第五章 七節 朱い少女は焔と成って

 橋のたもとを分かつ黒炎の壁を飛び越える大神を見送る。授けた『火蜥蜴サラマンダー』が彼の後を追って飛んでいく。

 ルゥナのことは彼に任せるしかない。強がっているつもりだったが、姫路は既に疲労困憊だった。正直な話、『火蜥蜴サラマンダー』を出した時点で意識を失うかと思った。手足が震え、唇が冷たくなるのを感じる。

 姫路の炎は、大神のように点での単発攻撃ではなく面での制圧攻撃だ。今回のような集団戦では独壇場とも言える力だが、強いエネルギーを発するにはそれなりの代償を求められる。黒血能力ブラックアーツの源は血液。それを消費するということは、命に係わることを意味している。


黄昏ゆうやけ。キミ相当な無理をしているよね? 少し休んだら?」

「あら枝草しぐさ、そう見える? 心配してくれて嬉しいけど、限界だったらとっくに座り込んでるわ。まだまだこれから……よ!」

 

 黒炎を右足に纏い、ソバットの要領で繰り出された後ろ蹴りが、飛びついてきた黒蛇の頭蓋を爆散させる。武道の師範代であった祖父から幼少期の頃に叩きこまれた護身術を、まさか国も世界も大きく隔てた北欧神話の、それも人間ですらない怪物相手に使うことになるとは思いもしなかった。


「言ったでしょ? 私は大神くんのために戦ってるの。彼は誰かを守ると決めたら自分の命さえ投げ捨てるから、そんな無茶をするヒトにはこっちも死ぬ気で付き合わないと。ただのエゴかもしれないけど、それが私の決めた使なのよ」


 ふーん、と。

 舞原が興味あるのかないのかわからない、けれどすっごく怪訝そうな顔を向けて来た。


「彼のコト、好きなの?」

「燃やされたいのかしら?」


 質問きょうみ詰問さついを投げ返す。この状況で何を訊いて来ているんだこの娘は。


「ま、どっちでもいいけどねぇ。ボクはただ、ルゥナが生きていてくれればそれでいい。そのためならガラじゃあないけど張り切るとするよ」


 舞原がベージュの前髪を掻き分け、右目の孔から黒血を流す。そこから生み出されたカラスたちが夜空に舞い、けたたましく哭く。河原の枯れ草や街路樹の枝が集まり、五体の案山子カカシが造られていく。


「ごほっ……! 流石にもう限界かな……これしか出せないや」


 舞原の口元に黒い血が滲む。それをニットの袖で拭いながら、倒れ込みそうになる身体を両脚で何とか支える。

 歩き出した案山子カカシたちが陣形を組む。黒炎の壁を背にして扇状に展開した案山子カカシたちに、冥界の蛇たちが動きを止めた。


「まだ聞いてなかったわね。貴女は何でそうまでして、ルゥナを助けようとしているの? 元はと言えば、ルゥナを非道な実験で造り出した側の人間でしょ?」


 案山子カカシたちが蛇の群れを追い返す中、舞原は姫路の問いに振り向かずに答える。


「ボクはね、実験の失敗作となったルゥナたちの殺処分担当だったのさ」


 自虐するように、少女は薄ら笑いを浮かべる。

 風が吹けば飛んでしまいそうな細身の、朽葉色の少女はその罪を告白する。


「ヒトの形を保てず自壊したクローンを後始末したり、発狂して言葉を受け付けなくなった個体を銀のナイフで刺して殺したり。最初の内は抵抗感も罪悪感も特になかった。ちょっと大きい実験動物モルモットを扱う程度の感覚だったからね。マッドサイエンティストたちの近くにいたから、人としての感性もバグってしまったんだよ。ボクは与えられた仕事を淡々とこなしていたんだ」

「……………………」

「そんな作業にも慣れたある日……そう、ルゥナ=サーティーンが誕生した日。あの感情豊かな、殺戮兵器になんてまるで向いてない女の子は、クローンの中で初めてボクに話しかけて来たんだ」

 

