第28話 理想主義者


『い、命は大切なものであります、上官……!もうこれ以上の戦いは、何も生み出しません!何より、じ、自分はもう……戦いたく、あ、ありません………!』


 父親から送られたあの手紙と文言で涙を流してから程なくして、青年ギルバルトは、眼を見開き、息を荒げ、上官相手にそのようなことを宣った。

増していく死と戦場への恐怖。そして、父の思想がかみ合い、彼の口からそのような〝世迷言〟を吐かせた。

 まともな精神状態であれば、そんなことを世間に、ましてや軍の上官に言えばどうなるかは馬鹿でも分かる。


 その戯言を黙して聞き届けた上官の男は、余韻の最中、僅かに眉間にしわを寄せた。軍帽のツバによって生まれた影のせいで表情は上手く読み取れないが、その眼は失望とも落胆とも言えない、ただ冷ややかな感情だけが支配する、氷漬けの果実のような眼球がギルバルトを真っ直ぐ見据えた。

 そして彼は間を置かず、自然な動作で利き腕を振りかぶった。


 その様子はスローモーションのようにゆっくりと流れ、ギルバルトは突然腕を動かした上官の姿を、張り裂けそうな表情で茫然と見ていることしかできなかった。コマ送りに流れるその上肢は、鉛にも似た拳を青年の頬に激突させ、めり込ませた。


 不意な衝撃と共に、ギルバルトの意識はその吐いて棄てるような思想と共に吹き飛ぶ。

 視界の先には真っ暗な暗闇が訪れ、制御を失った体は軟体動物の如くクニャリと曲がり、鈍い音を立てて地面にくずおれた。



 次に目が覚めた時には、ギルバルトは見ず知らずの場所にいた。

弱々しく開いた視界の先には温度を感じない暗がり、錆が目立つ鉄格子。その空間を無意識に見渡すとコンクリートで覆われた手狭な場所だった。


『……………』


 その様子をしばし無言で何度か眺め、数度息を吐いた。ここがどういう場所なのかは聞かずとも理解出来る。そして混濁する意識を回復させるように、しゃがみ込んだまま彼は嗚咽混じりにかぶりを振った。


 自分が何を口走ったのかは覚えていた。今こうして多少冷静になってから考えれば、間違ってもあのようなことを主立って言うべきではないということは理解出来た。

 それでも、あの膨れ上がった思いを放出しなければ、あるいは〝正しい〟と思ったことを誰かに告白しなければ、自分を保てなかったのだ。


 反戦思想は弾圧対象だ。現状国を取り巻くイデオロギーに真っ向から逆らうもの。

結果的に、自分の父親と同じ轍を踏んだのだ。


『………う』


 不意に、右の頬に鋭い痛みが走った。咄嗟に頬を抑えようとすると、指は皮膚に触れることなく、その上を覆っていたガーゼに当たった。

部屋には鏡もなく、自分がどのような状態なのかも認識できない。黄土色で着心地の悪いゴワゴワとした麻で織られた服を上下纏っているのが分かるくらいだ。


 顔のあちこちを触ると、殴られたであろう箇所を中心として処置されており、ガーゼのガサガサとした感触が指のひらを通して伝わってくる。


口内は少し出血しており、意識すると痛みが響く。歯は折れていない。


『…………?』


 そうこうしていると、遠くからコツコツとコンクリートの床を踏む足音が聞こえてきた。やがてそれは目前に迫り、鉄格子の向こうに姿を現わした。特筆すべきものもない、この施設の看守だ。


『起きたか。手痛くやられたようだが、その場で殺されなかっただけ有難く思うんだな』


『……………』


『ギルバルト・スーリン……ふん…親子そろって、全くどうしようもない』


『………!』


その言葉にギルバルトは僅かに反応したが、看守は気付かなかった。


『……ともかく、作業時間だ。こい』


 苔のような色の服を纏った彼は低い声でぶっきらぼうに言うと、鉄格子に付く錠前に鍵を雑に差し込む。金属が擦れる耳障りな音が反響し、目の前を阻む壁は取り除かれる。出るや否や、彼の腕には金属質の拘束具が取り付けられた。


