第一章 二節 黒狼の牙-"フェンリル"-

「それで? 具体的にあの子をどうするつもりだ?」


 久怒木が椅子の上で足を組み、新聞を広げた。読む時くらいサングラスを外せば良いのに、と大神は思う。


「わかったのは名前だけ。どこから来たとか、なんで追われていたのかとか、何も話したがらない。目的も正体も、謎だらけの存在だぞ」

「確かによくわからないヤツだけど、誰かに追われてたのは事実だし、俺は守ってやろうと思ってる」

「追われてた理由も、追っ手の正体もわからないのにか? あの子の方が悪者って可能性も十分にあるだろう」


 大神とは目線を合わせず、黒いサングラス越しに新聞を眺めながら、久怒木が淡々と問い糺す。彼の言っていることが正論であることは、大神にも理解できていた。


「行動を起こすには情報が足りなすぎる。お前はいつも直情的に動きすぎだ。仮にもこの探偵事務所にいる以上、もっと頭を使え」

「……自分の不出来は、自分が一番わかってるさ。巻き込まれるのが御免だって言うなら、アイツのことは俺一人で責任を持つ」


 新聞紙がカサカサとめくられる音を聞き流しながら、大神は事務所の奥を見る。そこには脱衣所の扉があり、その向こうからは水の流れる音がわずかに聞こえていた。姫路が警戒心の解けたミーアをシャワー室に連れて行ったのだ。


「アイツ、怪我してたんだよ。切り傷と刺し傷が全身にあった。いつの間にか再生して治ってたけど……普通なら死んでもおかしくないような怪我だった。死ぬような目に遭ったヤツが、飯をくれただけで初めて優しさを知ったみたいなこと言ってたんだぞ」


 ミーアの心底嬉しそうな笑顔が、まだ瞼の裏に張り付いている。彼女に何があったのかはまだわからないが、大神にとってそんなことはどうでもよかった。


「俺が助けたいから助ける。それだけだ」


 ぐっ、と拳を握りしめる。グローブの下に隠された右手の虚空が、ジリジリと熱を持ち痛みを産む。

 久怒木が新聞を膝の上に置いた。


「傲慢だねぇ。そんなに失うのが怖いか?」


 切れ長の鋭い目が、サングラス越しに大神を見つめていた。それはまるで、別のナニカに見られているかのような背筋の凍る視線だった。

 だが、目つきの悪さなら大神も負けていない。三白眼をぎょろりと動かし、久怒木の目に言葉を返す。


「当たり前だ。俺はこれ以上、何も失いたくない」

「そう思うんなら、自分に何が出来るか考えて行動しろ。お前たちを途中まで追ってきたっていう謎の追っ手とも、近いうちに衝突することになるだろう。何が敵で、何が味方で、何をすればあの子を救うことになるのか。情報収集は、探偵の鉄則だぜ?」


 久怒木はコーヒーの入った紙コップを口にし、最後の一口を飲み干す。そのまま紙コップを右手でくしゃっと潰し、壁際のゴミ箱に放り投げた。

 弧を描いて飛んだ紙コップだったゴミは、彼の雑な投擲では届いておらず、ゴミ箱の手前で床に落ちそうだったがそのままゴミ箱に吸い込まれた・・・・・・・・・・・・・・

 そもそも事務所のゴミ箱はペダル式で、踏まないと蓋が開かないのだが、蓋もひとりでに開いてゴミを飲み込んでいた。


「……相変わらず便利な能力だな」

「そうでもないさ。気分屋な俺の力より、お前の能力の方がすごいと思うぜ? フェンリルと言えば、北欧神話における破壊の化身だ。全てを飲み込み、神すらも殺す強大で凶悪な狼……。その右腕で、守りたいものを守って見せろ」


 久怒木は新聞をデスクに置いて立ち上がると、そのまま玄関の方へと歩いていき、立てかけてある傘を手にした。どこに行くのかと思えば、空っぽになった煙草の箱をひらひらと見せて来た。近くのコンビニに煙草を買いに行くらしい。


「ガキんちょが、いっちょ前に責任なんて言葉を使いやがって。本当に責任を持つつもりなら、やれることは全部やれ。頼れるものは全部頼れ。そして、何が起こっても後悔するな。これは――お前が選んだ展開ルートだ」


