第一章 狂気の黒
第一章 一節 それは初めての優しさ
十年前の夏。世界は黒に染められた。
アメリカ、ブラジル、フランス、ドイツ、イギリス、インド、オーストラリア、エジプト、そして日本。世界各国の首都上空に、それは何の前触れもなく同時に現れた。
空間を穿って突き出てきたのは、途方もなく巨大なペン。その形状は筆であったりボールペンであったりとさまざまだったが、いずれもペン先だけで街一つを覆う影を落とすほど巨大なモノだった。
東京都新宿区の都庁上空に現れたのは、向こう側の見えない漆黒の大孔からペン先を覗かせる巨大な万年筆。人々は空を見上げ、夢でも見ているのかと目を疑った。映画の撮影か、はたまた次世代型のホログラム映像か。それが世界を脅かす侵略者であるとは、誰もすぐには認識できなかった。
世界各国に出現した巨大なペン先から、黒い液体が流れ落ちた。それはまるでインクのような、透明度のない漆黒の滝だった。東京都庁第一本庁舎に降り注いだ黒い液体は、一瞬のうちに約二百四十メートルあるビルを覆い尽くし、直下にいた人間たちを飲み込んだ。
黒い液体はペン先からとめどなく溢れ続け、都心を漆黒の洪水で襲った。空から降り注ぐ超質量の黒に、東京都心は瞬く間に沈没した。黒に飲まれた人間の数は、何十万、何百万。あらゆる交通機関、インフラ事業が停まり、全国……否、全世界が阿鼻叫喚の渦に飲まれた。
まるで神の悪戯により起こったようなこの前代未聞の現象を、人は【神の指先事件】と呼んd――――。
ブツッという電子音と共にテレビが消され、ワイドショーのナレーションが断ち切られた。時代遅れのプラズマテレビに反射するのは、リモコンを操作して電源を落とした男の立ち姿。
久怒木はリモコンをデスクの上に戻し、紫煙と共に振り返る。
「ご苦労さん。おかげで、
雨の降る午後九時。黒川市中央区にあるビル群の一画、日当たりの悪い三階建ての雑居ビルの最上階。アルミ製のロンカラードアに
大神は小脇に抱えていた汚れたパーカーをソファに投げ捨て、うんざりとした口調で久怒木に文句をぶつける。
「吸う時ぁ換気扇つけろっつってんだろ」
「無理よ大神くん。残念なことに今朝故障したのよ」
「そいつは大変だ。修理業者を呼んだらどうだ」
「そんなお金、この貧乏事務所にあると思う?」
軋んだ床、破れたソファ、年代物の家電製品。お世辞にも裕福な環境とは言えない事務所の惨状に、大神は肩をすくめる。
久怒木は他人事のような態度で、ふーっと煙を吐き散らかす。
「まぁともかく、
「…………」
久怒木の言葉に、大神と姫路は押し黙る。この男からはデリカシーというものが感じられない。
迷えるもの。人間らしさを失ったもの。影のバケモノ……。
様々な呼び名があるが、共通しているのは『赤い瞳を持つ真っ黒なヒトガタ』で『胸部に向こう側が見えるほどの孔が空いている』特徴があり『決定的に変わり果てた
神の指先から滴り落ちた、黒いインクのような
失った人間らしさを取り戻そうという本能で人間を襲い、殺された者は新たな
そして……
「……で。そちらの客人は?」
久怒木は壁際を一瞥する。雨の打ち付ける暗い窓ガラスの前。木目調の床にちょんと立っているのは、白い少女だった。
警戒しているのか、困惑しているのか。落ち着かない様子で、真紅の瞳をキョロキョロさせている。華奢な体を包む布切れには相変わらず黒い血が滲んでいるが、先程出会った時とは違い出血は止まっているようだった。
「空から降って来た
「物扱いはどうかと思うわよ大神くん」
真顔で適当な返しをする大神に、姫路が嗜めるように睨みつけた。
――時は少し遡る。
**
雑踏が交差する駅前の繁華街、救急車両の回転灯が赤々と照らす路地裏の入口。
白いヘルメットに不織布のマスク、厚手の救衣に身を包んだ黒川総合病院の救急隊員が、大神の差し出した名刺を見て首を傾げた。
「
彼は裏面に印刷された『迷い猫から怪奇現象まで! どんな事件も必ず解決! 俺たちは探偵だ!』という胡散臭い広告のようなキャッチコピーを見て訝しんでいた。名刺を渡すたびに同じような反応をされるので、大神はこの名刺が嫌いである。
「そんなとこ。一応これでも
大神は名刺のある部分を指差す。そこには数本の紐で結ばれた、輝きを放つ幾何学体の鉱石のようなマークが印刷されていた。
神の指先事件を受けて樹立した国際組織で、
「
