6話

 上手く起きれずに遅刻しそうになる季節が冬である。

 理由は明白だ。なぜか目覚ましのアラームが鳴らないからである。これは全国的に見られる怪奇現象らしい。僕も一人暮らしになってから、しばしばこのアラームを勝手に消す妖怪に悩まされている。ままならない。

 けれど、僕も馬鹿ではない。知性は、困難を打ち破るために合理的な判断を下す能力を人間に授けた。僕は人智の及ばぬ怪異に、人智を持って徹底抗戦することにした。

 たゆまぬ思索を続けた。そして、僕はアラームを起きなければならない時間の三十分前にかけ、かつ五分刻みに鳴らすという答えに行き着いた。有史より続く戦に終わりの風穴を開ける閃きだった。かの孔明も腰を抜かし、ヘルニアを発症するほどの奇策である。ノーベル賞は近い。

 だが、それでも数日に一度は寝過ごすのが冬という季節でもある。本当に、ままならない。

 僕はその日の登校も遅刻寸前だった。またアラームを無意識に消して、二度寝をしてしまった。初めての雪国の冬は、関東生まれには辛い。

 冬眠に入る熊しかり、寒いと睡眠時間が増える。それでいて、眠った分は日中に目が覚めているのかというと、そういうわけでもない。帰りのHRの前には、よく分からない夢のような思考のみが頭の上に浮かんでいた。本当に困った季節である。

 帰りの支度をしていると、三田に「今日も一色の家行って良い?」と声をかけられた。僕は少し固くなりつつも了承の意を返した。

 最近は動画投稿のための録音はしていない。その代わり、大会の練習のためにうちの録音機材を使っていた。結果として、以前よりも寧ろ三田は僕の家に顔を出している。

 本戦の形式はとあるライブ会場で審査員の前で歌うという物であり、そこには一般の客も入る。後日、ダイジェストとしてネットで配信もされるらしい。僕も当日は一般の客として入りたいと考えていた。

 コンテストの日取りはもう今月の中旬に迫っていた。今が追い込みの時期だから、三田の歌声も一層熱がこもっているように感じる。

 「なー、お前ら付き合ってんの?」

 前からそう間延びした声がかけられた。不思議そうな顔で僕らを見ていたのは上田広毅だった。髪を指先でくるくると巻き付ける上田に、三田が向き合った。三田は心なしか鋭い目つきだった。

 「そんなんじゃないよ。一色とは友達だから」

 「え、でも家行くとか言ってなかった?」

 「違うよ。いや、違くはないか、家には行く。でも、ほら、一色は私の音楽のビデオ作ってくれてるから。そういう話」

 そう言う三田は仏像を思わせるような声だった。温かみもあるけど、超然としたような声だった。

 上田の声がやけに通るから、何人かが聞き耳を立てていた。「一色め……」との恨みのこもった声も聞こえた気がした。三田もそれを気にしているのかもしれない。

 上田はそんなことは気にしないらしく、大層楽しそうに笑っていた。

 「家には行くの? やらしい〜」

 赤石は周りに聞こえるようにそう茶化した。

 三田は顔を赤くして「やらしくない」と叫んだ。三田と赤石の二人にクラス中の注目が集まった気配がしたから、僕は一歩後ろに引いた。

 すると、赤石は僕の方も見て「ほんとに、それだけ?」と聞いた。僕にもクラス中の注目が集まった。カラオケで「次歌うのは、一色!」と勝手にマイクを渡されたような気分だった。

 「もちろん。ただの、練習」

 冴えないコメントだ。

 「えー、男と女が。一人暮らしで。あやしいな」

 上田は納得していないらしかった。訝しむように目を細め、首をかしげていた。三田は目くじらを立てて、震えていた。僕もなるべく顔を崩さないようにしていたけど、鏡を見たかった。

 「音楽のための集まりなの。崇高なつどいなの。それ以下ではないって」

 三田が小さな声で、でも叫ぶように潰れた声で言った。僕と付き合っていると思われるのがそんなに嫌か。

 すると、廊下から「三田さん。職員室に宿題もってくの手伝って」と声がかけられた。ドアから担任の先生が手招きしていた。三田は笑顔で返事をして先生の方に行く。去り際、赤石の方に向き直り「広毅。一色に変なちょっかい出さないでよ」と釘を刺した。