 バタン。アルミ製の扉が閉められ、久怒木がビルの階段を下りて行った。


「アンタも大概なお人好しだよ、まったく」


 頼れるものは全部頼れ、ときた。大神の頼れる相手が数少ないことなど、誰よりも知っているくせに。

 大神は気分転換に自分もコーヒーを飲もうと立ち上がり、久怒木のデスクに置かれたコーヒーメーカーを動かそうとした。

 その時、久怒木がデスクの上に広げたままの新聞の見出しが目に入った。


「……爆発事件?」


 それは黒川市内で発行されている地方新聞で、見出しには『黒川山、爆発事件』と書かれていた。

 黒川市西部にある標高八百メートルほどの黒川山、その中腹で大きな爆発があったという内容だった。ヘリコプターで上空から撮影した写真には、緑の茂る斜面のどてっぱらに巨大なクレーターができている様子が撮影されていた。

 事件が起きたのは今朝のようで、被害者はゼロ人とされているが、爆発の原因は不明。過去の例から孔空きロスト・ワンあるいは黒染者ブラッカーによる被害ではないかと推察されているようだ。

 正直な話、この程度の事件は大神にとって日常に等しかった。黒染者ブラッカーが全力で戦えば、爆発も起こるし火の手も上がる。何しろ、よく知る朱髪の同級生が同じようなことをやるものだから、特段珍しくもない事件だなと思った。


 ――情報収集は、探偵の鉄則だぜ?――


 先刻の久怒木の言葉が、この珍しくもない事件に意味を持たせた。大神がその新聞を手にしようとしたとき、


「クーヤ、クーヤ。わたし、喉が渇いた」

「ちょっと! まだ体を拭いてな――」


 脱衣所の扉が開く音と共に、真っ白いのが出て来た。ぺた、ぺた、と濡れた足で床の上を歩いて、大神の方へとやってくる。裸で。

 うん? 裸?


「こらこらこらこらこらこらこらこら。健全な週刊誌に載せられないようなところまで丸見えのまま近づいてくるんじゃねーですよ」


 安心してほしい。大神空也おおがみくうや危険人物ロリコンではない。いたって冷静に、そう、実の妹がいたらこんな対応をするだろうなーという年上のお兄さんらしい真っ当な苦言を呈し、その平らな胸元に視線が吸われた。

 正確には、胸の中心に空いた虚ろな孔に、である。


(やっぱり黒染者ブラッカーだったか。それにしても、心臓が無いってのはどういうことだ……?)


 申し訳程度の膨らみがある胸の間に、直径十センチメートルほどの孔が空いている。心臓どころか、人体の中心を支える背骨すら見えず、何もない孔の向こうには濡れた純白の長髪が揺れていた。

黒染者ブラッカーは常識からかけ離れた異質な存在だ。彼らに空いた孔の位置は人によってランダムだが、孔があっても日常生活には支障が発生しないという異様さもまた、黒染者ブラッカーが人間離れしている象徴と言えるだろう。

 例えば大神の右手にも孔があり、その空洞の内側には骨も肉も神経も存在しない。だが不思議なことに指は動くし、触覚も機能している。ミーアの背骨が分断されていてもその体が動いているのは、黒染者ブラッカーとしては当たり前のことなので気にならなかった。

 問題は心臓だ。黒染者ブラッカーはその身に流れる血が黒に染まり、その黒血を媒介に黒ノ技能ブラックアーツを発動する。つまり全身に血を送る心臓が無ければ、黒ノ技能ブラックアーツは発動できないはずだ。これも全て『不思議なこと』で済ませて良いのか、あるいはミーアが『普通の黒染者ブラッカーでは無いこと』の証明なのか……。

 と、この間わずか三秒にも満たない観察であったが。


「なーにジロジロ見てるのよエロ犬ッ!」


 脱衣所の扉をわずかに開けて全身を隠しつつも、メラメラと燃える赤い瞳で大神を睨むのは、ミーアとシャワー室に入っていた姫路だった。どうやら彼女もまだ着替えていないらしく、扉の隙間から太ももの曲線が覗いていた。

 くるっ、とミーアを反転させ、脱衣所に戻るよう背中を押す。ミーアは頭に疑問符を浮かべながら、ぺたぺたと歩いて戻っていく。彼女の濡れた白髪が、小さなお尻よりも上の位置でゆらゆらと揺れている。

 その髪の隙間から見えた背中には、何か刺青のようなものが見えた気がした。


(ギリシャ数字の……ⅩⅢじゅうさん?)


