第22話 悲を越えて
始まりは急なもので、瓦解は一瞬だった。
技術漏洩、不正の発覚、社会的失墜。まるで仕組まれていたのかと錯覚するほど立て続けに発生するいくつもの問題はリードバン家を分裂させるに足るものであり、例外なく彼の人生にも多大な影響を及ぼした。
会社が抱える諸々の特許も失踪した取締役である父親が握ったままだということもあり、事業を自分の手で立て直すことも叶わなくなる。
日に日に屋敷の空間には余白が生まれ、生活音が消えていった。世界を騒がせた漏洩技術を用いたテロ事件は、専門学校に通っていた彼を自主退学に追い込むに足るもので、既に拡散されたリードバンという性はそれだけで人々の嘲笑の対象となり、社会すらも彼の拠り所として機能しなくなっていた。
祖父の代に起業するに当たって、自ら新しく社名兼、苗字として申請し生まれたという性であるが故に、これを名乗るのが自分の一族に限定されたこともあり、その唯一性が却って枷となる。
残ったのは、自らが所持していた僅かな資金と、生まれてからずっと住んでいた屋敷。しかしその屋敷も自分の権限ではどうすることもできず今となっては、ただ雨風を凌ぐことしか出来ない少し大きい小屋でしかない。
父がどこかに去った後、様々な催促を促す書類が山のように送られ、それの対応をするのももうたくさんだった。
どこか自分のことを一切知られていないような、そんな別世界にでも行きたいと。そう漠然と考えた。
やがてその家も差し押さえられ、本格的に行く当てがなくなったラグヴェアが途方に暮れ、郊外の安い宿泊施設で項垂れ沈黙していた。
その隣にはラグヴェアに連れ添うレファの姿がある。かつてのような給仕服姿ではなく、ラグヴェアの服を借りデニムパンツに無地の白いシャツをまとっていた。
『ラグヴェア様………』
家を出て既に数週間が経過しており、このボロい無人ホテル暮らしも慣れてきた頃。
働き口でも探そうとしたが、今まで父親におんぶにだっこだったラグヴェアにとって自分で仕事を見つけるということにも難儀し、思うようにはいかなかった。
何より、リードバンという性を見ただけで不快感を露わにする者が多く、それだけで大半の場において彼は却下される。
『やっぱり、別の国に行くしかないのかな…………』
そんな時、候補として挙がったのが緊張地だった。義務教育で少し習った程度の知識しかなかったが、改めてその場を調べるとこの閉鎖的な現状から少しでも脱却できそうな、そんなある種自由が担保されていそうな場所だと、そう感じたのだ。
確かに危険地帯ではあるが、社会不安に陥っている現状と比較するとそう大差ないようにも思える。
身分も関係なく様々な人間が往来する無秩序な場所。今自分が欲している環境はまさにここなのではないかと。
『緊張地…ですか』
レファの容態は依然として不安定なままだったが、脳外科に連れて行った時に処方された鎮静剤がある程度役に立っており、それを服用する以前と比べても段違いと言っていいほどその効果が出ていた。幸いそれの入手自体は困難なものではなく、診断書があればドラッグストアで購入する事が出来た。
緊張地でも入手は可能だと知り、向こうに住む希望が持てる。
『勿論、レファの安全が最優先だから無理強いはしない。他に候補地はあるから、ゆっくり決めよう』
『私は、構いません。この先何が起きようとも、ラグヴェア様にこの先ずっと付いて行くと、そう決めていますから』
『ありがとう………。俺も、レファとは離れたくないし、ずっとレファのそばに居てあげたい』
結局のところ、現状の自分はいったいどこを見て生きているのか。先の出来事で幼少の事から思い描いていた人生設計が全て崩れ去った今、自分の傍に残ってくれたのはレファしか居ないのだ。
愛情なのか、それとも保護者のような視点からくる庇護欲なのか。恋愛を経験したことが無いラグヴェアにとっては食道に小骨が引っかかっているかのような、なんとも形容しがたい感覚だった。
ただ、彼女から離れるという選択肢だけは絶対にあり得ないという、何か信念めいた感情は、あの日レファを初めて抱きしめた時からずっとありつづけていた。
