第三章 断片 大神空也の記憶

 大神空也おおがみくうやは東京都黒川市に産まれた、普通の少年だった。

 いや、普通と言う表現は語弊に繋がるか。彼が生を受けた大神家は、黒川市ではそれなりに裕福な家庭だった。東区の小高い丘陵地帯は富裕層の地区。立派な門構えの日本家屋は武家屋敷とまではいかずとも遠からず。大学教授の父と地方公務員の母との間に産まれた少年は、地元の小学校で友人付き合いが悪いこと以外は何不自由のない生活に恵まれていた。

 その目つきの悪さが災いし、臆病なクラスメートは寄り付かなかった。無意識に出てしまう横柄な態度が勝手に壁を作るので、一緒に遊ぶような仲間はいなかった。民俗学の教員である父から自由に使っていいと言われた書庫で、黙々と読書をするのだけが彼の趣味だった。

 やがて引きこもり気味になった少年を少しでも元気づけようとした父母は、忙しい仕事のスケジュールを調整し、家族で遊びに出かける日を設けてくれた。今から十年前、大神少年が七歳の小学一年生の時である。

 父母が提案した遊園地や動物園と言ったテーマパークは、少年の心を動かさなかった。どこへ行きたいかと問われれば、少年は「博物館に行ってみたい」と言い出した。歴史や他国の文化を綴った蔵書に触れていた彼は、まさに父の影響を受けていたのだろう。「貴方にそっくりね」と言う呆れ気味な母に対し、父は「いずれ私より優秀な学者になるかもな」と誇らしげだった。

 家族が向かった先は東京都千代田区、明治大学の駿河台キャンパス。黒川大学で民俗学を専門とする父が、資料の参考にとよく訪れていたのが明治大学博物館だった。学者や社会科見学の高校生らに混ざり、幼い少年は父母の手を引くように館内を見学して回った。

 弥生時代の土器や戦国時代の仮名目録など、到底七歳児には理解しがたい展示資料の数々。一体それは何に使うものなのか、当時の人間がどのように生きていたのか。難しい言葉で書かれた説明文を読む気にはなれなかったが、頭の中で思い描くことは出来た。過去の時代のことは一種の物語のように捉えていた大神だったが、こうして現物を見て見ると物語の世界が目の前に現れたみたいでどこか心が躍った。

 展示資料の中で少年の目をもっとも奪ったのは、刑事部門のコーナーに整然と並べられた物々しい処刑器具の数々だった。人間が人間を殺す、奪い合いの戦争とはまた違う罪と罰の思想。その象徴にして、無機質な天井に届くほどのサイズを誇っていたギロチンのレプリカは、今も目に焼き付いている。

 時刻は昼時。そろそろランチにしようと母が言い出した。近くのレストランを予約済みだと言うので、博物館を後にする。異様な展示物の圧のせいか薄暗く圧迫感のあった館内を出ると、外の空気がやけに澄んでいるように感じられた。眩しい日差しに目がくらむ。ふと遠くの青空を見上げた少年の目に、あるモノが映った。


「父さん、母さん……。アレ、なに――」


 遠い西の空、その一点を指差す。父母も同じ空を見上げ、目を丸くして固まっていた。

 雲一つない青空に、黒く暗いヒビが入っていた。まるでガラスケースを内側から割ったような、いびつな孔。そこから流れ落ちる、特濃の黒――。

 嫌な予感がする。もう帰ろう。父母にそう告げて、早足で歩きだす。けたたましいサイレンがビル街に鳴り響いたのはその時だった。


『警報、警報! 一刻も早く安全な場所へ避難してください! 黒が、黒い波が――!』


 スピーカーから甲高いノイズと共に発された避難勧告。防災訓練のテンプレートな呼びかけではない、津波警報のような緊迫した呼びかけ。何が起きたのか、何が起こるのか。何もわからないまま、その指示に従って街の人らが走り出す。

 父が二人の家族の手を引いて走り出す。波と言う表現に従い、高い場所を目指すつもりだった。幸い、周囲には天を突く無数のビルがある。頑丈そうな建物の上層階に避難すれば助かると、そう信じて。

