第三章 二節 "霧中暗殺-カノニカル・ファイブ-"

 水色に染めたウルフカット、モデルのような長身矮躯、教室の中でも常に着ているグリーンのモッズコート。

 黒い濃霧が薄く溶け征く。その向こう側から滲み出るようにして姿を現したのは、大神のクラスメートの一人である霧島哀斗きりしまあいとであった。


「クーヤ、あの人って学校にいた……」

「ああ。去年ウチに転入してきて以来、なんだかんだ腐れ縁なヤツだが……」


 冷ややかな汗を額に浮かべる大神の下へ、学校で会った時と変わらない微笑を湛えて歩み寄る霧島。その切れ長の目がまったく笑っていないこと、そして黒血能力ブラックアーツを発動している証拠たる真紅の瞳になっていることを、この霧の中でも大神は見過ごさなかった。

 彼は両手に得物を構えていた。左手には庭師が使うような柄の長い刈込鋏を持ち、肩に掛けている。右手には、指の間で挟むようにして二本のナイフが握られており、それは先ほどアスファルトに突き刺さったものと同じ銀の輝きを放っていた。

 つまるところも何もない、純粋な結論だ。霧島哀斗きりしまあいとは、昨晩ルゥナを始末しようとしたIODOイオドの追っ手だ。


「ここまで奇妙な縁になるとは思わなかったぜ、霧島」

「奇遇だね、僕も同じ気持ちだよ。まさか大切な友人と殺し合わなきゃならないなんてね」


 殺し合い。まるで他愛のない日常会話のようなノリで、日常生活ではまず聞かない言葉が霧島から放たれた。彼がルゥナの実験に関与する人物であれば、組織の機密事項である吸血鬼の存在を知った大神も抹殺対象ということなのだろう。

 冷や汗が乾かぬ間に、いくつかの『なぜ?』が大神の中に生まれる。なぜ霧島がルゥナの実験に関与しているのか。なぜルゥナを始末しなければならないのか。彼とルゥナの背景に関わる疑問が当然のように浮かぶ中で、今この場で最も聞きたいことを大神は口にする。


「ルゥナ、お前さっき学校で霧島と会ったろ。なんでその時に追っ手だと気付かなかった?」

「わからない……まるで記憶に霧がかかったみたいに、追われてた時のことが思い出せないの。でも、あの銀のナイフは確かに……」

 

 大神は思い出す。今朝、家を出る前にルゥナに追っ手の正体を訪ねた時のことだ。


『確か黒染者ブラッカーだったと思うんだけど……人相も能力も、何故か覚えてないんだよね。思い出そうとすると記憶が霞むと言うか……』


 霧島が「ああ、それね」と口を開く。


「僕の能力の効果だよ。一言で言えば、という能力さ。この霧の中で起きた出来事を忘れさせて、僕と言う存在と敵対したことすら思い出せなくなる。便利だろう?」

「空間操作に加えて、記憶も操作する黒血能力ブラックアーツか、どうりでルゥナが覚えてないわけだ」

「本来、抜け出すことすら出来ないはずの霧の結界を、そこのバケモノには容易に突破されてしまってね。まさか翼を振るうだけでこの濃霧を消し飛ばすとは。記憶消去のアフターケアがなければ、ソイツは僕のことを空也たちに教えていただろうし、警戒したキミたちに近づくことは出来なかっただろうね」


 徒歩では脱出不能な霧の結界。仮に抜け出せたとしても記憶を消去される。なんとも都合の良い能力だが、わかったことは一つ。


「なるほどな。この霧に果ては無いが、物理的に吹き飛ばすことは出来る、と」

「おっと、能力の弱点をうっかり話してしまったかな? でも期待しないほうがいいよ空也。そこの吸血鬼にはもう、この霧を吹き飛ばすほどの力は残ってない。そうだろう?」


 大神と霧島の視線が向けられたルゥナは、申し訳無さそうな表情で隣の大神を見上げる。


「悔しいけどアイツの言う通りだよ。わたしの力は、どんどん弱まってる。翼を出すことすら、今はできないの」

「……そういうことは先に言っておけ、馬鹿」


 怒るでもなく、呆れるでもなく、諭すように言葉を投げる大神。もっとも脱出出来たところで、記憶を消されるのでは振り出しに戻るだけなのだが。

 ルゥナの反応に、黒い霧の向こうで霧島が満足げに頷く。目論見通り、と言いたげだ。

 

