第三話 雀の成長日記と女子との出会い

「遅かったな」


「ただいま。父さんも今帰り?」


「あぁ」


 俺たちよりも少しばかり早いご帰宅の父と運悪く玄関口で出会してしまった。


 さながら鴉のように黒々と刺々しい短髪に、猛禽違わぬ鋭い双眸とともに怪訝な形相を浮かべて、俺を凝視した。


「チッ。最悪のタイミングだな……これは」


「誠二。何故、此処にいる?」


 筋骨隆々とした体躯が、狭き入り口をより一層圧迫させて、今にも犇く寸前であった。


「さぁ?」


「ちょっとあってね」


「おかえり。あら、お父さんも? 仲良いわねー」


 嫌味にしか聞こえない母の出迎えに、全員の視線が注がれた瞬間、疾くに駆け出した。


「ただいま、母さん」


「ただいま」


「邪魔だよ、早く行けよ」


 立ち往生する二人を、糸に針を通すかのようにすり抜けていき、早々に自室へと足を踏み込み、流れるようにベットにダイブした。


「ご飯はー? 食べないの?」


「腹減ってない。明日食べるから、残しといて」


「せっかく作ったのに……」


 ご飯が喉を通らない訳では無かったけれど、不思議と食欲が湧いてこなかった。


 あの晩御飯に限ったことじゃない……。


 と思う。


 そして、疲れが募っていたのか、眠りに落ちるのにそう時間は掛からなかった。


 もし、夢を見るなら、兄の帰宅からは異なる道行きがいい。


 そう願いながら、意識が途切れていった。


 そして、まだ車の行き来の目立たぬ夜明けを迎え、俺は徐に窓の外へと目を向ける。


 そこには、数匹の小鳥の影が囀っていた。


 いつもと変わらぬ朝、灰色でも無いし、絢爛豪華な色艶に溢れてもいない。


 またベットの上で、静かに人々の朝が始まるの待つのだと、瞼を緩やかに閉じた。


 真っ暗闇に微かな陽の光が差している。


 あのすずめの姿を忘れられない。


 あいつは今、どうしているだろうか。


 そんな想いが、自然と俺を駆り出した。


 あの場所へと。





 あれからこの場所へと足繁く赴いていた。


 不思議と飽くことなく静寂なる空間に、ほんの少しの間だけ入り浸っていた。


 初めは一枚の絵のような感覚だった。

 変わり映えのしない無数の絵の数々が、自然と並べていく内に、一頁へと変わりゆき、いつしか一冊の本へと化していく。


 次第にすくすくと背を伸ばし、もこもことした頬を膨らませ、肉を付けていった。


 数多の天敵を乗り越えて、強かに。


 とても烏滸がましい話だけれど、それが此処に来てしまう一番の理由かもしれない。


 そんな愉悦に頬を緩ませる最中、傍から興味本位に声を掛ける者がいた。


「何してるの? こんな所で」


 職質か圧迫面接の真っ只中に差し迫ったかのような感覚に陥りながら、その問いを投げる者へと目を向ける。


 聞き慣れぬものの、人影には覚えがあった。


 さらりと艶やかな黒色の長髪を靡かせ、目尻にほくろある端正な顔立ちの少女。


 とは言っても、そう歳は変わらないと思うが……。


「何って、本だけど」


「へぇー、随分と変わった場所で読み物をするんだね」


「家じゃ満足に読書もさせてもらえそうにないからな、それに静かな場所の方が捗るし」


「お互い、大変だね。ねぇ、それって何の本?」


 じわじわと亀裂が走っていく。


 圧力を加えたガラス瓶が段々と、鈍い悲鳴のような軋みを上げていくように……。


「俺にも君にも難しい本」


「えぇ。でも、読んでみないと分からないんじゃない?」


「……」


 俺の一挙手一投足に全てが掛かっているのにも関わらず、俺は今、一つの選択を誤った。


 ガラス瓶は粉砕寸前の瀬戸際にまで立たされ、既に瓶越しでは先を見透せぬほどに全体に亀裂が走っている。


「俺が理解に苦しむんだから……お、おまえにはわからない、たぶん」


「酷いなぁ」


 突き放すように放った一言が、何故か彼女をこちら側へと誘った。


 彼女がベンチへと腰を下ろすとともに、ガラス瓶は鼓膜を裂くような鋭い音を鳴り響かせ、原型を留められぬほどに粉々に打ち砕かれた。


 こうして、斯くも呆気なく静寂は終わりを告げた。

 