安上がりの即席麺を二人で食べ、その日も眠る。互いのベッドはすぐそばにあるのに、どうしてか遠く離れ離れになっているような気さえする。しかし、彼にとってはこの空間がなによりも安らぎだった。
後日の正午。二人は多くはない荷物を抱えて大陸端の港まで移動していた。タクシーから降車すると、波の音と磯の香りが全身に押し寄せる。海鳥の甲高い鳴き声が響く晴天の下、陽光を反射する海面は一面が宝石のように輝く。
緊張地行の巡行船。往来数はそう多くはなく、朝と昼に二回の便がある程度である。
あれからもう少し吟味したが、やはり身分的な都合で西側に滞在し続けることに限界を感じていた。
仮に受け入れてくれる場所が何処か遠くにあったとしても、それを見つけるまで動き続ける気力もなく、二人は緊張地へ旅立つことを決意した。
とはいえ緊張地自体に完全に移り住むかどうかまでは考えておらず、緊張地を経由して東側諸国へ移動することも視野に入れてはいた。
とにかく何か行動を起こしたいと、モヤモヤした焦燥感に駆られるまま体を動かしていた。
またレファ自身は、とにかくラグヴェアに付き従うことが自分の全てだと、そう信じていた。レファにとって彼は真の理解者であり、自分を真に大切にしてくれる人物であると、そう信じて疑わなかった。
ラグヴェア同様に、彼女もラグヴェアから離れるという考えは微塵もなく、彼がどこに行こうとも絶対に付き従おうと決めていた。
しかし、自分は彼の為に何もしてあげられていないのではないかと不安に思うことがあった。彼は自分の為に尽くしてくれるが、自分はただ彼の背中を追うだけで特別なことは何も出来ない。それを病気の所為にするのは簡単だが、境遇に甘んじて何も変われていないのは事実ではないかと————
『行きましょう、ラグヴェア様』
『……あぁ、行こう』
ならばせめて、彼の後押しをしてあげたい。彼が迷う原因になりたくはない。自分が彼を導くくらいの存在になりたいと、純粋だった彼女はおぼろげだった決意を固め、そう心に刻んだ。
————数人の乗客を乗せ出港した巡行船は、緊張地との間にある小島を二つほど休憩地点として経由する形で、六時間ほどの時間をかけ大海原を進んだ。客観的に見た道中の二人の姿は、まるで旅行を楽しむカップルのように見える。しかし当の彼らに気分を高揚させる余裕などなく、ただ現実を見据え、遠くに見える未知の大陸を興奮とも不安とも言い難い気持ちで視界に収めることしか出来なかった。
レファは長時間の船旅が初めてで慣れないようで、途中から気分が悪そうな素振りを見せていた。
しかし迷惑をかけたくないと思ったのか座席に座ったまま深く俯き、胃から込み上げるものを必死に抑え込む。ラグヴェアはそんなレファに寄り添い、ただひたすら彼女を安心させようと肩を抱いて船上を過ごした。
日が傾き、海面が満遍なく夕焼けに染まった頃。巡行船はようやく緊張地へと辿り着いた。
『レファ、大丈夫か……?』
『う…だ、大丈夫………です……』
『ごめんな……俺が酔い止めを忘れたばかりに………』
船酔いまで考慮できなかった自分を呪いつつ、動けそうにない、自分より少し小柄なレファの体を背負い、予約していた宿屋へと向かう。その様子に周囲の人間は怪訝な視線を向けるが気にせず、一刻も早くレファを楽にするために足を進めた。
『い、いえ……申し訳……ございません……………ご迷惑を……………』
『喋らなくていいから……。すぐ横にならせてあげるから、もう少し…———』
その日の夜は二人とも憔悴したようにベッドに伏し、依然体調が優れないレファは気付いた時には既に眠ってしまっていた。
ラグヴェアもその様子を見て幾分か安堵し、照明を落として枕に頭を落とした。
次の日、二人は西側の主要都市であるムダーガフォンを訪れていた。レファの体調も回復し、本格的に動き出そうとする。
『………危険危険と言われてたけど思ったほど程ではなさそうだな』
『そうですね、少し物騒な気配はしますが、それ以外は至って普通の街並みかと思いますし、働き口も多そうです————』