 ――わずか三十分足らず。新宿都庁に降り注いだ黒の洪水は、およそ十キロメートル離れた駿河台の地上を黒一色に染め上げた。大神たちが避難したのは三十階建てのオフィスビルであり、その中腹に位置する十五階のラウンジに避難者が集まっていた。窓から眼下を覗けば、先ほどまで自分たちが歩いていた道路はそこになく、電柱の先端がわずかばかり見えるほどの濁流だけが渦巻いていた。

 誰もが言葉を失っていた。素っ頓狂な「あ……、あ……?」という感想にもならない嗚咽だけが聞こえてくる。あまりに現実味の無い光景、体感したことのない事態に、その状況に対する感想すら湧いてこない。ただひたすらに「何が起きたのか」という疑問だけが脳を支配する。

 何より不快なことに、その黒い液体から漂ってくる猛烈な血の匂いが、大神たち避難者に吐き気を催させた。黒い鉄砲水を浴びながら命からがら逃げ延びた人物からは、凄まじい刺激臭が香っていた。あの黒い液体全てが血液であるのかもしれないと、誰かが言った。

 とにかく事態が落ち着くまで待つしかない。きっと警察か自衛隊が助けに来てくれると信じて。信じて――。

 ……ビルの中が騒がしい。悲鳴のような絶叫が聞こえて来た。それは数を増し、大神たちのいるフロアまで近づいてくる。

 スーツを着た、初老の男性がラウンジに走って来た。ガラス張りのドアをこじ開けて叫ぶ。


「逃げろ! か、怪物が――黒い怪物が来るぞ!」


 彼が何を言っているのか理解できた人物は、大神を含めて誰もいなかっただろう。

 だが、そんな突拍子もない発言からわずか数秒足らずで、その場の全員が真意を理解することになる。

 男性の背中から血飛沫が上がった。苦悶の嗚咽と共に、男性が前のめりに倒れ込む。彼の背中を割いたのは、鎌のように鋭い黒い爪だった。

 それを一言で表現するならば、悪魔。人間のような骨格の痩せぎすな胴体。胸部の中心には虚ろな孔が空いており、向こう側がはっきりと見える。二本の大きな角が生えた頭部には鼻や口がなく、深紅の丸い瞳だけがぼうっと浮かんでいる。肩甲骨のあたりからは左右非対称なサイズの小さな翼が生えており、やけに長細い腕の先についた爪からは鮮血を滴らせている。

 現在では悪魔型デビルタイプと呼ばれる――当時まだ黒幽鬼ファントムという呼び名すらなかった半透明の黒い怪物が、ラウンジの避難者たちに飛び掛かった。

 阿鼻叫喚。地獄絵図。黒い洪水から避難して身を寄せ合っていた者たちが、隣人を突き飛ばし我先にと駆け出す。逃げ遅れた者は黒い爪の餌食となり、透明なガラス戸が飛び散った体液で赤く紅く染め上げられた。

 大神たちは運よく見過ごされ、怪物が別の獲物に夢中になっている隙に逃げ出した。そこからの記憶は曖昧で、とにかく隠れる場所を探して知らないビルの中を家族で駆け回った。道中で見えたのは、ラウンジにいたのとは別の怪物に胴体を引きちぎられる女性社員の最期。形容するのも悍ましい、人間の中身がぶちまけられたその直後――分離した女性社員の上半身と下半身が真っ黒に染まったと思うと、それぞれが別の生き物として蠢き始めた。怪物に殺された人間が、新しい怪物として生まれ変わる瞬間だった。

 猛烈な吐き気を堪えながら駆け込んだのは、ビルの厨房だった。無機質な鉄色の一画はまだ襲われておらず、先に避難した者が息をひそめていた。大神たちも物陰に身を潜めることにしたところで、父がこんなことを言った。


「空也、お前ならここに隠れられるだろう。じっとして、助けが来るのを待っていなさい」


 そこは調理台の下の収納スペース。戸を開けると、大量の鍋やフライパンがしまわれていた。父と母が手分けして調理器具を取り出すと、子供一人なら入れそうなスペースが確保された。