 それを横目に、次なる頁に目を向ける。


 これが登竜門かと思わせるかのような、専門用語が飛び交う書物に、目を泳がせる。


 いや、違う。


 妙に馴れ馴れしいこの子の言動に、頻りに目を奪われているからに他ならないだろう。


「邪魔だよ……」


「あぁ、ごめん。つい気になっちゃって」


「……」


「もう将来のこと考えてるの?真面目だね」


「もうじゃなくて、ようやっとだろ。これからのことだからな、早いに越したことはないだろ」


 彼女はそう言いながら、そそくさと立ち上がって、自販機の前に仁王立ち。


「何か飲む? 私、甘いの好きなんだよねー」


「喉乾いてないから大丈夫、気遣いどうも。甘党か……俺も昔はそうだったよ」


 がむしゃらな努力が評価されるのは、幼稚園のお遊戯までだということを、俺は知っている。


 合格発表の看板を見上げる俺の傍に、目にクマを作って、ふらふらな状態で自分の番号を血眼になって目で追っている奴がいた。


 最後の行まで読み終えると、そいつは膝から崩れ落ちるとともに、絶叫した。


 その真反対には真っ黒な長髪で顔面を覆い隠し、夢にまで見た願望が成就したかのように、一人で大はしゃぎする女子がいた。


 まるで漫画の一コマのような瞬間が、今もまだ、目に焼き付いて離れない。


 あいつは元気にしているだろうか。


 そういえば、兄も積み上げられた書物と睨み合って、何かをぶつぶつと呟いていたな。


 闇雲に直向きに邁進すれば、願いが叶うって訳じゃない。努力ってのは、己の理想を敷くレールを作っていくような淡々とした作業なんだ。


 そんなことを幾度となく。


 けれど、そんなことを宣えるのも、共感するのも、俺たちがちゃんとした食事を摂って、暖かなベッドに眠っているからなのだろう。


「……。あんなクソ親父。あんな……。あぁぁぁーー!」


 脳裏を煩わしく駆け巡っていく良からぬ考えを払わんと、両手で髪をぐしゃぐしゃにした。


「まぁそんな思い詰めないで、ホラっ!」


 キンッ! と凍てつく物体が頬を伝った。


「冷たっ⁉︎」


 当てがう先に目を向ければ、彼女が満面の笑みで、缶ジュースを押し当てていた。


 実は、ヤバい奴なのだろうか。


「あ、あのなぁ」


「甘いの嫌いになった訳じゃないんでしょ?雀田君の好きそうなやつにしたから」


「みかんって……」


「ささやかなプレゼント」


「ハァ……ありがとよ」


 俺は彼女の優しさに根負けし、露の滴る缶ジュースをありがたく頂戴することにした。


 ぷちぷちとした粒を喉に流し込んでいき、口いっぱいに広がっていく人工的な甘みに、果汁80%の文字に思わず目を疑ってしまった。


 再び、ベンチに腰掛けた彼女を、そっと一瞥する。


 どこかで会ったことがあるような……。


「なぁ、どっかで会ったことない?俺たち」


「中学一緒だったよ? もしかして覚えてないの?」


「あっ、そうか。ん? お前って……あの時の」


「ん?」


 彼女は不思議そうに小首を傾げていた。


 真っ黒な髪とともに……。


 まさかな。


「いいや。なんでもないよ」


「そう?」


 ハァ……。あと少しで学校か。


 ぼーっと巣を眺め、足が鎖に繋がれたかのように、地にピッタリとくっ付いて離れない。


 俺もお前のように飛び立ちたいよ。


 それにしても随分とふっくらとした体躯になったものだ。今にも宇宙に飛び立ってしまいそうなほどに……。

 

 そう思ってか、ふと途方もなく広がる大空へと視線を向けていた。


 静寂。


 そして……小さな羽撃きが、静寂を切り裂いた。


「あっ!」

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