならない。
故に、諜報活動用に新たな身分を用意すると、それを徹敵的にパホニの国家情報統合システムが調べ上げるためそれが露見するリスクが高まるのだ。
故に、ギルバルトは自身の本来の名前である「ギルバルト・スーリン」という氏名をそのまま使用せざるを得ない。
しかし、その名前に紐づく一切の情報は統制庁が管理しているため、余計な捜査が入ることはない、ということだった。
そもそも、パホニの中でもとりわけ重要な公的機関として存在している治安維持部隊に潜入するということ自体が生半可なものではなかった。
情報工作抜きに組織に所属する為には、パホニに帰化し、然るべき試験を受けて正当な手順で組織に加入しなければならない。
その為にギルバルトは数年をかけ、帰化を終えたパホニ人として正当な手段を経て、パホニ第三区治安維持部隊への入隊を成し遂げたのだった。
———パホニ。正式にはパホニ列島国と呼ばれる群島から構成される島国。七つの区に分けられたそれぞれの県が中央政府の政治指針に沿い統治を行う、至って普遍的な中央集権国家。
その中でも、彼が潜入することとなった第三区は、パホニにおける首都であり他の区と比較して最も発展している区であった。
◆
しわの無い藍色の真新しいスーツに身を包み、公務員らしい整えられた短髪を携えた彼は、最初に言い放つべきセリフを口内に留め、新たな勤務先に足を踏み入れた。
『—————失礼します。本日付け…で、パ………』
———〝パホニ第三区域、治安維持部隊情報部配属となりました、ギルバルト・スーリンです。よろしくお願いします〟と、やや塗装の剥げたドアを開けた後に形式的な挨拶をする予定だったが、その中の様子を視界に映すと、彼の声は途端に尻すぼみになり、空気にまざり消えていった。
彼が足を踏み入れたその部屋には特筆すべきこともない事務机が複数。そして中で二人の人間がまるで引っ越し直後かのような、段ボール箱が防波堤のように積み重なる部屋で忙しなく四肢を動かしていた。
新入りの声に反応したその男女二人は、無言のまま僅かに振り向いてギルバルトが立つ入口の方へと意識を移す。男の方はしゃがみ込んだまま工具やら電子機器やらを掴んでおり、おもむろに立ち上がると彼を出迎えるかのような仕草をとった。
そしてもう一人、朱色の長髪が目立つ女性が大小様々な大きさの段ボールで構築された山脈をさながら巨人のように大股で踏み越え向かってきた。彼女の額には汗が滲み、その表情と足取りからは明らかな疲労が伺える。暑さのせいか、元々着ていたであろうジャケットは脱ぎ捨てられ、比較的涼し気なワイシャツ姿。
鬼気迫る様子で言葉を発することもなく接近してきた彼女は、部屋の入り口付近で茫然と佇んでいたギルバルトの涼しそうな顔を見るなり、少し俯いて食い気味に右手を差し出した。
『…………?』
握手を求められているのだと勝手に推察したギルバルトは、異様な雰囲気に呑まれたまま、磁石に引き寄せられるように無意識に右手を彼女の前に差し出していた。
——が、しかし直後。まるで獲物を捕食する爬虫類のように、彼女の手は瞬時にギルバルトの手首に伸び、渾身の力を以て掴まれる。明らかに握手を意図した行動ではない。
『……っ!?』
予想外の事態を前にして咄嗟に行動が出来ず、彼は強張った自分の腕をそのままに、目の前の彼女の動向を静観することしかできなかった。
僅か数秒の時間を経て、俯いていた彼女は勢いよく顔を上げると、乱れた前髪も構わず言い放った。
『ねぇ!突っ立ってないで、これ、手伝って……!!』
これが、彼とラーザの出逢いだった。
◆
『ふぅ、こんなもんかな………一度休憩しよう』
首にタオルを掛けたサントムが畳まれた段ボールの山を見て息を吐いた。壁に掛けられた無個性な時計は正午を指しており、彼らの体は自然と休息を求める。
ラーザに腕を強引に引っ張られ、自己紹介もままならない内に来て早々荷物の山と対峙することになったギルバルトは同様に息を吐き、くたびれたように床に座り込んだ。