『あぁ、ここは外海の影響をあまり受けないというし、やっていけそうだよ。なぁレファ』
『………レファ—————?』
返事が聞こえず、咄嗟に振り向くと彼女の姿はどこにもなかった。
『……え? レファ……………?』
一瞬思考が止り、キョロキョロと周囲を素早く見渡すが、見えるのは都市を往来する見ず知らずの人々だけで、彼女の姿を見つけることは出来なかった。
『な……………いや、さっきまで傍に……………』
あまりに突然のことで頭が働かずにいた。しかし、レファがどこかにふらっと移動してしまうのは以前から度々あったことで、そのためにレファの服に簡易的な発信機を付けていた。
周囲の喧騒が鼓膜をざわつかせる中、一旦呼吸を落ち着けてそれを表示させた端末を見る。ムダーガフォンの地図上に表示されたレファを示す赤い点は確認できるが、地図上ではあり得ない速さで移動しており、ラグヴェアの元からどんどんと遠ざかっていく。
『…………!!?』
考えたくはなかったが、考えられる理由は一つ。
『誘、拐………?』
血相を変え、それが移動する先に駆けだす。途中で見かけた適当なタクシーを捕まえ乗り込むと運転手に端末を見せ、これを追ってくれと乱れた呼吸で言い放つ。
運転手も、ラグヴェアのただ事ではないといった様子を感じ取り、多くは聞かずともエンジンをふかせた。
『兄ちゃん、一体何があった・・・!』
『わ、分かりません・・・でも、えぇと・・・一緒に来ていた女性が突然いなくなって、彼女に付けていた発信機が凄い速さで移動していて、それで・・・!』
しどろもどろになりながら口走る彼の言葉でも十分に伝わったらしく、何か合点がいったように運転手の彼はバックミラー越しにラグヴェアに一瞬視線を移すとこう告げた。
『そういう話なら、十中八九誘拐だろうな・・・。見るにあんた、ここの人間じゃなないだろ。この街じゃ、そういう余所者を主なターゲットにする連中も多い。誘拐されたのが女性ってんなら、早く見つけねぇと手遅れになるぞ・・・』
『て、手遅れ……………?』
『あぁ、俺もそう詳しいわけじゃないが、他所から来た女性を狙った事件はよく聞く話だ。だから、本当にその手に誘拐されたとなると最悪………』
『っ………!』
彼は後半の言葉を濁したが、最後まで聞かずとも理解出来てしまう。
心臓が破裂するほど鼓動していた。動悸、過呼吸。手は震え、汗が噴き出す。
言葉にならない焦りを全身に帯び、冷静さを欠く。
『とにかく、俺の方から組合に連絡はしておく。直ぐに見つかるかどうかはなんとも言えないが…………』
未曾有のカーチェイスは数分続いたが、ある地点で彼女の居場所を示す点が停止しした。その場で停車したタクシーから転がるように降りると、そこは都市部から少し外れた背の低い街並みが広がるエリア。
『これは………!』
点が示す場所に駆け寄ると、そこに彼女の姿は無かった。代わりにレファの衣服に縫い付けていた発信機だけが無造作に転がっており、強引に外されたのか、布の一部と共に道端に捨てられていた。
『その、女性に付けていた発信機か?』
『は、はい…ですが、これは—————』
それが指し示す状況はラグヴェアに痛烈な現実を突きつけていた。理解したくもない現実を。
『そりゃマズいな……ここから手立てもなく追いかけて探すのは厳しすぎる』
警察でもない、一介のタクシードライバーの彼は難儀したように唸った。
『………その、組合というのは?』
『民間で構成された自治組織みたいなもんさ。その中に警察的な役割をこなす連中もいるから、そっちを頼るしかない。既に連絡はしておいたが、解決するかはな………』
『そ、その間、俺はどうしたら……?』
『正直に言えば、出来ることはないな。土地勘があるわけでもないんだろう?』
『それは…でも…………っ』
『とにかく、行く当てがないなら、最寄りの組合支部まで乗せてってやる。外で当てもなくふらつくよりはマシなはずだ—————』
◆
その後、憔悴しきった顔を携えたラグヴェアは、そのままタクシードライバーの彼に組合支部だという、そう大きくはない建物へと送られていた。