 

 **



「雨、やだなぁ」


 柔らかい毛布を羽織ったミーアが、雨の打ち付ける暗い窓の向こうを見つめて呟いた。どこで拾ったかもわからない薄汚れた布切れは、目立たないように黒いビニールに入れて捨てて来た。


「雨が嫌いなのか。ふーん……」


 テーブルを挟んで向き合うように座った大神が、ミーアの言葉を聞き流しながらテレビのリモコンを手に取った。


『……明日は全国的に晴れる見込みですが、時折強い風が吹くでしょう。洗濯物を干す際は、飛ばされないように――』


 テレビの電源を入れると、ちょうど天気予報が流れていた。どうやら夜のうちに雨は上がり、明け方には晴れるようだ。


「良かったな。明日は晴れるらしいぞ」

「……晴れるのは、もっとやだ」

(なんだコイツ……)


 憂鬱そうな表情を浮かべ、ソファの上で毛布を頭から被るミーア。雨も晴れも苦手とは、これまた変わり者である。


「クーヤ、これは何?」


 毛布の中から右手を出したミーアが、プラズマテレビの画面を指差した。その質問が天気予報士のお姉さんではなく、テレビそのものを指しているのだろうと大神は気付いた。


「テレビだよ。どこか遠くで撮影した映像を、電波に乗せて全国に発信してるんだ。この機械はその映像を映し出す物で……わかってなさそうだな?」


 真紅の目を丸くして、口を栗みたいな三角形にして固まっている。おそらく、今連ねた単語の半分も知らないのではないだろうか。


(一体どんな環境で育てば、ここまで常識が欠落するんだ?)


 日本語は通じるのに会話ができないというのは、何とも歯痒い。ミーアのために服を買いに行くと言って姫路も外出してしまったので、現在は探偵事務所に大神とミーアの二人きりである。

 ミーアは知能が低いわけではないようだが、知識があまりに乏しい。人間として生活していれば当たり前に見るような物体、道具、設備のことをほとんど知らないのだ。まるで外界から閉ざされた場所で育った箱入り娘のように思えてくる。

 そのため、色々と質問をされた。コーヒーメーカーを指して「アレは何?」と聞かれた際には紙コップにコーヒーを淹れて実演してやったが、一口で噴き出して「まずい……」と泣きそうな顔で抗議された。コーヒーはお口に合わないらしい。

 そして何より、彼女が最も口にする言葉が。


「喉、渇いたなぁ」

「さっき水飲んだばかりだろ。そんなに飲むとトイレ近くなるぞ」


 大神はそう言いながら脱衣所の手前にあるキッチンに向かい、グラスを掴んで水道の蛇口を捻った。だばだばと注がれた水の入ったグラスを、ソファに座るミーアの前のテーブルに置く。


「ありがとう。でも、水じゃダメなの」

「……?」


 ミーアはグラスに手をつけず、その小さな水面を見つめながら呟いた。


「血が飲みたいの。わたし、吸血鬼だから」


 ……………………ん?

 大神の思考が固まった。突然何を言い出すんだこのお嬢さんは。


「……その顔は信じてない顔だね、クーヤ」

「信じるも何も、そんな中学二年生せかいいちバカないきものみたいなカミングアウトをされてもな……」


 ああそうか、と大神は納得したように手を打つ。


「お前、黒染者ブラッカーだろ? 吸血鬼みたいな能力を使えるってコトか?」


 大神がたどり着いた答えを聞いて、ミーアは両手を持ち上げて頭の上で大きなマルを作ったかと思えば、唇を尖らせて「ブブーッ」とか言ってきた。本当になんだコイツ。


「おい、どっちなんだよソレ」

「半分正解で半分不正解。確かにわたしは黒染者ブラッカーだけど、人間じゃなくて本当に吸血鬼なの」


 不思議な少女だとは思っていたが、真の意味で不思議ちゃんであったか。大神は可哀想なモノを見る目でミーアを見つめたが……全てを世迷言だと切り捨てるには、この世界の常識はとっくの昔に歪んでいた。


「にわかには信じられないが、すでに半分人間を捨てた俺みたいなヤツもいるわけだしな。お前が吸血鬼であるという証明はできるか?」

「できるよ。この部屋に、刃物はある?」

「キッチンに包丁くらいならあるが……まさか」

「うん。その刃物でわたしの首を掻き切ってみて。死なないから」


 淡々とした調子で物騒なことを仰る。

 吸血鬼と言えば、有名なのはアイルランドの作家ブラム=ストーカーの手がけた作品『吸血鬼ドラキュラ』だろうか。血を吸う怪物。夜の王。ナイフで刺されても刃は通り抜け、自在な変身能力を有しており、他にも様々な属性を持つ、空想から産まれた伝説上の生物。現代にいたるまで様々な吸血鬼が創作の世界に登場してきたが、目の前の少女がその一人であると言うのだ。