 舞原は夜空を見上げ、満月に浮かぶ少女を眺める。その憂いと後悔に満ちた横顔を見て、姫路は彼女の心の傷に触れてしまったのだと気付いた。


「クローンの作成は一瞬さ。3Dプリンターのようなものでね、オリジナルの因子を混ぜ込んだ材料でヒトガタの少女を鋳造する。形を整えてハイおしまい。そんなあっさり産まれた今までのクローンと変わらない外見の女の子が、こんなことを言ったんだ。『あなたの瞳、すっごく綺麗だね』ってさ」


 その美しさは姫路も感じたものだった。彼女の左目は、宝石のようなエメラルドなのだから。


「ボクは殺処分だけでなく、給餌係でもあってね。一日一回、ルゥナに新鮮な血液を提供していたんだ。そのグロテスクな食事に何回か付き合っているうちに、ボクも情が沸いてしまったんだろうね。主任から彼女に下された裁定をうっかり話してしまったんだ。殺処分が決定したことを」

「……それで、ルゥナはどうしたの?」

「死にたくないって泣き喚いたよ。死というものがどういうものか、不死身の吸血鬼でも理解があったみたいでね。すごく怯えて、正気を失いそうだった。ボクはそこで、ようやく自分のしてきた罪を自覚した。その重圧に耐えきれなくなって――ボクはルゥナの拘束を解いたんだ」


 それが黒川山中腹に発生した爆発事故に繋がったのだと、姫路は先回りで察した。


「拘束を解いた瞬間、途轍もない暴風で施設を吹き飛ばされたよ。死ぬかと思ったけど、ボクだけ無傷だったんだ。同僚たちには拘束具が緩かったんだと適当に誤魔化したけど、主任には見透かされていたっぽいね。ボクはもう二度とルゥナを殺したくなかった。その気持ちに付け入られて、彼女を延命するなんて言う甘言に乗っかってしまったんだ」

「でも貴女は、今は自分の意志でここにいる」

「キミたちに気付かされたからね。道を閉ざしていたのは自分だった。あの子が生きるのを諦めていないのに、ボクは再び彼女を檻に戻そうとした。それが彼女のためだなんて自分に言い聞かせて、罪から逃れようとしていただけだったんだ」


 案山子カカシの壁を前に狼狽うろたえている大蛇だいじゃの群れを掻き分け、見上げるほど巨大な黒蜥蜴とかげが現れた。まるで小型の竜を思わせる爬虫類の怪物は、一体の案山子カカシに向けて吐息ブレスを吹きかける。

 灰色の瘴気に触れた案山子カカシの体を構成している草木のパーツが、急激に腐敗して崩れ落ちた。毒性の吐息ブレスを受けた案山子カカシは、再生出来ずにアスファルトの上でもがいている。

 残る四体の案山子カカシは、その黒蜥蜴とかげを仕留めるために動き始め、手にした草刈り鎌を振りかざす。しかし巨大な前脚を横薙ぎに振るわれ、正面にいた一体がバラバラに砕けてしまう。すぐさま再生して襲い掛かるも、また毒息によって崩れ落ちてしまった。


「――それでも」


 カラスドロシーも戦う。黒蜥蜴とかげの前でバサバサと舞い、その注意を引く。愛犬トトも、ブリキの木こりも、臆病なライオンもここにはいない。世界的に有名な童話をモデルにしていながらその再現度が低い、まるで詐欺のような人工黒血能力ブラックアーツを操る魔法使いは、むせ返りながら真っ黒な血を吐く。


「ボクは、もう逃げたくない。目の前の怠惰な現実じゃなく、手を伸ばさないと届かない理想に挑戦したい。これまで死んで逝ったルゥナたちへの贖罪として、今を生きるルゥナの未来を守りたい!」


 血混じりの叫びを上げる舞原に、姫路はある少年の姿が重なるのを感じた。

 かつての罪を告白しながら、贖罪のために誰かを守ろうとするその姿は、とても強く、それでいて脆く、危うい。

 彼の面影が痛く強く目に焼き付いた、七年前の光景がよぎる――



 **


 

