7話

 昔、野球はそこまで好きじゃなかった。

 小学校の時に友達に誘われて入った野球チームだったが、正直休み時間にやるサッカーの方が楽しく感じた。だって、サッカーの方がずっと走ってるから試合参加してる感は強いし、シュートはかっこいい。

 でも、ホームランもシュートと同じくらいかっこいいとすぐに気づいた。バッターとして向かってくる球を打ち返す。これは、他のどれでも満たせない快感がある。

 でも、適性があったのはピッチャーだった。

 ピッチャーは割と地味だと思う。バッターが打ったら脳が痺れるような快音がなるけど、三振を取ったら布団叩きみたいな音が三回続くだけだ。見て面白いのは多分ホームランだ。

 初恋はいつだったろう。

 小学校の高学年でクラスが同じだった女子かもしれない。彼女は足が早くて、男勝りでよく男子と混ざってサッカーをしていた。

 多分、彼女も僕のことを好きだった。彼女は僕をよく見ていることがあったし、やたらボディタッチが多かった。家も近くて子供の時から仲が良かった。

 でも、どうだろう。あんま、好きじゃなかったかもしれない。となると、初恋は三田茜になるのだろうか。

 一番仲が良かった友だちは誰だろう。

 野球を一緒にやってたやつかもしれない。僕とバッテリーを組んでいたやつだ。シニアチームで正キャッチャーをしていた割に、不真面目でよく練習中もバレないようにサボっていた。でも、センスはあったからもったいないと思っていた。

 違うな。

 確かにあいつとも仲が良かったけど、一番ではない。事故にあって、野球チームを抜けると、ゆっくり連絡は減って疎遠になった。高校生になる時に、もう連絡先すら消している。

 一番仲が良かったのは、榎木だ。彼と出会った小学校の頃から、付かず離れず関係を続けてきた。

 榎木は友だちが多かった。人当たりもよく、神出鬼没のフットワークの軽さで毎日何かしらの予定が入っている。怪我をする前から野球しかしてこなかった僕とは違い、榎木は人気者だった。

 僕はそんな榎木が少し苦手だった。けれど、榎木は僕を贔屓していた。小学生の頃からたまに家にゲーム機をもって遊びに来た。正直、ビデオゲームをそこまで好きじゃなかった。それもあって、あんまり榎木は好きじゃなかった。

 中学になっても、榎木は僕に構い続けた。友達の少なさを心配する母の手前付き合わないわけにはいかなかったが、鬱陶しいとすら思っていた。鈍感なのか、榎木は僕への態度を変えなかった。それは、僕が事故にあってベッドの上で絶望していた頃も変わらなかった。榎木は、毎日病室に来て一方的に話し続けた。

 榎木は土産話と一緒に病室に色々持ってきた。携帯ゲーム機を「もういらないから」と渡してきたり、塗り絵や折り紙などを一緒にもくもくとやったりした。そういえば、読書の趣味はその頃にできたものだった。この本が気に入ったというと、彼は図書館から借りてきた同じ作者の本をトートバックいっぱいに詰めて持ってきた。入院していたのは二週間もなかったが、榎木がいない時にトートバッグの本を読んでは何回も新しい物を取りに行かせた。

 あの頃になって、ようやく榎木を親友だと思うようになった。榎木は退屈してるだろうから遊びに行ってあげようくらいの気持ちだったかもしれないが、本当に救われていた。暇すぎて死ぬ所だった。

 榎木はどうして、僕と構うのだろう。今日会ったら、聞いてみようか。

 そう思いつつ、僕は新幹線の窓から外を見た。景色が次々と現れては、よく見る間もなく置き去りにされていく。ビル群一つ一つに何人も人がいて、それぞれの人生があると考えると、ただの雑踏と評価してはいけない気になってくる。

 横には、三田がいる。窓側が僕で、通路側に三田が座っている。窓に映る三田は、何を考えいるのか分からない。何の感情も感じない目で目の前の机に置かれたペットボトルを見ている。

 「何でこんなことに」と嘆きたくなる。楽しみにしていた旅行なのに、こんなにも空気が悪い。周りを覆う空気が妙に重いせいだろう。重いから、三田の目線は下に押し込まれているし、間に力場があるせいで僕の顔は無意識のうちに窓の外に向けられているのだ。だって、そうじゃなきゃ横に座っているのに話さないなんておかしい。

 明日が、三田のコンテストの決勝だ。僕らは朝早くに集まり、新幹線で東京に向かっていた。朝から三田の様子はおかしかった。元気がない。いや、最近はずっと、台風が通過した後の稲穂のようだった。

