第二章 吸血鬼の戦い
第二章 一節 大神邸に朝が来る
東京都黒川市。
多摩地域南部に位置する中核都市で、総面積およそ百九十平方キロメートル、総人口およそ五十万人。『過去と未来が共存する街』というキャッチフレーズがある。
市を分断する大河川である大黒川を境に、東側は学生や社会人の集まる都市部、西側には古民家が残る風情豊かな田園風景や山麓が広がっている。
駅や市役所、病院といった主要施設が揃う中央区。著名な学者を輩出した黒川大学や付属校のある北東部。デパートやゲーセンなどの商業施設が立ち並ぶ南西区など、合わせて七つの地区に分かれているのが特徴だ。
そんな黒川市の東区。ここは一軒家やアパートが立ち並ぶ閑静な住宅街で、市の権力者や富裕層が居を構えるエリアでもある。私鉄が通る東黒川駅のロータリーから続く緩やかな坂を七百メートルほど登った丘陵地帯に、石垣に囲われた立派な門構えの一軒家がある。
趣のある木造の日本家屋。テニスコートほどの広さがある庭には雑草が生い茂り、古井戸の傍には朽ちた木桶が空しく転がっている。瓦屋根は昨年の台風で何枚か剥がれ落ちており、桐の表札には『大神』の文字が。
「クーヤ、喉渇いたぁ。血をいっぱい飲みたいよ〜」
「それは俺にはどうにもできません。食い物にありつけただけ良かったと思いなさい」
畳の広がる飾りっ気のない八畳間で座卓に突っ伏して喉の渇きを訴えるミーアを、襖を開けた先の台所で大神が背を向けながら嗜めた。
ミーアの装いは昨晩の
今日は金曜日、黒川市内では燃えるゴミの日である。朝食のサンドイッチを食べ終え、包装のビニールから値札を剥がし、燃えるゴミとプラスチックゴミに分別する。黒川市は分別にうるさいのだ。
「昨日の
昨晩の探偵事務所で起きた一件のあと、大神はミーアを連れて帰宅した。大神は現在この大きな自宅で一人暮らしであり、反対する家族もいないのでそれ自体は問題なかった。
というよりも、大神にとって問題なのはミーアのことや自分の身の安全ではなく。
(とはいえ、次回の給料は全額天引きか……
フェンリル対ヴァンパイア。昨晩発生したあまりにもファンタジーな勝負の後、ワンカートンの煙草を買い足して帰って来た
数秒の沈黙の後、新品の煙草を開けてジッポで火を灯し、ふーっと一服した久怒木から告げられたありがたいお説教が一言。
「修繕費はお前の給料から天引きな」
やったのは俺じゃない、と最後の抵抗を試みようとしたがやめておいた。実行犯はミーアとはいえ、彼女を連れて来たのは大神である。厄ネタであることは承知の上で連れて来たのだから、何も言い返せない。
その後、ミーアのために服を買って帰って来た姫路も同じ光景を見てぎょっとしていたが、最終的には我関せず。
いや、一度は「私もミーアを一緒に連れて来たから……」と連帯責任を名乗り出たのだが、久怒木に「俺一人で責任を持つ、とかほざいてるヤツがいたぞ」と言われてあっさり手を引いた。あの裏切り者め、と大神は身から出た錆を呪詛にして呟いた。
なお、久怒木や姫路にはミーアの事情について詳しく共有していない。ミーア本人が大神以外を信用せず話したがらなかったため、彼女が吸血鬼であることと、実験施設から逃げ出して追われているということだけ伝えた。突拍子もない話にポカンとした姫路から詰められて詳しい説明を求められたが、よくわからないと言い張って難を逃れたのだった。
「クーヤ、今日はキョースケのところには行かないの?」
ゴミ袋をまとめ、いつでも捨てに行けるように玄関に置いた大神に、ミーアが畳の上で寝転がりながら語り掛けた。吸血鬼だからだろうか、日の当たる縁側付近には近寄らず、影の中をゴロゴロしている。
「別に毎日事務所に顔を出してるわけじゃない。アレはバイト……小銭稼ぎの仕事みたいなモンだから、用がある時だけしか行かないさ」