 太陽が地を焼く真夏のある日。

 小学四年生の少女は、同級生の少女を一人自宅に招き、大きなリビングでティータイムを過ごしていた。ティーカップは海外のブランド品で、茶葉は父が知り合いの事業者との付き合いで頂いた高級ダージリン。アンティーク調の家具が並ぶ、全体的にウッドテイストな落ち着いた雰囲気のリビングには、大きな出窓から眩しい日差しが入り込んでいる。

 姫路黄昏ひめじゆうやけは、黒川市に古くから継がれる不動産事業グループである姫路財閥の一人娘だ。当主である父は多忙を理由にあまり家には帰らず、家族旅行の約束もすっぽかすなど適当な性格で、厳格な前当主である祖父に憧れた姫路にとっては反面教師のような存在だった。温和な母はそんな父を「あの人はあれでいいのよ」などと笑って支えていたが、その実たまに見せる寂し気な横顔が印象に残っていた。

 財閥と言っても、いわゆるステレオタイプな格式ばった富裕層というスタンスからの脱却を求めていた父の意向により、姫路は一般校へ入学し一般庶民としての生活を続けていた。父はたまに家に帰ってくると「時代錯誤な威厳とか風格とかはいらないんだ。地に足をつけて、いっぱい友達を作って、のびのび生きていいんだぞ」と言い聞かせて来た。当の本人がのびのびどころか奔放すぎるので言葉に無責任さを感じていたが、そのおかげで大切な親友と巡り会えたことには感謝をしていた。


「姫ちゃん、このお紅茶おいしいね! 私のおとーさん、ケチだから紅茶なんて買ってくれなくてさ~」

木菟みみずくの口に合ったならよかった。ケーキもあるけど、食べる?」


 小学校入学式の時からよく話しかけてくれた鳥目木菟とりめみみずくとは、もう三年半の付き合いになる。黒に侵された世界が混乱を極める中でも、大切な友人と過ごせる時間が姫路にとっての大きな幸せだった。

 その日は両親共に出かけており、広い邸宅で昼下がりを過ごすのは姫路と一人の使用人、遊びに来てくれた鳥目だけだった。ニコニコと紅茶を楽しむ鳥目をリビングに置いて、姫路はキッチンへと向かう。


「えーと、確かこっちの冷蔵庫に……」


 高級レストラン顔負けの業務用冷蔵庫を開けて、今朝使用人が作ってくれたショートケーキを取り出す。食べやすいように最初からカットしてくれてあるので、それを来賓用の小皿に取り分けて運ぶだけだった。

 だが、その可愛らしいデコレーションケーキを二人が味わうことは無かった。


「……? 何の音だろう?」


 姫路は廊下の奥から物音が聞こえた気がして、ケーキの乗った皿を二つ持ちながらキッチンを出た。

 どすん、ばたん、という大きな物音が邸宅のどこからか聞こえてくる。その不可思議な音は、だんだん近づいてきているような。


「お嬢様! お逃げください!」


 使用人の女性が、廊下の角から飛び出してきた。丸眼鏡をかけた初老の女性は両親とも古い付き合いがある、姫路も大好きな優しいヒトで――


「え――――?」


 鮮血が舞った。

 モノトーン調の使用人服が真っ赤に染まった。

 巨大な黒い獣が、女性の胴体に噛み付いて食い千切る。最初は大きなライオンかと思ったが違った。

 獣の頭と胴体。サソリのような尾。鷹のような翼。胸元に大きな孔の空いた、半透明で真っ黒な合成獣型キメラタイプ黒幽鬼ファントムが、その鋭い牙で使用人の腹部をえぐり取ったのだ。かろうじて背骨で繋がっているだけの肉塊から、絞られたトマトのように赤い液体がどばどばと床に注がれる。その光景の数メートル先で、姫路は両手に持っていたケーキ皿を落とした。