 市川と再会してから、三田は歌の調子も悪い。パフォーマンスに全力を注げてないというのは、側で見ていても分かるものだ。

 僕にも、不安があると集中できないというのは経験がある。むしろ、僕はずっと注意散漫な子どもだった。不安がこびりついて取れなくなる。そうなると、何も手につかない。だからこそ、野球に夢中になった時の視界が青だけになるのが好きだった。あの時だけは、他のことは一切、頭から抜け落ちる。

 メンタルの不調が歌にも影響が出るとは知らなかったが、考えれば集中が必要なものにはメンタルは少なからず影響を及ぼすのかもしれない。

 二時間ほど揺られていると東京駅に着いた。新幹線の速さには驚くが、あまり快適ではなかった。狭いところに座っていたから足が痛い。立ち上がると、電流が流れた。それに、僕の周りだけ異様に空気がよどんでいたように感じる。

 三田は「体凝った」と言って背伸びをした。

 「じゃ、なんか食べに行こうか」

 そう言いながら、僕は近くの飲食店をスマホで調べていた。

 三田の好きそうな物を食べに行こう。明日のために少しでもメンタルの回復をするべきだ。普通に三田と歩きたいのもある。

 そう思っていたら、三田が手を合わせて僕に申し訳なさそうな顔をする。

 「ごめん。ちょっと私一人で行きたいところあるから、また明日ね」

 足元が揺れたように感じた。地震だろうかと思うが、どうやら違う。目眩がした。

 「一色。大丈夫?」

 「うん。多分新幹線で酔った」

 倒れかけたところを三田に支えられた。乗り物酔いにしては、心に来た。天地がひっくり返り、だるま落とし的要領で膝がハジけたような衝撃で目眩がした。乗り物酔いは気持ちが悪くなる。肉体だけじゃなく、心にも多少影響が行くのは仕方ないだろう。

 「え、あ、そっか。分かった」

 僕は泣きそうな気持ちでそう言った。

 もう、今日は駄目だ。


 東京駅は目が回るほど広い。だけど、腕も伸ばせないないほど狭い。人が多すぎる。気が休まるはずもない。

 なにかしらの音が鳴っている。本当に色々な音で、一つ一つはしっかり確認しないと分からない。駅かデパートか分からなくなるくらいに、カフェやお土産店が立ち並んでいる。甘い香りがするが、今は気分じゃない。店以外にも、何やら薄い液晶がある。広告や自販機にすら液晶が取り付けられていた。そして、例に漏れず、何やら音を出していた。一つでも、田舎におけば、大いに存在感を放つだろう品物だ。昼は興味本位の人々が、夜になれば光を求める虫からも人気となるのだろう。だが、東京駅の人々には興味の対象とならないらしい。まじまじと見るものはいなかった。

 改札口近くの立ち食いそば屋に入った。そばくらいなら食べられるだろうと思ってのことだった。二分もせずに普通の見た目の温そばが出てきた。すぐに食べて帰ろうと思った。食べようとすると、湯気が顔に当たりメガネが曇った。舌打ちをしてメガネを外すと、横のおじさんは肩を竦めた。ごめんなさい。あなたが気に入らないわけではなかった。

 蕎麦は美味しかった。寒かったからか、つゆが美味しく感じて全部飲んだ。体があったかくなると、鼻が詰まった。

 ひとしきり観光気分は味わったから、僕はひとまず家に帰ることにした。私鉄に乗り、最寄り駅までは三十分ほどだった。ホームの風が異様に冷たく、電車に乗ると暖房が効いていたのが心地よかった。

 電車を降りると、まず信用金庫の本社ビルが目に入る。弁当くらいギチギチに建物が詰められている駅付近から離れるように国道に沿って歩く。カラカラと回りながら枯れ葉が舞って足元に流れてくる。下町風情があふれ出る住宅街だった。僕の生まれ育った街だ。

 小道に入ると、ここからは見えない焼き鳥屋が出す香りがする。甘辛いタレの匂いがいやらしいほど魅力的に香っている。小さくて古い水色の床屋の横を行くと、水色の車が目に入った。その横から、白と黒の僕の家が現れた。