季節は四月。気候柄、冬に終わりを告げやって来る春の温暖な気候が、じんわりとした熱を空気に滲ませていた。窓から差し込む陽の光がダイレクトに熱を室内に運び入れるおかげで、その一角は真夏のような温度に達している。
『——それにしても、来て早々「手伝え」のひと言で腕を無理やり引っ張られるってのも酷い話だよなぁ』
『仕方ないでしょ。明らかに二人で片付けられる量じゃなかったんだから。それにアンタは片付けそっちのけで箱から出したデバイスを弄り始めるし』
『悪かったって。ほら、あるだろ?掃除とか片付けとかしてて、偶然見つけた懐かしい本とか機材に夢中になっちゃうっていうアレだよ』
『それをやめろっつってんのよ』
『いーや、あれには誰も抗えないね。ギルバルトも分かるだろ?』
『あぁ、まぁ……そうだな。気持ちは分かるよ』
半笑いで軽薄そうに話しを振るサントム。空き巣に入られた後の家を片付けていて、同様の現象に見舞われたことをふと思い出して彼は無意識に返答する。
ギルバルトの顔を一目見たラーザが有無を言わさずギルバルトを片付けに参加させたのは、顔と名前は選考書類を見て事前に知っていたからだったそうだ。
サントムも同様に知っており、そのおかげで自己紹介に無駄な時間を割かずに済んだ。
『……それにしてもエンラト共和国なんて、ずいぶん遠い所から来たのね。でも、どうしてパホニに?ここで帰化しなきゃいけない事情でもあったの?』
『っ…それは………』
『ラーザ、デリカシーってもんがないのかよ。色々抱えてるかもしれないだろ?初対面で聞くことじゃねぇぞ』
『あぁ、ごめんなさい。少し気になっただけよ。他意はないから、気に障ったのなら謝るわ』
『いや、気にしないでくれ。そういったことが気になるのは当然だと思うから。……そうだな、どこから話したものか…………』
『無理に話すことはねぇぜ?これからゆっくり知っていけばいいからさ、お互いに』
『……………………』
理由を尋ねられるのが一番苦難することだった。無論、こういった質問に対する回答パターンは幾つかあらかじめ用意があるが、それらが全ての文脈において適切であるとは限らない。
それに、明らかに形式的、定型的な返答は疑われるきっかけにもなり得る。些細なやり取りの中で繰り返される言葉の一つ一つに注意を払わなければならない。
現に、ラーザがそれとなく——いや露骨に行った質問には懐疑の色が滲んでいる気がした。ここへ送られたギルバルトの経歴は統制庁の組織に所属していること以外はほぼ事実だった。故に、そのような遠方からわざわざこの地に定住することを選ぶ正当な理由がなければならない。しかし当然そのような正当性のある理由などない。ターヴォルへと渡っていなければ、この地に生涯を通して足を付けることもなかっただろう。
彼女のいささか不躾な質問を頭の隅に抱えたままそんなことを考えていると、ふと自分のこれまでの人生が走馬灯のように過った。その理由がないなら作ればいい。しかし、その理由は本心でなければならない。
—————と、その心根を自ら掘り起こすように回顧した。そして、次の瞬間には無意識に声が発せられていた。
『———平和が…欲しかったからだ』
『…………へ、平和…?』
ラーザが虚を突かれたように上ずった声を挙げる。この返答は彼女にとって予想外だったのだろう。ギルバルト自身も、なぜ唐突に「平和」という単語が口をついて出たのかは分からなかったが、その言葉を直ぐに撤回したりはしなかった。
『………?えーと、んん?』
サントムも見えない〝?〟が頭上に浮かんでいるかのように眉を細め困惑の表情を呈している。二人の反応は至極正しいものだった。平和を欲してやって来る場所が第三区域の治安維持部隊であるというのはどう考えても筋が通っていないからだ。
それも、わざわざパホニで帰化をしてまで。