 金切り声のような絶叫と共に、崩れた白いケーキがカーペットにこべりついた。朱い髪を揺らし、青ざめた表情で、姫路はその場を反転して走り出す。

 音が聞こえる。黒幽鬼ファントムが丸太のように太い四本脚を動かして迫ってきている。徐々に近づくその音を聞いて、すぐに追いつかれると悟った。

 長く広い廊下の角を曲がり、一瞬その視界から消えた直後、すぐさま近くの扉を開けて部屋に飛び込んだ。そこは一階の客間で、知人が寝泊まりする際に使われるベッドルームだった。

 姫路はすぐさま隠れる場所を探し、ベッドの下に空間があることに気付いた。小学四年生の身体であれば入り込むのは容易い。幾何学な絵柄の絨毯にダイブし、這うようにしてベッドの下に潜り込んだ。

 ――そこには、先客がいた。


「ひ、姫ちゃん……!」


 顔面蒼白でガクガクと震える、涙目の鳥目木菟とりめみみずくがそこにいた。どうやら事態に気付いた鳥目が、声を殺して隠れていたらしい。

 姫路は固唾を飲み込み、パニックになりかけていた頭で考える。


(ここに二人で隠れている方が安全? それとも、私が出て行って囮になれば、木菟みみずくは助かる?)


 考えたのはあくまで親友が助かる方法。泣き出したい気持ちを抑え込み、歯を食いしばってベッドの下から出ようとした。

 その時、右足に激痛が走った。


「……ッ⁉︎ ああああああああッ⁉︎」


 何が起きたかわからなかった。ベッドの下から出るため、腹這いのまま足から外へと出ようとしたのだ。

 その右足に燃えるような激痛を感じた直後、姫路の身体は右足を引っ張られるようにして引きずり出された。いつの間にか追いついていた合成獣キメラが、そのサソリのような尾針を姫路の右足に突き立て、貫いていたのだった。

 ベッドの下で目が合った鳥目が、声を殺したまま手を伸ばしてきた。しかし姫路は首を横に振る。大粒の涙を流しながらも、そこに友人がいることを悟られまいと、彼女の手を取ることはしなかった。


『グルルル……』


 バケモノの唸り声が聞こえる。唾液のような黒血を牙の隙間から滴らせ、カーペットに黒い染みを作っている。

 殺されると思った。その恐ろしい牙で、さっき殺された使用人のようにぐちゃぐちゃにされるのだと。しかし、その牙が姫路に突き立てられることは無かった。

 その代わり、何か体が痺れるような感覚があった。激痛を堪えながら涙目で右足を見ると、貫通した針からナニカが傷口に注入されているのだとわかった。自分の血管が膨らみ、脈動し、ドクンドクンと蠢いている。


「あ、ああ……おご……ッ?」


 吐いた。今朝食べた使用人特性のホットケーキだったものが逆流した。口の中に広がる酸っぱい味覚が、鼻を衝き抜けて更なる吐き気を加速させる。

 また吐いた。次に口の中から出て来たのは――真っ黒な炭のような吐瀉物としゃぶつだった。


(い、やだ……!)


 あのバケモノに殺されると、あのバケモノになる。ニュースでも、学校の授業でも、そう言っていた。

 死にたくない。バケモノになんかなりたくない。大切な友人の前で、こんなヤツらと同じになりたくない。

 必死に抵抗しようとするが、指一本動かない。全身が痙攣して、視界がバチバチと瞬く。何もできない無力を呪いながら、全身の体液という体液が押し出され、別のナニカに置き換えられる感覚に侵された。


「ひめ、ちゃんを……離して!」


 そんな震えるような声に、消えかけていた意識が浮上した。ぼんやりとする視界の先で、親友の少女がバケモノの巨大な前脚にしがみついていた。


「み、みず、く……! だめ……!」

「やだよ、姫ちゃん……! 私を置いて行かないで! ずっと一緒にいようよ!」


 獣のようなバケモノは、その小さな抵抗に意を介さない。それどころか、さらなる絶望が二人を襲う。

 ずるり、ずるり、と。何かが這って近寄ってくる音が部屋の外から聞こえた。開け放たれていたドアの向こうから、二体目の黒いバケモノが姿を現したのだ。その存在はまだ人の形を保っているように見えたが、全身が奇妙に膨らんでいて不気味なバルーンアートのようだった。バケモノは両腕で這うように胴体を引きずっていたが、何よりも絶望的で致命的だったのは……引き千切られた下半身が背骨のような部位で繋がっていることだった。