 赤石はヘラヘラと笑って、僕の方に顔を向け「ごめんな、一色」と言った。

 「いや、大丈夫」

 僕がそう言うと、赤石も笑顔を崩さず頷いた。そして、さっさと帰ってしまった。まったく、慌ただしい男だ。

 取り残された僕は帰り支度の続きをした。三田が家に来る前に掃除をしておこうと考えた。僕は掃除をこまめにするタイプじゃない。けれど、三田にはなぜか綺麗好きと思われているから、三田が家に来る前だけ掃除するようになっていた。見栄を張るためだったら、美化ボランティアくらいなら参加しても良いとは思っている。

 僕は家に着いて、先に掃除をして三田を待った。三田は家に着くと、ため息混じりに「ふう。今日は広毅がごめんね」と言った。そういえば、山井田に加え、赤石も三田と幼馴染だった。

 「いやいや僕は全然。三田こそ大丈夫?」

 「うん」

 三田はそう言ってバッグを放り投げた。

 「じゃ、練習始めようか」

 「おっけ」

 僕は読んでいた本を机に伏せた。マイクの調整をしようと立ち上がると三田が僕を見ているのに気づいた。いや、僕が置いた本を見ていた。

 「それ、何読んでたの?」

 「映像制作の本。ほら」僕は本を三田に手渡した。三田はペラペラとページを捲る。「ぜんぜん、わからん」と言って、眉を寄せて笑う顔も可愛い。

 「あ、ほんとだ。本棚、そういう写真とかの本めっちゃ増えてるね」

 「動画作んないうちにも、勉強はしときたいなって思って」

 「さすが一色。これは? ふぉとますたー?」

 「写真撮ることの検定があるんだよ。フォトマスター検定っていうの。受けたことはないけど」

 「写真の、勉強かぁ。面白い?」

 僕は少し考えた。写真を撮るのは、三田のためになる。そのためだと考えているから、写真の勉強は別に苦ではなかった。

 「写真を撮るのが上達するから、やりごたえはあるよ。最近撮ったの、見る?」

 「見る!」

 三田は僕がカメラを操作すると、後ろに回り込んで画面を見た。画像を変えるたびに「あー」とか「おー」みたいに反応が変わって面白い。

 「あ、これ覚えてる!」

 三田が特に反応したのは、以前撮った鴨の写真だった。

 「鴨の親子ね。一緒に歩いたもんな。てか、これは、まぁまぁ前に撮ったやつだけどね」

 「え、そんなに前のことだっけ」

 「あの日は夏休みだったよ」

 「そっか時間が流れるのは、早いねぇ」

 三田はしみじみとそう言った。確かに、時間の流れは早い。三田と出会ってからの、この一年は特に。

 三田は写真をじっと見ていた。三田はクールでかっこいい印象の見た目だが、感性は割と普通の女の子に近い。好きなものは車でなくかわいいものだし、好きな飲み物はワインではなくフラペチーノだ。

