第五章 八節 黒い獣と黒い竜

 黒川大橋の中央へと向かうべく、姫路の作り出した黒炎の壁を飛び越えた大神は、そこに広がる光景に思わず苦情を叩きつける。


「どこに着地できるんだよこんなモン!」


 数メートルの跳躍の後、目に飛び込んできたのは足元を埋め尽くす蛇の絨毯だった。足の踏み場もないとはこのことだ。

 しかし迷っている暇はない。右腕に巨狼の影を纏い、その牙を突き出す。


「《黒狼の牙フェンリル》‼︎」


 大型ショベルカーのような顎が開かれ、黒蛇の群れを丸呑みにする。たった一噛みでその一団を消滅させ、黒一色の橋上に着地した。

 黒い飛沫が舞う。靴底に広がるのは、水溜まりを踏み抜いた時のような濡れた感触。この橋を真っ黒に染めている、ルゥナの胸から流れ落ちた黒血なのだとすぐにわかった。


「……死者の岸ナーストロンドの館、ニーズヘッグのお膝元か。冗談キツいぜ、ルゥナ」


 もはや見飽きたと言いたい。橋上に広がった黒血から生えるように出現し続ける大蛇だいじゃの軍団が、赤い両目を揺らしながら這い寄ってくる。


「盛大なお出迎えに涙が出そうだよ。だが生憎と茶をシバく時間は無いんだ」


 大神の背後から、燃え盛る黒いヒトガタが前に出る。姫路がその力の半分を凝縮して作り出したという、尾を持つ妖精『火蜥蜴サラマンダー』だ。小柄な女性を思わせるしなやかなフォルムだが、その迫力は近くにいる大神にしかわからないだろう。まるで山火事を前にしているかのような、大自然の脅威そのものが形を成しているのだ。

 火蜥蜴サラマンダーは数センチほど宙に浮きながら滑るように移動し、蛇の群れにその燃え盛る両手をかざす。


「土産はコイツだ。遠慮せず受け取りやがれ!」


 黒炎が一直線に放射される。四大精霊が一つ、火の具現化たる爬虫類が、その猛火を容赦なく浴びせて有象無象を消し飛ばす。その射程範囲は三十メートルと言ったところか。黒蛇に埋め尽くされていた橋の上に、見事な一本道が出来上がった。

 大神はその活路に飛び込む。両脇にはまだ無数の蛇がいるが怯んでいる場合ではない。飛び掛かってくる毒牙を、右腕の大顎で食い千切りながら突き進む。

 ルゥナが浮かぶ橋の中央地点まではあと百二十メートルほど。そして、あと七十メートルほど進めば鋼鉄のアーチに飛び乗れる。湾曲したアーチを駆け上がれば、ルゥナまでは一直線だ。まずはそこを目指して走る。

 拳をぐっと固めた火蜥蜴サラマンダーが、その灼熱の両腕で迫り来る黒蛇たちを殴りつけていく。拳に触れた部分が爆破し、あたかも実体のある格闘家の連打ラッシュのように、無数の蛇たちを吹き飛ばしている。


「……姫路アイツ、やっぱりバケモンだろ……」


 長時間の戦闘で疲弊し切った身体で作り出した分身がこの威力。彼女のことは怒らせないようにしようと改めて心に決める大神であった。

 しかし、火蜥蜴サラマンダーも万能ではないらしい。


「サイズが縮んでるな。攻撃回数に制限があるのか。頼もしいけど寿命は短い、か」


 最初に見た時は姫路より少し背が低いくらいだったが、今はその半分程度のサイズ。人間で言えば幼稚園児程度だ。火力自体は変わらないようだが、いずれ力を使い果たして消えてしまうだろう。

 そういう意味では、無尽蔵に増え続ける蛇の群れは火蜥蜴サラマンダーにとって相性が悪いのかもしれない。相手をすればするほど縮んでしまう。大神が橋の中心に辿り着くまで、その炎が残るかどうか。