 突然意識を奪われ、何も分からずここへ連れてこられ、作業と言われても何の事なのかは要領を得ない。しかし反論反抗の余地もなく、看守重々しい背を無言で追い、清潔とは程遠いその独房の街を後にした。



 その後、口を動かすことなく、ひたすらネジ穴を締める苦行のような作業を終え、疲れ切った顔で作業部屋を後にする。


次に待っていたのは食事だった。今が何時なのかも分からなかったが、食堂の壁に掛けられた時計を見ると、既に二十時を回っていた。それを意識すると、腹が思い出したかのように唸り声をあげる。


 当然、このような場における生活リズムに慣れていない彼はおどおどしながらも、他の囚人たちに着いて行く形でトレーを受け取り、その上に乾燥してあまり食欲を誘わないパンや、濁った色の野菜、見るからに薄いスープが添えられる。


彼らは無表情でそれらを順番に受けとり、適当な席に腰を下ろす。ギルバルトもそれに続き、無意識に食堂の隅を陣取った。


 トレーの上に乗ったそれらを濁った瞳で眺める。軍用のレーションとどっちがマシなのかは分からないが、それをすぐ手に取って口に運ぶ気にはなれなかった。


————と、短く息を吐いたその時。遠く反対側の壁付近の席に見覚えのある顔があった。無精ひげを生やし清潔感は無くなっていたが、見間違うはずもない、ある男性の姿。


『とう………さん………??』


 彼の姿だけがギルバルトの視界にくっきりと浮かび上がり、その他の人たちは全て有象無象の背景と化した。

 視線は父親の姿に吸い寄せられ、食事のことなど忘却の彼方へと消えた。


『父さん…………!』


 堪えきれなくなったように椅子から立ち上がった。反動で木製の椅子は倒れ、乾いた音が響く。周囲の人たちはそれに振り向くがギルバルトは気にせず、両足は父親の元へと向かっていった。


『ギル……?ギル、お前なのか…………?』


 その息子の姿に気づいた父、クーテリアンは匙ですくったスープを口に運びかけ、手を止めた。

 思わず身体を硬直させ、駆け寄って来るギルバルトの姿を凝視した。呆けたように口を半開きにしたまま、彼もまた席をおもむろに立ち、息子へと駆け寄った。


『ギル…………!!』


『父さん……っ!!!』


 自分にとっての唯一の拠り所とも言える父の懐に彼は迷わず飛び込み、両腕を背中に回し強く抱きしめた。


 久しぶりの抱擁。最後にこのように父と抱擁を交わしたのは、いったいどれほど前のことだっただろうか。何年かぶりに再開したその体は、記憶にあるものとは違い、随分と痩せこけていた。


 また親である彼も、久しく会う己の息子の体を抱き留め、震える腕でその体を覆った。


 ただその瞬間、クーテリアンの胸に顔が収まった時、これまでの父との手紙のやり取りや、戦場で起きたこと、味わった感情や記憶が沸騰するように膨れ上がり、ギルバルトの中で堰を切ったように感情がとめどなく溢れ流れ出した。