ミーアの知識レベルに合わせた会話をするのにも少しずつ慣れてきた大神である。
「じゃあ、今日は一緒にいられるの? わたし、もっと外のコトを知りたいから色々教えて欲しいな」
「外のコト? あぁ、ずっと施設にいる箱入り娘だったワケだしな。産まれてから世界を見たことがないってことか」
大神は水道で手を洗い、二つのグラスに水を注いで座卓の上に置いて座った。
ミーアが上半身を起こし、座布団の上にちょこんと座って答える。
「うん。何となく知識はあっても、自分の目で見てみたいんだ。クーヤが生きていいって言ってくれた、この世界を」
「お前の知識があまりに幼いのは、ずっと捕まってたからってことか。そりゃテレビもコーヒーメーカーも知らないワケだ」
世間知らずのレベルを超えていたミーアの知識不足について納得でき、これから大変だなと思う大神。説明能力や語彙力には、自信がある方ではなかった。
右手でグラスを掴み、冷たい水を飲み込む。大神は家の中ではフィンガーレスグローブをつけておらず、右手の孔が開放されている。もし何者かがミーアを襲いに来ても、すぐ戦うことができる状態だ。もっとも家を壊したくないので、そうならないのを願うばかりである。
「そういうわけだから、わたしを遊びに連れてって! お出かけしたい!」
「バカタレ小娘。お前、自分が狙われてること忘れてんのか?」
「忘れてないけど~。クーヤが守ってくれるって言ってたし~。大丈夫かなぁって~」
畳に転がりながら両手を振り上げてジタバタするミーア。親戚の子供が遊びに来たらこういう感覚なのだろうか、と大神はすっかり保護者気分を味わっている。
ちなみに昨晩、探偵事務所から帰宅するまでの間で、日光が苦手だと言うミーアのために日傘を買ってある。そのため外出すること自体はできるようだが、大神の答えは当然NOである。
「守る側の難易度を上げるんじゃない。お前は俺とバトルしてゲットされたんだから言うことを聞きなさい」
「じゃあせめてボールに入れてもらわないとだね」
「なんでそういう知識はあるんだよお前……」
世界的に有名なポケットなゲームの知識が間髪入れずに出てきたことに大神は驚いた。絶対に通じないと思って振ったネタだったのだが。
「わたしは空想を描く黒から産まれた存在だもん。空想の世界のことについては自分のことのようにわかると言うか……」
へぇ、と大神が他人事のように返す。
いや、待て。
「それって
「うん。空想の力が現実になったのが
仰向けになって天井のシミを数えるミーアが、さらっと重要すぎることを言ってのけた。
だがミーアの言う通りならば、これから大神たちが衝突することになるであろう
例えば相手が『黒血から槍を作り出す能力』を持っているとして、その原典が北欧神話のオーディンが持つグングニルだと先に気付ければ、その槍が『投げつけた標的に必ず命中する』ことを見抜き、回避しても意味がないとわかる。そうなれば最初から《
「お前やっぱり生きなきゃダメ。お前が世界の秩序を守れると言っても過言じゃない。だから出歩くの禁止な」
「クーヤのイジワル。久しぶりに外に出られたから、現実の世界をもっと見たいのになぁ」
ぶーぶーと文句を垂れるミーアに、大神は「そう言えば」と質問する。
「どれくらい施設にいたんだ?」
「大体一か月くらいかな? 薄暗くて機械明かりだけがチカチカ光る場所にいたから、日付の感覚が曖昧だったけどね」
「自分が同じ境遇なら、体内時計が狂った挙句にノイローゼになりそうだ。施設にいた人間の名前や顔は覚えてるのか?」
「顔は覚えてるけど、名前は知らないよ。ほとんど日本人だったけど、横文字のあだ名みたいなもので呼び合ってたから」
コードネームのようなものだろうか。その徹底ぶりから、よほど情報漏洩を警戒していたと思われる。
「そうか。これから出会うことになるかもしれないヤツについて、事前に知っておく方がいいと思ったんだけどな。お前を襲った追っ手についてはどうだ?」