「いや、やめておく。お前の再生能力はこの目で見たしな。それに、ビルの屋上から落ちて無傷だったのも頷ける」

「それに関してはクーヤもすごいけど。わたしの下敷きになってなんで生きてるの? クーヤも吸血鬼?」

「ちげーよ。俺は能力の副次効果で体が頑丈になってんの。でも、多分お前ほどじゃ――」


 そんな人間離れした会話をしながら、ふと窓を見た大神の言葉が止まった。

 雨が打ち付ける小窓。向こう側は暗い夜のため、明るい室内の様子が反射して見える。

 姿


「……………………なるほど」


 異質な光景にわずかながら血の気が引くのを感じつつ、大神は吸血鬼の特徴を思い出す。確か、影を作らないとか、鏡に映らないとか、そんな特徴もあったはずだ。

 しかし、天井に吊られたシーリングファンライトの白い明りが、ミーアに影を落としている。太陽光ではないから……みたいな理屈だろうか。ともかく、どうやら全ての吸血鬼の属性を持っているわけではないらしい。


「改めて聞くぞ。お前は、ナニモンなんだ?」


 大神のその言葉に、ミーアはわずかに微笑んで口を開く。


「いいよ、クーヤにだけなら話してあげる。キョースケはなんていうか、胡散臭いから」

「それは同感だし間違ってないからそれでいいぞ」


 四六時中グラサンをかけた私立探偵がいるか、と大神は心の中で久怒木の風貌にツッコミを入れる。初めて会ったミーアにしっかりと警戒されているわけで、信用が第一の探偵業がなぜ務まっているのか不思議でならなかった。

 と、そんなことより今はミーアについてである。


「わたしはね、なの。天から滴り落ちた、あの黒い液体がわたしが創ったんだよ」

「黒……、それって狂気の黒ルナティックブラックのことか?」

「そういえばそんな名前がついてたね。その通りだよ」


 大神の頭が混乱する。コイツは一体何を言っているんだ、と。

 狂気の黒ルナティックブラックに呑まれた人間は、発狂して孔空きロスト・ワンに変異するか、変異せずに黒ノ技能ブラックアーツに目覚めた黒染者ブラッカーとなる。しかしその前提として、彼らは全て生きた人間が変わり果てた存在だ。狂気の黒ルナティックブラックそのものから産まれた生命体など、聞いたことがなかった。


「クーヤは、あの黒い液体がだってことは知ってる?」

 

 その問いに、大神は。


「……あぁ。テレビで偉い人たちがそんな説を唱えているのを見たことある。神の指先という名前が付いたのも、その形状が巨大なペンであり、まるで原稿に筆を走らせる創作家があの空の向こうにいるように思えたからだとかなんとか」

「うん。あの黒い液体は、物語を綴るためのインクのようなもの。この世界は、神の手によって書き換えられたんだよ。空想の世界を題材とした、二次創作の物語として」


 空想の世界。

 それは人間誰しもが思い描く、『こんなことが出来たらいいな』『この物語は楽しいな』という絵空事。西暦以前から存在する神話や伝承、民間に伝わるおとぎ話や都市伝説、作家が手掛ける小説や漫画など、ありとあらゆる非現実的な世界。

 この地球、この世界を一つの物語と置き換えた際、その物語の上に筆が走り、黒いインクの殴り書きで改稿されたのが十年前。神の指先事件とは、現実世界が空想世界に塗り潰されたことを意味するのだと語る者も少なくない。

 大神は右手をぐっと握りしめる。そのグローブの下に隠された黒い孔。そこから放出される黒い血は、大神の中を流れる赤い血が真っ黒なインクに置き換えられたものだ。

 そして彼の能力もまた。


(フェンリル……北欧神話における災厄の獣。現実世界には存在しない、神話という空想上の存在――)


 北欧神話の神ロキが、女巨人アングルボザとの間に儲けた狼。

 産まれたての頃は普通の獣であったが、予言により災いをもたらすとされた怪物。

 軍神テュールの右腕を犠牲にして封じ込めることに成功したが、やがて世界の終末ラグナロクに解き放たれ、大神たいしんオーディンを喰らった巨狼がフェンリルである。

 そんな神話世界の怪物が、大神の右腕に宿っている。この現実離れした事実は、空想を描く力によってもたらされたものだ。

 つまり。


「吸血鬼という空想上の存在であるお前も、空想を描く黒いインクから産まれた……」

「うんうん、そういうこと。わたしは黒染者ブラッカーに宿る力として産まれたんじゃなくて、吸血鬼そのものとして生を受けた存在なの。太陽の下に出ちゃうと焼け死んじゃうからよろしくね?」


 晴れるのはもっとやだ、というのはそういう意味だったようだ。

 吸血鬼だという唐突のカミングアウトにはいまいちピンと来なかった大神だが、この世界に起きたデタラメな現象を振り返れば論理ロジックは成り立っていた。ミーアの正体が吸血鬼であるという点に関しては、納得しておく方が話が早そうだ。