そして、それは目を通して外へと放流された。


『………うぅ、うう…………うううぅぅぅぅ—————!!!!!』


 幼い子供のように、彼は人目も気にせず、父の体を抱きしめたまま言葉にならない嗚咽を漏らし、ひとしきり涙を流した。



 その後、落ち着いたギルバルトは改めてクーテリアンの真正面に座った。先ほど受け取った食事のプレートも一緒に。


『ギル……何と言えばいいか…………。しかし、無事でよかった。そのケガは?』


『これは…ちょっとぶつけて………。父さんも、無事でよかった。身体は大丈夫なの……?』


『あぁ、まぁ……優れない時はあるが、今のところは問題ない。ここの環境が良くないんだろうが、咳がよく、ゴホッ……』


『あぁっ、ほら、水、飲んで…………』


 言った傍から咽たように咳をする父に慌てて水が注がれた小汚いカップを手渡すと、クーテリアンはそれを受け取り、喉を鳴らしながら飲み干した。


『ぐっ…はぁ、すまないな…………。それで……お前、どうしてここに居る?前線にいたはずだろう?』


『それは…………』


 言いかけて、言葉を引っ込めた。前線で手紙のやり取りをしていた自分の息子がこんな所に居れば、そう尋ねられるのは当然だろう。

 だが、それを正直にそのまま言うのは憚られる。


『……………』


 だがこの際、全部ぶちまけてしまいたいという思いもあった。

今までしてきたことも全て、手紙で偽ってきたことも、戦場と死の恐怖も、命の輝きも、全て。


『父さん………実は……………』


 実の父親と相対しているのに、その重圧は上官に向かったあの時を彷彿とさせる。

クーテリアンは、そのただならぬ様子のギルバルトを少し心配そうな表情で見つめ、俯きながら口をゆっくりと開く息子を、ただ黙って見守っていた。



 堪えきれなくなったように言葉を紡ぎ、時折嗚咽をあげながらここに至るまでの経緯を、己が成した罪業と共に吐き出した。

 時刻は二十一時。食堂には親子の姿しかなく、換気扇の駆動音だけが物悲しく響く。消灯時刻の二十二時まではまだ時間的余裕があったが、ギルバルトの「自供」を聞き届けたクーテリアンには、その精神的余裕は無くなっていた。


『ギル、今の話は……本当なのか?』


『…………本当、だよ。全部………』


父の声はにわかに震え、何か憤りを抑えるかのような声音だった。


『ギル、お前……人を殺していたのか……………?』


『……………うん…………』


 それを吐露した時、やって来るのは父親からの慰めだと期待した。

今までよく耐えてきたなと、辛かったなと。そういった、心の渇きを潤してくれる言葉を。

 だが、そういった期待は脆くも崩れ去り、目の前にあるのは優しい父親の顔ではなく、怒りのような感情を湛えた顔だった。


『ギル……!お前はっ……………………!!』


 彼は立ち上がり、反対側に座るギルバルトの胸ぐらを掴んだ。咄嗟の事に反応できず、ギルバルトは引っ張り上げられる服と同様に席を立った。


『っ………と、とう………さん…………!』


『お前はっ、手紙で嘘をついて、本当は…人を殺していたのか!? 何故そんなことをした!!』


『だ、って…………それは……!』


『父さんはなぁ! 私たちの思想がちゃんとギルに届いているのだと、そう信じていたんだぞ! 少しでも、この理念が伝わって、ちゃんとギルも理解してくれているのだと—————!!』


『ち、ちが………父さん!!これは………………』


 突然の豹変にギルバルトは戸惑い、言葉を弄そうとするが上手く口が動かない。

少しの間その状態が続き、やがてクーテリアンはギルバルトの胸ぐらから手を放し、消沈したように椅子に座り直した。


『とう…さん………その、ごめんなさい………嘘、ついて、ごめんなさい………』


『……………………』


 事切れそうな謝罪に、クーテリアンは言葉を返さず口を噤んだままだった。彼は俯き、ギルバルトと顔を合わせることもなく、しばしの沈黙を経て唐突に立ち上がった。


『父さん………?』


 そのまま体の方向を食堂の出口に向け、手を向けて引き止めようとするギルバルトに構うことなく魂が抜けたようにふらふらとしたまま去って言った。


『……………………。……………なんで……———————』


 残されたギルバルトはただ茫然と立ち竦み、浅い呼吸を繰り返した。父に握られた胸元を無意識に手で押さえ、去っていく疲れ切った背中を見送ることしかできなかった。



 その後、収容所にて父と出会う機会は多々あった。だが、そのいずれもギルバルトに対する態度は軽薄なもので、クーテリアンは何か大切なものを失ってしまったかのような、落胆の表情をギルバルトに対して向けていた。