その質問に、ミーアの表情が曇る。遠い記憶を辿るかのように、うーんうーんと唸っている。
「確か
「記憶を消す能力の可能性があるな。
大神もまた、その見えざる敵の正体を考察して行き詰まる。そんなピンポイントな記憶喪失が自然に起こり得るだろうか。
「各地に点在するっていう、
認可組織は多岐にわたり、
「そう言えば、吸血鬼は基本的に不死身って言ってたな。その割に死にそうなほど重傷を負ってたのはどう言うことだ?」
「それは覚えてるよ。わたし、銀のナイフで切られたの」
「銀のナイフ……」
純銀製の武器は吸血鬼や狼男と言った西洋の怪異に効果がある、という話を聞いたことがある。民間伝承や創作物の中だけの話だと思っていたが、こうして本物が言うのだから真実なのだろう。
「クーヤも
「いや俺は人間だから、素材に関係なくナイフで切られたら死ぬんだが。吸血鬼って意外と弱点が多いんだな」
「あ、でも、わたしは吸血鬼の弱点を一つ克服できてるよ?」
ミーアはそう言って、クロップドトップスの前面についたジッパーを下ろした。平たい胸元と、真っ黒な孔が露わとなる。もう少し羞恥心というものをですね。
「吸血鬼って心臓に杭を打たれると蘇生出来なくなるんだけど、わたしって心臓が無いから。これで何で生きてるのか全然わからないんだけどね」
「自分でもわからないなら誰にもわからないなソレ。まさか
大神はそう言いながら、自分の右手を見る。彼が外ではグローブをしているのは、
「にしても、吸血鬼で
「わたしは最初から
「そうなのか。てっきり
ミーアが前のジッパーを戻しながら言う。
「わたしの
「人工的な
世界秩序防衛機構……
日本支部は同様の理由から東京ではなく大阪に存在しており、その内部には様々な専門分野ごとの組織が編成されている。
ありとあらゆるアプローチでこの世界を元に戻そうと尽力している国際組織が
と、その時。
ピンポォーン。
大神の思考は甲高いインターホンの音によって遮断された。
「……こんな朝早くに誰だ?」
「クーヤ、今の音は何?」
「誰か来たっていう知らせだよ。……奥の部屋に隠れとけ」
大神は声を潜めて、床張りされた廊下の奥を指差した。今は使われていない、物置状態の部屋がそちらにある。
客人の顔が映るドアホンなどは設置していないため、ひとまず玄関まで様子を見に行く。右手はポケットに突っ込んで隠した。
「どちらさんですか、っと」
アルミ製の格子が張られた磨りガラスの引き戸。その向こうにぼんやりと見える人影に声をかけた。
すると、若干の間があって何かもじもじしたような所作のあと、聞き覚えのある声が返って来た。
「お、おはよう、大神くん! その、昨日のお礼が言いたくて……」
「ん? その声、鳥目か?」
建付けの悪い引き戸をガラ、ガラ、と開ける。玄関先の軒下に立っていたのは、フクロウ型の髪留めをした少女。黒川高校の制服に身を包んだ
「えっと、昨日はありがとうね! あの時バタバタしてたし、気を失っちゃったせいで、まだお礼を言えてなかったから……」
「わざわざ律儀なこった。足、大丈夫か?」
彼女の右足に視線を落とすと、白いソックスが一回り膨らんでいる。どうやら内側に包帯を巻いているようだ。
「うん、全然なんともないよ。ほら、こうやって走れるし」
鳥目は玄関先の庭でパタパタと円を描くように走って見せた。足を引きずっている様子はないので、無理しているわけではなさそうだ。
「お父さんに『まだ包帯は巻いておきなさい!』って言われちゃって。私が搬送されたって聞いて、泣きそうな顔で駆け付けてきたくらいだから、よほど心配させちゃったのかも」
「ふーん。いいお父さんだな」
「あはー。過保護なだけな気もするけど……あっ、ごめん……」
大神の素直な感想に対して、鳥目は何か気まずそうに謝った。大神が首をかしげる。