「にげ、て……!」


 見慣れた服の切れ端がぶら下がっているバケモノが、鳥目に這い寄る。それでも彼女は、合成獣キメラの脚から離れようとしない。非力な両腕に力を込めて、その黒い巨体を姫路から引き剥がそうとしている。

 無論、小学四年生の、ましてや体育の授業が嫌いな運動音痴の女の子に、数メートルの巨体を一ミリでも動かせるはずも無く。

 

(みみずくを、たすけなきゃ……)


 もう指が何本あるのかもわからないほどに膨張した黒い手が、親友に迫る。


(わたしが……守らなきゃ!)


 感覚を失いつつあった右足が、熱く暑く燃え上がった。


『グルルル……グオッ⁉︎』


 姫路の右足を突き刺していた黒い針が、黒い炎で焼け落ちる。怪物の太い脚にしがみついていた鳥目が、炎に怯えて飛び退いた。

 姫路に複数の声が聞こえる。


「姫……ちゃん……?」


 そのうちの一つは、大量の涙で顔を濡らしながら呆然とする親友の声。

 そして残りの声は、頭の中に。


 ――その燃えるような正義心、失うには惜しい。

   複合型の魔獣が相手となれば。

   我らも一つとなり、力を貸しましょう。

   獣を退け、魔を払う、浄化の炎。

   あるいは大切な者を送る、鎮魂の灯火として。

   貴女に与えよう。我らが力は原初の炎。その名は――


「《灼熱の妖精ブレイズフェアリー》‼︎」


 合成獣型キメラタイプ黒幽鬼ファントムの尾に延焼した黒炎は、見る見るうちにその全身を焼き尽くしていく。

 さらに黒炎は広がり、部屋一面を火の海に変えていく。かつての何者かの面影を残す這う怪物も、灼熱の名の下には死体すら残らなかった。

 右足はもう痛くない。体の自由も利く。だが問題なことに、彼女はまだその力の使い方を知らなかった。


「――ッ、炎が……!」


 それは無意識化で起こした奇跡か、鳥目のいる場所だけ黒炎は燃やさずに避けていた。

 だが逆に言えば、彼女を取り囲むようにして黒炎が広がり、逃げ場のない大火事を起こしていた。


「消えない……! 何で……! 言うことを聞いて……!」


 姫路は炎に訴えかける。だが哀しいかな、炎に聞く耳は存在しない。

 ベッドサイドの本棚が崩れ落ちる。降りかかった火の粉が鳥目の肌を焼く。姫路本人は熱こそ感じるが肌は焼けず、呼吸も苦しくないが、鳥目は別だ。小学校で火災訓練を受けたとはいえ、こんなに勢いよく広がった炎の中、どうやって脱出すればいいやら。


「う……っ」

「みみずく⁉︎」

 

 鳥目の苦しそうな声が聞こえたと思えば、彼女はその場に突っ伏してしまった。極度の緊張による精神摩耗か、あるいは煙を吸い込んだことによる中毒症状か。いずれにせよ、この場で気を失うのは絶体絶命を意味する。

 部屋に充満し始めた煙が目に沁みて視界が霞む。廊下の外まで延びた黒炎が窓際のカーテンにまで届き、そのまま家全体を燃やし始めていた。

 窓の外から、わずかに人の声が聞こえた。その廊下は植え込みを挟んで道路に面しており、歩道から火の手を見た近隣住民が騒ぎ出した声が聞こえて来たのだ。早く消防を呼んでくれることを期待するも、到着するまでに果たして鳥目が無事でいられるだろうか。