 一体何が彼の気に障ってしまったのか。その理由は深くは聞かずともギルバルトも理解はしていた。

 ただ、彼は息子に欺かれていたことがショックだったのだ。それも、彼が最も大切にしている理念である「反戦」。もしくは「不殺」を破っていたことが。


 クーテリアンがそれに対してどれほどの熱量を持っていたのか。ギルバルトも十分知っているはずだった。それ故、手紙では真実を告げることをやめ、当たり障りのない、父を傷つけないような言葉を綴っていたにすぎない。

 だが、それではギルバルトは救われない。偽りの文言を書き連ねることは彼の精神をすり減らすものであり、親の愛情を受けるにしても、その代償は愛情を相殺し、その上で彼の精神を破壊するに足るものだったからだ。


 だが、その愛情は果たして愛情たるものだったのだろうか。所詮、自分は彼の思想の枠組みを形作る一つであり、彼の理想を体現する歯車に過ぎなかったのではなかろうか、と。


 独房で一人、無気力に胡坐をかきながら、ギルバルトはそのようなことを考えた。


 自分の思想を忠実に守らなかった息子。その存在がどうしても許せないのかもしれない。その内、彼の言動はおかしくなっていった。その根源は何だったのか。


 ただ、人を殺していたという一点において、彼は怯えたように頭を抱えた。息子に対しても同じような態度を見せ、時折、見えない何かに対して謝罪を繰り返すようになった。


『申し訳ございません……申し訳ございません……自分の息子が………』



 ある日、それは起きた。

昼食を終え、作業室に戻ろうとしている最中、看守に引き止められ、来るように言われた。

 どことは教えてもらえなかったが、収容所とは別の棟、自分が収容されている棟ではない場所。


『……………』


 ついて行った先にあったのは死体安置所だった。

こんな場所があったのかと僅かに驚きながらも、中に入るように促される。

なぜこのような場所に案内されたのか。釈然としないまま、ロッカールームのように遺体を収容するスペースを無関心に見渡していると、救急搬送で使われるような移動式ベッドが一つ壁際に置かれていた。

 そして、その上には白いシートがかけられたシルエット。


『………これは………?』


 未だに状況が飲み込めず、思わず看守に質問をした。すると、看守は無言でそのシートを無造作にめくった。そこにあったのは、自分がもっともよく知る人物の顔だった。


その顔は何かを恨むような、あるいは苦しむような表情をしていた。


『……………!!』


『今朝方、独房内で死んでいるのが発見された。死因は出血多量による出血性ショック。どうやら舌を噛み切ったようだ。心当たりはあるか?』


彼は何でもないような様子で淡々と告げた。


『……………………いえ』


『そうか、まぁこういうのはよくあることだ。心当たりがないならいい。作業に戻れ』


『………』


『なんだ、自分の親だからって特別な措置はない。早く行け』


『っ……………………は…………はい』


 ギルバルトは心の奥底から湧き上がる何かを堪え、唇を噛んだ。拳を握りしめ、横たわる冷たくなった父を霞む視界の端で捉え、ゆっくりと背を向けた。



 二年ほど続いた戦争が幕引きとなり、収容されていた反戦論者たちも世俗へと解き放たれていった。

ギルバルトも同じように釈放されたが、その後どのような人生を送れば良いのかは全く当てもなかった。釈放された人たちの大多数は帰る場所がある。

 しかし、彼が帰るべき場所は、もうどこにもない。


 収容所の玄関で、彼は人知れず項垂れた。晴天が彼の神経を逆なでし、思考は曇ってゆく。

 政府が収容者のその後のケアなどしてくれるはずもなく、その身一つで外へと放り出された青年は当てもなく、ボロボロの囚人服を纏ったまま、無気力な足を引きずりトボトボと歩いた。


 街に出た。少し見ないうちに様変わりした故郷の繁華街では、新たに取り付けられたのであろう大型ディスプレイにニュースが流れ、先の争いがもたらしたあれこれを中年のキャスターが饒舌に語っていた。