「いよいよクライマックスだな、兄弟」


 軽薄そうな声が、大神の耳元で聞こえた。

 大神の左肩に、あの黒いリスがちょこんと座っていたのだ。


「……お前いつの間に出て来たんだよ」

「まぁまぁ、細かいことは置いておこうぜ。それより――」


 橋の左右からニョロニョロと這いずって群がってくる大蛇だいじゃたちを、大神は全力で駆け抜けながら避けていく。たまに混ざっている巨大な蜥蜴とかげは明らかにヤバそうな吐息を吹きかけて来るので、その頭を踏み台にして飛び越えていく。


「随分と危険な一本道だな。この調子であの子のところまで辿り着けるのかい?」

「辿り着くしかねぇだろ。見てるだけなら、せめて何か手伝え!」

「そのつもりさ。キミに死なれるとオイラも消えちまうからな。アドバイスのために出てきてやったのよ」


 駆け回り跳び回る大神の左肩にしがみつきながら、ラタトスクがそんなことを言った。


「もう気付いてるんじゃあないか? その力がどんなモノなのか。あの姫路おじょうちゃんは複合型の伝承だとか言ってたが、そんなんじゃあない」

「……ああ、そうだ。姫路みたいに、別々の伝承が重なった能力じゃあない。俺の黒血能力ブラックアーツは、。あくまで一つの物語――」


 月夜に照らされた決戦の地で、不気味な黒いリスがほくそ笑む。

 

「教えよう。キミの能力の名は――」


 大神の右腕に宿る狼。主神オーディンをその大顎で殺害した北欧神話の災厄、フェンリル。

 ニヴルヘイムの泉フヴェルゲルミル、およびヘルヘイムの死者海岸ナーストロンドに棲む邪竜、ニーズヘッグ。

 そして、大神の胸に空いた傷穴から流れ出た黒血の海より来たる、巨大な蛇。

 いずれも北欧神話に登場する、神々の天敵たち。その災厄たちがもたらした、世界の破滅。古今東西あらゆる神話の中で、最も有名と言える大災害。


「《神獣戯画ラグナロク》。北欧神話における終末戦争をし、神々と戦った魔獣たちのを作り出す、二番煎じの二次創作だ」


 それは滅亡の運命。またの名を神々の黄昏たそがれ

 死が蔓延る世界の終焉。神々の時代は終わりを迎え、人間の時代がやってくる北欧神話の大転機。

 もっとも……この力を教えてくれたあのリスラタトスクは、ラグナロクに参加しなかった一般動物だ。彼がなぜ混ざっているのかは定かではない。本人の言う通り、イレギュラーと言うやつなのかもしれない。古き神話には、様々な解釈がつきものだ。

 

「《神獣戯画ラグナロク》――それが、俺の……」


 思わず笑みがこぼれる。

 忌々しく、いい思い出などない、できれば出会いたくなかった力。自分の中を流れる穢れた血液を、右手に空いた孔を、何度呪ったことか。

 しかし、それでも。

 十年来の付き合いである力の……自分の中に棲む彼らの名前を知ることが出来たのは、素直に喜ばしいことだった。

 

「あーあ。後でフェンリルたちに怒られるかもなぁ。人間ごときと馴れ馴れしくすんなってさ」

「心なしか右手が重いのはそういう理由か?」


 黒狼の顎が開かれた右腕が、ずっしりと重くなった気がした。

 今まで自分のモノのように振るっていた力が、一つの意志を持ったように感じられた。よくわからないけど、多分、不機嫌そうだった。


「何せオーディンを食い殺したラグナロクの主役だ。プライドが高いのさ。オイラが最初に名前を教えたから、キミはその力の一部を引き出せた。フェンリル本人も、渋々と言った感じで力を貸してたんだ。でも――おっと」