『……んーまぁ、世界的に見りゃここは平和な方だと思うけど………』
『っ………すまない、変なことを言った。忘れ———』
『————ねぇ、アナタは平和が欲しくてここに来たの?それとも、平和を作る為にここに来たの?』
『………?』
『ど、どうした、ラーザ』
『アンタは黙ってて』
短く言われ、サントムは不服そうな顔をしながら口を噤んだ。
『どうなの?アナタの経歴は見た。徴兵されていたことも、諸事情により一定期間収容されていたことも。勿論アナタの全てを詳しく知っているわけじゃないけど、その過去の出来事が、その平和を欲してることに繋がってるの?』
『………………』
『ラ、ラーザ、その辺に…………』
『答えなさい。ギルバルト・スーリン———————』
沈黙が下りた。サントムは耐えられないといった様子で二人の顔を交互に見やる。ラーザは立ったまま、胡坐をかいて半分程俯いているギルバルトを見下ろしていた。
やがて、ギルバルトが観念したかのように短く息を吐くと、喉奥から絞り出すように言葉を口にし始める。
『………そうだ。二人も知ってるだろう?十年前のシュクラメルム国境戦……。結果的に言えば、あれでエンラトは多くの利益を得たが、それと同じように陰でも多くを失ってる。俺も…その一人だ』
『それって………』
ラーザたちも、その戦争には聞き覚えがあった。西側諸国東方で発生した資源争いから勃発した争い。
二年程の膠着状態が続き、最終的にはエンラト共和国を含めた複数の国の軍隊で結成された抵抗軍によって、敵対国であるワングールナを降伏させたのだ。
『サントムが言うように、パホニは世界有数の高平和度指数国だ。それでも近年では色々物騒なようだが………。それに、東側諸国は全体的に非戦傾向にあって、西側の動向をよく見てる。平和の礎と言っても過言じゃないだろう』
『それは、確かにそうね………それで、結局何が言いたいの?』
ラーザは的を射ない回答を繰り返す目の前の男に僅かな苛立ちを覚え、彼女の語気は少し荒くなる。自分でも支離滅裂な事を口走っていることに気づいたギルバルトは黙し、逡巡した。
危ういかもしれないが、最も有効な手立てでもある。それは、本当のことを話すことだった。どの道、過去の経歴は相手に知られている。ならば、本音と共に自らの弱点を晒す覚悟で打ち明けるしかなかった。
『………俺は、徴兵時代……そしてその後も、無数の人の命をこの手にかけた。全ては、争いを失くすために。…………俺には、平和が分からない。どうすれば世界は平和になる?どうすれば世界から戦争を失くすことができる……?』
『—————………そう』
力なく発せられた彼の言葉をそこまで聞いて、ラーザはこの不器用な男が何を言っているのかを理解した。
砂のように乾燥しきっているこの男は、平和という妄執に囚われているのだ。
一体、何がこの男をここまで虚無に突き落としたのかは分からないが、随分昔に、きっとこのギルバルトという人間にとって大切なものが大きく欠けてから、その隙間を埋めるものを当てもなく探しているのだろう、と。
『………ギルバルト、立って』
『…………?』
『いいから—————』
言い終わる前に、彼女は少ししゃがんで再び彼の腕を強引に掴むと、自分の目の前まで彼の体を無理やり立たせるように引き寄せた。彼は驚いた表情をすると共に、一瞬ラーザの目を見た。
彼女の燃えるような赤い髪と同じ、燃える夕日のような瞳。そんな情熱的な彼女の瞳が自分の何もかもを見透かしてしまいそうで、彼はそれを直視した後、直ぐに視線を逸らした。だが、ラーザは彼の深い海のようなコバルトブルーの瞳を見つめ続けた。
『……いい?ギルバルト。私たちの仕事は、平和を作り出すことじゃない。今ある平和を維持することなの。ただ平和を求めるだけじゃ、本当の意味で平和なんてやってこない。平和への解釈なんて人それぞれだし、ここで哲学的な話をするつもりもないけど、昔、大学に通っていた時に教授から〝平和の反対が戦争である〟という言葉を聞いたことがある』