 為替がどうだの条約がどうだの、物価がどうだの。だが、そんな話はもうどうでもよかった。


 自分が参加していた聖戦が結果的に自国へ利益をもたらしたとしても、自分にもたらされたのは、言いようもない、煮詰まったような虚無だけだ。


『戦争賛歌』『軍国主義』『戦勝国自慢』


 そのような吐いて棄てる程聞いてきたイメージが街を、国を席巻し、人々はお祭り騒ぎ。それに対して、戦争を否定してきた彼らへの風辺りはより苛烈になり、その祭りに水を差すように街頭で演説をしていたその論者は軍国主義者によって襲われ、命を落とした。


 と、そんな些細なニュースを小耳に挟みつつ、彼は逃げるように帰路を辿った。

もぬけの殻となった、我が家へと。



 しばらく空き家同然となっていた実家。二階建てのログハウス風の家屋は、手入れを怠った庭の草木に浸蝕され、まるで人類が滅んだあとの世界のような様相を呈していた。

 その変わり果てた安住の地に絶句しながらも、膝ほどまで伸びた薄茶色の茂みを掻き分けて玄関に近づき、灰色の玄関タイルの一部を指でそっと剥がす。

 鍵の隠し場所。記憶の通り、人差し指だいの鍵はそこに眠っていた。おもむろにそれをつまみ、慣れた動作でドアのカギ穴に差し込んだ。


『………?』


 しかし、鍵はかかっていなかった。不信に思い、そのままノブをひねりドアを開けると、その中は竜巻が通ったかのように乱れていた。フロアマットは汚れてぐしゃぐしゃになり、床には泥や土が散乱している。


『………!!』


 付近の窓を見ると、大きく損壊しているのが分かる。外からだと植物のツタで見えなかったが、明らかに侵入の痕跡があった。


 リビングに入る。タンスや小物入れの引き出しは手当たり次第といった具合に引き出され、中の物は飛び散っている。

 写真立ては割れ、父が母の形見だと言っていたアクセサリーや写真が入れられた箱は無残に壊され、その破片が星屑のように床に散っていた。


『……………………』


 多くを見る必要は無かった。これ以上見たくもなかった。ギルバルトは憔悴した顔で壁に手を付くと、その場に力なくしゃがみ込んだ。


 ふと視線を落とすと、そこには箱から飛び出したであろう写真の一つがあった。裏返しになっているそれを拾い、めくる。

 それは両親がいつしかどこかの旅行先撮った記念写真だった。青空の下、旅先の看板と共に笑顔でポーズを取る若かりし二人。そして自分が生まれるずっと前の日付が隅に印字されている。


『……………………』


 それを見た時、味わったこともない、猛烈な寂しさと悲しみが彼を襲った。写真を持つ手は震え、両目からは涙がとめどなく溢れた。

写真に水滴が何度も落ち、深い染みになっていく。


『……どう…………して……………………』


 擦り切れたような声を絞りだし、写真を無意識に胸に抱きかかえうずくまった。


『どうして…………っ————!!!!』


 誰も居ない家で、青年の引き裂かれるような慟哭は誰に聞かれることもなく、空虚な空間に響くだけだった。



 数年後。彼は故郷を離れ、どこかの戦場でスコープを覗いていた。


 既に戦いを経て、半ば廃墟と化した市街地。その中の廃ビルの一角で身を伏せ、その瞬間を待っていた。

 そして、その瞬間に引き金を躊躇なく引く。弾けるように放たれた弾丸はスコープに収まった敵の眉間に吸い込まれ、鮮血を散らす。標的は糸が切れたようにアスファルトに倒れ込んだ。


