第21話 誰が為に身を投げ打つ
一方、主戦場は「騎士」の手によってその全体が壊滅的被害を受け、双方のシンボルであった、全長約五十メートルもの巨大建造物である図形を模した石造りの神殿は東西両方とも無残に破壊され、威容を誇っていたかつての姿は瓦礫の山と化した。
それの全体を照らす鮮烈な夕焼けは崩壊したそれに血を纏わせたかのようであり、緊張地の歴史の危局を演出するかのようである。
そんな神殿周辺には、どこまでも続く誰かの血と肉片、あるいは塵、木片、鉄くず等で彩られた荒涼とした大地が続き、長時間にわたり抗戦を続けていた戦闘員たちのなれの果てが無造作に、あるいは三流画家が描いた抽象画のように転がっている。
だが、そのような目を覆いたくなるような惨状が広がってなお、戦いは続いていた。
既に緊張地に居た戦闘員全体の半分以上が帰らぬ人となり、大地の染みと化した。
しかし主戦場で戦う彼らの命が減れば、その状況は直ぐにネットワークを介して都市部に伝播し、散って逝った者の燃え尽きぬ戦意の火種を受け継いだ者たちが、次々と主戦場へと身を投げていくからだ。
「騎士」がこの地に降り立ち数時間。以来続いていた彼らの文字通り命を賭した攻撃の数々は、敵の圧倒的なスペック差により全て徒労に終わるのかと思われた。だがそれら抗戦の数々は決して無駄ではなく、「騎士」の体力を確実に奪っていた。
明らかに最初の頃より「騎士」の動きが鈍くなり、掠りもしなかった銃弾が掠る程度には命中するようになっているからだ。
日没を前にして、形勢逆転の兆しが見えた彼ら両軍の闘志はさらに燃え、もはや西も東も関係なく、数時間前まで互いに殺しあっていた彼らは「騎士を倒す」という、ただそれだけの単純明快な理念のもとに合意なく結束した。
銃火器、砲身、手投げ弾、瓦礫から取り出した鋼鉄の棒———握れるだけの武器を手に、前後左右、全方向から最後の総攻撃を仕掛けていく。
双方の拠点を破壊しつくした「騎士」は、乱れた呼吸を整えるかのように、一度中央の裂け目付近まで大きく跳躍し後退。装甲の中に隠されたその素顔は見えないが、殺しても殺してもまるで巣穴から際限なく湧いて出る蟻のように無秩序に立ち向かってくる彼らに気圧され、驚愕の表情を浮かべているのかもしれない。
皆、誰もが血を滾らせ力の限り声を挙げる。身に着けていた防御装甲が破損し使い物にならなくなろうとも、体の部位を欠損しようとも、倒せる相手であるのか判明せずとも、「騎士を討て」と、「緊張地を守護せよ」と。雷鳴の如きその結束の声は、激しい潮流のように主戦場を席巻し、何よりも強固で盤石な意志となっていく。
◆
『…………………』
「どうしたんだ、レファ……?」
痛みに耐え兼ねるように、謁長である彼は仰向けになっていた上半身を僅かに起こした。不意に横を向くと、何かに取り憑かれたかのように、砂塵が付着し透過性を半分ほど失った窓ガラス越しに、外を眼を細め、祈るように見つめる彼女の姿が視界に映る。
夕焼けに照らされ、金糸のようなか細く淡い髪が陽光の一つ一つを反射する様子は、こんな状況だというのにいっそ神々しさすら感じる。
ラグヴェアは右肩を厳重に包む、赤い染みが目立つ包帯を左手で抑え、そんな相棒に向けぽつりと呟いた。
『彼らの声が聞こえました。彼の者を討てと、この地を守護せよ、と———』
「………あぁ、聞こえてるよ…すごいな……う、本当に」
数十分前の出来事。「騎士」が山頂付近に築かれた要塞から顔を出す砲台を狙い、光学兵装群から放たれた乱雑なレーザー放射の一部が、山の中腹に居た彼ら二人に迫った。
刹那、ラグヴェアはレファを射線から少しでも外す為に咄嗟に彼女の体を突き飛ばしたが、その直後、ラグヴェアの勘が当たったように光の矢が二人の元に飛来した。
