間章 追憶と、忘却
「……きて……ねぇ……サキ………」
誰かが俺を呼んでいる。女性らしい澄んだ声が聞こえてきた。
「ねぇ…起きてってば………」
優しくゆすられて既に意識が覚醒してしまっているが、目は開けない。この絶妙な暖かさの中でもう少しまどろんでいたかった。
「もう…ほらミサキ……早く起きなよ……」
もう少し。あと5分くらい寝かせて欲しい。
「ほら、もうみんな帰っちゃったよ?」
俺はその言葉を聞いて二度寝を諦め、顔を上げる。夕日で真っ赤に染まった教室。その窓際の席で俺は寝ていた。
どうやら寝すぎてしまったらしい。帰る準備をしたところまでは覚えているのだが……。
そう思いつつ、前の席に寄りかかっている少女を見た。
夕日が逆光になっているからだろうか。制服はかろうじて見えるのだが、ぼんやりと影が差していて、顔は輪郭しか見えない。
「どうしたの?こんな時間まで寝てて」
彼女が首を少し傾けると、肩口で切りそろえた髪がさらりと揺れる。
「……夕日がなかなか気持ちよくて」
俺は彼女のそんな仕草を見て、なぜか彼女が微笑んだのが分かった。
「はぁ……そんなわけないでしょ?今日君が一日中ずっと落ち込んでいたのを私が気付かないとでも?」
お見通しだったって訳か。幼い頃からの長い付き合いだからな。俺は彼女から顔を逸らしつつ、頬杖をついて外の風景を眺める。
いつもなら部活でにぎわっているはずのグラウンドに人影はなく、その代わりにゆっくりと伸びていく影が見えた。
「まだ引きずっているの?」
「何を?」
「ミナトちゃんとのけんか」
ミナトという名前を聞くと男を思い浮かべるだろうが、ミナトは俺の妹だ。どう考えても俺の名前と逆な気がするがそれは気のせいであって______気のせいなのだ。
「で、どうなの?」
ずい、と彼女が前かがみになって俺の顔を覗き込んできた。表情は見えなかったが真面目な雰囲気が伝わってきたので、しぶしぶ答える。
「食事の時しか顔を合わせないし、口も利かない……」
「はぁ、私にテストの点で負けたことで落ち込んでるかと思ったのに。もう一週間も経ってるんでしょ?」
彼女はあきれたように肩を落として、腕を組む。
「原因は花見の約束だっけ?」
「あぁ。」
ミナトと桜を見る約束をしていたのだが、その日、急ぎの用事が出来てしまい見に行けなかった。その後の対応として他の日に桜を見る約束をしていたのだが、約束を果たせなかった次の日、豪雨によって桜が散ってしまったのだ。
「ミサキはミナトちゃんと仲直りしたいと思ってるんでしょ?」
何故急にそんな質問をしてくるのか。
「勿論、そう思ってる」
「はぁ、なら何も問題ないじゃない」
「何でそんなことが言えるんだ?」
どうやったらそんな発想ができる?
俺が戸惑っていると、彼女はため息をついて帰る準備をしてしまった。
「そういえば、今回のテストで私が勝ったら何でも言うこと聞いてくれるって言ったよね?」
「いや、確かにそんなこと言った気がするけど、それとは関係ない気が……」
「じゃあ、明日3人でどこかに遊びに行こうよ」
「いや、だから俺はミナトとけんかして___」
「ミナトちゃんもホントは仲直りしたいんだと思うよ?」
「………嫌われたのかと思ってたが、そうじゃないのか?」
「そんな簡単に兄妹の関係が壊れる訳ないでしょ。ほら、本格的に暗くなっちゃうから帰るよ?」
「あ、あぁ。というか、それでいいのか?」
俺は教室の入り口に歩き出そうとした彼女を呼び止めた。
「何が?」
「他に、俺に何かして欲しかったんじゃないのか?」
「そんな落ち込んでいるミサキを見たくなかったからね。それに………」
彼女は勢いよくこちらを振り返り、指で拳銃の形を作って言った。
「私はミサキのことを愛しているからね。愛っていうのは、自分のことを犠牲にしてでも相手を思いやるものだからさ」
「……………………恥ずかしくないのか?」
俺があきれた目で見ると、彼女はこちらに背を向けてしまった。
「冗談だよ、冗談。落ち込んでいるミサキを元気づけようとしたんだよ」
こちらに背を向けたのは、冗談といいながらも照れているからだろうか。
「………優しいな」
「そうだよ?」
「ありがとう」
「どういたしまして。私がここまでしたんだから、絶対に仲直りしてよね」
「あぁ」
しばらくの間、静寂が俺たちを包む。気まずさがあるものの、どこか落ち着くような、懐かしい感じがして、俺はそんな空気が嫌いじゃ______
「ま、本当の理由は、ここで恩を売っておけばミサキはもっとたくさん私の言うことをきいてくれる気がしたからなんだけどね」
「おい」
感傷に浸っていたというのに、どうしていつも一言余計なのか。
「それじゃ、帰ろっか」
「はぁ……そうだな」
俺は荷物を持って、彼女とともに教室から出た。
「そうだ、明日のお昼はミサキのおごりで」
「断る」
そんな取り留めのない話をしながら、歩いていく。
毎日のように通っている高校から出て見えるのは、夕日に染まったいつも通りの街並み。そして、そこを抜けた先にある隣り合った2軒の家の目の前までやってきた。
「じゃあ、また明日」
夕日を背にそう言い放った彼女はなんだかとても悲しそうで、俺はそれに応えることもなく沈んでいく夕日を眺めていることしかできなかった。
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