救急隊員は驚きと共に朗らかとなり、大神と姫路に頭を下げた。同様の被害が多発している中で、彼らも医療という戦いを日夜繰り広げている、いわば同志である。
野次馬の視線を遮るように停車した救急車両に、救急隊員たちが
「
頭を下げる姫路に、隊員は力強く頷く。
「もちろんさ。とはいえ軽傷みたいだから、安心していいよ。あと、そっちの子だけど……」
隊員はチラリと、路地の奥を見る。そこには気を失って倒れたままの、白い少女の姿があった。
「そっちも関係者かい? 一緒に搬送することは出来るけど……」
「……いや、こっちで預かる」
大神は救急隊員の提案には応じず、少女に近づいてその華奢な体を担ぎ上げた。その体は驚くほど軽く、綿を詰めた人形でも運んでいるかのようだった。
「そういえばその子、出血してたわよね。応急手当だけでもしてもらえば……」
姫路は少女の顔を覗き込み、ハッとした。
「傷が、ない……?」
顔だけでなく、手足についていた切創はまるで何もなかったかのように消え去り、純白な美しい肌があるだけだった。赤茶けた布切れの内側からも、数分前まで滴っていた血が止まっている。
人とは思えないほどの驚異的な再生力。そして、倒れる前の彼女が口にした『
この異質な少女を公共機関に預けた場合、行きつく先はどこか。
「どうにもワケありっぽい。ワケありすぎるっぽい。どう考えても厄ネタかもしれねぇけどさ」
大神は姫路を見て、その瞳に訴える。
「俺たちが助けてやらないといけない。そんな気がするんだよ」
そう言って少女を担いだまま、繁華街から数キロ離れた探偵事務所まで向かうことにした。傍目にはどう見ても誘拐なので、人目につかないルートで移動することにする。
「先行くぞ」
姫路の返答を待たず、自前の脚力で六階建てのビルの屋上まで跳び上がる。頬を撫でる風切り音と共に、眼下から救急隊員の「おぉ……!」という小さな歓声が聞こえた気がした。
「ちょっと、待ってよ! えっと、
そんな姫路の声が聞こえた直後、彼女もまたビルの屋上まで飛んできた。黒炎を纏った姫路が、両手両足から炎を噴射して飛び上がって来たのだ。
源義経さながらの八艘飛びの要領でビルからビルへと飛び移る大神と、まるで小型のジェット機のように夜空を飛行する姫路が、地上に広がる都心の街並みをショートカットしていく。気付けば星空は厚い雲に覆われており、風に運ばれてきた冷たい雫が大神の額に当たった。
(急ぐか……嫌な予感がする……!)
雨を被ることも勿論困るが、それ以上に大神は嫌な匂いと気配を感じていた。
(強い血の匂いが追って来てやがる。しかも、コイツと同じ血の匂いということは、コイツをやったヤツだ……!)
目的も正体も不明だが、何者かに追われている気配を察知し、大神は探偵事務所へと急ぐ。雨が本格的に降り始めたのは、事務所がある雑居ビルの屋上に到着した時だった。
**
久怒木は短くなった煙草を口から離し、指でつまんで灰皿に押し付ける。吸うのをやめるかと思えば、新品の箱を開けて一本取り出し、アンティーク調なジッポで躊躇なく火をつけた。
「ふー……。説明ご苦労。まぁなんだ、依頼されたわけでもないのに厄介ごとを持ち込んだことについては、事件を解決した活躍に免じて追及しないでおこう」
部屋の奥、表面の禿げた木製のデスクを回り込み、レザーの椅子にどかっと座る久怒木。引き出しから紙コップを取り出すと、安物のコーヒーメーカーのボタンを押した。
芳醇な香りを漂わせる黒い液体が注がれていく。その間も、白い少女は事務所内を眺めるだけで大人しく立っていた。
「立ってるのも疲れたろ。座りな」
久怒木がコーヒーを啜ると共に、大神と姫路もくたびれたソファに腰かけた。大神がチラリと視線を向けると、少女もその場にちょこんと三角座りしていた。なんというか、拾われた小動物のように見えて来た。
「色々と聞きたいところだが、まずは名乗っておかないとな。俺の名は
「アンタを見てくれで探偵だとわかるヤツはいないっての」
「お約束のツッコミありがとう、余計なお世話だ」
久怒木の自己紹介はこれまで何度も聞いてきたが、大神はその度に同じツッコミをしている。どちらかと言うと極道だろ、と。
「クヌギ……キョースケ? それが、貴方の名前?」
「おう、そうだ。この
首をかしげながら久怒木の名前を復唱した少女に、久怒木は自信満々に微笑んだ。少女はまるで、名前を名乗られた意味が分からないとでもいうかのように、久怒木の自己紹介に対してきょとんとしている。