それが通過した場所は、先ほどレファが突き飛ばされる前の地点。
伸ばした彼の片腕はそのまま高熱の光に呑まれる。直後、地面に着弾した光線は、その超高温により地中に残存していた水分を瞬時に沸騰させ、まるで地雷が爆ぜたかような鈍い音と鋭い爆発を起こし、土煙が吹き上がる。
体勢を整える暇すらなく、一瞬の息苦しさを経てその衝撃波に二人とも吹き飛ばされる。幸い滑落することはなく勢いのまま地面を転がされるだけに留まったが、むせ返るような咳を吐きながら先に立ち上がったラグヴェアが倒れているレファに駆け寄り無我夢中で抱き起そうとする。
しかし、そこでようやく彼は右肩から先の部位が消失していることに気が付いたのだった。
負傷した後は、レファが持ち合わせていた救急キットを使い最低限の処置はしたが心許なく、結局山頂の要塞まで後退したはいいものの、先の攻撃を受けた要塞は既に半ば廃墟と化していた。
呼びかけても応答はなく、聞こえるのは下からの発砲音と怒声や悲鳴。その中で空き小屋を見つけ、中にあった仮眠用に置かれていると思われるベッドを借り、ラグヴェアを横たわらせていた。
『ご主人様…っ、起き上がろうとしないでください……』
「う………ざまぁないな……遠巻きに観てただけの奴が……流れ弾食らってヒーヒー言ってんだ………はは、はぁ………」
疲れたように言うベッドに横たわる彼を前に、レファはおもむろにしゃがみ込むとボロボロになった給仕服の一部を破り、血がにじむ箇所に幾重も縛り付けた。
「二度も、レファを失ってたまるかよ……だが、今回は助けられた。腕一本とレファの命を引き換えたと思えば——いっ…………!?」
『強がりも程ほどにしてください……本当に、貴方は…………………』
レファは既に存在しない臓器のどこかが煮えるような感覚を味わい、形容しようもない汚泥のような感情を上手く吐露できずに言い淀んだ。
この場では、彼に対してどんな言葉を掛けても慰めにはならない。それは分かっているが、腕を失ってまで助けられた自分はどのような表情をすれば良いのだろうか、と。
同時に撤退の案を頭の片隅で思案する。しかし、先の出来事で中腹まで乗ってきた二輪走行車は大破し、移動にも難儀する状態。実際、負傷したラグヴェアに肩を貸しながらここまで上がって来るのに十数分以上の時間を要している。
街まで引き返そうにも時間が掛かりすぎるし、別の謁者を救援に呼ぼうかとも考えるが安全とは言い切れないこの場所に来させるリスクを鑑みると容易に判断を下せない。
「……レファが何考えてんのかは、分かる。撤退は諦めるさ……こうなったのも自業自得。俺のわがままで他の奴を危険に晒せないからな。だが、レファ、お前は下に引き返せるだろう」
『じょ、冗談はやめてください………!ご主人様を置いていくなどという選択肢はあり得ません…!』
「仕方、ないだろう………腕一本失くしたジジイが何の役に立つ。レファはまだ動けるんだ。だったら、もっと安全な場所に避難を……した方がいい」
『嫌です……!ご主人様を絶対一人にはしませんっ………………!』
勢いづいて、手がベッド脇に付いていた手すりから滑り、ラグヴェアにのしかかるようにして倒れ込む。
「うっ…………………!?」
『あ、ご主人様………申し訳ござ——!』
ラグヴェアの呻き声を聞き咄嗟に起き上がろうとしたレファの体を、ラグヴェアは残る片腕でそっと抱きとめた。
『っ……ご主人様……何を…………?』
「安心するよ。こうしてると……あの時を思い出す」
すぐそばにあるレファの瞳を見て、ラグヴェアは落ち着いたように口を開いた。
『…ですがそれは、良い思い出ではないはずです………』
「確かにそうだが……それでも、レファと過ごした大切な日々の記憶だ」
『………痛く……ありませんか?』
「大丈夫だ。ちょうど肩には当たってない………」
