第五章 五節 朽葉色の魔法使いは太陽に焦がれる
ルゥナが呼び出した蛇の群れは、ゆっくりと、しかし確実に黒川市内へ侵攻していく。
彼らの標的はおそらく、生きた人間だ。
大通りから繁華街へ向かう蛇たちは、もはや蠢く絨毯のように路上を覆い尽くしている。加えて橋から南北に伸びる堤防の上を進めば、河付近の家々を襲うことはたやすい。誰かが命懸けで足止めしようとも、穴の開いた水道管から噴き出す水を両手だけでは抑えきれないのと同じで、後から後から押し出すように
だがそれでも、蛇の群れを押し返し、道を切り開き、満月を背後に浮かぶ彼女の下へと辿り着かなければならない。彼女を止めなければならない。首都圏を担当している《
「それにしてもこの数、キリがないよ……! 何なんだ、この蛇たちは!」
黒川大橋からおよそ百メートルの地点。漆黒に染まったアーチ橋が目と鼻の先に見える、高層マンションが並ぶ裏通りにて。
近隣住民たちは避難が間に合っておらず、何が起きているのかわからないといった表情でマンションの高層階から様子を窺っている。彼らはいつ自分たちが襲われるのかと震えているだろうが、少なくともこの場にいる限り襲われることはない。なぜなら、マンションの入り口にはそれぞれ門番のように舞原の
舞原の
「相手が生き物でよかったよ。おかげで市民を守りながら戦うなんていう面倒くさい展開にならずに済んだからね」
舞原は心の底からそう思った。もし相手が
舞原はルゥナによって暴走を止められた大神の
何か手掛かりになる情報があればと、
(このまま自分の周りを
六体の
蛇の群れを掻き分けるようにゆっくりと進んでいく舞原。しかしその時、足元から異様な音が聞こえた。ガコガコという、何か重たいものが揺れ動くような音だった。
目線を下すと、そこには。
「しまった……下水道……!」
足元にあったマンホールの蓋を下から押し上げ、黒い蛇たちが一斉に這い上がって来た。
身を守るものは何もない。真っ黒な蛇たちは毒液のようなものを口から撒き散らしながら、猛スピードで飛び掛かる。咄嗟の襲撃に反応が遅れた舞原は、まさに蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
わずか二メートルほどの距離、瞬きする間もなく全身に牙が突き立てられる――はずだった。
終わりを悟って目を瞑った舞原。しかし次の瞬間、気付けば彼女は空にいた。
「え……………?」
目を開けると、満天の星空に体が浮いていた。
正確には、星空に飛び上がった者の腕の中に担がれていた。
「キミ、は――」
「間に合って良かった。お前が
間一髪で舞原を抱え、空中へ跳び上がっていたのは
「姫路! やれ!」
大神がマンションのベランダから夜空に向けて声を上げると。
「言われなくてもそのつもり!」
夜空に灯る朱色の髪が、漆黒の火炎を両手両足から噴射しながら急降下してきた。
その名は『灼熱』。炎という共通点を持つ複数の民間伝承が融合した、極めて稀有な
「焼き焦がせ! 《
その右手から黒炎が放射される。滝のような勢いで降り注いだ漆黒の劫火が、マンホールから飛び出ていた黒蛇たちを一瞬で包み込んで
同時に黒炎が下水道へと流れ込み、その路上にあるいくつかのマンホール蓋が地下から噴き出した爆炎に弾き飛ばされ、漆黒の大噴火が発生した。大神が抱えて跳んでくれなかったら、舞原も巻き込まれていたかもしれない。
「……アレじゃあこの辺のマンションの下水管もめちゃくちゃだよね」
「俺しーらね。降りるぞ」
「うわぁっ」
姫路の暴れっぷりを上から眺めていた舞原だったが、再び大神が跳躍したので浮遊感に抱かれた。そのまま自由落下する大神の首に腕を回してしがみつき、神にも祈る気持ちで目を瞑る。わずか二秒ほどで着地の音が響いたが、大神が上手く衝撃を和らげてくれたのか舞原の内臓がシェイクされることはなかった。
手足から噴射した炎の勢いを弱めながら、姫路もゆっくりと着地した。その熱気を体感するのは先ほどぶり二度目だが、ひたすらに末恐ろしいと感じる舞原であった。