「なんで……! わたしは、みみずくをたすけたくて……!」


 助けようと思った。守ろうと思った。そうしたら、黒い炎が自分から燃え上がって、化け物を退治してくれた。

 それなのに、今はその炎で彼女を苦しめている。彼女が死にかけている。一体どうしてこんなことに。


「誰か……」


 黒炎を掻き分けて、親友の下へと手を伸ばす。


「誰か……!」


 燃え盛る漆黒の業火。姫路はその中心で、大切な親友を抱えながら叫ぶ。


「誰か助けてッ‼︎」


 焼け落ちた天井が落下してきた。

 しかし、その大質量の炎の塊が、姫路と鳥目に直撃することは無かった。


「――大丈夫か?」


 終わりを覚悟して閉じていた眼を開く。

 そこに立っていたのは、同い年くらいの一人の少年だった。ボサボサの黒髪も特徴的だったが、何より目を引くのは、その右腕。

 肘から先が、真っ黒な狼の頭部のように変形していた。その鋭く強靭な牙が、焼け落ちた天井を炎ごとかっ喰らって消滅させていた。


「騒ぎを聞いて来てみれば、ただの火事じゃねーな。この黒い炎、めちゃくちゃ熱いぞ」


 両目が赤く光る少年はそう言いながら、燃えている家具や床を黒炎ごと喰らい尽くしていく。よく見れば彼の肌も黒く焦げており、明らかに異常な黒い火の海に生身で突入してきたのだとわかった。


「すまん、入り口わかんなかったから壁に穴開けちまった。とにかく、そこから外に出るぞ」


 少年の右腕から狼が消える。彼が指差した方を見ると、廊下の壁に削り取られたような穴が空いているのが見えた。その右腕の大顎で壁を破壊してやって来たようだ。

 赤い瞳が黒く戻った三白眼の少年が、ぐったりしている鳥目の肩を担ぐ。


「う、ん……? だれ……?」

「よかった、生きてたか。すぐ助けてやるから、捕まってろよ」


 わずかに目を開けた鳥目だったが、まだ自分で歩けないようでぼんやりと少年の横顔を見つめている。未だに燃え広がる黒炎に囲まれた中で、彼は姫路にも手を伸ばす。


「お前も、早く。足、怪我してるだろ」


 少年の目線の先には、右足に空いた黒い孔。出血はいつの間にか止まっているが、真っ赤だった鮮血はすっかりドス黒く変色しており、今も焼けるような痛みが姫路を襲っている。

 

「ダメ……貴方まで燃えちゃう! 私は大丈夫だから……早くその子だけでも――」

「うるさいぞ。黙って守られてろ」


 そんな理不尽極まる台詞を耳にしながら、姫路と鳥目は少年の肩を借りて脱出した。家の周りには消防車が何台も到着しており、遅すぎる消火作業が始まっていたが、その黒い炎は一向に消える気配がない。

 敷地の外、通行規制の敷かれた路上に座り込みながら、姫路はその黒炎を睨みつける。


「私が出した炎なのに、全然消えてくれない……! どうして……!」

「お前、か。目を閉じて命令するんだ。自分の中の奥の方ある、真っ黒い何かに向かって」


 少年がそう言うので、姫路は言われたとおりに目を瞑る。

 消えろ、消えろ、消えろ……! そう命じているうちに、館を燃やしていた黒炎は風が吹き去ったかのように消えてなくなった。


「たまたま通りかかってよかった。気まぐれに遠くまで散歩してみるもんだな」


 少年の右手には丸い孔が空いていた。その孔を見つめながら、少年はポツリと言葉を漏らす。


「守れた、か。本当に良かった……」


 やがて到着した警察と救急隊に三人は保護された。特に重傷だった鳥目は再び意識を失っており、真っ先に救急車で市内の病院へと搬送されていった。

 姫路は自分の右足を見たが、傷跡は少年と同じような孔になっており、痛みはいつの間にか消えていた。少年はひどい火傷を負っていたはずだが、いつの間にか綺麗さっぱり元通りになっており、服の一部が焦げているだけだった。