 だが、今この場で重要なのはそこではない。


「吸血鬼であるお前が、なぜ追われていた? 追っ手は何者で、お前はどこから逃げてきたんだ?」


 ミーアを守ると決めた大神にとって、重要なのはこれから敵となるであろう存在の情報だ。

 無論、争うことなく解決できるのであれば越したことはない。ミーアの身に何があったのか、相手の目的は何なのか。それがわかれば今後の動き方も考えられるはずだった。


IODOイオドだよ。わたしは、IODOイオドの実験施設から逃げ出してきたの。実験体の私が逃げ出したから、追いかけてきたんだよ」

 

 ミーアから返ってきた回答に、大神は頭を金槌で殴打されたような衝撃を受けた。ソファに腰掛けたまま、わずかに前のめりになる。


IODOイオドだって……? それは、俺たちみたいな認可組織のことか? それとも……」

「わたしは産まれ落ちた直後に捕まってたから、この世界のことをあまり知らないの。IODOイオドのことも詳しく知らないから、認可組織? っていうのはよくわからないけど、施設の色んなところに名前が書いてあったよ。あのマークと同じ名前が」


 ミーアは棚の上に立てかけられたパネルを指差した。それは久怒木探偵事務所がIODOイオドの認可組織であることを証明するロゴが彫られた、文庫本サイズの小さな盾だ。大神の持つ名刺のものと同じロゴである。

 ミーアと初めて会った時、彼女がIODOイオドに連れて行かれるのを嫌がった理由がこれだったようだ。

 

「世界秩序防衛機構が吸血鬼を捕らえて、秘密裏に実験をしていた……? オイオイ、極秘情報の洪水で溺れそうだぞ」

 

 少なくとも大神の記憶では、IODOイオドが吸血鬼を発見したなどという報道は聞いたことがなかった。本物の吸血鬼が存在した事実が知れ渡れば、世界中の科学者やオカルトマニアが沸き立ち、一目見るためにと行動を起こすだろう。それこそ社会問題に発展する可能性もある出来事である。これがIODOイオドの重要機密であることは想像に難くなかった。

 であれば、その張本人であるミーアが逃げ出したら黙っているはずがない。今も血眼になって探していることだろう。

 そして、そのミーアを連れて逃亡した大神たちが、IODOイオドという今の世界の中心とも呼べる巨大組織を敵に回した可能性もまた。


「施設の中で聞こえてきた会話から、IODOイオドがすごいおっきい組織で、しかも黒染者ブラッカーもいっぱいいるってことは知ってるよ。クーヤは、そんな組織から逃げ出した実験生物きゅうけつきを匿ってるんだよ。それってとても危ないことじゃないかな?」


 ミーアは心配しているとも、楽しんでいるとも取れない、ただ自分の知識を話したがる子供のような調子で大神に問いかけた。毛布に身を包んだまま、わずかに首を傾げて大神を見つめてくる。


「面倒ごとに首を突っ込んだ自覚はあるさ。それでも、放っておけなかったんだから仕方ないだろ」

「ふぅん。クーヤ、もしかして英雄ヒーロー願望でもあるの?」

「さぁな。もしそうだとしても……」


 大神の脳裏に、ノイズが走る。

 一瞬フラッシュバックしたのは、幼き頃の記憶。

 思い出したくない、されど忘れてはならない、ある約束。


「……ソレになるには、俺は遅すぎたかもな」

「……クーヤ?」

「あぁすまん、忘れてくれ。それより、実験施設って言ったな。お前はどんな実験をされてたんだ?」

「うーん……わたしもよくわかってないんだけどね。なんか、施設の人間からは『戦闘兵器として実用化するにはナントカカントカ』みたいな話は聞こえてきたよ」


 戦闘兵器。その言葉に、大神は眉根をひそめる。あまり聞き心地の良い単語ではなかった。


「吸血鬼は不死身だからね。日光みたいな弱点はあるけど、物理的に死ぬことは基本的にないんだよ。だから、不死身の戦闘兵器として孔空きロスト・ワンへの対抗手段にしようとしたみたい」


 合点がいくような、いかないような。

 IODOイオド孔空きロスト・ワンという人類の敵に対して、黒染者ブラッカーを中心とした戦闘集団を有していると聞く。世界の秩序を守るため、その戦力を増強しようというのであればどこも不思議ではない。

 そこに、吸血鬼という不死身の生物が現れた。手中に収め、自在に使役することができれば、人間の犠牲を出さずに脅威に対抗できる……という考えなのだろうか。


「理解はできるが、納得できる話じゃないな。まるでお前のことを道具としか思ってないじゃないか。IODOイオドのお偉いさんたちは、道徳の教科書を踏みつけることに抵抗が無いのか?」