「やっぱりね、そうだと思ったよ。施設にいたときより明らかに衰弱している。施設を出てから、まともに血を摂取してないんだろう?」


 ルゥナがたびたび訴えていた喉の渇き。吸血鬼として抗いがたい、血に対する渇望。彼女は大神と出会ってから、一度も他人から無理やり血を奪うようなことはしていない。大神の記憶にある限りでルゥナが血を吸ったのは、駅での黒幽鬼ファントムとの戦いで、床に流れていた一般人の血を指で掬ったときだけだ。


「吸血鬼にとっての吸血行為とは、人間にとっての食事、水分の摂取に他ならない。飲食せずに丸一日過ごしていたら、力が出ないのは自然なことさ」


 吸血鬼の習性について詳しいところを見るに、霧島は本当にルゥナを実験体として施設に閉じ込めていた連中……IODOイオド側の人間のようだ。

 そして彼の言葉が真実であるならば、今のルゥナは吸血鬼としての力を出せない。探偵事務所の内装を吹き飛ばしたあの驚異的な暴風は起こせず、この濃霧を物理的に払うことは不可能ということだ。


「理解したかい? キミたち二人とも、僕の世界から逃げることは出来ないんだ。お別れの前に空也の顔も拝めたし、そろそろ殺させてもらうね?」


 霧島の氷のような声が黒い霧を伝って届く。その冷たさは殺意の表れ。学校でウザ絡みをしてくる剽軽ひょうきんな面影は無く、そこに立っているのは明確な敵の姿であった。

 その冷たさに、冷や汗も凍りついたか。大神の額を伝う雫はとうに消え、彼の顔に残るのは敵を迎え撃つための覚悟の表情だった。


「勘違いするなよ、霧島。相手がお前だとわかった時点で、俺に『逃げる』なんて選択肢コマンドは消えてるんだ」

「へぇ……それはつまり、大人しく殺されてくれるってコトかな? いやぁ楽な仕事イベントで助かるよ、持つべきものは友だねぇ」


 大神が右手のグローブを取り外す。

 掌の虚空から、周囲の濃霧よりも特濃な、黒い黒い血液が滲み出て、その右腕を覆っていく。


「お前をぶちのめしてココから出てやる。お前の正体も、ルゥナのことも、洗いざらい説明してもらうためにもな」


 黒く染まっていく右腕を眼前に構える大神。その視線の先で、黒い霧の中に浮かぶ霧島の顔が――嗤った。


「ク、ククク……。カッハッハ!」


 顔の下半分を一文字に裂くように開いた口から、こぼれるような哄笑があふれ出す。天を仰いで笑い咽ぶ霧島の様子は、大神が初めて見る彼のの部分だった。


「イイネェ、最高のアンサーだぜ大神空也おおがみくうや! あー、久しぶりだ。こんな風に正面切って殺されにきてくれるバカを相手にするのは!」

「やっぱりお前、普段の口調は演技だったか。ヤケに仰々しいし胡散くせーと思ってたけどよ」

「いいぜ、笑わせてくれた礼に教えてやる。どうせ死ぬか、記憶が飛ぶかだ。この瞬間だけでも覚えとけ!」


 霧島が左手に持った刈込鋏の切っ先を向けてくる。やたら鋭く、丹念に磨き上げられたそれは、まるで槍の矛先のようだった。


世界秩序防衛機構イオド日本支部第六室|開発部隊《デベロッパー》の霧島哀斗きりしまあいとだ。我らが最重要機密たる吸血鬼、ルゥナ。並びに同項に接触済みの黒染者ブラッカー大神空也おおがみくうや。情報漏洩防止の観点から、両名をこの霧の中で始末させてもらう。……まァ平たく言えば口封じだ。悪く思うなよ、空也!」


 嗜虐的な笑みを浮かべ、獲物を狩る獰猛な肉食獣のような目つきで、霧島が右手を振り払った。握られていた銀のナイフが、二本とも水平に並んだまま、切っ先を向けて大神の目線の高さで飛来する。

 その凶刃に対し、大神は右腕を薙ぎ払う。シャツの袖ごと黒血に包まれた右腕は、まるで篭手こてのような防護能力を得て包丁を弾き飛ばした。


「へぇ……硬いな。それがフェンリルの力ってヤツか?」


 ナイフを片腕で防いだ大神に対し、霧島は特に驚いた様子もなく単なる感想を漏らした。

 