いわゆる交番のような正方形の中では、数人の組合員が住民対応などで忙しなく動いており、自分の存在などまるで気づかれていないかのようであった。
その中で、取調室のようなこじんまりとした一室に通されたラグヴェアはその場で放置され、口を噤んだまま言いようもない感情を巡らせていた。
少しすると、事態を把握した組合員数名が到着し、ラグヴェアに対する簡単な質疑応答が始まる。
『———さて、お名前はラグヴェアさん、だったかな。僕は今回の事件を担当している組合員のメイルセンだ。おおよそは連絡をくれたタクシーの運転手の方から聞いているが、手短に改めて経緯を聞かせてくれないか』
現場作業員のような服装をした中年男性は、ラグヴェアに事務机の向かいに座るよう誘導する。彼もそこに腰を下ろし、傷が目立つゴツゴツした手に持っていた書類を置く。
浅黒い肌で厳格な目つきの彼が、この地での経験に富んでいるという事は直ぐに理解できた。
『経緯………』
『あぁ、一番聞きたいのは、何故ここに来たのかという事だ』
『……それは、故郷を追われて………』
『故郷を?』
『……マーレンカートの、ある会社の不祥事が重なって……そこの息子だった俺も同様に非難の的になったんです……それで、その………西側から、逃げてきたんです』
『そうか……マーレンカートっていやぁ、「リードバン」か?』
『………!』
『あぁそうか、あの事件は知ってるよ。まぁ、それでお前さんをどうこうってことはねぇさ』
『……………』
『ひとまず、お前さんの過去はいい。問題なのは、なぜここを選んだかだ。探せば他に受け入れてくれる場所はあったんじゃないのか?』
『それは……緊張地なら、自分の経歴など関係なく受け入れてくれると思ったから………です』
甘えた考えだったかもしれない。西側全ての国を巡って居場所を探すという選択肢もあったが、レファを連れたままそこまで放浪することは現実的ではないし、資金的な問題も付きまとう。
しかしその結果、それら苦難を避けるようにして緊張地に入り込んだ結果がこれだ。
『確かに、ここは一年中人間が東から西へ、西から東へと流れていく場所で、いちいち個人の経歴なんて気にしちゃいないさ。だがそれと同時に有数の危険地帯だ。治安もそうだが、常に戦闘が起こっている場所でもある。だから、普通の国で暮らしていた人間がいきなりここに逃避行すること自体が間違いだ』
『……その、通りです』
『結果的に、お前さんは大切な人を誘拐され、ここに居るわけだ。今こんな説教をしても仕方ないが、この土地を紛いなりにも管理する立場の人間としてハッキリ言うが、お前さんの見通しは甘すぎる』
『……………』
野太く、芯の通った彼の一言一句に返す言葉もなかった。全ては自分本位の決断が招いた事。いくらレファが賛同してくれたとしても、もっと慎重になるべきだった。
彼の言葉を受け、ただ歯噛みすることしか出来ない自分が心底情けなく、どうしようもない自分への失意と怒りが込み上げる。
『……とにかく、今既に彼女を追って動いているチームがある。直ぐには見つからないかもしれないが……お前さんはここでそれまで待機という形になる。心配だろうが、とにかく待つことだ———』
◆
あの日、レファが姿を消してから既に四日が経過していた。ラグヴェアは組合支部の部屋の一部を間借りするような形で寝泊まりし、その間彼は組合員たちの雑用仕事を手伝っていた。
少しでも気を紛らわせようと、手伝えることがあれば何でもしようとした。
掃除、書類整理、消耗品の買い出し等々。しかし、それら雑務に身を投じていても、彼の身を包むようにして漂う不安感とストレスは精神を確実に蝕む。食事も喉を通らず、ろくに眠れもしない。
あれから続報もなく、本当に見つかるのだろうか?という言いようもない吐き気にも似た疑問が脳内を永遠に巡っていた。
———五日目、とうとう連絡があった。詳しい話は伏せられたが、既にムダーガフォン近郊の安置所に送られたとだけ。
その「安置所」という単語を聞いた途端、彼は全てを悟った。
◆
