第五章 四節 蒼い探偵は紫煙と共に
「今日もお客さん来なかったみたいね?」
探偵事務所のアルミ製のドアを開けて入って来たのは、ウェーブのかかったミディアムヘアーの女性だった。
その手には大きなビニール袋を提げている。はみ出している長ネギを見るに、近所のスーパーで食材を買ってきたようだ。
「よくわかったな。いつものことと言えばいつものことだが」
安楽椅子に腰かけ、新聞紙を片手にコーヒーを飲みながら、
女性は両手をこすり合わせ、口から吐く息で温めている。
「だって、玄関が濡れてなかったもの。この雪の中を誰かが来たなら、濡れた靴の跡でびしょびしょになるはずでしょ?」
「ほぉ、お前にそんな推理が出来るようになるとはな。感動で涙が出そうだぜ俺は」
「むぅ……またバカにして。そんなこと言うんだったら、お鍋作ってあげませんよーだ」
女性はむくれっ面のまま、事務所の奥にある台所までビニール袋を運ぶ。ガサガサと袋の中身を出す音や、冷蔵庫を開く音が聞こえてくる。
『東京都心が例の事件以降、未だに生活できるような状態ではないのが原因です。人が住んでませんから、ヒートアイランド現象がこの五年間で落ち着いているのです。皮肉なことに、黒門事件は地球温暖化の解消に繋がったのだと言えるでしょう』
そんな心無い解説を放映して大丈夫かと怪訝に思ったが、自分には関係ないことだと
世界が黒に染まった、
だからこそ、
もっとも、この汚れ役のような仕事に……人の恨みを投げ売りできるほど買うような仕事に、愛する大切な者がついてくるとは思っていなかったのだが。
「煙草、やめたの?」
その声に、コーヒーカップにつけた口を離す。
汚染された東京の解放が遅々として進まない政府へのバッシングや、
「そりゃやめるだろう。気遣いくらいできる男なのさ。俺は探偵だからな」
「あんなに毎日スパスパ吸ってた人が、そんな急に禁煙できるなんて意外ね。禁断症状とか出てない? 大丈夫?」
「何言ってんだ、俺は探偵だぜ? 探偵は我慢強いものなのさ。なんてったって、探偵だからな」
「いつも以上におかしくなってることはわかったわ。無理しないで喫煙所にでも行ってきたら? 夕飯は用意しておくから」
頭の後ろで手を組み、もたれかかった椅子をギコギコと揺らしていると、台所からやって来た彼女が何かをデスクの上に置いた。
綺麗に包装された小さな箱には、赤いリボンが結ばれていた。
「これは?」
「ちょっと早いクリスマスプレゼント。前々から買ってあったんだけど、渡すタイミング無くって」
「クリスマス当日じゃあダメだったのか?」
「だって京助のことだもん。クリスマスだろうと急に事件の解決に飛び出していくかもしれないし。クリスマスが近くなったとき、一緒にいられる日があれば渡そうと思ってたのよ」
その小さな箱を手に取り、レースのリボンをほどいていく。
「クリスマスくらい仕事は休むつもりだぞ」
「どうだか。前だってデートの合間に警察からかかって来た電話を聞いて、血相変えて走っていったじゃない」
「……悪かったって。なんせこの近所のアパートで起きた殺人事件だったからな。凶悪犯を野放しにしておくわけには――」
箱の中身は、アンティーク調なオイルライターだった。
そういえば一年くらい前に、いつかオシャレなライターが欲しいと彼女に語った覚えがある。
「なかなかイカすじゃないか。高かっただろう?」
「金額の話はナシよ。それを言い出したら、京助の方こそたか~い買い物を考えてるんでしょ?」
ニコニコしながら訊ねてくる彼女に、
「全部お見通しってのは怖いねぇ。もしかして、俺以上に探偵に向いてるんじゃあないか?」
「ついでに、ここに捨てきれないで残ってる煙草が入ってるのも知ってるわよ?」
そう言って彼女はデスクの引き出しを開ける。そこには、新品の紙煙草が一箱。
「煙草の話をした途端、ちらちらと見てるんだもの。未練がましいのはダサいわよ、探偵さん?」
「……全面的に降伏するから、今日の鍋からキノコを抜いてくれないか」
「やだ。私シイタケ大好きだもんっ」
「………………」
デスクの中の煙草を掴み、ポケットに突っ込む。コート掛けからシングルチェスターを手に取り、スーツの上から羽織る。
「コンビニまで行ってくる。何かついでに買ってくるか?」