 走り疲れ、恐怖と混乱で何も考えられなかった少年は、言われるがままそこへ入る。三角座りで、頭を下げればなんとか隠れられそうだった。


「父さんと、母さんは――」

「私たちも隠れるわ。きっとここなら大丈夫だから……」

「あぁ、近くにいるから心配するな。ずっと一緒だぞ」


 消え入りそうな母の声と、気丈に振る舞う父の声。二人の微笑みが少年を見送り、戸が閉じられる。

 金属製のドアをこじあける轟音と、数名の悲鳴がこだましたのはその直後だった。うずくまり、息をひそめる少年のすぐ近くで、肉と骨がすり潰される音がした。声は一つずつ減っていく。飛び出る勇気はなかった。彼らを助けようなどと言う考えは、まだこの時の少年には浮かびもしなかった。

 暗い収納スペースの中で、目を閉じ、息を殺してうずくまる。最後に聞こえて来たのは、聞きなれた二人の声。


「空也――」

「愛して――」


 ……声は消えた。耳をつんざくような悲鳴は無くなり、怪物の奇怪な鳴き声のような音だけが断続的に聞こえて来た。

 数秒としないうちに、ずるずると……肉を引きずるような音が聞こえた。先ほど見た光景から想像できてしまう。死体が黒く変色し、孔の空いた怪物となって起き上がっているのだ。きっとそこには、あの二人も。

 ヒタ、ヒタ、という足音のようなものがいくつか聞こえる。飛び散った血しぶきを踏みつけているせいか、水っぽい、風呂場を歩いているかのような音。薄っぺらい木の板で仕切られた収納スペース、その向こうに――わずか数センチの距離にソレがいる。

 何秒? 何分? どれだけの時間が過ぎたのかわからない。意識が曖昧になるほどに息を止め、そのまま心臓も止まってしまうのではないかと言うほどの恐怖の中、大神は彼らが立ち去るのを待ち続けた。やがて足音が遠ざかっていき、厨房だった場所からはあらゆる音が消え去った。


「……………………」


 意を決して戸を開ける。そこに広がる光景は――もはや表現するに値しない。

 誰のモノかもわからない血だまりを歩き、まるでブルドーザーが突っ込んだのかと言わんばかりにひしゃげた金属扉から外へ出る。ビルの中は寒気を感じるほどに静かで、先ほどまでの慟哭はどこにも聞こえない。

 下層は黒い洪水で埋め尽くされているだろう。となれば、目指すべきは上。自衛隊がヘリコプターで遭難者を救助するニュースを見たことがあった。きっと高い所なら、誰か気付いてくれるはずだと。助けてくれるはずだと。

 浸水した黒い液体の影響か、エレベーターは動いていなかった。屋上まで階段をひたすら上がるしかない。長い旅路になりそうだと息を吐いて、階段の手すりを掴んだ。

 その直後、上のフロアから何かが転がって来た。階段をバスケットボールのようにごろん、ごろんと転がってくるのは……人間の頭部。恐怖が貼り付けられたままの表情で、大神の足元まで転がって来た。


「――――――――ッ!」


 嘔吐しそうになった。絶叫しそうになった。少年は、それを強引に飲み込んで耐えきった。

 この上に、ヤツらがいる。ビルの下層から出現した連中は、いつの間にか上階まで蹂躙していたらしい。今悲鳴を上げれば、物音を立てれば、次にこうなるのは……眼下に転がる頭蓋を見て声を押し殺す。

 階段は使えない。どこか別のルートは……と、廊下の奥に視線が止まる。非常階段への扉があったのだ。

 ドアノブを回せば金属製のドアは簡単に開いた。ビル風が大神の髪を揺らす。錆の浮いた鉄製の階段が出迎えてくれた。

 思わず上を見上げる。階段の隙間から、屋上までの道のりが視認できた。あと十五階分、この錆び臭いアスレチックを登り切らねば。そう決意してドアノブから手を放し、非常階段の踊り場へ。

 バタンッ!