『…………』


 無言で次弾を装填し、慌てふためく二人目の眉間に弾を叩きこむ。予定通り敵を仕留めても、その顔に感情は無く、喜びも安堵もない。


 あの日から、青年は心のどこかが欠けていた。それを欠けた部分を埋める何かを探すように、当てもなく世界を放浪していた。

薄汚れた灰色のローブを纏い、持ち物は背中を甲羅のように覆うバックパックとギターケース。ただ、音を奏でるのはギターではなく銃だ。


 以前はあれほど恐れていた戦場に舞い戻り、またこうして命を屠っている。

しかし、以前抱いていたような恐怖は薄れ、戦場は自分を肯定してくれる数少ない場所となっていた。


 かつて、自分から全てを奪った戦争。喪失を味わった彼が胸の内に宿した言いようもない怒りの矛先は「戦争」という現象そのものに向いていた。

 争い、戦争を失くすにはどうすればいいのか。その、根本的な問い。その中で、辿り着いた答えは争いを潰すことだった。


反戦を論じたところで風向きは変わらない。口を動かすのではなく、腕を動かさなければ世界は変わらない。


 争いが発生しなければそれに越したことはないが、そんなことは現実的にはあり得ない。だから、発生した争いをこの手で潰すという、子供じみた単純な答えが浮かんだ。


パァン——————!!


——————争いを生む者を殺せば、殺しただけ争いは収まる。


『……………………』


 無論、こんなやり方が正しいとは微塵も思っていない。進んで人を殺したいわけではない。だが、争いを少しでも収めるという観点から見れば、どれだけ非道だとしても合理的だと、そう思っていた。

 どちらが勝つかは重要ではない。とにかく、争いの芽を潰すのだ。


パァン——————————!!


『ふぅ…………』


 今日もまた、反乱軍に手を貸し報酬を得る。

こんなことを既に二年弱続けていた。おかげで自ら喧伝したわけでもないのに、その名前は界隈ではよく通るようになった。


 あまり目立ちたくはないが、こういった情報が回るのは想像以上に速い。故に、想定もしていないような出来事に遭遇する—————。


『ターヴォル……統制庁……?』


『あぁ、君の類まれなる器量。それを、こんな僻地の地上戦で浪費し続けているというのは大変もったいない。是非とも、その能力を統制庁で活かしたい』


『………いわゆる、ヘッドハンティングってやつか。………だが—————』


『勿論、待遇は保証する。勝手ながら、君の戦績はこちらでも把握済みだ。その若さで、数々の武装地帯を転々とし、友軍を勝利に導いている。逸材だ』


『………俺がそっちに行ったら、どういうことをするんだ?ターヴォルについてはもちろん知ってるが、超軍事国家……正直、いくら俺の腕を買ってくれていたとしても、おたくらの自律兵器の方が優れてるだろ』


『もちろん、戦闘の側面だけを見て君をスカウトしに来たというわけではない。様々な武装地帯に入り込み、コミュニケーションを通してその中に順応し、時にはスパイのような役回りで』


『そこまで…………。じゃあ何だ、俺を諜報員か何かとして使いたいと………?』


『話しが早いな。詳しい話は伏せるが、統制庁はかねてよりそういった人材を欲している』


『それは、「俺」を知ってのことか?』


『何か含みのある言い方だな。しかし案ずるな、君のことは可能な限り調べてある。君の遍歴、どう生きてきたのか……』


『……そうか。なら、なおさら人選ミスだってことも分かるんじゃないか?こんな奴に拘る必要もないはずだし、適任者は他にいるだろう』


『君は自分を過小評価しすぎだな。君を評価し、私をここに来させたのは統制庁だ』


『その統制庁サマの精査ミスだろ。そんなとこからお呼びがかかるようなことをした覚えはないが』


『私に真意は問えないものでね。上がそうしろと言ったらそうするしかない。ただ…意外だな。あのようなことがあってから、また戦場に身を晒しているとは。争いは忌避すべきものなのではなかったのか?当時の状況下で、上官に告げたのだろう。そういったことを』


『……巡り巡って、ここが俺の居場所だと気づいただけだ。身の丈に合わないことはするもんじゃないってな。あれは……一時の気の迷いでそうなっただけだ。別に……………………本心じゃない。今は、俺なりのやり方で争いを収めようとしている』