安置所。その言葉通り、誰かの亡骸を一時的に留置くための施設。昼過ぎに運ばれたレファの遺体は寝台に寝かせられ、体全体には布がかけられていた。
自治組織と共に事の対応に当たっていた謁者——フラントが最初の発見者となり、人が寄り付かないような廃れた雑居ビルの一室で彼女が発見された時には、その中には既に息を引き取ったレファだけが血溜まりの中で倒れていた。
衣服すらまとっていなかった彼女の全身は、至る所に青あざや切り傷などの外傷と苦悶に歪む表情、酷く乱れた髪。そして致命傷となったであろう凶器が彼女の胸部に深く刺さっているという状態だった。
考えるまでもなく、筆舌に尽くしがたいような惨状に遭っていたということが分かる。最初は臓器売買の線も考えたが、この状態を見るに、やはり強姦殺人だったようだ。
『見ない方がいい』と、フラントは到着したラグヴェアにそう念押ししたが、彼はその制止を振り切り、レファの成れの果てを直視した。
類似の事件をこれまでにいくつか対応してきたフラントですら、彼の嘆きは常軌を逸したものに感じ、それが彼にとってどれほど致命的な出来事だったのかを容易に想起させる。
彼女が眠っている部屋から、世界の終わりを垣間見たかのような、魂が裂けてしまいそうな程の凄惨な叫び声が何度も聞こえた。そして、何か嗚咽混じりに謝罪の言葉を何度も何度も繰り替えすのが聞こえ、しばらくすると、向こうからは何も聞こえなくなった。
心配になったフラントが中を覗くと、彼女の亡骸に覆いかぶさるようにして、一寸たりとも動かないラグヴェアの姿があった。
『………かける言葉もないな。本当に、気の毒としか言いようがない……』
その様子を見て思わず呟く。すると、通路の奥から人影が現れ、苦い顔をするフラントに静かに声をかけた。
『……どうだ、彼の様子は』
『あ………謁長、ご苦労様です。彼は…その、見ての通りです』
『そうか、深刻……だな』
還暦を越えているような風貌の謁長は、おもむろにその中の様子を覗く。フラントが見たのと同様にレファの体にしがみつき、石のように固まったまま動かない青年の姿が目に映る。
『放っておけば、確実に後を追うでしょう』
『……彼を死なせてはならんぞ』
『分かっています。それで、結合体の用意は?』
『新品は用意できそうにないが、間に合わせの物が用意できそうだ。脳が新鮮なうちに取り掛かるぞ。フラント、お前は彼を説得しろ』
『……分かりました、必ず』
それだけ言うと、謁長はフラントを残し場を後にした。
それから一時間近く経過した頃、もう何十年も眠っていないような、錆びついた表情張り付けたラグヴェアが力なく部屋から出てくる。
彼は近くの壁に、重力に身を任せるようにもたれかかったまま座り込み、深く項垂れた。深淵に沈んでしまいそうなその姿は、人間の精神力の限界を具現したようにも見える。
部屋の外の壁にもたれかかり、彼を待っていたフラントはその様子を見てやりずらさを覚えながらも、躊躇いながらも言葉を投げかける。
『…………その、大丈夫か………?少し、外の風にでも当たるか?』
『………』
『………
『………』
『本当に———————』
口ごもる。今の彼を元気づける言葉など、この世界のどこにも存在しないのだろう。言葉どころか、物すら存在しない。俯く彼が、今どのような表情をしているのかすら想像が出来ない。
フラントは人を励ますのが苦手だった。こういう場面に遭遇することは多くは無いが決して少なくもない。いつも何か言葉を掛けようとして、それが適切であるかどうか悩み、結局口を噤んでしまう。
だから、そんな彼は余計な前置きを抜きにして、ラグヴェアに率直な取引を持ち掛けた。
『その、彼女……レファさんを生き返らせられる方法があると言ったら、どうする?』
『……………っ』
沈んでいた彼の肩が僅かに震えた。そして憔悴しきった顔を上げ、真っ赤な目元、泥で塗り固めたような、くすんだ瞳でフラントの方をじっと見つめる。
『あるん……ですか……………?』
『……ある。…………そのままの形で生き返らせるのは無理だが、体を一部機械に換装する形でな。彼女の脳に問題がなければ、生前の記憶を保ったまま、蘇生させられる可能性はある』