 やれやれ、と大神が首を振る。

 吸血鬼と人間は、もちろん異なる存在だろう。人間に当てはまるような倫理観、価値観を持ち込んで、横一線で扱うことが正しいのかはわからない。

 しかし大神の目の前にいるのは、どう見ても人間と変わらない少女なのだ。


「お前ってそんなに強いのか? 孔空きロスト・ワンに対抗するにはそれなりの攻撃能力を持った黒染者ブラッカーが必要だ。吸血鬼の能力について詳しくはないけど、あんなバケモンたちを倒せるほどの力があるのか?」


「気になるなら、試してみる?」


 問いかけに対して微笑みながら返答したミーアに、大神の背筋がゾッとした。その答えを返せるということは、そういうことである。


「クーヤ、さっきわたしのことを放っておけなかったって言ったよね。でもここまでの話を聞いて、本当は放っておけば良かった、なんて後悔はしてない?」

 

 ミーアがソファから飛び降りるように立ち上がった。その直後、窓も開いていないのに、ミーアを中心に風が巻き起こった。その長い白髪が大きく揺れ、事務所内の資料やデスク上の新聞がバサバサと舞い飛ぶ。咄嗟に立ち上がった大神の肌を撫でるその風は異質な冷たさと質感で、まるでこの世のものでは無いように感じた。

 だが大神にとって恐ろしいのは、未知の恐怖ではなく、既知の恐怖だった。


「……後悔するのは、とっくに飽きててな。特に失うことによる後悔は、もうたくさんだ」


 謎の突風が収まり、静けさを取り戻した事務所の中。揺れるシーリングファンが、キィキィと軋む音を立てている。

 ボサボサ頭を掻き上げた大神が、ふと思いついた疑問をぶつける。


「そういえば、何で追っ手はお前を攻撃したんだ? そんなに大事な兵器なら、傷付けずに生け捕りにするべきだろ?」

「確かにね。あのヒトたちに、これからわたしを使う予定があるなら、そうするべきなんだよね」


 ミーアはそこで大神から視線を外し、どこか憂いのある表情で床のシミを見つめた。


「逃げ出した時、後ろから聞こえてきたんだ。『ヤツは欠陥品だ。逃さず始末しろ』って」


 大神は、自分の体温が上がるのを感じた。

 欠陥品。始末。それはミーアという少女を、戦うための道具としか考えていない者の発言だろう。


「あのヒトたちが造りたかったのは、感情のないキルマシーンだったみたい。色んな薬を飲まされたり、脳波?をコントロール?するみたいな装置で洗脳されそうになったり。わたしの精神や感情を取り除くために、毎日実験されたよ。全部効果なかったんだけどね。そのせいで始末すること自体は決まってたらしいから、その前に逃げ出したの。吸血鬼の弱点をいくつか知ってる連中だったから、間一髪だったんだけどね」


「散々っぱら弄り回しといて、手に負えなくなったら処分かよ。実験動物モルモットとしか見てねぇじゃねぇか。それとも、機密情報の漏洩を避けるための口封じってか?」


 声のトーンを落とし、拳を震わせる大神に、ミーアが不思議そうに首を傾げた。


「もしかして、怒ってるの? なんで?」

「当たり前だろ。だって……」


 人の命を何だと思ってやがる、と言おうとして。そう言えばミーアが人ではなかったことを思い出す。

 だが、人権があるかどうかなんてどうでもいい。大神にとっては、ただただその行為が許せなかった。


「この世に産まれて、すぐに捕まって、兵器として扱われて、不要になったら処分……ふざけんなって話だ。お前はもっと、この世界で生きていいはずなんだ」


 その言葉に、ミーアは真紅の眼を丸くして、そして微笑んだ。


「そっか、それがクーヤの優しさってやつなんだね。何故かはわからないけど、暖かい気持ちになったよ。これが、嬉しいって気持ちなのかな」


 でもね、と。


「これ以上、クーヤがわたしに関わる必要はないんだよ。助けてくれたのはありがとうだけど、クーヤは元々関係のないヒトだもん」


 その突き放すような一言が、何故か大神の胸に鋭く突き刺さる。

 もしその言葉の通りに、はいわかりました、と見放したら……彼女はどうなるのか。


「わたしが何者で、どこで産まれて、どこで死んでも、クーヤには関係ないはずだよ。もちろん、そう簡単に死ぬつもりもないんだけどね。クーヤが言ってくれたみたいに、この世界を生きてみるよ。生きる意味があるのか、わからないけどね」