 閑静な町の一角に佇む老舗のカフェ。その中の一席で、ギルバルトはテーブルに肩肘を付きながら思案する。湯気が立つ、黒々とした液体が注がれたカップを口元に寄せ、少し行儀の悪い音を立てながら喉に流し込む。

 砂糖の入っていない苦々しいそれはまるで自分の過去のようで、後味は決して愉快なものではない。


 目の前のスーツを纏った清潔そうな男はこの背景に馴染まない。田舎に住む者が見れば、コイツが都会、それも超がつくほどの都会からやってきていることは一目で分かる。

 そういう、形容しにくい固い印象があるのだ。


『そうかね、まぁ……深くは聞かないでおこう。人間誰しも、過ちの一つや二つ……犯して然るべきだ』


『……そりゃどうも』


男の、特段感情のこもっていないフォローに適当な相槌を返した。


『話を戻すが…どうかな?悪くない提案だと思うが。もちろん強制はしない。君が今までのように自身の脚で各地を回り、その場その場で個人的に戦果を挙げ続ける人生もよかろう。ただ、我々的には、その人生は些か勿体ない物だと…そう思っただけだ』


 その言葉を聞き、ここ数年の自分を内省した。一丁のスナイパーライフルを得物に戦場に身を落とす。己の理想の為に奔走する悪くない生活だったかもしれない。

 だが、幸福ではなかった。今さら社会復帰できるような精神状態ではないということも重々承知している。だからこそ、滲み出るように沸いたその理想にしがみつき、そのような生活を続けていた。


 しかし、新たな道が向こうからやってきたのであれば、その道を選び取る勇気くらいはあった。例えそれの先にあるのが不幸だとしても、幸福ではない今より悪くなることはないだろうという根拠のない希望を添えて。


『それに、争いの無い世界を目指すというのであれば、なおさら君はこちらに来るべきだ。我々が目指している統治は、まさに平和な世を作る為でもあるのだから』


『大仰だな……』


『君がしていることも大概だと思うがね。血にまみれた理想主義者として』


『……………はぁ……分かったよ。その理念に賛同して、な。ただ、俺の射撃能力が不要だってんなら、多少残念だがな』


『あぁ、それについてはご安心を。諜報員といっても、一般的な諜報員のそれとは異なる、戦える諜報部隊というものを新設する計画がある。君の戦闘センスについても、輝く時は来る』


『そうか……それなら、有難い限りだ………』


 相手は端末を操作し、その画面をギルバルトに見せた。その画面は契約を交わす書類のようで、最後までページをスクロールしたギルバルトは、最後に認証の為に、自身の人差し指を画面に押し付けた。


 それを見たスーツの男は僅かに微笑むと、端末を自分の方に戻し少し操作をした後、自身のビジネスバッグにからもう一つ別の携帯端末を取り出した。


『契約は成立した、感謝する。今後やり取りする時はこれを使ってくれ。君の統制庁での戸籍情報や統制庁との連絡網など、様々なデータが入っている』


『…………ご丁寧にどうも』


 薄い板のような端末を手に取ると、その画面には統制庁に関する多様な情報が広がった。


『……こんな物を最初から用意済みとは、余程自身があったのか』


『断られたら、それのデータが初期化されるだけだ。なんにせよ、伝えることは伝えた。あとはそれを見て動いてくれ。ターヴォル行きの切符もその中に入っている。期限は今週末、あと四日だ。では、これで………』


 男はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干すとソーサーにカップを置き直し、コーヒー代を机に無造作に置いた。

 そしてギルバルトを一瞥し短く上半身を傾けた後、身を翻し、バッグを片手に足早に退店していった。


 その背中を黙って見送ったギルバルトは同様に温度が落ち着いたコーヒーを一気に喉に流し込み、一息ついてからおもむろに口を開いた。


『……ターヴォル………か——————』


 

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