 ぺらぺらと喋り続けるラタトスク目掛けて、一匹の黒蛇が飛びついてきた。大神が身を屈めたことで回避できたが、あと少しで丸飲みにされていただろう。


「キミはこれで、キミの中に巣食う獣たちを引き出せるようになった。それはつまり、フェンリル以外も活躍できるってこった」

「……なぁ。ラタトスク」

「なんだい?」

「もしかしてフェンリルって……」

「言ってやるな。拗ねたらしばらく出てこなくなるぞ」


 めちゃくちゃツンデレなのでは? と言う言葉を頑張って飲み込む大神であった。

 そんなやり取りをしながら走っているうちに、先ほど火蜥蜴サラマンダーが焼き払った場所から再び蛇たちが現れ始めた。しかも、いずれもサイズが一回り大きい。首をもたげれば五階建てのマンションを超えそうなほどだ。

 火蜥蜴サラマンダーがその内の一匹に突撃し、鉄拳制裁。爆炎が炸裂した胴体に穴が空き、そのまま炎上して焼け落ちていく。その代わり、また火蜥蜴サラマンダーの体躯が縮んだ。


「さぁ、大神空也おおがみくうや。その力の使い方はもうわかるだろ? 早くんでやりな。ずっとウズウズしてるヤツがいるからさ」


 ラタトスクはそう言うと、大神のパーカーの内側に潜ってしまった。言うべきことは伝え終わったといったところだろう。

 ウズウズしてるヤツ。この戦いに出て来たくて、大神の中で声を上げている者。その声は、既に大神に届いていた。


「そうだな。相手がニーズヘッグなら……お前の出番だ!」


 右腕に纏った《黒狼の牙フェンリル》が変容する。牙の生えた頭部が形を失い、黒い霧のようになって右腕を包み込む。

 影はやがて、新たな形を成していく。北欧神話の世界から影を落とすのは――翼だ。


「出て来い! 《死喰鷲の翼フレスヴェルグ》‼」


 ユグドラシルの枝に棲む、巨大なわし。鳥の姿であるとも、翼を持つ巨人の姿であるとも言われる、風の化身。

 北欧世界に吹く風はそのわしのはためきによるものと言われ、ラグナロクでは死肉をついばみに戦場へ降りてくる死者喰らい。

 根に棲むニーズヘッグとは相容れぬ仲だ。なぜなら仲介役のラタトスクが、互いの言葉を誇張して悪口として伝えているからだ。

 二匹はお互いが罵られていると思い込み、憤り、死肉を奪い合う仲となった。ラグナロクの空を舞う、最大のライバルである。

 大神の右手は、狼の頭部からわしの頭部へと変異していた。鋭いクチバシが生え、赤い双眸を輝かせている。前腕の外側部分に黒い翼が一つだけ生え、動かすたびに漆黒の羽根が舞う。残念ながら空を飛ぶことはできないが、その能力は既に理解していた。


喧嘩相手ニーズヘッグの手下共だ。存分に蹴散らしてやれ!」


 大神が右腕を振るうと、巨大な黒翼が豪快に風を巻き上げた。その一振りで強烈な突風が発生し、地を這う大蛇だいじゃたちは軽々と浮き上がって飛んでいく。北欧世界に吹く神秘の風が、地底に棲む蛇たちを天へと送り届け、彼らは終ぞ落下してくることが無かった。

 道は開けた。もはや橋の上に障害はなく、大神を止める者は存在しない。最後の跳躍の足場となる鋼鉄のアーチまで、あと五十、四十、三十メートル……と。

 