「謝るようなことあったか?」
「いや、うん……なんでもない!」
鳥目がちらっと家の方を見たので、大神はそこで気付いた。
「あぁ、なるほどな。俺の両親がもういないことなら、別に気にしなくていいぞ。十年も前のことだしな」
「そ、そう……? 大神くんは、やっぱり強いね」
「お前の方こそ、あんな怪物に殺されかけた後だっていうのに元気そうじゃん」
「それは、そのー……。大神くんと話せて、嬉しいから、と言いますかなんとかかんとか……」
「何で急に声小さくなった? 聞こえなかったぞ」
「聞こえてなくてだいじょーぶでーす!」
急にもじもじしたかと思えば、顔を真っ赤にして叫んできた。感情の起伏がジェットコースターのようである。
すると、何かを思い出した様子で鳥目がハッとした。
「そんなことより大神くん! そろそろ出発しないと遅刻しちゃうよ!」
「ん? あー……そんな時間か」
大神はボサボサ頭を左手で掻いて思案する。なんと言って誤魔化すべきか、と。
金曜日の今日は学生諸君にとってモチロン大事な登校日だ。学問に励み、同窓生との青春を謳歌する、本来ならそんな一日である。
しかし大神にとって、今は学校などという牢獄に幽閉されるわけにいかなかった。自分が登校してしまえば、ミーアはこの家に一人で留守番となる。例の追っ手がいつ現れるかわからない状態で、彼女を一人残しておくのが愚行であることなど火を見るよりも明らかだった。
「わざわざ来てもらって悪いけど、今日は休むつもりなんだ。お前こそ、そろそろ行った方がいいぞ」
「えっ、そうなの? も、もしかして体調が悪いとか?」
「そうそう。どうも体が重くてなー。風邪かもしれないし、みんなに
「じゃあ、私も休む! だ、だから大神くんの看病をさせて!」
(なんでそうなる???)
本気で心配していそうな表情で食い気味にトンデモ発言をしてくる鳥目に、大神は面食らってしまった。
少なくとも鳥目はミーアのことを知らないはずだ。真実を言って引き下がってもらうのも頭に浮かんだが、何かのはずみで彼女の口からミーアの存在が外部に漏れる可能性を考慮すれば、その選択は迂闊すぎるだろう。
かといってこのまま彼女を看病などという名目で家に上げてしまえば、それこそミーアの存在を悟られる。そもそもなぜ彼女がここまで自分に対して親身なのか、大神には理解できなかった。
「たかが風邪で大袈裟だぜ。それに、お前に
「クーヤ、誰と話してるの? なんか仲が良さそうだし、敵じゃなさそう?」
なんとか取り繕おうとする大神の背後から、なんとも能天気そうな声が聞こえてきた。
「……お前なぁ」
振り向くと、白い靴下で廊下をトコトコ歩いてくるミーアがいた。警戒心の欠片もないし、空気は読まないし。大神は地球温暖化を加速させそうな勢いで
「誰のために一芝居打ったと思ってんだ。隠れとけっつったろ」
護衛対象のお嬢様に、制裁のデコピンをお見舞いする。
「いたっ! 何するのクーヤ! 不死身の吸血鬼でも痛いものは痛いんだからね⁉︎」
「あーもう全部喋っちゃってるからソレ。知識だけじゃなくて発想力もお子様ってコトね、そーかそーですかそーなんですね」
肌が白いせいでくっきりと赤くなっている額を抑えて涙目で抗議するミーアと、鳥目に対する芝居が全部ただのウソになってしまったことを嘆く大神。これまでの人生でデコピンなんてしたことがなかった大神は、思いのほか力加減ができなかったことを反省する。
再び振り返れば、蚊帳の外の鳥目が豆鉄砲を食った
「大神くん、その可愛らしいお人形のような美少女外国人さんは一体……? あと何か聞きなれない単語が聞こえたような……?」
「……マジで具合悪くなってきたかもしれない」
胃がキリキリと絞められる感覚を味わう
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