 それが、彼女の選択。

 終ぞ自ら『助けて』とは言わなかった。これから生きるにしても、死ぬにしても。ミーアは大神の下を去り、人知れないどこか遠くへ消えていくつもりだ。

 だが、この大神空也おおがみくうやと言う少年は。


「関係ない、はずがないだろ」


 少女の選択を踏みにじり。


「顔を知った。名前を知った。言葉を交わした。……今すぐにでも死にそうな姿を見た。俺はお前がどんな目に遭ってきて、これからどんな目に遭うのかを知った」


 己の傲慢を貫き通す。


「俺はお前を死なせない。守ると決めたら、死んでも守るぞ俺は」

「じゃあ、死んでも後悔しないってことだね?」


 突風。

 ミーアの身を包んでいた毛布が吹き飛んだ。細く小さい純白の全身と、胸部に空いた漆黒の虚空が再び露わとなる。

 次の瞬間、その虚空から黒い液体が噴出した。胸部前面にどばぁっと飛び散った黒い血液を、ミーアが右手で掴んだ。


(黒血が変形していく……これは、黒ノ技能ブラックアーツ!)


 黒血が固まり、変質し、変色する。やがて出来上がったソレは、黒光りする武骨で巨大な刃だった。形状は台形で、一メートルほどの幅を持つ重厚な刃は、大神の知識ではギロチンと称する以外に他ならなかった。ギロチンにはジャラジャラと音を立てる真っ黒な鎖がついており、ミーアの胸部に空いた孔と繋がっている。

 

「《血を啜る断頭台ブラッドイーター》。これがわたしの黒ノ技能ブラックアーツだよ」

 

 中世ヨーロッパで使用された人道的処刑器具であるギロチンは、本来であればその刃を支える柱と、受刑者を固定する拘束具が存在する。当然ながら刃の部分だけを振り回すようには設計されておらず、よって柄や取っ手と呼べるものがない。

 ミーアの持つ黒色の刃には、本来のギロチン同様に刃を柱の上に引っ掛けて宙吊りにしておくための大きな四角い穴が空いている。そこに黒い鎖が結ばれており、ミーアはその穴を取っ手代わりに巨大なギロチンを掴んでいた。

 ミーアの胸の孔からは、黒血が流れ続ける。

 どろり、どろり、と。その黒血はまるで生きているかのように、ミーアの純白な肌を揺れ蠢き、まるでドレススーツかのようにミーアの首から下を覆い尽くした。


「……なるほど。よーく斬れそうな黒ノ技能ブラックアーツだ。戦闘兵器って触れ込みは、伊達じゃないみてーだな」

 

 華奢な少女が殺人用の巨大な刃を手にしているというアンバランスさは、薄気味悪さと滑稽さを両立していた。大神の口角が思わず引き攣り、額に嫌な汗が浮かぶ。

 断頭台ギロチン。それは人を殺すために作られた道具。この少女の力は、まぎれもなく目の前の相手を殺すための力で、今それを大神に向けて構えている。


「クーヤ。アナタが守ると言った存在は、吸血鬼なんだよ。空想の世界では、人間の敵として描かれる怪物アンデッド。そんなモノを守ることに、何の意味あるの? 自分の身が危険に晒されることも承知の上で?」


「意味、か……」


 大神の中で、ある一つのが蘇る。


 ――その力で、これから出会うヒトたちを守ってあげて――


 それは、かつて交わした約束。かけがえのない、しかし失われてしまった、守りたかったモノとのたった一つの約束だった。


「そんなモン、あるわけねぇだろ。なんて必要ない。生きていて欲しいっていうだけで十分だろーが!」


 大神の咆哮と共に、右手のグローブが投げ出された。

 顔の前に構えた右手。その孔の向こう側に見える黒く白い少女は、小さく微笑んだ。


「わたしを殺したいIODOイオドと、わたしを生かしたいクーヤ。どっちが強いのか興味もあるけど、クーヤがわたしより弱かったら、それこそ意味がないね」


 巨大なギロチンを両手で構え、胸の孔から繋がる黒い鎖をジャラジャラと揺らす。


「だから――殺す気で確かめるね?」

「――ッ!」


 ゴウ

 ミーアの真紅の瞳が爛々と輝いたかと思うと、すさまじい突風が巻き起こり、窓ガラスが飴細工のように割れ、観葉植物が鉢植えごと転倒した。

 大神は改めて認識する。目の前に立つのは華奢で幼いただの少女ではない。人類より遥かに強大で凶悪な力を秘めた、空想上の生物――吸血鬼ヴァンパイアなのだ。


「喉の渇きが止まらないの。クーヤが死んだら……その血を貰うね?」


 身を屈めたミーアが床を蹴り、砲弾のような勢いで飛び掛かる。一瞬で距離を詰めたかと思うと、大神の頭上からギロチンを振り下ろした。


「墜ちて――《血を啜る断頭台ブラッドイーター》‼」


 それは、必殺の一振り。ミーアにとって命の恩人とも呼べる大神の命を断つ一撃。

 まるで舞台の幕が下りるかのように、その巨大な刃が全てを終わらせようと振り下ろされる。


 ――否。物語は、始まったばかりだ。

 