「うん? ……?」


 とある異変に気付いた。いや、今まで異変だったものが無くなったという方が正しいか。

 竜人のように変容したルゥナの孔から流れていた黒血の滝が止まったのだ。蛇口の栓を閉めたかのようにピタリと。

 もしかしてルゥナの中の黒血が枯れ果ててしまったのか。そう心配して、大神は夜空を見上げる。


「なんだ…………?」


 月の光を浴びて空を舞うルゥナの周りに、いくつかの光が瞬いたのを確認した。何かが月光を反射して、ギラギラと――


「……ッ! まずい!」


 風切り音と共にそれは落下してきた。咄嗟にブレーキをかけて立ち止まった大神の目の前で、落下の衝撃と共に黒い飛沫が上がった。

 金属同士が擦れ合う耳障りな音が鳴り響き、微細な振動が黒川大橋を揺らす。大神の前に突き刺さっていたのは。


「これは……《血を啜る断頭台ブラッドイーター》か!」


 月光を反射して黒光りしているのは、ギロチンだ。普段は鎖に繋がれて振り回されるルゥナの武器だが、その台形の刃だけが黒川大橋の車道部分にめり込んでいた。

 大神が再び夜空を見上げると、ルゥナの周囲にいくつものギロチンが刃を下に向けて出現していた。彼女の胸の孔から飛び出た血飛沫が形を変え、一枚一枚が空に浮かび、巨大なカミソリのように並んでいく。

 流れ落ちる黒血が止まったのは、枯れてしまったからではない。毒蛇を召喚するニーズヘッグの力ではなく、ルゥナ本来の力を解放したからだった。

 

「おい……待て、ルゥナ。話せばわかるかもしれない」

 

 問答無用だった。

 真っ赤な眼球から真っ黒な涙を流し続けるルゥナは、その眼で大神を見ているのか、はたまた無意識のうちに近づく者を迎撃しているのか。大神の声など聞こえないという風に、無数のギロチンが驟雨しゅううとなって降り注ぐ。


「う、おおおおおおおおおおおおおおおおッ⁉︎」


 右へ跳び、後ろへ下がり、左へ転がり、前に走り。大神もよく知る一撃必殺の一刀両断を、死に物狂いで回避していく。

 だがその大立ち回りの只中で、大神は観察することを忘れなかった。ルゥナが降らせているギロチンたちは、いずれもに落ちていない。ルゥナから見て斜め下にいる大神に向けて発射しているのだから当然である。橋に落ちたギロチンはその勢いと重力加速によって突き刺さっているだけで、この大橋を貫通していないのだ。もし真っ直ぐ垂直に振り下ろされていれば、今頃フォークで突いたスポンジケーキのようにズタボロとなっているはずである。


「ルゥナのやつ、殺す気は無いってことか……? いや手加減足りてねーだろ、普通に死ねるっての!」


 ルゥナの黒血能力ブラックアーツを「垂直に振り降ろされなければ死ぬことはない」などと甘く見てはならない。大神は直接担いだことはないが、外見重量だけでも金属バットなどとは比較にならないことがわかる。それは垂直でないと斬れないだけであり、人間を破壊するのに十分過ぎる威力を誇るのだ。その鋭い鋭角な刃が直撃したら、仮に垂直じゃなくても大神の頭はジャムになるだろう。

 ――なお参考までにだが、フランスで使われた代表的なギロチンの刃部分の重量は四十キロである。


「《死喰鷲の翼フレスヴェルグ》……交代だ! 《黒狼の牙フェンリル》!」


 右腕の影が再び形を変え、巨狼の頭部が顕現する。漆黒の大顎を開き、今まさに大神の頭上に迫っていたギロチンに牙を突き立てる。鉄板がひしゃげて砕かれる豪快な音と共に、黒光りするギロチンが霧散した。

 降り注ぐ刃の雨に傘の一つでも欲しいなと思った時、火蜥蜴サラマンダーが前に出た。突き出した両手から黒炎の弾丸を連射し、降り注ぐギロチンを迎撃する。

 その爬虫類を火霊として取り入れたパラケルススは、鬼火伝承の一つであるウィルオウィスプとの関連も示唆していた。火蜥蜴サラマンダーはその身を削り、人魂ひとだまのような火の弾を乱射する。幼稚園児程度に縮んでいた体は更に小さくなり、大神の肩に乗れそうな程のサイズまで縮んでしまった。いや実際に乗られたら火傷では済まないのだが。