ラーザはその時を振り返るように一瞬ギルバルトの瞳から視線を外し、僅かに下を向いた。そして、再び彼の目を見据えた。
『……あの時はちゃんと理解できなかったけど、今なら分かる。個人単位での普遍的な平和が訪れることは無いけど、多数の幸福が損なわれるような世界にだけはしてはいけないということ』
『…………』
『アナタが過去にどれだけ人を殺していようと、それはもう過去の話。殺した人は生き返らないし、時間は巻き戻らない。たとえ方法が間違っていたとしても、平和の為に人を殺したアナタを責められる人間は、世界のどこにもいないわ。人間なんて、状況次第で誰でも引き金を引けるものだから』
『…………ラーザ』
『————だから、アタシはアナタを肯定する。平和を欲するアナタを肯定する。一緒に、今ある平和を護っていきましょう。その為の私たちなんだから』
『……………………』
ラーザの両の手は男の肩に掛けられた。そして少し力を入れ掴まれる。
言葉は無かったが、〝もう悩まなくていい〟とそう言っているかのようだった。
『………これは受け売りだけど「平和というのは作れないからこそ尊いものなんだ」って言葉があってね。何年か前に……それこそまさにアナタの国が関与していた戦争の最中に反戦派の人間たちが掲げていた言葉よ』
『……………………!』
〝ギル、平和っていうのは、作れないからこそ尊いものなんだぞ〟
彼の中で、かつて誰かから贈られた言葉が反響する。いつ言われた言葉だったかも分からないが、確かに、父の口から流れた言葉だった。
『…………ぐ………うぅ…………』
目の奥が熱くなる。歯は自然と食いしばられ、嗚咽が喉の奥から漏れ出る。
やがて堪えきれなくなり、膝を折るとラーザに縋るように、彼は床に伏しうずくまった。
ラーザも同様に膝を折ると、うずくまる彼の背にそっと手を置いた。
『…………大丈夫よ。ここにアナタの敵はいない。アタシもサントムも、多かれ少なかれアナタと似たようなことを経験してきた。だから、安心していい』
『……あぁ。まぁ、俺がそう偉そうにあれこれ助言する立場にはないかもしれないけど、お前のことは理解してやれる。それが今俺に出来る最大限の施しだな』
『………………うぅ…………』
着任当日。彼は思ってもみない、自分にとっての本当の理解者と出逢った。
しかし、それは決して楽観できることではない。自分は、最初からパホニを含む東側の大敵、ターヴォルの密偵なのだ。彼女のたちの言葉が彼に染みるほど、その喪失は大きくなる。
彼は、もういっそここに全てを委ねたいと思ってしまった。ここが自分の居場所であって欲しいと願ってしまった。しかし、自分の背後にあるのは、今まさに世界を掌握せんと企む巨大な破壊の根城である。
自分を受け入れてくれた人たちを必ず裏切ることが結論づけられている未来が、どうしようもなく腹立たしく、そして、どうしようもなく許せなかった。
◆
『—————そういえば、サントムはどうしてここに入ったんだ?』
ある日、相も変わらず資料整理や情報整理に勤しんでいたギルバルトは、ふと同僚であるサントムにこんな質問をした。ラーザは朝から第二区の治安維持庁社に出張しているため、部屋にはギルバルトとサントムの二人しかいない。
定期的に紙を捲る音とキーボードの打鍵音。そして時折、どちらかがしたあくびの音が午前の室内に響いていた。
そんな中、いつもキーボードとデスクトップに向かい合っている彼の来歴をそれとなく尋ねていた。聞く機会はいつでもあったが、どうにも聞きづらい印象を抱いていたのだ。
しかし珍しく二人だけの空間で、特に雑談をするわけでもなくそれぞれ作業をしていたギルバルトは耐えかねたように口を開いていた。
『………ん、珍しいな。あまりそっちから話しかけてくることなんてないのに。はは、やっぱあれか、ラーザがいなくて寂しいか?』