「……………………」


 ビル風に煽られた扉が勢いよく閉められ、豪快な音を立てた。大神の背筋に冷たい汗が流れる。

 奇怪な叫び声が、廊下の奥から聞こえて来た。

 

「はぁ……はぁ……っ!」


 動転しそうになりつつ、大神は足を上げる。上を目指す。鉄製の階段をカンカンカンカンと駆け上がる。

 ほどなくして、先ほどまでいた踊り場に怪物が飛び出てきた。金属製の非常扉が紙切れのように細切れにされ、その鉤爪と二本角が姿を現す。ラウンジを襲った悪魔が、その黒い枝のような細足で階段を飛び跳ねるように上がってくる。

 急げ、急げ。走れ、走れ。自分の身体に言い聞かせて、少年は隠れる場のない非常階段を進む。上に、上に。前へ、前へ。

 大神のすぐ下にいる悪魔が爪を振るう。非常階段の手すりがバターのように切断された。足が鉛のように重くなる中、ジグザグな非常階段を駆け上がる。徐々に目も回って来た。

 しかし、さらなる絶望が大神を襲う。


「ウ、ソ……」

 

 壁に貼られた回数表示は二十一階。まだまだ先があるというところで、手足が槍のように鋭い長身怪人型スレンダーマンタイプが上層から降りて来た。顔のない頭部を痙攣させながら、ぎこちない動きで大神の下へと階段を下りてくる。

 下からは大爪、上からは長槍。逃げ場のない空中階段で、幼い少年は一巻の終わりを迎えていた。


(どうすれば……どうしたら……!)


 歯の根が合わずガチガチと震える。手すりを掴む右手に嫌な汗が広がる。その異形たちは、狩りを楽しむようにゆっくりと近づいてくる。

 身を隠せる場所を探す。

 ――そんなものはない。

 助けを呼ぶ?

 ――間に合わない。

 眼下には黒い洪水。底の見えない、コールタールのような濁流がビル群の間を駆け巡っている。鮮血香るこの黒色が流れ着いてから全てがおかしくなった。この黒は、一体……。


 ――逃げ場はあった。


 爪と槍が交差する。黒い怪物同士の両腕が、お互いの胴体に突き刺さっていた。

 その中心にいたはずの少年の姿は、そこにはない。なぜなら彼は、空中に飛び出していたから。


「ああああああああああああああああッッ――!!」


 絶叫と共に大神の身体が落ちる。空気を切り裂く弾丸のような速度で、目指すのは――黒。

 狂気の始まり。終わりの黒。奈落のような大渦の中に、大神の身体が沈んでいく。 

 意識が酩酊する。全身を包み込む、妙に生暖かい黒色が感覚を奪っていく。口の中に入り込んだそれは、まさに苦い血の味がした。流されているのか浮かんでいるのか、生きているのか死んでいるのかさえも曖昧に。思考が、理性が、五感が溶けていく。

 何も見えない闇の中、意識を手放した大神の耳に何かが聞こえる。小さな声のような……。


『――オイ、オマエ。聞こえてるだろ』

(だ、誰……? どこから……)


 くぐもった、おぞましい、不気味な、軽薄さを感じる口調だった。

 真っ黒な闇の中。大神の意識だけが、そのと対話していた。

 

『オマエの中だよ。オマエは選ばれた。終末の厄獣に』

(選ばれた……? やく、じゅう……?)

『オマエという存在は、この黒によって書き換えられた。教えてやる。オマエの得た力の名は――』


 大神空也おおがみくうやが救出されたのは、それからおよそ二十時間後のことだった。血の匂いが漂う黒一色に染め上げられた街中で、打ち上げられた水死体のように電柱に引っかかっている少年を、自衛隊のヘリコプターが発見したらしい。

 驚くべきことに少年は生きていた。右手に正円の孔が空いていたこと以外に外傷はなく、心臓も動いていた。そうして救助され、担ぎ込まれた少年が次に目を覚ますと、そこは――

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