 黒炎の弾幕は、降り注ぐギロチンたちに直撃して爆発。大神の頭上に落下するギロチンを消滅させ、防ぎきってくれた。


「これを連発されたらまずいな……。ルゥナのやつ、本当に俺がわからないのか?」


 用意されていたギロチンをすべて使いきったルゥナは、黒川大橋を跨ぐほどに巨大化した竜の翼から黒血を滴らせる。翼膜から流れ出た黒血は再びギロチンに姿を変え、ルゥナの両脇に整列するようにして空中に待機した。またすぐにでも、凶刃の豪雨が再開するだろう。

 と、上空のルゥナとギロチンにばかり気を取られていた大神は、咄嗟の奇襲に反応が遅れた。


「ぐあ……ッ⁉︎ まだ残ってやがったのか!」

 

 大神の右大腿部に、生き残りの黒蛇が噛みついていた。黒血の充満した橋の上、同じ素材から作られた蛇たちに対しては自慢の嗅覚が通用しない。アイスピックのように長く鋭い牙が、大神の脚に四つの大きな穴を開けた。

 激痛に顔を歪めながらも、大神は右腕の牙で黒蛇を食い千切る。首から上の頭部だけが脚に食い込んだまま残ったが、それも左手で引き剥がす。どくどくと、大量の黒血が傷口から噴き出てきた。


「蛇に噛まれたか。ヤバイな、兄弟。猛毒が回って意識を失っちまうぜ?」


 服の内側から今頃出て来たラタトスクが、心配しているのかいないのかわからない軽口を叩いてくる。そんなこと、言われずともわかっている。

 毒を絞り出すのが先か、止血するのが先か。どちらにせよ、人体で最も太い血管が走る大腿部を損傷したのだ。毒死と失血死、どちらが早いかと言う話であり、生き延びるという選択肢は残されていない。


「こうなったら毒が回る前に、右脚を食い千切って――あ?」


 半ば自棄ヤケになった大神が荒療治を試みようとした時、自身のチノパンを貫通して空いた穴を見て動きが止まった。

 傷口が、もう無い。


「治ってる……のか?」


 噛み傷があっという間に再生していた。心臓すらも再生して見せた不可思議な回復力は健在だ。どうやら体内に回った毒すらも、一瞬のうちに浄化されたのだろう。意識はハッキリしているし、手足も問題なく動く。

 ルゥナによる噛み痕の治りが遅かったので、もしや再生能力は消えてしまったのかと思っていた。もしかしたら吸血鬼の牙には治癒を妨げる呪いのような効果があるのかもしれない。それはそれで同じように噛まれた鳥目が心配になってくるので、この事態が収束したら真っ先に病院へ駆けつけることを決める大神であった。


「ラタトスク、教えろ。この再生能力は、一体……?」

「さてな。言っただろ? イレギュラーは二つあるってさ。オイラにもよくわかんねーけど、それもキミの能力なんだと思うぜ?」


 絶対に適当を言っている気がする。ここに来てそのホラ吹きは何の助けにもならない。

 大神は自分の力の正体が、ラグナロクにまつわる災厄の獣たちの模倣だと知ることが出来た。だが、その治癒能力だけは説明がつかない。どんな傷も癒す力を持つ獣など、大神の知る北欧神話には存在しない。

 ロキとアングルボザの間に産まれたフェンリルの兄妹、死と再生を司る女神ヘルであれば、回復能力も有しているかもしれない。しかし、ヘルはあくまで一人の女性だ。大神に宿る獣の力とは異なる存在だろう。


(もしかして――)


 大神はこれまで、自身の再生能力は《黒狼の牙フェンリル》の副次効果だと思い込んでいた。そもそも自分の能力についてハッキリ知らなかったし、北欧神話の怪物であればそれくらいのオマケはあるのだろうと勝手に解釈していた。

 だが、能力の詳細が明らかになった今、やはりそれはのだ。


(もしかして、なのか?)


