第二話 親の帰り
一生の人生の断片にもならないよう思い出。
けれど、不思議と今も、色褪せることなく記憶の片隅に留まっている一頁だった。
「母さん、悪いけどゴミ手袋出しておいてくれる?」
「はいはい、ちょっと待ってね」
二人は忙しなく居間を行き交っていた。
項垂れた視界に、二者の人影が何度となく映り込み、俺は其をただ茫然と眺めていた。
「拾ってから何分経った?」
俺を片手間程度にしか思わぬのか、冷ややかなな横目を向けて疑問を投げ掛けた。
「さぁ、数十分って所かな」
「なら、早めに終わらせよう。親がいるならもう時期帰ってくるだろう。話があるなら聞くが、何かあるか?手短に頼むよ」
「ハッ。話って言ったって、どうせ返してこいの一点張りだろ?」
「自分の欲求を満たす為だけにやったんなら、至極当然のことだろう」
「あぁ、でも」
「御託はいい。言い訳も不要。私利私欲で行ったなら、帰しに行く。それだけだろ?」
胸の内が段々と熱くなっていく。
反論の余地のない兄の舌剣に、言葉が見つからない。見つかる筈もない。
自然と両の掌を爪を立てる様に握りしめ、鈍く軋みを上げるほどに奥歯を噛み締める。
玩具のような感覚だった訳じゃない、命を蔑ろにしたかった訳じゃない。
ただ、俺は……。
そして、徐に拳を振り翳した。
ぶんっ、と空を切る様な風切り音が耳元を掠め、拳は俺の居竦まる両膝へと叩かれた。
「クソがッ!」
呻くように囁いて、徐に立ち上がる。
「雀は、雀はこの鞄のまま持っていくんだよな」
「いや、あまり人の匂いを染み付かせない方がいいだろ。過ぎたことかも知れないけど――」
「もし、親がいなかったら?」
「それは、その時に考えればいいだろ」
「……ぁぁ」
「お前、まさか飼うつもりだったのか?」
「だったら、悪いかよ」
悄然とした顔つきを浮かべ、捨てられた仔猫を憐れむかのような目で見つめた。
「お前も……分かってるだろ?」
俺の不用意な発言が、兄を真っ暗闇な回顧へと誘ってしまった。
「飼いたいなら、飼えば?」
「え?」
飴と鞭かのような交互な寒暖差に、妙な気持ち悪さを覚えつつも、母の曖昧模糊な立場と次なる言葉に固唾を呑んで見守った。
「あぁ――でも、お父さんの許可を貰ってからね」
「……」
「……」
母は単なる傍観者に過ぎなかった。
「仮に飼育するとしても、こんな狭い家じゃ自由に飛べないだろうしね」
「悪かったわね! 狭くて!」
「……」
「よし。じゃあ母さん、なるべく早めに帰って来るから、父さんにはこの事は絶対に教えないでね!行ってきます」
兄は、口のチャックの綻びに定評のある母に強めの釘を刺し、ドアノブに手を掛けた。
「はいはい、行って――」
「なら、雛を巣に戻しても、親が帰って来なかったら、飼えばいい……だろ」
「……」
「……」
居間は水を打ったように静まり返った。
兄は、その一言に白眼視を向けるとともに、俺の視線を一枚の扉を隔てて見切った。
「俺の意見が通るのは、死に際だけかよ」
「誠二。あとでちゃんと話しなさいよ。前に色々あったし、あの子も繊細なんだから」
母は物憂げな表情を浮かべ、再びキッチンへと舞い戻っていた。
「わかってるよ、そんな事言われなくても、分かってんだよ……」
「夜道には気をつけるのよ。ご飯は用意しておくから、早めに帰ってきなさいね」
「……。行ってきます」
「はい。行ってらっしゃい」
望まずして、歩みを進めていく。
あの場所へと。
静寂なる夜道を兄貴と共に進んでゆく。
ふと徐に兄を一瞥すれば、今までは不均衡な肩を並べ合っていたはずなのに、不思議と横顔が綺麗に視界に収まっていた。