神砕かみくだけ――《黒狼の牙フェンリル》‼」


 右腕に顕現した破壊の化身が咆哮する。

 大神と黒狼、四つの瞳が赤々と輝き、頭上から流星のごとく墜ちるソレを捉えた。

 金属を食い千切る、豪快な破砕音。バラバラに砕け散った黒光りする刃と、黒い鎖が、二人の間にギラギラと輝いて飛散する。


「――え」

 

 遅れて聞こえて来たのは、驚嘆するミーアの声だ。

 あまりに一瞬の出来事。突風で吹き飛び、床に転がった壁掛け時計の秒針が、一回動く間の攻防。


「悪いな。腹いっぱい血を飲ませてやれなくて」

 

 得物を失い、バランスを崩したミーアが着地を誤り、床を滑って転がっていく。


「あっ、いたっ! うぅ~~~~っ!」


 どたんばたんごろんごろん。

 派手に転倒したミーアが事務所の壁に頭から激突し、胸の孔から出現していた黒い鎖と黒いドレスが霧散する。再び一糸纏わぬ姿となった少女は、両手で頭頂部を押さえて悶絶している。


「……本気で殺すつもりだったなコノヤロウ。俺じゃなかったら死んでたぞ」


 右腕の黒狼を掻き消し、投げ捨てたグローブを拾い上げる大神。その様子を見ながら、真紅の瞳に涙を浮かべたミーアが事務所の端っこで喚き出した。


「フェンリルって! 聞いてない! そんなの反則! 北欧神話の神殺しに、人殺し用の器具で勝てるわけないじゃん!」

「そういえばお前には見せてなかったな、俺の黒ノ技能ブラックアーツ。俺はこの力で、守りたいモノを守る。俺はそのために生きてるんだ」


 大神は右手にグローブを嵌め直し、ミーアの下へと歩み寄る。

 ミーアは体を起こし、ぺたんと座り込んだ。ご陽気に頭をぶつけたこと以外に、大した怪我はしていないようだ。


「さて、どう見ても勝負は俺の勝ちなわけだが……まだ何かあるか?」

「言いたいことい~っぱいあるんだけど。クーヤって意外とめちゃくちゃなヒトだね」

「全日本オメーが言うな選手権の会場はここか? 戦って実力を確かめるとか、週刊少年誌のライバルキャラポジションかオメーは」


 ミーアは負けを認めたくないのか、むすーっと膨れている。

 大神は特大の溜め息を吐いてから、部屋の隅まで飛んでいった毛布を手に取り、ミーアの頭から放り投げた。わわっ、とか言いながら毛布を被るように受け取っている。


「で、どうだ。確かめてみた結果は」

「……クーヤは、わたしより強いよ」


 ミーアは身を包む毛布をきゅっと掴んで、顔を隠すように丸まった。

 

「クーヤなら、わたしを……」


 毛布の中から聞こえるくぐもった声は震えていた。

 

「守って……くれるの……?」

「最初から言ってるだろ。俺がお前を守ってやる」


 毛布の隙間から見えたのは、床に零れ落ちる数滴の雫だった。

 小さな嗚咽と共に、彼女が溜め込んでいたモノが溢れ出てくる。


「怖かったよ……! わけもわからないまま、連れていかれて……! 気付いたら頑丈なガラスケースの中で……わけのわからない機械に繋がれて……! 毎日毎日、太陽が昇ってるのか降りてるのかもわからない場所で……好き放題に体と頭をいじられて……! 本当に死んじゃうと思った……! 生きたいに決まってるよ! 死にたくないって思ったから逃げ出したんだもん!」


 小さな背中を震わせて、毛布の中で泣き崩れるミーア。

 これまでの淡々とした態度は、彼女なりの精いっぱいの強がりだったのだ。大神たちを巻き込みたくないという彼女の無意識なが、誰かにすがりたいという心の悲鳴を抑えつけていたのだ。

 それを理解わかった今だからこそ、大神は自分にとって『二つ目の約束』をする。

 

「絶対に死なせないし、生きていてよかったと思わせてやる。約束だ」


 掌のある左手を、ミーアの前に差し出す。

 ミーアは毛布で顔を拭くと、くしゃくしゃになった笑顔で白い右手を持ち上げ、手を繋いだ。

 その触れるだけで折れてしまいそうな細い手から感じるのは体温。生命の鼓動。

 その温もりをと、大神は噛み締めるように握り返した。

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