「私は
あはは……と渇いた笑いを漏らしながら、姫路が床板の剝がれかけているフローリングを厚底ブーツのつま先でつついた。老朽化しており、それだけで木の繊維がペリペリとめくれた。
「ヒメジ、ユーヤケ……。うん、覚えた」
復唱した名前の発音が妙に棒読みなことを除けば、日本語の発音は流暢だった。見た目は外国人だが、会話が通じているあたり日本に住んでいるのかもしれないな、と大神は思う。
「俺は――」
ぐぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
最後に大神が口を開いた瞬間、少女の腹の虫がご陽気に鳴り散らかした。わずかばかりの静寂の後、久怒木が吹き出した。
「ククッ、大した自己紹介だ」
「久怒木さん、笑うのは可哀想よ」
姫路が目を細めて久怒木を諌める。大神は逡巡しつつもソファから立ち上がり、少女の前に立つ。
「これしかないけど……食うか?」
そう言ってチノパンのポケットから、先刻購入したプロテインバーを一本取り出した。掴んだ時の感触で察していたが、パッケージが歪んでいることから中身はボロボロに砕けていることが伺える。
少女は座ったまま大神を見上げ、彼の手にしたぐしゃぐしゃのプロテインバーを見て瞬きした。真紅の瞳が点滅する。
「ソレはなに?」
「食い物だよ。お前、だいぶ知識が無さそうだな」
大神は少女の前にしゃがみ込み、袋を引っ張って開ける。案の定、粉々になったプロテインバーだった物体が出てきた。
「……見た目はアレだが、たぶん美味い。というか、こんな悲惨な姿になったのはお前が俺の上に落ちてきたせいだからな」
大神がボロボロのプロテインバーを差し出すと、少女は薄汚れた布の隙間から両手をお椀のようにして見せてきた。その白く小さな器に、大神はアルミ製のパッケージをひっくり返して粉っぽい茶色の塊を乗せて行く。
そして、大神はその時に気付いた。この少女、羽織っている布切れ以外に何も着ていない。布切れの隙間から見えた、病的なまでに色白な肌がそれを物語っていた。そもそも裸足の時点でおかしかったし、担ぎ上げた時に何となくわかってはいたのだが。
(ナニモンだ、コイツ……?)
がつがつもぐもぐ。少女は手のひらに盛られたプロテインバー(過去形)を、餌を与えられた子犬のように食べ始めた。よく見ると鋭い犬歯が生えており、本当に動物のように見えてくる。
(ああ……俺の
自分で取った行動とはいえ、自然と顔が引き攣る。そんな大神の心情を知る由もない少女は、手のひらを舐めるようにして一欠片も残さず食べ切った。
そして、再び大神の方を見る。正確には、大神の膨らんだ右ポケットを。
「お前な……これは流石にダメだぞ、明日食うものが……」
ぐぅ〜〜〜〜〜〜〜〜。
「ああもう好きなだけ食いやがれチクショウ」
大神はヤケクソ気味にポケットの中のモノを全て放り投げた。食べ物を粗末に投げてはいけません。
少女はぐにゃぐにゃに歪んだ二本のプロテインバーを広い上げ、パッケージを剥いて口に放り込んでいく。満足そうにもきゅもきゅと咀嚼しているところ見るに、どうやらお気に召したらしい。
「日雇いのバイトでも探すか……」
「大神くん、そんなに切羽詰まってるの? 同情するわ」
「同情するなら飯をくれ、三食分」
真顔で皮肉を言ってくる姫路をじーっと睨み返し、言い合う体力すら勿体無いとため息をつく大神。やがて咀嚼音がなくなると同時に、その小さな体に似合わぬ腹の虫の鳴き声も収まったようだった。
「……ミーア」
「なんだって?」
大神が振り返ると、少女が立ち上がっていた。血よりも、炎よりも赤い、真紅の瞳が大神を見つめている。
「ミーア。それが
悪意も邪気も感じない白一色の音が、ミーアと名乗る少女の口から発せられた。
違和感を覚えるその不思議な自己紹介に、全ての時が凍り付く。それを解かすのもまた、少女の声だった。
「美味しいモノをもらえた。これが優しいってコトなんだね。優しいあなたの、名前を教えて?」
「
「クーヤ……クーヤ! 覚えたよ、わたしに優しいを教えてくれたヒトの名前」
少女が初めて笑った。屈託なく、とても嬉しそうに。
その白く透き通るような笑顔が、あまりにも儚くて、消えてしまいそうで――
「よろしくな、ミーア」
大神もまた、十年ぶりに笑って見せた。
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