 両親が急いで向かっていると言うので警察署で待つ間、姫路は彼に聞いてみた。


「助けてくれてありがとう。でも、あんな危険なところにどうして飛び込んできたの? もしかしたら死んじゃうかもしれなかったのに……」


 少年はその右手を見つめながら答える。


「俺は、この右手で人を殺した」

「……え?」

「その人と約束したんだ。この力で、これから出会う人を守るって。俺は、お前たちを守りたかったんだ」


 その時の瞳が。顔つきが。所作が。言葉が。

 姫路黄昏ひめじゆうやけの瞳に、長く永く焼き付くこととなる。

 そして気付いた。何となくだが、そう確信した。


(きっとこの人も……誰かに助けてほしかったんだ……)


 ――やがて合流した両親に死ぬほど心配をされ、家を空けていたことを無限に謝られたが、姫路はそれよりも彼へのお礼が先だと両親を諭した。

 事の顛末を話しているとき、その大神空也おおがみくうやという少年が現在は黒川市内の実家で孤独に暮らしているのだと知った。それを聞いた姫路財閥の現当主である父は、今回の礼にと彼を引き取る養子縁組を提案したが、少年は「自分が近くにいると迷惑をかける」とあっさり拒否。だがどうしても力になりたいと、今まで見たことのないような頑固さで少年に迫った父母は、彼が一人立ちできるようになるまでは生活面の援助をすると言って聞かなかった。流石に根負けした大神少年は、ボサボサの髪を搔きながら了承したのだった。

 そうして姫路の通う学校に、大神が転校してきた。財閥のコネやらなんやらで強引に私立校への転入手続きを済ませたらしい。右手のことは誰にも話さないで欲しいと頼まれた姫路は、当時の状況をよく覚えていない鳥目にも黙っておくことにした。


「大神くん、どうやって私たちを助けたんだろうね? 私、気付いたら担がれてたから……」

「……さぁ? 運が良かっただけじゃない?」

「――カッコよかったなぁ……」


 頬を夕陽のように染めながらポツリと呟いた鳥目を見て、姫路は心の中で応援することを決めるのだった。

 やがて三人とも中学校に上がった頃。姫路と大神は下校途中に黒染者ブラッカーによる立てこもり事件に遭遇。警察が手も足も出せない現場に、赤い瞳を滾らせる中学生の少年少女が乗り込んで事件を鎮圧。そこに居合わせた私立探偵を名乗る怪しい男に二人とも勧誘されるのだが……それはまた別のお話――



 **



 一瞬。息を吐いて捨てるようなわずかな時間。姫路は、そんな過去を思い出していた。

 案山子カカシたちが巨大な黒蜥蜴とかげに蹴散らされる。毒の息を吹きかけられ、腐敗し、倒壊する。空を舞うドロシーが哭き喚いても、二度と立ち上がることは無い。

 蛇の群れが舞原に迫る。立っているのがやっとといった様子の彼女では、無数の毒牙を回避することはできないだろう。それでも目を背けず、迫り来る脅威を睨み返すその少女に姫路は。


「まったく……みんな一人で抱え込みすぎなのよ」


 ポン、と肩に手を置いて囁くと、飛び掛かって来た大蛇だいじゃを黒炎纏う右足で蹴り飛ばした。

 文字通りの一蹴り。鋭い上段蹴りをぶちかまし、その頭部を消し飛ばした。続けざまに右手に黒炎を集約させ、火球を放つ。標的である黒蜥蜴とかげに命中し、その巨体が轟々と燃え盛って崩れ落ちた。


「一緒に戦いましょう、枝草しぐさ。貴女がルゥナを守るために全力を尽くすなら、その貴女を私が守ってあげる……ううん、守らせてほしい」 


 姫路の背中に、血混じりの咳を吐く声が届く。


「ごほっ、けほっ……! キミが守りたいのは、彼の方だったんじゃあないかい?」


 弱弱しい声で、なお皮肉のようなことを言う舞原に、姫路は微笑みながら振り返る。


「うるさいわよ。黙って守られてなさい」


 そんな理不尽極まる台詞と共に、姫路黄昏ひめじゆうやけは黒炎を纏う。

 今度こそ。

 その炎で、大切なモノを守るために。

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