『本当……に……………?』
『ただ、これは交換条件だ。その手術を施す代わりに、ラグヴェア、お前は俺たちの一員になれ。この緊張地を影から支える「
『……………』
『……勿論、無理強いはしない。お前にとって、彼女がどういう存在だったのかを推し量ることは俺には出来ないからな。不完全な形で、彼女を生き返らせるということに異議があるなら…別に———』
『——誓います……』
『なに……?』
下を見ると、青年は緑色の蛍光灯が仄かに照らす薄暗い空間の中で、フラントの足元に跪いていた。
『誓いまず……………!!お願いじまず!レファを……レファをぉっ……………!!助げで……ぐだざいっ………!!!!!!!!!』
『……………』
彼は喉が潰れそうな程に力を込めた声を振り絞り、固いコンクリートの床に、額を血がにじむ程に擦りつけていた。
◆
『…いいのか?成功する確率は百パーセントじゃない。五十……いや、もっと低いかもしれない』
レファが助かる可能性がほんの僅かでも存在しているという事実を受け、ラグヴェアも先ほどよりは気力を取り戻していた。あのままでは会話すらままならかっただろうが、受け答えもある程度できるようになっていた。
『いえ、これより悪くなることがないのなら………どれだけ確率が低くても………構いません…………』
『まぁ、そうかもしれないが………だが、たとえ失敗に終わっても、誓った通りお前には「態謁群」に加入してもらう。それは覚悟しておいてくれ』
『……分かっています……どの道、もう行く当てもありませんから………』
『そうか………じゃあ、無事成功することを共に祈ろうか』
『でも、どうして……?』
『……?』
『どうして、助けてくれるんですか……?この地に来たばかりで…何も知らない俺とレファを……』
『理由は……ただ、お前と、犠牲になった彼女が、あまりにも哀れだと思っただけだ』
『本当に、それだけの理由で……………?』
『……それと、「態謁群」……組合から枝分かれしたここの特殊部隊みたいなもんだが、これの担い手が年々減ってきていてな。基本的には緊張地の人間からふさわしい者を選定する形で代々やってんだが、必ずしも上手く加入させられるわけじゃない。だからスカウトの機会は常に伺ってんのさ』
『それなら、組合員の人間をそっちに回せばよいのでは………?』
『ごもっともな意見だな。だがまぁ、実情はそう単純でもない。ここは広大だし、日常で起こるトラブルは無数にある。だから、そういう民間で発生した問題や、今回のような殺人絡みの事件を担当するのが組合という名の自治組織だ。「態謁群」ってのはこう……表沙汰にならないような、緊張地と他国間の問題や、組合じゃ対処できないような、より大きな事件を処理する時に動く。まぁ、今回みたいに手が空いてれば組合に協力する形で動くこともあるってことだ』
『段階的に動く部門が違うようなものですか………』
『そういうことだ。だから、そういう状況に対処できる人間は常に不足してる。命の危険もあるしな。だから、善意というよりは打算的な条件取引ってことになる。気を悪くしたか?』
『いえ、むしろ、有難いです。本当に………。それに、その任に着くということは、今回のような事件にも当たるかもしれないってことですよね…………』
『まぁ、そうだな………気が重いか?』
『自分の手で、そういう奴から人々を守れるって考えたら、むしろやりたいです。二度とレファと同じような目に遭う人が出ないように、したいから………』
『そうか……やる気になってくれたようでよかった。あぁ、あと言い忘れてたが、「態謁群」は基本二人一組で動く。だから、彼女が無事に手術を終えて動ける体になったら、お前と彼女のペアで動いてもらうことになる』
『……分かりました。一緒に居られるなら、それで構いません。それはそうと……その……犯人というか、レファを殺した奴は……』
『あぁ、それについては安心しろ。彼女を発見した後に、目撃情報と監視カメラを元に確保して留置所に送られて、既に自供もしている。犯行に及んだのは四人の移民集団のクズ共だ』