『それなら……よいのですが…………』
安堵し、レファもラグヴェアの体をあの時のように優しく抱きしめる。生身だった当時とは違う義手となった腕で———。
「やっぱ、俺は謁長の器じゃないんだと感じるよ。歴代の謁長で、こんな無様な姿を晒してる奴が、いると思うか?」
『……歴代の謁長は「騎士」と相対していないので、その比較はフェアではありませんね』
「はは、それもそうか………」
自分の代は酷く不幸な代だと、そう思うと乾いた笑いが出てくる。
だが不幸不運を嘆いている場合ではないし、そんなことを思い浮かべるべきではない。
「………レファ、この付近に確か、武器庫があったろ…………………?」
『え……?はい、確かにすぐそばにありますが、急に何を?』
唐突な言葉に半ば困惑しながらも、武器庫がある方向におもむろに顔を向ける。
ここに来る途中に見た、味気の無い正方形の鉄筋コンクリート製のそれはすでに半壊していたが、内容物は品質の良し悪しはあれど、ある程度数は揃っていそうなのが崩れた壁面から窺えた。
『何を、なさるおつもりですか………?』
ラグヴェアは黙したままで、その視線は布で包まれた右肩に集中している。それだけで、彼が何を目論んでいるのかは察することができる。
『……義手、ですか』
「そうだ。このままじゃ……格好がつかんだろう」
『………分かりました。私が見てきますから、ご主人様はそこで横になっていてください』
「はは、助かるよ。カッコいいのを……頼むぞ」
義手を嵌めている戦闘員が多かったのは記憶している。その中には弾倉を組み込み、銃火器同然の仕様にカスタムしている者もいた。
(……あわよくば———)……と、そんな考えがよぎる。彼もまた、元来やられっぱなしでは黙っていられない性分ではあった。
彼が態謁群に加入した理由のように————。
◆
———ラグヴェア・リードバン。そのリードバンという性は西側諸国に名を連ねるマーレンカートという小国に籍を置く家名であった。
彼の一族は、軍事産業で一山を当てた彼の祖父に当たるクーティン・リードバンを起源として栄え、マーレンカート主要経済の三割を占めるほどの影響力を持つ家柄。
軍事関係に勤める者であればリードバンと聞けば、すぐさまリードバン社のことを思い浮かべる。
次世代型の装甲戦闘車両カーヴレイ。西側諸国内で勃発したマーレンカートとアボタプナの領土問題から生じた、約一年に渡る衝突の中で生み出されたそれは、当時ではまだ実証段階であった光学迷彩と、ようやくスタンダードになりつつあった自動操縦システムを全面採用し、さらに光学迷彩を採用したことにより装甲部分を大幅にカットしたことによる軽量化によって実現された、スラスターを用いた俊敏な機動性能。
従来の戦車と比較しても半分ほどの大きさで作られたそれは、砲身を持たせてもよし、自爆特攻用して使うもよし、純粋に移動用として使うもよしといった具合に、様々な場面での需要を満たし運用コストは多少大きいものの一躍ヒット商品となった。
しかし数年後、リードバン社の技術が流出する事案が発生。その結果、技術を転用した民間用大型輸送車両が他国でテロに使われる事件が発生してしまう。
これを受け、流出元であるリードバン社はその管理能力の杜撰さを国際的、または政治的にも非難され、マーレンカートの軍需認可リストから除外されることとなる。
さらに立て続けに内部の分裂や不正会計が芋づる式に明らかとなり、株価の暴落と信用の失墜に繋がってしまう。
最終的には当時の取締役であるラグヴェアの父、フローデン・リードバンも表から姿を消し、大半の資金を握ったまま失踪。
親類とは縁を切られ、母親も既に亡くなっており、祖父が築いた屋敷に残された当時二十代前半だったラグヴェアは憔悴しきっていた。
