第16話 古海栄徳・2-2


 光の破片をうろこの如く煌めかせる海原。

 夏真っ盛りな景色の中で、溌溂はつらつとはしゃぐ塔村は水着姿。そして、その隣にいるのは、サーフボードを脇に抱えた久谷だ。

 生白い少女と小麦色のチャラ男。

 清純なお付き合いのはずがない。雰囲気という名の波にさらわれ、遥か先の沖へと辿り着く。後戻りできない大人の階段だ。純真無垢なつぼみが、ひと夏の思い出とばかりに汚されていく。

 ああ、最悪の展開だ。

 脳裏をかすめる想像に吐き気が込み上げてしまう。


「まさか、行きませんよ。丁重ていちょうにお断りしました。夏休みには友達の先約でいっぱいですから。これ以上スケジュールを詰め込むと、宿題をする暇もなくなっちゃいますよ」


 だが、どうやら杞憂きゆうだったらしい。

 心底ほっとした。

 こんなに純粋な少女が悪い虫に蹂躙じゅうりんされるなんて容認できない。情緒が滅茶苦茶めちゃくちゃで脳が壊れそうになる。そういったジャンルは一定の需要があるも、現実世界では真っ平御免ごめん。顔見知り相手となれば尚更だ。いざとなれば、俺自身が盾になる手もあるだろう。だがしかし、残念ながら力が伴わない。久谷と一対一で戦えば敗北確実。勝算は皆無だ。塔村がはっきり拒否を示せる子で良かった。


「あと、あんまりアウトドアって得意じゃないんです」

「そ、それなら、俺も苦手な方かな」

「古海さんもですか。良かったぁ同志がいて。なんていうか私、割と出不精でぶしょう気味なんですよね」


 意外な共通点にびっくりして心臓が跳ねる。

 しかも、同志と呼んでもらえるなんて。本来なら並び立てる立場じゃないのに、不意打ちの好意で無性に小躍りしたくなる。

 こんなの、いつぶりだろうか。

 インドア派はずっと虐げられてきた。

 世間一般では、根暗イコール犯罪者予備軍と揶揄やゆしがちだ。一時期より沈静化した方だが、依然として厳しい目は避けられない。下手に出歩けば不審者扱いだ。挨拶なんてした日には通報は免れない。

 しかし、本当に危険なのは、陽気なアウトドア派ではないか。と、世間に問いただしたい。少なくとも久谷が当て嵌まるはず。女子高生を毒牙どくがにかけようとしているのだ。真に責めるべきはあちら側だろう。

 なのに、俺のような日陰者ばかりが糾弾される。反抗しないのをいいことにサンドバッグ扱いだ。罪悪感が湧かない相手だからとやりたい放題。もはや人間と思われていないのかもしれない。


「あ、デブって意味じゃないですよ。まぁ、美味しいお店を食べ歩くとかなら、喜んで行くタイプなんですけど」


 かといって、その恨み憎しみで仕返しをする気にもなれない。

 似たような経験をした末、女性嫌いを発症しこじらせた男はそれなりにいる。適当なSNSを覗いてみれば一目瞭然だ。息をするように怨嗟えんさを呟き、同調する者達だけで集まり、閉じた烏合うごうの衆は先鋭化。悪い意味で一種の宗教と化している。

 だが、あんなのと同類なんて思われたくない。俺はまだ正常だ。その気になれば真人間の道に戻れるはず。そう自身に言い聞かせるしかない。もっとも実態は、どこにも所属できぬはぐれ者でしかない。そして、俺の人生がV字回復する見込みはなきに等しいのだ。

 自身を弱者と認めたくないが故に、誰よりもみじめな最下層にいるのではないか。矮小わいしょうなプライドを未だ捨てられずにいる。


「やっぱり、人それぞれ向き不向きがあるっていうか。長所短所を認め合って、お互いにとって適度な距離感を保てるのが一番かなって。どっちかの趣味嗜好を押し付けるより、その方がきっと平和なんです。なんて、ちょっと綺麗事っぽいですよね。……ってあれ、古海さん。聞こえてます?」


 ぬぅっと。

 文字通り、目と鼻の先に塔村の顔が現れた。

 驚いた拍子で我に返る。意識が負の奥底へと沈んでいた。悪い癖だ。自ら進んで鬱々と落ち込もうとするなんて。百害あって一利なし。せっかく無戯星ルゥラのおかげで持ち直したというのに。


「ご、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

「あはは、いいですよ。大した話はしてませんですし。それよりも大丈夫ですか。体調が悪かったらいつでも言って下さいね」


 ああ、塔村は本当に良い子だ。

 これまでの人生、こんなに俺を気遣ってくれる女性がいただろうか。否、絶無と断言できる。そもそも、女性と触れ合う機会がなかったのだ。おかげで免疫は一切ない。全身の血液が溶岩と化して流れている。


 恋愛経験なし。

 ついでに言えば、性体験もない完全無欠の童貞だ。

 それでも、女友達の一人くらいはいるはずだ。などと、一般人なら指摘するだろう。だが残念なことに、同性の友達すらいない無縁の極み。人間関係は定期的にリセットしている。職場を変える度、スマホの電話帳から削除し着信拒否の設定をする。おかげで、現在登録されている連絡先は十件程度しかない。

 人と繋がるのが怖い。だから、何もかも断ち切ってしまうのだ。

 しかし、結婚願望がないというのも嘘になる。

 かつては――少なくとも学生時代までは――漠然と、幸せな家庭を築きたいと思い描いていたはずだ。平々凡々な人生計画。世間一般で普通とされるイメージを抱いていた。


 その普通が難しいと、今では痛いほど理解している。

 目標を達成するには、幾つもの壁を乗り越えなくてはならない。

 恵まれた頭脳や肉体、あるいは美貌びぼうがあれば、それなりの努力で掴み取れる。では、ひるがえって俺はどうなのか。心身共に並み以下で、容姿も整っているとは言い難い。追いつくのに必要な距離は如何いかほどか。スタート地点で大差をつけられている。

 仮に、血のにじむ自分磨きの果て、相応のチャンスを得たとしてもだ。優秀な者達が同量の努力をすれば敵わない。うさぎかめの話は幻想に過ぎないのだ。最終的に恵まれた者が根こそぎ奪っていく。それならやるだけ無駄だ。頑張っても傷つくばかり。早々に諦めた方が身のためである。

 なんて、また悪い癖だ。

 いつまでも改善せぬ自分に心底辟易へきえきしてしまう。

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