「お前、俺の黒血能力ブラックアーツを知ってるのか?」

「あぁ知ってるぜ。お前が黒幽鬼ファントム関連の事件を扱う探偵事務所に所属してることもな」


 学校では右手の孔は隠してきたつもりだし、探偵事務所の仕事をしていることも話したことは無い。しかし、どうやら霧島には大神の素性が割れているらしい。

 霧島はIODOイオド日本支部の……どこぞの部隊に所属しているような名乗りをした。認可組織である久怒木くぬぎ探偵事務所の構成員について、筒抜けになっていても不思議は無い。問題は霧島が、どこまで大神の能力を把握しているかだが。

 

「北欧神話の厄災、神を喰らう獣・フェンリル。右腕を大顎に変化させて、対象を食い破る能力だったと記憶してるが……変化を途中で留めて硬化させるだけに抑えるたぁ省エネだな。様子見のつもりかぁ?」

「そこまで知ってるんだな。俺の戦いをどこかで見てたってトコロか」

「オレの部隊は黒幽鬼ファントム狂気の黒血ルナティックブラックの研究、および対抗手段の開発を目的とするチームだが、オレ個人は情報収集の担当でな。いわゆる諜報活動ってヤツだ。この街で起きた事件は大方把握してる。一般人になりすまして溶け込むのも苦労するんだぜ?」


 諜報活動。なんとも研究機関の一員とは思えない単語が飛び出たものだが、おかげでこのように大神は術中に嵌ってしまった。まさかこんな身近に敵が潜んでいようとは。

 霧島がニィ、と口角を吊り上げた。彼は左手に持った刈込鋏を両手で構え直す。まるで竹槍のように。


「その力は確かに恐ろしい。戦いの場数も踏んでるだろう。だが……に関しちゃお前は素人だ。この一撃、防げるモンなら防いでみやがれ!」


 姿勢を低くした霧島が、弾丸のように疾駆して接近してきた。低く構えた刈込鋏を下から斜め上に突き上げる形で伸ばしてくる。

 大神はその動きに反応する。取れる選択肢はいくつかあった。

 硬化した右手で槍を受け止める。直線的な槍の動きに対し、横方向へ避ける。しかしそのいずれも、と大神は察した。


「そんな安い挑発には乗らねぇよ!」


 大神が取った行動は、防御も回避もせずに右手で霧島の顔面を狙うことだった。


「――ッ!」 


 黒い影を纏った鉄拳が霧島の鼻先に吸い込まれそうな瞬間、霧島は体をひねって独楽こまのように一回転しながらその一撃を避けた。長い碧色の髪が舞い、彼はバックステップで距離を取る。おかげで大神のどてっぱらに、その恐ろしい切っ先が穴を開けることはなかった。


「オイオイ、流石にビビるぜ空也。死ぬ覚悟でカウンター決めに来るヤツがいるかよフツー」

「お前の目的はルゥナだ。俺と共倒れになるのは筋書きが違う。だから絶対避けると思ったよ」


 それに、と付け加える。


「俺が避けたら、後ろにいるルゥナを殺しただろ」

「すっげぇ冴えてんじゃねーか、舐めてたぜ空也。俺をどうこうするよりも、後ろのソイツを守ることだけを考えてなきゃできねぇ行動だぜ」

「褒められても嬉しくねーよ」

「しかし惜しかったな? その右手でオレの一撃を受け止めてれば、反撃する隙もあっただろうに」


 霧島の言葉に、大神は彼が肩に担ぐ刈込鋏を見る。


「防げるモンなら防いでみろ、か。俺の能力を分かった上で突っ込んでくるなんて、それこそ罠だろ。その鋏は防御不可ってヤツなんじゃねーか?」

「惜しいな、半分正解だ」


 霧島は得物の切っ先を向けてくる。濃い霧の中なので薄っすらとしか見えないが、どうにもその鋏はに見える。


「この喉伐鋏のどきりばさみは両面に刃がある特注品だ。突く、断つ、そして斬る。刃物の持つあらゆる特性をぶち込んである。だがコイツ自体にギミックはねぇ。どっかの神話の槍みてーに、理屈抜きの必殺なんかできねーよ」