社会に見放され、資産も無くなり、使用人も去っていった。裕福だった時代が嘘のようであり、やがて会社を継いで安定した将来を約束されていた彼の人生は暗闇に包まれることとなる。
だが、そのような人生の佳境において、彼に深く情を寄せ、追従する人物がいた。
◆
———レファ・シムルカース。リードバン家の使用人として、当時ラグヴェアが十九の頃から屋敷に勤めていた女性だった。ラグヴェアより三つほど年上で、当初見習いとして屋敷にやってきた彼女は先輩使用人たちに使えないと罵られながらも懸命に奉仕に励んでいた。
彼女が屋敷で働き始めてから、そんなレファの様子をラグヴェアはよく目にする機会があった。そして、その場に居合わす度に叱責する他の使用人である彼女らをなだめレファとの間を取り持つというやり取りを何度か繰り返していた。
だが、何故彼女は自らのミスとはいえ酷い言葉を投げかけられるにも拘わらず、この場所を去ることなく屋敷に勤め続けるのか。ラグヴェアはふと不思議に思い、彼女にそれとなく尋ねようとしたことがあった。
その日も、いつもと同じようにレファはミスをした。廊下に飾ってあった花瓶をモップの柄に引っ掛け、倒して割ってしまったのだ。
案の定、彼女を𠮟り付ける為に年長の使用人たちが怒りの形相のまま直ぐに現れた。
偶然音を聞いて駆け付けたラグヴェアもその場に居合わせ、声を荒げる彼女らをまたいつも通りなだめた後、魂が抜けたように無表情でしゃがみ込み、花瓶を構成していた破片を拾うレファを手伝いながら、彼女を横目に口を開いた。
『……なぁ、その……深い理由はないんだけどさ。レファは、どうしてその』
『………どうして、辞めないのか。でしょうか…………?』
『っ…ご、ごめん。その、レファっていつも虐められているのに、他の場所に行こうと思ったりしないのかなって』
『……他に、行く当てがありませんから……。今までも別の場所で失敗を重ねてきて、すぐにクビにされたり、虐められたりして……。この屋敷の使用人の募集を見かけたのは偶然でしたが、応募したら、ご主人様——ラグヴェア様のお父上様が少しでも人手が欲しいと雇っていただけたのです。ですから…その、ミスをするのは申し訳ないと思っていますが、せめてクビを言い渡されるまでは、ここに置いて欲しいと……』
『そっか……。じゃあ、ご両親は?どうしても苦しいなら親を頼るって手もあるんじゃないの?』
『私の両親は……もういません。ターヴォルの北にあるケインブリルという小国はご存知でしょうか?私がまだ十代の時、ターヴォルからの侵攻で国境付近に住んでいた両親と私はそれに巻き込まれて…両親はその混乱の最中で私を一人逃がして命を落としました。それから疎開という形でマーレンカートまでやってきて、補助金を頼りに生きていましたが………その補助金も二十歳のタイミングで途切れて、どこか仕事に就かなくてはなりませんでした』
『…そう、だったのか。それは、大変…だったな』
『私は生まれつきなのか要領が悪くて……些細なことでも何か問題を起こすことが多々ありました。ラグヴェア様も、私を無能だとお思いですよね』
『……まぁ……正直なことを言えばミスが多いな、とは思うけど。でも、それ以外はちゃんと仕事してるって印象だし…』
言葉を選びながらも、ラグヴェアはなるべく誠実に返答をする。ありきたりなお世辞は、彼女にとっては酷なものだろうと思ったのだ。
『……申し訳、ございません…気を付けているつもりなのですが…その……』
『なんでも完璧にこなせる人間なんていないよ、俺だってミスくらいするさ。レファは、その………人よりミスが少し多いだけだよ』
『ですが、それは……言い訳にはなりません。注意している…つもりなのです。でも、気づいた時には何か問題を起こしていて……』
『……………そっか』