『そう、でしたか………』
『復讐でもしたいか?』
『はい……できることなら、あらゆる手を使って、殺して……やりたい……』
『そうか……。だが、罪人がこっちで確保された以上、私刑は禁じられている。後は組合や「態謁群」に任せて、処遇がどうなったか聞くことしか出来ない。まぁ、ほとんどの場合において、強姦殺人は例外なく死刑が言い渡されるから安心しろ』
『死刑になると分かっているのに、その犯行に及ぶ人間がいるんですね………』
『いや、ここの全ての人間がその判決内容を把握してるわけじゃない。法治国家じゃないが故に、ここに他国のような綿密に組まれた刑法も裁判も存在しないからな。だから、組合と「態謁群」がその都度相談して、状況に応じた裁量を下すってだけだ』
『……レファが狙われた理由は………結局なんだったんですか?』
『単純な話だ、明らかに他所から来たという風貌で場慣れしていない。そういう、隙を晒す相手なら猶更標的になる。ひと月に何件も上がる性犯罪事件、その一件になってしまっただけだ。付け加えて言うなら……彼女は相当顔立ちが良い。それも要因の一つになったんだろう』
『そう……ですか……………』
『だからまぁ、本当に………運が悪かった。と、言う他ない—————』
◆
レファを機械と繋ぐ結合手術は丸一日かかり、組合が運営する病院の一室に術後の彼女が搬送用ベッドに乗せられ運び込まれる。
組合員数人で重量が増した彼女の体を持ち上げ、備え付けのベッドに移し終えると、彼らは必要以上に言葉を発さず、ラグヴェアに短く礼をして退室していった。
ラグヴェアもそれに合わせて深く頭を垂れ、一同が退室するまで頭をあげなかった。
手術の具体的な内容までは教えてもらえなかったが、フラントから伝えられたのは、手術は成功したとみて良いが、術後に直ぐに目覚めることは無く、機械神経が脳や細胞との同期を完了するのに三日ほどの時間を要するということ。
そして、
『記憶が完全かどうかまでは目覚めてみないと分からないが、当時襲われた時の記憶が残っている可能性もある。もしその記憶が目覚めた時にあったら、彼女は酷く怯え恐怖するだろう。その時は、お前が全てを賭けて……彼女を守ってやれ————』
という言葉だった。
記憶がそのままならばそれに越したことは無いが、しかし一方でレファを最も苦しめるであろう記憶がそのまま残っているという可能性はラグヴェアが一番恐れていることだった。
それによって、また何か精神に異常をきたすこともあり得る話で、かつて手術を断念した時の理由のように、レファがレファでいられなくなるかもしれないという底知れぬ不安が襲う。
しかし悪い知らせばかりではなく、レファの脳を摘出した際に見つけた例の腫瘍を除去することに成功したという報告もあった。
普通なら限りなく低い成功確率だったあの手術も、既に亡くなっている人間だったからこそできたことらしく、まさに不幸中の幸いといえた。
ベッドに横たわる彼女はまるでついさっき眠りについたかのようであり、ラグヴェアの記憶にあるままの、綺麗な顔をした彼女の姿があった。中が機械化しているとは思えないほどにその姿は人間そのもので、言われなければそうとは分からないだろう。
後は、無事に目を覚ましてくれるのを願うしかない。
ベッド脇にある機械には彼女のバイタルサインが常に表示されており、少なくとも彼女が生きているという事実だけが拠り所だった。
それを見ながら眠りにつく彼女に寄り添い、目が覚めるまでその場を動くことは無かった。
一日が経過し、二日が経過し、レファの様子は変わらず、その瞼は閉じたままだった。時折フラントが様子を見にきて、ラグヴェアと少し会話をし、去っていく。
彼なりの気遣いなのかもしれないが、それだけでラグヴェアも幾分か気が楽になっていた。
三日目。一睡もせず、食事もとらず、彼は彼女の顔を見つめ、機械と結合てなお依然として体温を感じるその手を、ただ祈るように握り続けた。
昼になった。まだ彼女は目覚めない。本当に目覚めるのか、そんな嫌な不安が心臓を握りつぶすかのようで吐き気を催した。