 この窮地で。この地獄の只中で。

 大神は、ある一つの可能性に辿り着いた。

 その瞬間。彼に応えるように、胸の内が熱く――いや、温かくなった気がした。


「何かに気付いたみたいだな? オイラから言えることは何もない。平気で噓をつくオイラだが、を破るほど悪人になった覚えはないのさ」

 

 左肩に乗っていたラタトスクは、それだけ言うと手を振って霧散した。姿を消しただけで、また大神の中から戦いを見守るつもりなのだろう。


、か……。だったら、こんなところで立ち止まっていられない!」


 靴底で黒い飛沫を上げながら黒川大橋を全力疾走する。すっかり手のひらサイズまで縮んだ火蜥蜴サラマンダーが、その隣に並んで飛行する。

 もはや大神は両脇のアーチを目指していない。ルゥナのいる夜空の真下を目指してただ駆け抜ける。それがルゥナに辿り着く、最短で最良で最恐のルートだと気付いたから。


(そうだ……で守るんだ。ルゥナを!)


 そしてその時は、間もなく訪れた。

 座標は夜空に浮かぶルゥナの真下。大量の、計測できないほどの黒血が流れた黒川大橋の中心。

 見上げればナニカが瞬いている。もちろんそれは、宇宙の果てから届く美しい星明りなどではない。

 ズラリと並んだ、無数の《血を啜る断頭台ブラッドイーター》。月光を反射して鈍く輝く黒刃たちが、ピアノの鍵盤のように等間隔で浮いている。それが天高く、何層も積まれている。

 標的は直下の大神。つまりその角度は、垂直。


「流石に圧巻だな。でも……!」


 それはルゥナを救うため、大神が出せる唯一の回答だった。視界に広がる望み通りの構図に、どうしても背筋が冷える。自分の中の理性が警報を鳴らし、早く逃げろ馬鹿野郎と騒ぎ立てる。やかましい、と大神は思った。


「戦闘兵器の失敗作? 数日後に死ぬ命? 事件隠蔽のための抹殺命令?」


 当たれば即死。苦しみを与えず慈悲深き死を与える究極の刃の下で。

 大神は「ハッ」と笑い飛ばし、大顎を開いた黒狼を天へと掲げる。


「一体どこの三流ライターがいた空想シナリオだか知らないが――」


 夜天から死が降り注ぐ。

 全ての刃が垂直に。逃げ場もないほどの範囲と質量で襲い来る。

 刑は執行された。断頭台に首をかけられた少年は――月へと吠える。


「そんな駄作の終末バッドエンドは、俺たちの黒で書き換えてやる!」


 降り注ぐ無数の刃にまず立ち向かうのは、手のひらサイズの火蜥蜴サラマンダー。すっかり弱弱しいフォルムになってしまったが、その火力は健在だ。黒炎の妖精はギロチンの雨の中心に向かって飛翔し、最期の劫火を解き放つ。

 小さな太陽が散るように漆黒の炎が炸裂した。密集した刃の中心から拡散した超熱の黒炎が、降り注ぐギロチンの大半を消し飛ばす。

 だが、それでは足りない。何層にも積み重ねられたギロチンの束は、火蜥蜴サラマンダーが消えた後の黒煙を貫いて降り注ぐ。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおッ‼」


 垂直に落下するギロチンが、黒川大橋を次々と貫通してその鋼鉄の塊を穴だらけにしていく。無論、その内の何枚かは大神目掛けて降り注ぐ。

 だが大神はその場から動かない。自分目掛けて振り下ろされたギロチンに狙いを絞り、右腕の牙で噛み砕いていく。

 一枚、二枚……三枚までが限界だった。右腕だけではその連撃をいなしきれない。四枚目のギロチンには牙を突き立てる猶予が無く、右腕を払って弾くのが精いっぱいだった。

 ギロチンを弾いた衝撃でバランスを崩し、大神は大きく仰け反った。見上げた月夜から、最後の黒刃が大神の喉元のどもとに差し迫る。回避も防御も赦されない、形ある死が大神の命を迎えに来た。

 だが、それでよかった。最後の一撃だけは、防いではいけなかった。

 

「――俺に堕ちろ、《血を啜る断頭台ブラッドイーター》……!」


 恐怖はあった。怖くないわけがなかった。

 それでも大神は、満足そうに口角を吊り上げる。

 その不敵に笑った表情を貼り付けたまま……大神空也おおがみくうやの首が飛んだ。



 **



(どうして――)


 暗い、暗い、闇より黒い世界の中で、白い少女は悲鳴にも似た嗚咽を漏らす。


(どうして、追ってきてしまったの――?)