 だが、と。


「察した通り、。その理由は、死んでから教えてやるよ」


 再び黒い霧が濃くなっていく。瞬く間に、霧島の姿は闇の向こうへと消えてしまった。


「その右腕で噛み殺されるリスクは負わねぇ。ここからはチクチクと遠距離で追い詰めさせてもらう。当たらなければなんとやらってヤツだ」


 霧の向こうから声だけが聞こえてくる。どうやら霧島は接近戦を避け、飛び道具だけで大神たちを始末するつもりらしい。


「ルゥナ、飛んでくる刃物は全部避けろ。お前がいくら不死身でも、銀のナイフだけはヤバいんだろ」

「わかってるよ、クーヤ。あと、アイツの姿が見えたらぶった斬っていいんだよね?」

「……倒すことは考えるな。死なないことだけ考えろ」


 ルゥナの問いに、大神は首肯できない。

 霧島は今まさに二人の敵であり、明確な殺意を持って対峙している。それは事実だ。事実なのだが。

 目つきや態度が悪く人に好かれない自分に対し、積極的に語りかけ、毎日ウザ絡みしてくる黒川高校のクラスメートとしての姿が、どうしても大神の中から消えてはくれないのだ。


(自分でも甘いと思うけど……アイツには聞きたいことが山ほどある!)


 感覚を研ぎ澄ます。次はどこから、何が飛んでくるのか。

 初撃を回避できたのは、飛来するナイフの風切り音に気付けたからだ。しかし霧島の気配には、彼が自ら現れるまで気付けなかった。視覚は言わずもがな役に立たず、自慢の嗅覚もこの濃霧が発する濃厚な血の香で潰されており、彼の居場所を匂いで特定できない。

 吸血鬼の五感がどこまで優れているか不明だが、ナイフが空気を裂く音に先に気付いたのは大神だった。ルゥナには霧島の攻撃を察知する手段がないと見ていい。

 つまりここで頼りになるのは、大神の獣のような聴覚のみだ。わずかな振動でも聞き逃すわけにいかない。今この霧の中において、霧島は狩人ハンター。大神とルゥナは狩られる側の獲物という構図だ。一瞬でも気を抜いたら殺される、命のやり取りが始まっているのだ。

 

(足音がしない……どこにいる?)


 聴覚を尖らせ、霧島の動きを探る。またこの霧では頼りないとはいえ、視覚もフル活用しないわけにはいかない。わずかな動きを見逃さないように、目を凝らす。

 しかし、次の攻撃が来たのは……


「後ろかッ!」


 わずかな風切り音に反応し、大神がルゥナを抱えて横に飛ぶ。コンマの時間差で、大神の首があった位置を数本の刃物が通り過ぎ、遠くで落下音を立てる。

 体勢を立て直す間もなく、追撃が来る。二人が避けた先に、今度はまた別の角度からの三連投。これも大神を狙った攻撃だった。


「《黒狼の牙フェンリル》!」


 右腕に纏った黒い影が、小盾バックラーのように刃物を弾く。弧を描いて跳ね返った三本の刃は銀のナイフなどではなく、よく見ると文房具のカッターナイフだった。


「こんな玩具じゃ、当たったところで死ねないぞ霧島」

「どうだろうなぁ? 案外即死かもしれないぜ?」


 これまでの投擲は全て異なる方角からだった。霧島が大神たちの周囲を回るように移動しているのは明白だが、その気配がまるで無い。足音を立てずに移動しているか、宙に浮いているか。霧島がこの霧の中を、物理法則を無視して移動していることは明白だ。

 そもそも果てのない地平が続く異空間だ。使用者本人が法則をねじ曲げて無音の移動をしていても不思議ではない。これでは霧島本人の気配を追うことは困難だろう。

 しかしカッターナイフが飛んできた方角、そして霧島の声が聞こえた方向から、ある程度の居場所は割り出せる。


(左後方、距離は近い!)


 声が聞こえた方向に、大神は翻るように飛び掛かる。人並外れた脚力の踏み台にされたアスファルトが、メリッとえぐれて靴の後を残す。わずか一歩で五メートル程の距離を詰め、硬化した右手で空間を殴りつける。

 が、虚しくもその拳は空を切る。直前まで霧島の声がしていた地点には何もない。


「いない……!」

「オイオイ、山勘に頼るなんてダセェぜ空也」


 驚くことに霧島の声は、大神が飛び掛かった方向と反対側から聞こえてきた。つまり、一瞬で背後を取られた形となる。

 そして二人の間には、必死に周囲を見渡すので精一杯の無防備なルゥナが。


「そんな風に出鱈目な戦い方じゃ、守りたいモンも守れねーぞってな!」

「ルゥナ! ガードしろ!」

「《血を啜る断頭台ブラッドイーター》!」


 大神が叫ぶのと、ルゥナの胸元から黒血が噴き出るのは同時だった。象られたギロチンが、盾のようにルゥナを防御する。

 甲高い金属音が響き、わずかな火花が散った。弾かれてクルクルと宙を舞った刃がアスファルトに落下する。今度は銀のナイフだった。


「チッ。衰弱してるとはいえ、まだ黒血能力ブラックアーツを出すだけの力は残ってやがるか」


 霧島の舌打ちが、ルゥナを挟んで反対側の空間から聞こえた。大神からは距離が離れている。咄嗟に詰め寄ることができない。


(さっき間違いなく、霧島は俺の左後方にいた。俺が殴りかかった時、ヤツはまだそこにいたはずだ。なのに足音もなくその場から消えて、いつの間にか反対側へ……)