サントムは反対側に座っていたギルバルトを見て口角を僅かに上げる。
『……う、うるさい。詳しい話を聞いたことはなかったなってふと思っただけだ』
『はいはい。………んー俺がどうしてここに来たか、ねぇ。まーでも、大まかには最初に教えた通りだけど、確かに話してないことはある』
『スカウト、だったか?』
『そう。俺ってばコンピューターを使ったあれこれは多少得意だからな。それで腕を買われてここに、情報部門に招集されたってワケ』
『そういうのはよくあるのか?』
『さぁね。あるだろうけど、詳しくは知らねぇや。ただ、もしかしたら……』
『…………?』
『もしかしたら……昔にバカやった連中が、同じように国防のために引き入れられた可能性はあるだろうな』
『………どういうことをしてたんだ?』
『まぁ話すと長くなるから掻い摘んで話すが……元々、俺は何の取柄もない引きこもりだったのさ。学校にも行かず、朝から晩までネットに浸るような、そういう典型的なアレ。でも、ある事件がきっかけでその在り方は大きく変わったんだ』
『事件……?なんの……』
『もう十年以上前かな。第三次戦の後から戦場がネット空間にシフトしてから、サイバー犯罪の数が激増した時期があったんだ。中でもスポルモ・ネットっていう、超アングラネットシステムが構築されてからは、そこがサイバー犯罪者たちの根城になって、クラウド上に管理権限の大多数を置いてる企業とか、国のインフラの制御システムやらを狙ったテロ紛いの行為が跋扈してた』
『スポルモ・ワヴナカルテ……だったか。史上最悪のネット犯罪』
『そう、そいつ。アイツが作り上げたサイバー上の犯罪拠点。ネット回線に自意識を乗せられるようになってからはもうやりたい放題さ。スポルモ本人は逮捕されたが、システムは当時健在。完全に犯罪の温床になってた』
『国際ネット新法が施行される前か』
『あぁ。それで、スポルモ・ネットの奴らがエネケイテの主要インフラの制御を軒並み掌握して国家予算並みの金額を提示して取引を持ち掛けようとしたことがあってな。エネケイテの国民の命を全て人質に取ったようなもんだ』
『あぁ、思い出した。大規模なインフラ制御を用いた国際犯罪…………』
エネケイテは東側に属するパホニ同様の主要国家だった。当時西側に身を置いていたギルバルトからすれば遠い世界の話だったが、連日ニュースになっていたのを薄っすら覚えている。
『そう。当時のエネケイテの首相は脅しに屈したりしないってなもんで、スポルモでアカウントの制御権を掌握してる奴の居場所をどうにか逆探知して、これを止めなければお前のいる国に戦略型兵器を投下するぞって脅しをかけたんだ』
『…………確か、結局それを実行には移さなかったんだったか』
『あぁ。本当にそんなことをしたら第四次大戦の開幕だからな。向こうもそんなことが出来ないのは分かってる。だから、その間もいいように制御権を奪取されたままひと月余りが過ぎていった。他国からの援助があったとはいえ、電気、水道とか大半のインフラ設備が使えなくなった国民の命は、刻一刻とすり減らされて絶望状態。そんな時、状況が動いたんだ』
彼の語りは徐々に熱が入る。まるで当時の様子が彼の脳内に設置された劇場スクリーンで精密に動いているかのように。
『スポルモのガードはかなり硬かったらしい。色んな国の、それこそ色んな技術者が制御権の奪還のために動いてた。ただある時、一人のハッカーがその防御を突破したんだ。そして、そのハッカーの元で動いていたとされるハッカーたちも一斉にスポルモに流れ込んで、瞬く間にスポルモは壊滅状態。エネケイテのインフラの制御権も元に戻って、もう少しで大量の死者を出すところだったその事件は、そうして幕を下ろしたんだ』
『そうか……それで、それに感化されたというわけか?』