……背、伸びたんだな。俺。
その後も度々、互いの視線がぶつかることはあったが、道すがらにその重苦しき沈黙を破ることは、一度もありはしなかった。
「此処か?」
「だったら、何だよ」
兄は不意に立ち止まり、遥か遠くを茫然と見つめ出した。
心なしか、さっきより頬の強張りが緩み、その不思議な目は、回顧を呼び起こすかのような心ここに在らずという姿であった。
「大丈夫? 学校で頭でも打ったのか?」
「あぁ、悪い。行こうか」
そして、あの桜の根元まで足を運んだ。
「俺が行こうか?」
「運動音痴に任せられるかよ。俺が拾ったんだ。当然、俺が戻すに決まってる」
そう言い放ち、幹に手を掛けた。
「落ちるなよ」
「あぁ、話しかけてこなければなっ!」
手袋越しに掌で雛を包み込み、片手だけで慎重に樹木の枝まで登り詰めていく。
指先に幾多の棘が刺さり、片腕に全体重がのしかかる所為で、始終ジンジンと鈍い痛みが走りながらも、何とか巣へと辿り着いた。
額縁を壁に立て掛けるかのように斜に置かれた巣を直し、そっと雛を元の場所に還す。
そして、俺たちは巣から少しばかり離れのぽつんと建てられた、ベンチへと腰を下ろした。
「ここの自販機いつの間に変わったんだ?なぁ誠二、覚えてるか?昔はアイスの……」
「覚えてない」
饒舌に会話を弾ませようとする兄を、早々に潰さんとして怒気の籠った一言を放った。
「……。何か飲むか?」
「喉乾いてない」
「そう、か」
周囲は仄暗さに覆い隠され、傍らの自販機が微かに街灯の役割を果たしていた。
そのおかげで、明瞭とまでは行かぬものの、兄の表情と雀の影は薄らと窺えた。
「部活は楽しいか?」
その場しのぎの会話にすらならない問いに、俺は思わず首を傾げてしまった。
「行ってねえよ。つうか入ってないし」
「……そうか」
一辺倒な上につまらない話のお陰で、その場は雑音ばかりが行き交う静寂に包まれた。
「何で拾ったんだ?」
「普通、最初にするべき質問だろ、それ」
「大方、鴉か何かが巣を襲っていたんだろうとは、思っていたんだが、当たってるか?」
「解ってんなら、聞くなよ」
「そんなに怒んなよ。久々に二人で話せる機会だろ?」
「ハァ……。お陰様で一分一秒が長く感じるわ」
穢れた魂が抜けて出てしまう程の深いため息を零し、土泥と足跡が付いた土瀝青に目を向ける。
大丈夫だろうか。
「大丈夫だよ。きっと帰ってくる」
「もし、もう親が帰ってきて、雛を見捨ててたら?雛の餌やりは回数が多いって聞くし」
「少なくとも、お前のせいじゃないよ。どのみち食べられていたんだからな…」
「ハッ、噛み殺される道から飢え死に変わっただけだろ。むしろ、そっちの方が辛いだろ」
「それが自然だろう」
「流石は日本人の模範的な生き様の息子。合理的過ぎて頭が上がらないね」
「誠二……。自然と共に生きる生命に、下手な手助けは要らないんだよ」
「人工的な生き様の方が、寿命は伸びるし、幸せだと思いますけどね、お父さん」
「なら、永遠に人の手を借り続けるか。幸も不幸も味わえぬまま、ずっと人の掌の上で」
「下等な生物に自分の明日を決める権利なんて無いだろ、幸も不幸も死に様さえも……」
「お前――いつまで根に持ってるんだ」
「もうとっくの昔に忘れちまった、誰かさんの代わりに、いつまでも恨んでやるよ」
「忘れるわけ! ないだろ」
「なら、なんで夢を諦めたんだよ」
兄は愛猫を亡くしてから、少し変わった。
俺はあの猫とそもそも懐く程の間柄でもなかったから、そこまで親しみ深い記憶は無かったけれど、兄が布団の中で声を押し殺すように、静かに泣いていたのを今でも鮮明に覚えている。