 見えざる敵、捕えられぬ姿。自慢の五感が役に立たないことが、こうも不便なものとは。大神の中に焦燥が芽生え始める。

 だがヒントは出ている。これまでの霧島の能力から彼の黒血能力ブラックアーツの正体を突き止めることができれば、そこに打開策があるかもしれない。


「物理法則を捻じ曲げる濃霧、記憶を消す力、そして気配なく移動する能力……。そんな伝承や物語があれば……」


 黒血能力ブラックアーツは空想の力。古今東西の人類が残した、ありとあらゆる伝承や神話。あるいは作家や芸術家の創り上げた物語。そして、史実に存在するも拡大解釈されて偽史に昇華された、実在する伝説。そんな多岐にわたる無数のデータから、初見の黒血能力ブラックアーツを看破するのは困難だ。

 しかし、能力そのものにヒントがあり、かつがいるのであれば。


「クーヤ。この霧の性質や記憶操作にイメージを引っ張られすぎだよ。重要なのはそっちじゃない」

「ルゥナ、お前なにかわかったのか?」


 先ほどまでの焦燥が嘘のように、ルゥナが途端に冷静な言葉を投げかけてきた。そのやりとりの間にもカッターナイフが一本飛んできたが、飛来する音に気づいた大神が右腕ではたき落とした。


「あの人がやろうとしているのは、霧の中での殺人行為。誰にも知られることなく、霧の中で行われる暗殺。クーヤも知ってるはずだよ、そんな有名な伝承を」

「へェ……もう気付いたか」


 闇の向こうから、感心したような霧島の声が聞こえた。どうやらルゥナは正解に辿り着いたらしい。

 

「霧の都市で発生した殺人事件。誰にもその素性が知られることなく、捜査は迷宮入り。たった七十日の間に行われた五人もの殺人。ロンドン警視庁スコットランドヤードを煙に巻いた、世界で最も有名な未解決事件の一つ……」


 それはまるで、クロスワードパズルが解き明かされていくように。ルゥナの並べる単語、言葉の意味が、姿の見えない敵の正体を突き止める。頭の中にかかった霧が晴れたかのように、大神にも明瞭明確にその正体が浮かび上がり、気付けばその名前を口にしていた。

 ――どこからか。チャペルの鐘の音が聞こえてくる。


「切り裂きジャック――ロンドンの連続殺人鬼、ジャック・ザ・リッパーか!」


 ぱち、ぱち、と。濃霧の向こうから乾いた拍手が聞こえた。


「ご名答ご名答。よくオレの《霧中暗殺カノニカル・ファイブ》の正体に辿り着いたな、褒めてやるぜ。どうしたルゥナ、施設にいた時よりも頭が良くなったかぁ?」


 一八八八年。第二次産業革命真っ只中のイギリスが首都・ロンドンにおいて、イーストエンドを震撼させた連続殺人事件。実際は大気汚染によるスモッグだとも言われる濃霧の中で、五人とも、十一人とも言われる人間を惨殺したとされる顔の無い殺人鬼。終ぞ誰にもその犯行を見られることなく姿を消した逸話から、その正体は怪異であったとも噂される……その殺人鬼が切り裂きジャックだ。


「決して正体がわからなかった逸話が、出会った相手の記憶を消すって言う能力に昇華されたみたいだね。そしておそらく、霧を操ることが能力の本質じゃあない。刃物を自在に操り、対象を暗殺する、ジャック自身を能力として再現した能力なんだよ」