『そういうこと。当時、日がな一日中モニターとにらめっこしてた十八くらいのガキのしたら、血が沸き立つような話だったんだ。ネットの世界には極悪人も居て、反対に極善人もいるってな。信じられなかったんだ。いつも入り浸ってるネットの世界で、現実世界をあそこまで揺るがす出来事が起きてたって』
『確かに……一国の国民全員を人質に取るなんて、尋常じゃないな』
『俺が今まで入り浸ってたのは、せいぜいネットの海のほんの浅瀬程度。深い場所に行けば、もっと色んなことを知れる。色んな役に立てるかもしれないって、そう思ったんだ。…………まぁ、そんな若気の至りみたいな発想があって、その事件を解決した伝説のハッカーを追ったり、自らそういう技術を磨いたりとか、半ば独学であれこれ習得していったってワケさ。それで、当時の出来事に感化された連中がネット警察つって有志で募ったサイバー自警団を結成してブラックネットの犯罪者たちを治安部隊に突き出したりサイトを潰したり………。そんなことを数年やってたら、ここからお誘いが来たってこった』
『なるほど。ちなみにその伝説のハッカーの正体は分かったのか?』
『いや、今日まで特定に至ったことはない。当然自ら名乗り出ることもなかったし、こればっかりは迷宮入りかもな。噂じゃ、どこか国がネット上に放流した超知性AIだなんて話もあるが、そんな興ざめな噂は信じたくねぇしよ』
カチカチ——————。と、言いながら、サントムはデスクトップの端に表示されていた時計を見て、鍵盤の上で動かしていた指を止めた。
『———お、もうこんな時間か。ふぅ、話し疲れちまったな。ギル、メシ、食いに行こうぜ』
『ん?……あぁ、そうだな』
それにギルバルトも頷きおもむろに椅子から立ち上がると、上着を雑に羽織って部屋の外へと足を踏み出した。その日はサントムの後ろ姿がやけに頼もしく見えた。
『その、ありがとう。聞かせてくれて』
『え?お礼なんて必要ねぇって。むしろ今まで黙ってた俺の方が悪いや。まぁ……本音を言えば、お前の経歴を前にして自分の過去をお前に話すのが気が引けたっつーかな』
『……そんなことを気にしてたのか?』
『いやぁ、だって徴兵経験があるやつなんてパホニじゃ滅多にいないだろ?あの日はそう大した話しは出来なかったけど、こうして多少打ち解けてきたタイミングだから話せたってだけさ。むしろ、そっちから聞いてこなかったら一生話すことはなかったろうけどな』
『そうか、はは。俺も、ラーザにあの時詰められてなかったら、あんなことは言わなかったさ』
『ははっ、ちげえねぇや——————』
◆
——————また時は流れ。
人生最良の理解を受けた彼がラーザに対して心を許すのは自明だった。
ただ、俗に言う恋愛感情というよりは些か崇敬染みていたが、そういった経験を経てこなかった彼からしてみれば、沸騰したように湧き上がる想いをどう処理すればいいのかも分からなかった。
一方ラーザも、あの日以降ギルバルトの事を気に掛けるようになっていた。
半ば強引ではあったが、ラーザの言葉を受けて活力を取り戻したように見えるが、それでも、放っておくとどこかで崩れてしまいそうなギルバルトの姿を見て、自然とその姿を支えてあげたくなったのだ。
そのような想いを互いに抱き、同じ部署で生活してはや数年が経過した。
その間もターヴォルは次の一手の準備を着々と進め、東側諸国もそれに追従するように各国と連携し、西側が早まった行動を取らないようにと監視を強めていた。
当然両方の動きはギルバルトが把握する所であり、また活動報告も逐一統制庁へと送らなければならない。高まっていく争いの機運。ここ第三区の情報部門もどうようにそれらを危惧する情報を処理することが増えていた。
もうすぐ統制庁も大きく動きだすはずだと、そして、それに自分も巻き込まれるだろうと、そんな予感はあった。
しかしどのような渦中においても、情愛というものは世界の情勢よりも優先されるものである。
—————ギルバルトがここに来てから約三年が経過した頃、ラーザは彼に対してとある告白をした。