「流石の嗅覚だわ、大神くん。私が飛んできてることによく気付いたわね」
「お前の到着を待ち詫びてたからな。この量を蹴散らすにはお前の火力が必要だ。手を貸してくれ」
「……やっと素直に人を頼るようになったわね。悪い気はしないから、もっと頼りなさい」
舞原の左目に映るのは、何ともまぁ仲良しな二人組。朝の戦いの時もそうだったが、姫路が駆け付けた時の大神に浮かぶ安堵の表情は、彼女を心底信頼しているのだと見て取れるし、姫路は姫路で腕を組んでクールぶっているがその表情が嬉しそうに見える。探偵事務所の同僚なだけあって息が合うのだろうが、それ以上のナニカが見え隠れするような気がしてならない舞原であった。
「ところでさ。そろそろ降ろしてほしいんだけど」
「あっ、すまない」
「いいよいいよ。ボクなんかが邪魔してごめんね」
大神の両腕から解放されて地に足をつける。当人たちは頭の上に「?」を浮かべている気がして、皮肉る価値がないなぁと思う舞原であった。
繁華街へと向かう
「大神くん、今更だけどアレは何? いつから黒川市を舞台にしたB級パニック映画の撮影が始まったの?」
「そんな映画を撮る監督がいたら今すぐにでもぶちのめしてやりたいが、残念なことにノンフィクションだ」
大神が遠くの夜空を指差した。その先に何がいるのか、舞原は知っている。満月を背に、巨大な黒翼を広げて浮かぶルゥナを見て、姫路が息を飲んでいた。
「なるほど……ルゥナを止めない限り、この蛇たちは湧き続けるわけね。これ以上、街にアレを進ませるわけにはいかないわ」
「その通りだよ。ボクたちは一刻も早く、ルゥナを止めなくちゃならない」
舞原がそう言うと、姫路と大神が振り向いてきた。舞原は遥か上空に浮かぶルゥナを見つめながら続ける。
「今この街に、
「なんですって?」
「《
「お早い到着だね。でも、まだまだ援軍が来るはずだよ。彼らは
その話を聞くが早いか、姫路と大神は蛇の大群へと向き直った。
「じゃあ、さっさと行きましょう。ルゥナを助けるわよ」
「舞原、お前は下がっててくれ。ここは俺たちで――」
大神の言葉が終わる前に、彼の隣に立つ姫路の全身が黒く発火した。その瞳がめらめらと燃える焔のように朱く染まる。舞原は嫌な予感がして、大神の後ろにコッソリ隠れた。
姫路はブーツの裏から黒炎を噴射して真上に飛び上がると、そのまま空中でホバリングし始めた。そのまま地上の黒蛇たちに向けて右手を突き出すと、彼女の全身から爆炎が舞った。
姫路が周囲に放射した黒炎は、彼女を中心として何かの形を成していく。
「
それは大きく開かれた竜の
ヨーロッパに伝わるドラゴン伝説にして、現代では大気の発火現象を指したものであったとも解説される火霊の一つ。英文学最古の叙事詩『ベーオウルフ』においては財宝を守る番人としても語られる、火焔の息吹で旅人を焼き尽くす不吉の象徴。
「『
黒竜の大顎、その中心にいる姫路の右手から漆黒の熱線が放射された。
その光景はまさに
(………………くそう)
黒炎を纏いながら舞原の前に着地したその少女は。
迫り来る無数の怪物たちを、アスファルトが変形するほどの熱量で薙ぎ払ったのは。
《
沼に棲むヒキガエルには高くて遠すぎる、熱く温かく明るい、けれど近づいたら燃やされてしまう太陽のように見えて。
(カッコいいなぁ……)
などと思ってしまう舞原なのであった。
「…………俺
手持ち無沙汰になった空っぽの右手をグーパーしている大神をよそに、姫路が全身の黒炎を掻き消して走り出す。
「ふぅ……! これで道が開けたわね。さぁ、アイツらがまた増える前に橋まで辿り着くわよ!」
「ほんと、敵わないや」
やれやれと首を振って、ダボついたオーバーオールの少女は太陽を追って走る。
隣を駆ける、太陽すら飲み込んでしまいそうな狼を横目で見て微笑む。
「……なんだよ。俺の顔に何かついてるか?」
「別にぃ?」
不機嫌そうに三白眼を向けて来た大神に、ある一言を投げてやる。喰らえコンチクショウ。
「ばーか」
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