「私は特にないから、煙草の予備でも買っておいたら? 気遣ってくれるのは嬉しいけど、禁煙してる京助は見たくないもの」
「喫煙を勧めてくる女は珍しいと思うぞ」
「そう? 私、京助が煙草咥えてるところ見るの好きよ? それに、煙草の匂いがすると、京助を近くに感じられるというか……ふふっ」
「よせ。探偵だって照れるんだ。まぁしばらくは隣で吸ってやれないが――」
傘を掴み、ロンカラードアをガチャリと開ける。肌を刺すような冷気が吹き込んできた。
と、玄関から一歩踏み出す前に、探偵は振り返る。
「俺からのプレゼントも、実はもう買ってあるんだなこれが。あとで渡すよ」
「えっ、そうなの? 嬉しい!」
勢いよく振り返った彼女は満面の笑顔を浮かべていたが、その動きで肘がまな板の上を滑り、これから切ろうとしていた食材たちが台所の床に落下していく。彼女が「あ」という間抜けな声を上げるが、その食材たちは床に着くことなくギリギリのところで浮遊した。そのまま逆再生のようにまな板の上に戻っていく……のであれば良かったのだが、悪戯好きの騒霊たちは長ネギでチャンバラごっこを始めてしまった。
「あっ、コラ! やめなさい! 京助、この子たちを止めてぇ~」
「悪いが俺にも手に負えん。しばらくしたら飽きるだろうから、放っておけ」
天井近くで動き回る長ネギに手を伸ばし、ぴょんぴょんと跳ねる彼女を尻目に見ながら、
事務所から数百メートル離れたコンビニの駐車場まで、革靴で外出してしまったことにひどく後悔しながら
貰ったばかりのオイルライターを使って煙草に着火し、内心死ぬほど欲していた香りと煙を肺に送り込む。いやマジ吸いた過ぎて死ぬところだった。禁煙なんてバカのすることだと、
――面倒くさがらずに靴を履き替えに戻っていれば良かったのにな。
一服どころか三服くらいして、新品の煙草もカートンで買って、大根おろしの塊みたいな道を踏み歩いて事務所へ帰る途中。
雪合戦でも始める気かと、相手にしなかった
嫌な予感がして階段を駆け上がる。出てくるときに鍵を閉めたはずのドアが、空いていた。
「……ッ!」
力任せにドアを開け放ち、事務所の中へ。
そこには。
「――――――――あ」
ぐつぐつと煮えたぎる鍋。流しっぱなしの水道。
台所の床に広がる、真っ赤な血。
その上で力なく寝そべる、彼女。
「
その名を呼び、煙草の入ったレジ袋を投げ捨て、雪に濡れた革靴で彼女へと駆け寄る。
「愛沙! しっかりしろ! オイ! 起きろ‼︎」
彼女が大切にしていた紫色のストールは、赤黒く染まっている。血の海に沈んだその頭を抱えるように手を伸ばし、気付いてしまう。
すでに彼女が、完全に事切れてしまっていることに。
「あ……あぁ……!」
彼女の首から下の全身には、鋭い針で串刺しにされたような穴があった。特に胸の部分と下腹部には執拗なほどの外傷が見られた。
最初は
その時動転していた
加えて、その手口は普通の人間には不可能なもの。全身を三百六十度、全く同じタイミングで貫かれていると言うのだ。それはつまり、
「愛沙……すまない。俺があの時、一緒にいてやれば……」
焼却炉へ向かう棺の上に、指輪を一つ置く。
それは、安物の婚約指輪。しがない探偵業の中でコツコツと貯めた貯金から、ようやく捻出できた予算で買ったお揃いのリング。
その片割れを自身の薬指にはめ、オイルライターで煙草に火をつける。
(この煙で……この匂いで、お前が俺の存在を感じてくれるなら――)
探偵は同じ銘柄の煙草を吸い続ける。
今宵もまた。満月の昇る夜空に、紫煙が悲しく
**
六名の
「この大通りはもう使えないだろう。あの蛇共のことはわからないが、流石に数が多すぎる。体力を温存したいなら迂回しろ。こんなところで立ち止まるな、空也」
「……コイツらをアンタ一人に任せていいのかよ」
「おいおい、一体誰の心配してんだ? お前が心配するべきは、あっちだろう」
人差し指と中指でつまんだ煙草で満月を指す。その月光を遮るように浮かぶ、巨大な翼を広げた少女を。
「失ってからじゃ何も取り戻せない。守りたければ目を離すな。それが本当に大切なモノなら、
「……言われなくてもそのつもりだ!」
大神が腰を落とし、両脚に力を込めるのが見えた。強靭な脚力で跳躍し、その一団を飛び越えるつもりだろう。
だが、敵も素人ではないらしい。大神が跳ぶよりも早く、その頭上に剣を振り下ろしている男がいた。
「逃がさん!