パホニ第三区域、首都郊外。人通りも少ない海沿いの遊歩道に設置されたごく普通のベンチに腰を下ろした。互いに暇がある時に頻繁に訪れる場所だった。
その日もこうしてまた彼らは人知れず二人だけの時間を静かに過ごしていた。
口数はさほど多くはない。ただ、間に流れる空気感が、二人にとって心地が良かったのかもしれない。二人の間に多くの言葉は必要なかった。
『………………』
明確に好意を言葉にしたことはあまりないかもしれないが、二人が相応の関係になってから二年ほどが経過していた。
ギルバルトはこの時間が好きだった。彼女が隣に居てくれるだけで、自分の全てを包んでくれるようで、そして、彼の中で欠けていた部分を、干上がってしまった湖を満たしてくれているようだった。
『————ねぇギル』
『?……どうした、ラーザ』
『その…………ごめん、アタシらしくないって思うかもしれないけど、アタシから言わせて欲しい』
『…………』
二人は、互いに見つめあった。夕焼けに染まるその二人の顔はどちらも頬を染めているようで、少しはにかむラーザの表情を見て、ギルバルトの表情も自然と和らいだ。
潮風が緩く吹き付け、夕日の光を受けて彼女の髪はより一層燃え上がるように煌めく。
『ふぅ…………ギル。…………ア、アタシと、結婚して………ください』
『……………………』
決心したように、ラーザは息を整えると、その言葉を口にした。
まるで夢でも見ているかのような光景。思わず反射的に口が開きかけるが、彼は直ぐに返答することが出来なかった。
目の前にあるのは、夕日の光を受けて金色に輝く細いブレスレットを差し出す彼女の姿。パホニでは求婚時に相手にブレスレットを差し出すのが一般的だそうだ。そして、その輪に自分の腕を通せば、それが叶うことになる。
目を瞑りながら、それをギルバルトの方へと持ち上げる彼女の指先は微かに震えていた。その様子を食い入るように見ながら、無意識にその輪に彼の手が引き寄せられるように動く。外の音は聞こえなくなり、自分の心臓が煮えたぎるように鼓動する音だけが耳鳴りのように木霊していた。半ば思考を放棄し、絶対に得る事の出来ない未来へと手を伸ばそうとする。
しかし、そうして指先が輪を僅かに通過しようとした瞬間、彼の意識は急ブレーキがかかったように呼び起こされた。
『っ…………!』
寸前で、その指先は停止した。呼吸は荒く、冷や汗が頬を伝う。寝覚めの悪い夢でも見ていたかのような錯覚に陥り、彼は自分が正気かどうか確かめる為に何度も瞬きを繰り返す。
しかし、目の前の光景は現実であり、リングを構える彼女の姿が変わらずそこにあった。
〝何を、馬鹿なこと考えてるんだ………〟
————結局、その輪に手を通しきることは出来なかった。何故なら、それは叶わぬ願いだから。それを無責任に受け入れるということは、彼女すらも危険に晒すということになる。
もう十分だと思った。これ以上の関係になるのは、これ以上何か享受するのは破滅を招くだけだと、破裂しそうな心臓の傍らで冷静に理解できた。
そしてこれを断ることが、今自分が彼女に出来る最大の恩返しだった。例えそれがどれだけ不本意なことだったとしても。
『………ご…………ごめん……………………ラーザ』
ギルバルトは魂が抜けたように俯くと、何の意味もなさないかすれた謝罪の言葉を述べた。
それを黙して聞いたラーザは閉じていたまぶたをゆっくりと開き、ギルバルト顔をじっと見据えてもう一度笑いかけた。その目尻からは夕焼けの光を受けて真珠のように輝く雫が伝う。
『…………そっか………残念……』
ラーザはそれだけ言い残し、何事も無かったかのように正面に向き直るとブレスレットをバッグにそっと押し込んだ。
————奇しくも、それはギルバルトに帰還命令が出された日でもあった。
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