「ルゥナ、お前すごいな。探偵になれるぞ」


 大神が思わず賞賛すると、ルゥナは「ふんす」と無い胸を張った。黒い霧のせいで顔までは見えないが、さぞ満足気であろう。緊張感があるのか無いのか。


「わたしは空想を描き出す黒から生まれた、空想世界の住人だもん。人類史に残る伝説や物語は、自分のことのように知識として持ってるんだよ」

「……それってつまり、空想を原典とする黒血能力ブラックアーツの正体を、全部初見で見抜けると? なんだそれ、チートもいいところじゃねーか⁉︎」

「ふふ〜ん、すごいでしょ〜?」


 ルゥナがしれっと言い放ったとんでもないカミングアウトに、大神は語尾に近づくにつれて加速するリアクションを返した。大神が守ると決めた、目の前で鼻高々な吸血鬼少女は、世界中の黒染者ブラッカーに対するカウンターになり得るということだ。


「そりゃIODOイオドからしたら野放しにできねーわ。民間の手に渡るだけで世界のパワーバランスが崩れかねないぞ……」

「そう言うこった。ようやく理解できたみてーだな、事の重大さがよ」


 闇の中に響く霧島の声に、大神は「まったくだ」と心の中で呟いた。

 霧島の所属する《開発部隊デベロッパー》なる部署にとって、ルゥナの逃亡は本物の吸血鬼という重要機密の漏洩だけでなく、その能力と知識が他者の手に渡ることを意味する。

 もしルゥナを匿ったのが大神ではなく、IODOイオドに反感を持つ犯罪組織やテロリストだったら、あらゆる黒血能力ブラックアーツを看破して対策を講じることができる不死身の黒染者ブラッカーを悪用しない手はないだろう。戦闘兵器という触れ込みは、伊達では無いのかもしれない。


「それで? 能力の正体がわかったからって、何が変わるってんだ? 対抗手段は浮かんだかよ、オレの《霧中暗殺カノニカル・ファイブ》を打破する素敵で画期的なアイデアはよォ?」


 霧島の言う通りではある。彼の能力が切り裂きジャックを模倣したモノだとわかっても、そこから対策が見つからなければ意味はない。気配がなく、一瞬で姿を消す相手を、どうやって捕まえればいいのか。当時のロンドン警視庁スコットランドヤードも、同じような心境だったのかもしれない。


「あなたがこの霧のどこかに隠れてるっていうなら、この霧の中を全部攻撃するだけだよ。決して捕まらず、裁かれることのなかった殺人鬼……わたしがここで断罪する!」


 ルゥナが胸の孔から伸びる黒い鎖を掴み、その先に繋がる巨大なギロチンを振り回す。さながらロープを投げようとするカウボーイのように、ギロチンをおもりにした鎖が彼女の頭上でブンブンと回転する。


「おいルゥナ、何を……」

「クーヤ、そこ動かないでね。当たると痛いから!」


 ルゥナは鉤縄を投げる要領で、鎖に繋がったギロチンを黒い霧の中へと勢いよく投擲した。その闇雲な投擲は、当然ながら霧島を捕捉していない。大神の目には、ただ真っ直ぐにギロチンを投げ捨てたようにしか見えなかった。

 と、その直後。前方に放り投げたはずのギロチンが、霧の向こうから勢いそのままに帰ってきた。まるで見えない壁にぶつかって反射でもしたかのように。


「あっ、ぶな!」


 大質量の鉄塊が、大神の頭上スレスレを通り過ぎた。

 ルゥナの《血を啜る断頭台ブラッドイーター》は垂直に振り下ろした時だけ対象を切断する。故に横凪に飛来する刃に当たっても切断されることはないだろうが、それはそれとして風を切る速度で飛ぶ鉄板に当たったら痛いどころの騒ぎではない。

 黒い鎖を引き連れて飛んでいくギロチンの行方を目で追うと、今度は後方の虚空で跳ね返り、また霧の中を進んでいく。一つの生き物のように飛び回るギロチンは物理法則などまるで無視しているが、黒血能力ブラックアーツは空想の力……現実の常識など通用しない。


「ロンドンの殺人鬼なら、この牢屋がお似合いだよ! 重刑! 『血塗られた牢獄塔ブラッディタワー』!」


 鎖がガチガチと音を鳴らしながら、ルゥナの胸の孔から無尽蔵に伸びていく。まるで狭い場所で跳ね返り続けるゴムボールのように、霧の中をギロチンが縦横無尽に駆け巡る。

 ギロチンが通った軌跡には黒い鎖がピンと張られており、弛むこともなく空中で制止している。蜘蛛の巣のように張り巡らされ、幾重にも積み重なった鎖は、さながら鉄格子の牢獄だ。ルゥナと大神を中心とした半径数メートルの地点以外、人が歩いて通り抜けるのも困難な密度で鎖が張り巡らされている。