 三田は「この写真好きなんだよね。動画に使ってよ」と言った。

 「前も言ったけど、鴨の親子じゃ、あんまり曲と合うのが想像つかないよ」

 「ふむ。友達との絆とか、そういうの書こうかな。パラードみたいなやつ。それなら、使えるかな」

 三田のバラードか。今までの三田とはタイプが違う物ではある。三田は元からギタリストだから基本的にロック調なのだ。

 「ありかも」

 「鴨だけに? ダジャレ?」

 三田はそう言って、笑った。それから三田はバックからメモを取り出し、「パラード」「家族愛」と書き入れた。本当に、書くつもりなのか。鴨の歌。

 三田は、そんな僕の顔を見てか「でも、実際鴨がテーマの絆の歌、ありじゃない?」と言った。

 「だいぶ、新境地だけどね。……どうだろう」

 「思うに、私の曲には、オリジナリティが必要だと思うんだよね」

 「ふむ?」

 三田は「コホン」とわざとらしい咳払いをし、「なんか、特殊さ、というか私の色? みたいなのが必要だと思うんだよ」と言った。

 「特殊さ、色か。……かっこいいとかは?」

 「うーん、まぁ、そういう方向でも良いけどさ」

 三田はそう言いながらも、あまり納得いってなさそうだった。僕も首をかしげる。

 「なんか、もっと、創作の指針というかさ。なんか、欲しいんだよ」

 「うーん」

 僕は唸った。三田も手を組み、「うーん」と目を瞑り背を反った。それから、「フフ」と照れくさそうに笑った。

 「なんか、ごめん。私もよくわかんないわ」

 「なんとなく、そうだと思ったよ」

 一緒になって、僕も笑った。

 「じゃ、練習するわ」

 三田はそう言って、クローゼットの方に行った。僕も鴨が写った液晶を暗くする。

 三田の思うことも、なんとなく分かる。努力の方向性が分からないと、なんでも良いから指針が欲しくなる。今、やっていることが正しいのだろうかと疑い出すと、止まらなくなる。

 正しいやり方という、絶対的な教示が欲しいとはよく思う。僕も野球をしている時はしょっちゅう投げ方について見直した。大抵、投げづらくなり結局戻すことになる。今もカメラを独学で勉強して自分の成長を感じれているけど、カメラのちゃんとした指導を受けた方がいいのではないかと思ったりもする。

 こればっかりは、仕方がないことだと思う。自分なりのやり方は色々試した後で決まっていくものだ。親にべったりついていく小鴨の様子は和みすぎて、歌声どころじゃない気もするが。

 三田の練習が終わると、二人で夕飯のためにスーパーに買い物に行った。夕方のスーパーは子供連れの母親がお菓子をねだられていたり、仕事終わりと思われるスーツ姿の人が惣菜売り場を練り歩いていたりする。僕らは外から見たら、もしかしたらカップルに見えたりするのだろうか。

 最近、僕は三田と一緒に料理をしている。作ってもらってばかりは申し訳ないと言い続けた結果、三田も夜ご飯を食べていくようになった。料理をする三田が近く見えるから、一緒に料理をしているというのもある。

 「あ、三田じゃん」

 野菜売り場を見ていると、前から僕ら以外の声がした。声の方に二人で振り向くと、そこには一人の女子がいた。「よ」と片手を上げ、近づいてくる。知らない人だった。三田の中学の友達とかだろうか。

 僕の方を見たと思えば、気さくそうに笑いかけてきた。女子は髪こそ長いが、なんとなく三田と似ているような気がした。ボーイッシュでスラッとしているかっこいい雰囲気が近いのだと思う。