しかし、最悪の展開だけは想像しないように意識を集中させた。
日は落ち、夜になった。
薄暗い灯りだけが照らす閉鎖的な室内で、無機質な機械音だけが鼓膜を揺らす。
レファに掛けられた布の縁を握りしめ、彼は疲労が募る表情で、耐え難いように息を吐いた。まだなのか、と。
四日目を迎える寸前、レファの手を握ったまま消沈したようにベッドに伏していた。絶望や失意が首を絞めてくるかのようで、呼吸は乱れる。
唐突に、握っていた彼女の手から不意に感触が伝わった。瞬間、伏せていた頭を起こしレファを見る。
気のせいかと思いながらも、彼は無意識に手を握り返した。すると、すぐに彼女の手はラグヴェアの手を握り返した。気のせいではなかった。間違いなく、彼女の意思で。
『っ……………!!!』
『…………さ、ま…………』
『っ……………!!!!!』
見ると、彼女は僅かに瞼を持ち上げ、混乱したように頭を動かしていた。
『あ、あ……あぁ……………!』
『ラ、ラグヴェア……さ………ま……………?』
『あぁ……………!!あああぁぁぁぁああ—————!!』
彼は言葉にならない声を漏らしながら、あの時と同じように、横たわり目を不自由そうにパチパチさせているレファを抱きしめた。
『…さ……………ま!』
『レファ……………!レファ!!レファ—————!!!』
『ど、うして……な、泣いて……い、るの…ですか……………?』
『レファ………ああぁ!………レファ!』
何度も名前を口にした。自分でも何を言っているのか分からなかったが、ただ口をついてでた言葉を、本能のままに叫び続けた。
『すまなかった……ごめん………!レファ……俺のせいで……!本当にごめん、ごめんよ……うぅぅ……!』
『な、ぜ……謝って…ラグヴェア……さまは……何も……………』
くしゃくしゃになったラグヴェアの顔を見て、自然とレファも涙がこみ上げ、雫が頬を伝う。
『わ、わたくしも……なぜ涙が……………ラグヴェアさ、ま………』
涙にまみれて抱き合う二人の様子を、フラントは病室のドアの傍で暗がりの中で見守っていた。彼はその様子を見届けると、感情を鎮めるように短く息を吐くと踵を返し、静かにどこかへ去って言った。
◆
その後はレファも眠れなかったようで、ぼんやりとした様子でラグヴェアと共に時間を過ごした。
レファの記憶はどうやら当時のことを完全に覚えているわけではないようで、しかし、直前の出来事を不意に思い起こそうとすると、途端に痙攣にも似た震えを起こし、怯えたように体を硬直させてしまう。
『レファ……!いいからっ、思い出そうとしなくていいんだ……!』
『ぐっ、わ、私は……………うぅ……っ!』
『クソ…なんでっ、レファ、大丈夫だから、俺が傍にいるから……大丈夫だ、大丈夫………レファ……安心して、大丈夫だから—————』
しばらくその状態が続くレファに対して、ラグヴェアはただ彼女を抱きしめて安心させることしか出来なかった。
やがてその発作も時間と共に徐々に落ち着き、そのまま彼の腕の中で、静かに息を整えるように、レファはいつの間にか再び眠りに落ちていた。
その様子を見守りながら、ラグヴェアもいつの間にか眠ってしまっていたようで、目が覚めた時には既に陽光が窓から室内を照らし、隣にはレファの寝顔があった。
その光景に、何か憑き物が落ちたような感情を抱き、そっと彼女の頭を撫でる。
『……………本当に、戻って来てくれたんだね……』
再び溢れそうになる涙を堪えていると、部屋を閉ざしていたドアから小さなノック音が数回鳴った。
咄嗟に体を起こし、返事をする。スライド式のドアがゆっくりと開かれると、そこにはフラントと、彼よりもずっと年老いているように見える人物の姿があった。
『ラグヴェア・リードバン……まずは彼女の目覚めを祝おう』
『えぇと………?』
『失礼……君もフラントから色々聞いたかもしれないが、私が、「態謁群」の現謁長を務めるジルク・アンスタリオだ。契約通り、君を、君たちを「態謁群」に迎えに来た』
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