沈んだ空気の中、陶器の破片が触れあう甲高い音だけが僅かに長い廊下に鳴り響く。ラグヴェアは何か彼女を元気づけるようなセリフを考えようとしたが、今にも潰れてしまいそうな表情の彼女にかけられる言葉を直ぐに思いつくことは出来なかった。
やがて片付けが終わり、破片をまとめた袋をレファが縛り処理しに行こうとした時にふと妙案を思いついた。
『——あ、待って、レファ』
『どうか、なさいましたか?あ、もしかしてまだ破片が……?』
『あぁ、破片はもう大丈夫だよ。えぇと、あのさ、もしよかったらなんだけど、レファが俺の専属の使用人になるっていうのは、どう?』
『専属の…?』
『今までは屋敷全体で働いてたんだろう?だから、その範囲を縮小するっていうか………。俺個人の身の回りの範囲で働けば、最悪ミスをしても今までみたいに他の使用人さんたちからとやかく言われることもなくなると思って』
『それは……』
『大丈夫、父さんにはこっちで上手く言っとくからさ。だから、これからレファは俺の、ラグヴェアの専属使用人ってことで……えぇと、ダメかな』
『っ…………………』
彼女は力が抜け、呆けたような表情でラグヴェアの顔を見つめていた。やがて絞り出したように声を出し、その言葉への返答を口にした。
『……かしこまりました。ラグヴェア様の提案、謹んでお受けいたします。本当に……ありがとう、ございます…………』
レファは袋を抱えしゃがみ込み、顔を手で押さえた。
『お、おい、どうしたんだ————』
『……ぅ、なんでも…ありません。…………………本当に—————』
ひざを折り、崩れた彼女と同じようにラグヴェアも身をかがめ、レファが顔を上げるまで暫く無言のまま、その場を過ごした。
その日以降、レファはラグヴェアの身の回りの世話に付きっきりとなり、ラグヴェアの目論見通りレファがミスをしたとしても第三者から責められるということは無くなった。
しかし、レファのミスはそれからも立て続けに起こった。ある時はラグヴェアの部屋の鍵を紛失したり、机に置いていた書類を捨ててしまったり、夜中に突然部屋の掃除をし始めたり、部屋の物を屋敷のどこか別の場所に置いてしまったり。
またある時は、部屋に戻らずふらっとどこかへ行ってしまうようなことも。
当然といえば当然だったが、今までのレファの失態をラグヴェアが全て知っているわけではない。だから、ミスと言えども些細なものだと勝手に想像していた部分があった。
故に、他の使用人たちが執拗に彼女に対してキツく当たっていたのはラグヴェアも知らなかったような、ミスという言葉で片づけるには些か目に余る行動の数々があったからだと判明したのだ。
彼自ら言い出した手前、なるべく寛容であろうと見守っていたラグヴェアだったが、それから三ヶ月が過ぎた頃。流石に彼女の振舞いが不自然だと次第に疑い始めた。
そんな中、ラグヴェアはレファが起こす突飛な行動が何かしらの病に基づいたものなのではないかと推測した。それについて調べると脳に何かしら問題がある場合にレファと似たような状況に陥るケースを発見。そしてある日、雇い主である父親の許可を取り、彼女を連れ市内の脳外科病院に連れて行くことにしたのだった。
彼はレファに脳の精密検査を受けさせることにした。杞憂であって欲しいと願ったが結果的にラグヴェアの推測は当たっており、レファの脳に僅かではあるが腫瘍が見つかった。
しかし手術をするにもかなり危険な位置にある腫瘍であると診断され、万が一、手術が失敗すれば今より酷い状況か、あるいは今のように動くことすら困難になるというリスクも含めて伝えられたのだった。
『…………………』
『ラグヴェア様……その………』
気が重いまま屋敷へと帰宅すると、二人はラグヴェアの部屋で項垂れたように向かいあっていた。ただずっと、医師に告げられた言葉の一つ一つがひたすら思考を占拠する。