波打つ形状の黒剣を両手で構えた男が、長さ百二十センチほどの得物を上空から振り下ろす。大神の両脚が地を離れるよりも早く、男は豪快に両腕を振り切った。その手に握られた剣が、大神を袈裟懸けに斬り下ろし、骨も内臓もズタズタに引き裂く。
――というのは、その手に剣を握っていればの話だが。
「え……?」
男が素っ頓狂な声を上げる。何せ、その攻撃は素振りに終わったからだ。
いつの間にか、男の手から剣がすっぽ抜けている。彼が両腕を振り上げて剣を構えた瞬間、自慢の武器は空中に制止していたのだ。見えないナニカに奪い取られて。
「邪魔だ!」
「がハッ!?」
大神が跳躍と共に右腕を振り抜いた。裏拳のような形で振るわれた巨狼の頭蓋が、剣を持っていた男の顔面にクリーンヒット。空中で返り討ちにあった男がアスファルトに落下するのと同時に、大神は包囲を抜けて脇道へと着地した。
「久怒木、コイツらは日本支部の《
「おーおー、そりゃ盛大にフザけ散らかしてるな」
「俺の代わりに全員ブン殴っといてくれ。ここは頼んだ!」
「任せておけ、俺は探偵だぜ?」
黒い少年が、橋を目指すための迂回路を走り抜けていく。
蒼い探偵は、燃え尽きた煙草を内ポケットから取り出した携帯型吸い殻入れにしまい、また新しい煙草を取り出して火をつけた。
「……随分と余裕だな、
「ポイ捨ては環境に悪いんだとさ。俺は探偵だからな、エチケットにも気を遣えるんだぜ?」
同じ服を着て、同じマスクをしているせいで見分けがつかなかったが、どうやらリーダーと思しき男が苛立ちを含んだ声を投げて来た。
「『
「我ら
長い長い、途方もない人類の歴史の中において、その存在が語られ始めたのはいつだっただろうか。
どんな科学でも証明できず、空想の存在だと思われていた
「今更の説明ご苦労さん。で、それがどうした?」
「ランク付けには個人の戦闘力や危険度も基準となるが、貴様の場合は未知なる物質と接触できる人物という一点だけで、世界に二十人しかいない
「あぁ、そうだが?」
「……任務の障害となる者は、迅速に排除するのみだ」
男の背後で、四つ足の獣が空気中に紫電を走らせる。
犬のようにも、狸のようにも見える、漆黒の怪物。人類が『神成り』と恐れ崇める電撃を纏い、雷獣が
「……
探偵がその名を呼んだ瞬間。
漆黒の雷獣が、アスファルトに全身をめり込ませて潰れていた。
「なっ……!?」
まるで二人の間の空間だけ、異常に重力が強くなったかのように。
あるいは、見えない隕石でも降って来たかのように。
アスファルトにできたクレーターに雷獣が沈み、唸り声すら上げずに黒血へと戻って飛び散った。
「確かに俺の能力は、霊的な存在と会話するだけの能力だ。俺が彼らを操っているわけじゃあない」
冷気が漂う。黒川市の気温が下がったわけではない。
それは境界に棲む者たちが、
「だが会話することで、
大通りを埋め尽くし行軍する蛇の群れが、その動きを止めた。
彼らは、何かの気配を察したのだ。食っても食い切れないほどの、圧倒的な質量を持つ魂の存在を。
「とある人物が、魂には重さがあると語った。曖昧で
アメリカ合衆国マサチューセッツ州の医師、ダンカン=マクドゥーガルの実験。
死亡した人間や動物の死後の体重を測定したところ、人間はいずれも軽くなっていたと言う。それは魂が抜け落ち、その重さが消えたのだと論じた。対して犬は重さが変わらず、犬には魂が無いと定義された。その信憑性もへったくれもない実験の結果、最初の一人はおよそ二十一グラムほどの魂を持っていたとされた。
「仮に十グラムとしようか。魂が十人いたら百グラム。千人いたら一万グラムで十キロだ。じゃあ、百万人いたらどうなる?」
十トンもの質量。それが、
闇にぼうっと浮かぶ、ストールのような物を羽織った紫色の輪郭。向こう側が透けて見える、ガラス細工のような女性のシルエット。その左手の薬指には、安物の指輪をはめていた。
探偵事務所で騒霊たちが暴れる中、一人コーヒーを淹れてくれたり、ポイ捨てした煙草を拾ってゴミ箱に入れてくれていた、世話焼きの幽霊。その姿は《
「今まで出会った全ての魂が、彼女に協力してくれている。彼女の中には、百万人の魂が宿っている。重い女だなんて言うんじゃあないぜ? 蟻んこみたいに潰されるからな」
「……まさか幽霊で物理的な攻撃をしてくるとはな。だが結局、その女の霊一人では戦力差は変わらん。私の雷獣を蹴散らしたところで、まだこちらには五人――」
「やっぱりわからねぇよな。そうだよな、
空気が凍てつく。
先ほどの寒気とは比べ物にならない、異界の冷気が周囲に満ちる。
「自然現象を超えた、怪奇現象。これから起きることを、お前たちは何一つ理解できねぇ」
そこに並び立つのは、妄念と怨嗟。
この黒川の土地が生まれた遥か太古の時代より、この場で命を落とした幾千数多の人間たち。
餓死、病死、戦死、事故死――あらゆる無念と悔恨を抱え、
その全てが今、
「な、なんだこいつらは……!
「何度だって教えてやる。忘れっぽい
百鬼夜行。大通りを埋め尽くす幽霊の行列に、日本支部の精鋭たちが腰を抜かす。
その反対側、黒川大橋からは
蒼い男の眼には、紅い瞳が不気味に不敵に不遜に輝いていた。
「俺は――探偵だぜ?」
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