 そこは少女の中にある精神という名の空間。今彼女が見ているのは、自分の体を動かす権利を奪った何者かが見ている光景。いくら少女が声を発しようと、闇の世界にこだまするだけだ。その肉体は少女の意識とは関係なく、眼下に迫る一人の少年を殺そうとしている。


(わたしはもう、一緒に生きられない。わたしは所詮、魂の汚れた吸血鬼でしかなかった……)


 懺悔は届かず、謝罪は赦されない。どんな言い訳も意味をなさない。

 大神空也おおがみくうやの血を飲んだ瞬間、自分の内側から解き放たれた衝動を抑える手段はなかった。手から離れたリンゴが落下するのと同じように、決して抗えぬ宿命システムだった。避けようのない結末。ルゥナ=サーティーンが人間の世界に飛び出た時点で、いつかはこうなることが決まっていたのだ。


(だから、わたしにもう近づかないで……! 朝を迎えれば、わたしは消える。みんな逃げてくれればそれでいい。それでみんな助かるのに――)


 少年は黒い橋の上を走り、こちらへ向かってくる。無数の大蛇だいじゃを打ち払い、見覚えのある黒い炎と共に真っ直ぐ走ってくる。

 自らの肉体を奪い暴走する力の正体を……北欧神話の邪竜の力を、ルゥナは理解していた。貪食の竜ニーズヘッグは、いつまでも自分を呼び出さない大神に愛想を尽かし、血を求めて狂った吸血鬼へと宿主を変えたのだ。なんて身勝手な利害の一致だろう。

 全て自分が悪い。あと数日だけでも大神と一緒にいたいと欲張った結果の災い。日の下に出て大人しく消えてしまえばよかったと、遅すぎる後悔がルゥナの胸を引き裂く。

 なのに。


(来ないで……。来ないで、来ないで来ないで来ないで――!)


 どれだけ拒絶しても、その少年は足を止めない。ナーストロンドの処刑人でもあるニーズヘッグは、一撃必殺のギロチンを持ち主の許可なく勝手に使用する。無数の刃が降り注ぐが、それでも彼は引き下がろうとしない。むしろより強い眼差しを向けて、前へ。前へ。


(もう守ろうとしなくていいから……約束は忘れていいから……! もうわたしのところに来ないで!)


 その拒絶は、彼を想ってのことだった。もう傷つけたくないと。大切な人を失いたくないと。心からの叫びだった。

 そして、精神の望みは肉体に届いた。彼を近づかせまいと。断じて拒むと。邪竜の領域に侵入する罪深き者を……断罪すると。


(違う……やめて……! クーヤを、殺さないで!)


 真下に辿り着き、こちらを見上げてくる大神に、邪竜は容赦なく刃を降り注がせた。垂直に落ちたギロチンがどうなるか、ルゥナにはもちろんよくわかる。


(あ――――――――――)


 首が飛んだ。

 胴体から離れたその塊は、間違いなく。


(ああああああああああああああああああああああ)


 出会ってから、わずか四十八時間。

 それでも大切に思えた、初めて優しさを教えてくれたヒト。

 その感情が、信頼する者へと向ける友情なのか。家族を想うような愛情なのか。あるいはまだ少女の知らない、全く別の感情なのか。

 心臓を潰されても黄泉返よみがえった、吸血鬼でさえ驚く肉体を持つ彼のことだ。きっとまた起き上がるはずだ。

 ――彼が起き上がろうと何だろうと、そのは消えない。

 彼は、死んだのだ。

 今まさに、ルゥナの手によって。

 造られた吸血鬼の少女は、大好きなヒトを殺したのだ。

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