 探偵みたいなトレンチコートの裾をなびかせていて、女子の中ではかなり高い部類だろう。三田と並ぶと、頭二つ分は顔の位置が上になっている。

 三田は驚いたような顔をしてから、女子に「久しぶり。市川」と答えた。女子は市川という名前らしい。

 市川は、僕を見て「誰、その人。彼氏?」と言う。女子にそう言われて、僕は少し嬉しかった。

 「いや、違うよ、友達。てか、同じくだり学校でもやった」

 「あ、そうなの? ごめんごめん。へー、おとなしそうな顔だけど、悪くないじゃん」

 市川と呼ばれた女子はそう言って、僕の顔をふむふむと見つめた。目元に力を入れ、眉を一応キリッとさせておいた。

 それから市川は三田の方に向き直った。

 「三田は最近、元気?」

 「うん元気だよ。市川は?」

 「こっちはあんまりかな。色々あってさ」

 市川は眉を寄せてため息をついた。なんだかくたびれた大人のような雰囲気がある仕草だった。タバコを渡してみたら絵になりそうだ。

 「なんか、高校であんま友達できなくてさ。本当に困っちゃうよ」

 「え、そうなの? 市川はもっとクラスの中心になってると思った」

 「そんなことないし、私、陰キャラだから。それに、ほら、大変なんだよ。バンドがパーになっちゃってさ」

 市川は手のひらを広げて言った。パー。三田は困惑したように市川を見ていた。

 「パーってどういうこと?」

 「パーは、パーだよ。バンドは、パーンと破裂した。あんたが辞めたから」

 市川は笑っていた。でも、カラスのような目だった。飢えているようだった。目の奥に刃が映っていた。言葉遣いはポップだけど、それだけに殺傷力が隠せていない。

 市川はぼんやりとした目で三田の反応を見ている。三田は市川の鈍い視線を受けても、表情は澄ましたままだった。けれど、首元には汗が浮かんでいた。

 僕は、二人の会話には入らなかった。二人の関係もわからないから、とりあえずは静観しようと思っていた。ただ、なんだか穏やかではなさそうだ。

 周りは店内放送やポップの文字がカラフルに踊っている。けれど、僕と彼女たちの周辺の空気は淀み、重く、濃くなっていた。揉め事の気配を察したのか子連れの母親はさっさとその場をさり、逆にサラリーマンは珍しいものを見るような目で成り行きを見ていた。

 市川はまた笑顔を浮かべなおし、ため息混じりに言った。

 「バンドは、なんか色々合わなくなっちゃってさ。もう何ヶ月か前には解散したんだ」

 「そう……」

 三田はかすれた声でそう言った。市川は視線を合わせず、話を続けた。

 「あんたがいた時は、そんなにあんたに依存したチームだとは思ってなかったんだけどね。あんたがいなくなったら、すぐこれだ。でも、仕方ないよね。三田は音楽を辞めようとしたんだから。私に、それを止める権利はない」

 市川はスマホを取り出す。三田はパッと顔を上げた。

 「でも、あんたはまた始めた」

 スマホには、僕が作った三田のオリジナル曲のビデオが映る。

 「これ見た時、びっくりしたよ。曲調少し変えたでしょ? ロックだけど、優しい感じだ。しかも、コンテストの予選しれっと突破してるしさ」

 市川は画面をまた操作し、一次選考突破者の名簿を出す。僕がほぼ毎日みているページでもある。

 市川はニヤニヤと笑っている。

 「私もこれ一次、突破したんだよね」

 「え?」

 三田は不意に水をかけられたみたいな声を出した。

 市川は「私は今、ソロでやってる。あんたと一緒」と話し続けていた。

 市川は、もう笑っていなかった。

 そこで僕は、これは宣戦布告だったのだと気づいた。

 「あんたにだけは負けない。あんたとは違って本当に私はプロになりたいから。適当にやってるあんたには」

 「私だって今は……」

 なにか言いかけて、三田は唇を噛んだ。言い返してくるのを予想していたであろう市川は退屈そうな顔になる。張り合いがないと言うように、市川は舌打ちをした。

 「今は真面目にやってるって? そうかもね。あんたはバンドでも一番練習してたし。そんなあんたをみんな信頼してた。でも、裏切ったのはあんただよ、三田。もう一度言うよ。あんたにだけは負けない」