 やがてギロチンはルゥナの足元に突き刺さって停止した。肩で息をするような、ルゥナの荒い呼吸音が聞こえてくる。


「はぁ、はぁ……! これだけの範囲を攻撃して当たらないって、どう言うこと……?」

「無茶しやがって、黒血の使いすぎだ! クソッ、霧島はどこに……!」


 黒血能力ブラックアーツは血液を能力に変えて発動する。ルゥナの胸元から伸びている鎖は、全て彼女の血液を使ったものだ。周囲十数メートルに及ぶ範囲を封じ込めるほどの鎖を出すのに、どれだけの血液を消耗していることか。この濃霧ではわからないが、ただでさえ衰弱しているルゥナの顔色が悪化していることは想像に難くない。

 しかしギロチンが霧島に命中した様子はない。ギロチンの範囲外まで離れて回避したということだろうか。

 とはいえ、これだけの鎖が張り巡らされた空間であれば、霧島の動きにも制限がかかるだろう。彼がどんな移動手段を用いてるか不明だが、足止めにはなるはず――


ロンドン塔の牢獄ブラッディタワーたぁ、シャレが効いてるじゃねぇか。ところで、誰を探してやがるんだ?」


 氷のような声が、二人の頭上から降りてきた。

 大神たちが咄嗟に見上げると、空中に張られた鎖の上に音もなく人影が浮かび上がった。嗜虐的な笑みを湛え、鎖に優雅に腰掛ける霧島の姿だった。

 まるで闇から滲み出るように現れた霧島に、ルゥナが「ありえない」と声を絞り出す。


「鎖に触れられた感触は無かった……いつの間に、そこに!?」

「さぁな? 何もわからないまま死に晒せ吸血鬼!」


 足場にしていた鎖を蹴り、霧島が急降下する。右手には銀のナイフ。その攻撃は投擲ではない、ゼロ距離での一撃必殺を狙っている。動揺するルゥナを串刺しにするため、地上のネズミを見つけた猛禽類のように襲いかかる――!

 ぐじゅり、と。

 水っぽい、肉が裂かれる音。闇よりも黒い鮮血が、霧島の頬に飛び散る。アスファルトを穿つほどの切れ味を誇る銀のナイフが深々と――大神の腹部に突き刺さっていた。


「ぐっ……が……!」

「クーヤ……!?」

「チッ、邪魔しやがって」


 ルゥナの前に飛び出た大神が、その身を盾に霧島の刺突を受け止めていた。ナイフが突き立てられた傷口からは鮮血が滲み出し、服を黒く黒く染め上げていく。ぽたり、ぽたり、と体温と同じ温度の黒血が足元に血溜まりを作る。


「もう目の前で……誰も死なせ、ねぇ……!」


 ぶくぶくと小さな気泡を纏った墨汁のような血が溢れ出る。遅れてやってきた焼けるような激痛に、大神の視界がブレ始める。


「ったく、そうまでして守るほどのモノかよコイツが。まぁいい、どうせどっちも仕留めるつもりだったんだ。順番が前後するだけで問題はない。次こそ後ろのバケモンを……」


 大神に突き刺したナイフを引き抜こうとした霧島の右手が止まった。力を込めても動かない。動くはずがない。

 なぜならその手首を、大神の左手が強く強く掴んでいるからだ。


「ぬ、抜けねぇ……! テメェ離しやがれ!」

「やっと捕まえたんだ、離すわけねーだろ……!」

「クソが! 死にやがれ!」


 霧島は左手に持った喉伐鋏のどきりばさみで、文字通りに大神の喉笛を突こうとする。だがその両刃の鋏を、大神は黒い影で覆われて硬化した右手で受け止めた。

 ぶしゅっ、と右手から黒血が噴き出た。刃の部分を握るようにして防いだ大神の右手が裂けている。黒狼の防護の上から、黒血能力ブラックアーツでもない刃物に切り裂かれていた。霧島は大神に防げない刃だと言っていたが、どうやらその通りらしい。

 まぁ、だからと言って離す理由にはならないのだが。

 腹からナイフを引き抜こうとする霧島が、掴まれた右手に力を込めて傷口をぐりぐりと抉る。そのわずかな動きでさえ意識が飛びそうになる激痛と灼熱を感じるが、大神の目は閉じられることなく霧島を見据えている。