「あの猫が死んだ時だって、父さんは泣かなかったよ」
「あぁ、そうだな」
「やな奴だよ、ホント」
「あまり、父さんを悪く言うな」
「同情かよ。まぁ日に日に似てきてるから、無理もないか」
「お前いつからそんなに捻くれるようになったんだ、昔はあんなに可愛かったのに…」
「俺は元からこんなだよ、そっちが今までの俺をちゃんと見てこなかっただけ」
「……そっか」
兄がこちらをじっと見つめる。
「もう高校生だもんな」
兄貴は徐に掌を俺の頭に乗せ、愛撫する。
頭を左右に揺すりながら、無造作な髪をぐしゃぐしゃにして、静かに微笑んでいた。
「なに?」
「本当に……大きくなったな」
「やめろ」
「父さんなんだろ? これくらいは普通、スキンシップとしてするだろ」
「じゃあ普通じゃないな、家の親は!」
それを振り払い、仄かに熱を帯びた面を隠すように、巣の方へとそっぽを向ける。
未だ尚、親鳥の姿は見当たらない。
「夢を潰すような親はみんなクソだろ」
「俺の意志が弱かっただけだ。誰も悪くないよ」
「だったら、何で!」
「俺だって本当は獣医になりたかったよ。でも、怖いんだ。あいつが腕の中で冷たくなっていく感覚が今でも忘れられないんだ……」
何かを抱きしめるかのように頭を埋めて、こぢんまりと小さく蹲った。
それはまるで、小さく鳴いていたあの仔猫を抱きしめた時の様な姿と重なって見えた。
「お前は優しすぎるから、俺なんかのせいで自分の夢を縛って欲しくないんだ」
「自惚れんなよ、クソ兄貴が。俺は! 自分の道は自分で決める! 誰にも縛られたりなんてするかよ! アホが!」
兄のうしろめたさ故の涙ぐむ姿に、どうしようもなく胸が熱くなっていく。
水分を取らずに長時間湯船に浸かっているかのような、そんなのぼせた感覚に陥った。
クソ親父が。
「ごめんな、嫌な気持ちにさせて」
「別に……気にしてねえよ」
兄はそっと鼻を啜って、徐に天を仰ぐ。
兄がこれ程までに感情を露わにし、忸怩たる心情を赤裸々に吐露したのは、いつぶりだろうか。
「覚えてるか?」
「何をだよ」
「昔、此処で一緒にアイス食べたの」
「覚えてないね、これっぽっちも」
「確か何かの帰り道に、ここの自販機見つけてさ。二人で母さんにせがんでアイス買ってもらったんだけど、誠二がはしゃぎ過ぎて、アイス落としてさ、モナカを二人で分け合ったんだよ。口元にアイス付けてさぁ、嬉しそうに食べてたなぁ……」
「モナカは嫌いだ」
「昔は大好きだったんだけどなぁ」
「あのなぁ、都合の良いように記憶変えん――」
「静かに」
兄の突然の囁くような静寂要求の台詞が、自然と俺の視線をすずめの巣へ向けさせた。
一羽の鳥が静かに舞い降りる。
鴉にしては華奢で、雛にしては巨躯な影に息を呑むとともに立ち上がった。
その無意味で無意識なまでの一歩を踏み出さんとする俺を、兄は安全バーかのように咄嗟に腕を差し伸べた。
その勇士に目をやろうとした瞬間、パタパタとした羽音を立てて、親鳥が羽撃いた。
小さき影が飛び立っていく。
小さな羽撃きが張り詰めた緊張の糸を、静寂を、糸も容易く切り裂いた瞬間。
「良かった……」
俺よりも僅かに早く、兄は胸の内を漏らすようにして安堵した。
「……」
俺はホッと胸を撫で下ろすとともに、なぜだか締め付けるような鋭い痛みが走った。
あぁ、夢、見てたんだな。馬鹿な夢を。
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