『……レファは………手術を受ける気なのか?』
『分からないです……でも、もしこれが治るなら……手術を受けて見てもいいのかな、と……』
『………失敗…するかもしれないんだぞ。聞いたろ、成功率は十パーセント未満だって』
レファの脳を蝕むその病、「先天性視床下部圧迫性腫瘍」。世界的に見ても症例が少ない珍しいものだったらしく、対応してくれた医師の苦々しい顔が脳裏によぎる。
医師の説明曰く、視床下部は情動や記憶、そして行動に影響を与える場所であり、脳の中でも大切な部分。そこに問題が生じると、予期しないような突発的な行動や不注意が重なるという話だった。
これまでのレファの様子を見ると全ての辻褄が合う。
『レファには悪いけど、こんな低い数字にレファを任せられない………』
『ですが……このまま何もしないよりは良いのではないでしょうか……?』
『だけど、もっと酷いことになったら?最悪、レファがレファじゃなくなってしまったら……俺はどうしたらいいんだ……?もう元には戻らないかもしれないんだぞ……?』
『……私には、分からないです…。このまま手術をせず、またいつもの日常に戻ると、再びラグヴェア様たちに迷惑をかけてしまいます……』
『それでいい……。ここで決断を焦って、今より酷い結果を迎えることになるなら、それでも…それでも—————』
『……ラグヴェア様の気持ちは、十二分に伝わっていますよ……私などの為に、そこまで苦しい顔をなさるのは……私も辛いです。ですが、そんなラグヴェア様のことを苦しませる私など、もはや必要ないのではないでしょうか…………………?』
『ち、違う!!そういう意味じゃないッ………!!俺は、本当にレファのことが…………………!』
『っ…………』
『レファの…………ことが…………………』
そこまで言いかけ、力なく膝を折った。そしてラグヴェアの目線に合わせるように、また彼女も膝を折る。
『…………………私のことが…?』
泥水でも被ったように顔をくしゃくしゃにするラグヴェアの顔を、彼女はいつものように澄んだ瞳で覗き込んだ。自然と二人の視線は交差し、時間が止ったように感じられる。
『………っ!』
気が付いた時には、レファを両腕で抱きしめていた。涙は溢れ、何度も彼女の頭を撫でる。レファは突然のことで驚いたように少しの間硬直していたが、やがて彼女も彼の背に腕を回し、優しく体を包む。
『大切なんだ、レファのことが……。どれだけ迷惑をかけてもいいから、どれだけ失敗してもいいから、今のままのレファで、いて欲しい…………………』
『ラグヴェア……様…………………』
『ごめん……我儘だっていうのは分かってるし、レファが手術を受けたいって思ってるのも分かってる。…でも————お願いだ……俺の為に、手術を諦めてほしい………』
『…………………っ』
レファはその言葉を黙って聞き届けると、ラグヴェアの肩に顎を乗せて寄りかかった。やがて鼻を啜る音が聞こえ、ラグヴェアは肩を包む布地が湿りを帯びるのを感じる。
余計な言葉は必要なかった。このままレファを抱きしめたまま、世界のどこまでも行ってしまいたいと———漠然とそう思えた。
——それからまた月日は流れた。結果的に手術をしないという方針になり、レファの容態が明らかとなった今、ラグヴェアも出来る限り積極的に彼女に付き添うようになった。
使用人たちにはその旨を診断書と一緒に説明すると、今までの態度を恥じたように改め、彼女たちも次第にレファに協力するようになっていった。手術は諦めたけれど、いい方向に向かっているのではないか。そんな希望を胸に携えて——。
そんな中、あの漏洩事件が起こる。
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