「これだけ張り巡らされた鎖の中じゃ、ナイフは投げられない……。お前は姿を現すしかなかったんだ。ルゥナの隙を突いて、必殺の一刺しをお見舞いするために……!」

「まさかそれを読んで、わざと刺されに来たってのか! オレを自分の身体に縫い付けるために!?」


 ナイフは硬化させた右手で弾くこともできた。受け止められなくても、防ぐすべはあった。その方が間違いなく安全だっただろう。

 だが、それでは霧島に逃げる隙を与える。防ぐのでは無く、受け止める必要があった。霧島を確実に捕縛するために。


「刃物を投げた直後に姿が消える。ルゥナの無差別攻撃も当たらない。そして今の出現方法……。お前はその体を霧に変えて、物体をすり抜けながら移動してるんだ。そして隙を突いて対象を八つ裂きにする。それがお前の、ジャック・ザ・リッパーとしての暗殺能力……!」

「今更気付いたところでおせぇんだよ! さっさとくたばりやがれ!」


 霧島がナイフを押し込む。つばのない細身のナイフが、柄の部分まで深く捻じ込まれていく。

 痛い。痛い。意識が飛びそうになりながらも、大神は手を離さない――離さない!

 

「そしてこれがお前の弱点……! トドメを刺すために、その瞬間だけは切り裂きジャックだとしても姿を見せざるを得ない――こんな風にな!」


 大神が右手に力を込め、鋏の刃部分を外側にひねる。黒い影に包まれた手のひらから黒血が噴き出るが、そんなことはどうでもいい。その動作で、鋏を持つ霧島の左手が悲鳴を上げる。


「がッ……テメェ……!」


 霧島の顔に苦悶が浮かぶ。どうやら一度捕まえてしまえば霧に同化して避けることは出来ないらしい。


「お前は、俺の初撃を避けた……。どんな物理攻撃も霧になって無効化できるなら避ける必要はないはず……。お前は霧になっている時は無敵だが、代わりに攻撃が出来ない。逆に霧になっていない時は、攻撃を無効化できない!」


 最後まで捕まることが無かった殺人鬼、切り裂きジャック。その一度も捕まることのなかった逸話には、捕まったあとの対抗手段シナリオが存在しない。ここから先は、史実を塗り替える空想アドリブだ。


「そんな不良品を守ったところで何になる! 何も知らねぇド素人が首を突っ込みやがって!」


 確かにそうだ。大神にはルゥナの正体も、霧島たちの組織のことも、何も知らない。わからない。

 だが、それでも――首を突っ込む理由なら既にある。


「泣きながら『生きたい』って言われた。死なせないって約束した……だから守るって決めたんだ!」


 ミシッ、と嫌な音が霧島の左腕から聞こえた。霧島は限界を迎えたのか、喉伐鋏のどきりばさみを手放した。カランッ、という落下音と同時に大神も右手を離す。獣の前足のような影に覆われた手のひらから、黒血が滴り落ちる。

 離したのは右手だけだ。左手は、ナイフを突き刺す霧島の右手首を掴んだまま。そうでないと、こちらの攻撃を避けられてしまうから。

 

「ルゥナに代わって俺が断罪するぜ――霧島」


 右手から滴る黒血を握りしめるように、拳に変える。

 破壊の象徴たる黒狼の頭部は無い。ただ黒い影を纏っただけの拳が、地鳴りのような呻き声を上げて構えられる。


「判決は鉄拳制裁だ。少しの間眠ってろ、この馬鹿野郎が!」


 漆黒の鉄拳が霧島の顔面を捉えた。大神の腹部を刺したナイフから手が離れ、細身の長身が枯れ枝のように吹き飛ぶ。アスファルトに落下した体がごろごろと転がり、コートの内側に隠されていたらしい刃物という刃物が撒き散らされる。

 仰向けで止まった霧島の身体は動かない。完全に気を失ったようで、力なく四肢を投げ出している。

 黒染者ブラッカーが倒れたからか、周囲の黒い霧が薄くなっていく。それと同時に、ルゥナの張り巡らせた黒い鎖の牢獄も弾けるように消滅した。


「ぐ……ッ」

「クーヤ、大丈夫? クーヤ!」

 

 腹部から銀のナイフが抜け落ちると同時に、大神の身体も硬いアスファルトに吸い込まれるようにして倒れ込んだ。右手を覆っていた黒い影が霧散する。

 傷口から流れ出るナニカが、胴体と地面の間に広がっていくのを感じる。耳元で叫ぶルゥナの声が徐々に遠くなっていく。

 薄れゆく意識の中で虚ろな目が最後に見たのは、今にも泣きだしそうなルゥナの表情と……近づいてくる何者かのシルエットだった。

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