 三田は何も言わず、ただ俯いていた。売れ残って廃棄される弁当のような、寂しい雰囲気を感じた。

 市川は顔をそらし、その場を去った。


 掃除しておいた家のキッチン。埃もなく、ピカピカ。

 ここに二人で立つことを楽しみにしていたのに、どうにも楽しくない。賑やかしのために少し埃を残しとくくらいがよかったかもしれない。

 「……さっきの、聞いて良いの?」

 僕は肉のパックを開けながら、三田にそう声を掛けた。しばらく返事が返ってこなかったから「別に言わなくてもいいけど」と付け足した。

 家に帰っても僕らはほぼ無言だった。三田は、露骨に僕から目を背けていたし、僕はそれに気づかないふりをした。

 三田は野菜を切りながら、「私がバンドを中学の時にやってたのは知ってるんだよね?」と聞いた。僕は頷く。

 「私さ、市川を裏切ってるんだよね」

 ポタリと水滴が蛇口から落ちた。それと同じくらいの声の大きさだった。

 裏切り。背後から斬りかかる侍のイメージが頭の中に湧き上がる。なかなか現代で生きていて聞かない言葉だった。

 僕はなるべく平坦に「裏切りって何?」と聞く。

 「んー」

 三田は目を細めた。それから三田は作ったような笑みを顔に乗せ、言った。

 「裏切りねー。結構やばいんだけど、引かない?」

 「引かない。……いや、場合による」

 「正直だなぁ」

 三田は髪を掻き上げながら、カラカラと笑った。

 「実は、私たちのバンド、ガチだったの。プロになろうって目標でやっててね。中学生だったけど、レベルも全員高かった」

 三田はポツポツと語り始める。三田の瞼がピクピクと動いていたから、僕は目を逸らした。

 「楽しかったよ。みんな仲良かったしね。私は、本当にプロになるなら、みんなでって思ってた。それだから、今みたいにコンクールに出ようって話になったのも自然な話だった。何日も前から準備した。早いけど、これで中学生でデビューできたらどうしようなんか話してたんだ」

 「でも」と三田は言う。

 「私のせいで、全部台無しになった」

 「……失敗したってこと?」

 「失敗……。もしかしたら、そっちの方が良かったかも。私はもっと最悪な方法で裏切ったから。

 大会は東京だった。前日には東京に着いて万全だった。夜には、みんなでご飯屋に行ったりしてね。あとは次の日さえ何とか終われば何にも問題なかった。仮に不合格でも、みんな怒ったりはしなかったと思うし。本当に終われさえすれば、何も問題なかった」

  確かに、それはそうだろう。基本的に野球でサヨナラを許したピッチャーを仲間は責めたりしない。みんな仲間だ。だからみんなの責任なのだ。一人に背負わせるものじゃない。きっと、三田のバンドだってそうだ。

 でも、市川は三田を恨んでいる。

 三田は上を向いた。肩が震えていた。

 「私ね怖くなって当日、逃げたの」

 三田は僕に話していないようだった。教会での懺悔みたく、僕を通して別のものに謝っているみたいだった。

 「ボーカルの私がいないから、どう乗り切ったのか。それとも、乗り切れなかったのかすら分かんないけど」

 三田の声は曇ったガラスみたいで普段の透明感が損なわれていた。

 三田は目元を拭い、こっちを向いて「また同じようなことしたら、ごめんね」と笑った。三田の笑い方は自然だった。でも、僕は気づいている。三田は嬉しい時ほど不器用な笑い方をする。

 「……僕、どう反応したら良いのかな」

 「笑ってよ」

 笑えないよ。目でそう訴えた。

 「あー、そうだよね。ごめん。今のナシ」

 三田は目を伏せた。どちらかが話すのを待っていたのだろう。僕らの間には音がなくなった。すでに食材の表面は乾いてきた。

 無音のキッチンに音をもたらしたのは三田だった。

 「一色、私に失望した?」

 「いや」僕は首を振った。

 失望は、していなかった。でも、市川が三田を恨むのは仕方がないと思った。

 よく分からないが、市川が三田を買っていたのだろうというのは分かった。当然だろう。三田は僕ですら、凄さが分かるのだ。同じバンドを組んでいた市川が知らないはずもない。その三田がコンテストを直前にして逃げ出したとなったら、失望するだろう。それに、自分の晴れ舞台を台無しにもされたのだ。感情が振り切れて憎しみに昇華しても不思議ではない。

 「でもさ、関係ないよね」

 「関係ない……?」

 三田はぴくりと震える。

 「三田が、確かに市川に悪いことをしたとしても、それが今の三田がチャレンジするのを諦める理由にはならない。市川の言うことを気にする必要は、ないよ」

 「でも」

 何か言いかけて三田は止まった。そして、言った。

 「そうだね。その通りだ」

 三田は分かってると呟いた。そして、三田は自分の頬をパチンと叩く。

 「よし、もう大丈夫! ごめんね、一色」

 三田はそう言って笑った。悩みなんて、ないような顔だった。

 「録音もないし、新曲も作るね。あ、もちろん、練習はするけどね」

 「鴨の曲?」

 「そう、鴨の歌。名曲にするから」

 鍋をつついている間も、三田は普通だった。新曲のフレーズを僕に相談しては、快活に笑った。

 僕にはその笑顔が自然で、作ったものには見えなかった。

 けれど、次の日以降、三田には明確に異変が起こる。歌の調子が悪くなったのだ。

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