 ほぼ一年ぶりの帰宅だった。家は何も変わっていなかった。白い壁。庭の多肉植物。ボールを投げるネット。水色の車。全て、同じだ。

 家の前に立つ。どうやって今まで家に帰ってきていたっけとそのまま棒立ちになった。予定は伝えたし鍵はあるけど、インターホンを鳴らした方がいいだろうか。

 結局、鳴らさずに鍵を捻った。深い茶色のドアが「おかえり」と言うように、軋んだ音を出した。

 「ただいま」

 僕は大きめの声でリビングの方に声をかけた。母と父がゾロゾロとリビングから顔を出してきた。なんだか、手を叩いたら寄ってくる羊みたいだった。

 「おかえり、勇」

 「おお、大きくなったな。勇」

 両親はそう言った。僕も「ただいま」ともう一回言いながら靴を脱いだ。

 二人は、変わっていなかった。父は眼鏡にホクロの多い顔で、母は茶色に染めた髪に天然のパーマがのっている。強いて言えば、両名やや太らせあそばせたかもしれない。

 荷物を廊下に置いて、リビングのソファに腰掛ける。向かいに両親も座った。

 母は「勇。ご飯何が良い? 夜、食べに行こうか」と言った。

 「あー、今日夜、榎木と食べに行くからいいや」

 「あら、そうなの」

 次にお父さんが心配そうに口を開いた。

 「あっちで、ちゃんと食べてるか」

 「うん。自炊もしてるんだ」最近は三田と料理してるし、嘘じゃない。

 「お金は、足りてるか?」

 「うん。なんとか足りてる」足りてはいるけど、もしかしたら増やしてもらえるかもしれないから曖昧に答えておく。

 「友達はできたか?」

 「まぁ、一応。できたはできた」

 「おお、ならいいな。若いうちは楽しまなくちゃな。今の友達は一生ものだから」父は嬉しそうだった。心が痛む。友達はほぼできなかった。嘘はついてないけど、嘘ついてるみたいだ。

 話が一巡し、父との会話が途切れた。

 一年ぶりの会話は、これで終わりという雰囲気だった。家族の義理でしなければいけない会話はやり切ってはいる。

 なぜか居心地が悪くなり「じゃ、部屋戻るから。しばらくしたら、榎木と会ってくる」と言った。

 「おう」

 お父さんもそう言った。僕も笑みを顔に乗っけてリビングを後にした。

 二階の自室に帰る前に、和室に寄った。

 半分物置きのような和室だが、そこの前だけはきれいにされている。

 ほのかに品のある香りがする。線香をあげたらしい。畳に腰を下ろして、正座になる。おりんを鳴らして手を合わす。

 「……ただいま、葵」

 仏壇の横に写真がある。妹が幼い顔の笑顔をしていた。丸くクリクリとした目はトマトのようにみずみずしい。

 目をつむった。すると、鮮明に妹との思い出が思い出される。ビデオが脳を駆け巡った。

 妹の記憶だけが彩度を保っているのは、よく思い出していたからだろう。死んだ人と会うには記憶を辿るしかない。寂しく辛いが、そうしないといつか忘れてしまう。特に幼少期なら妹の記憶がすっぽり抜けてもおかしくない。けれど、覚えている。実際、他のほとんどの記憶が忘却された。だが、残った記憶の中で妹のみが色落ちせず保存されている。丸い目。柔らかい手。少しくるりと巻いた髪。今でも確かに、その質量が世界に存在したことを覚えている。よく思い出していた。僕の脳は、そうして幾度も同じように過去へさかのぼったのだろう。だから、雪道にわだちができるように、その記憶への連結のみが強くなった。これがよくなかった。弊害として、あの事故の記憶も脳の取りやすい場所に置かれてしまった。棚から落ちかける菓子箱のようだ。ふとした時に、記憶が落ちてくる。フラッシュバックする。おかげで、うなされて起きる日もある。いっそ、忘れてしまいたいとすら思うくらいだ。

 目を開けて写真を見る。妹は、笑っている。

 「今でも、怒ってるか?」と口から漏れた。

 事故の原因はトラックだった。信号待ちをしていた妹の方に車が行き、交差点にいた僕が無事だった。けれど、妹の一番近くにいたのは僕だった。妹の死の一因は僕にあることは間違いない。もし幽霊がいたなら、僕は憑かれているかもしれない。

 「まったく、縁起じゃないな」

 自分の思考を茶化すように笑う。自分が悪いか悪くないかならともかくだ。勝手に妹を悪霊にして被害者面なんて、あまりに不謹慎だ。僕は正座を解く。

 僕は自室に戻り榎木との待ち合わせまで、少し寝た。

 

 夕方、近所の公園で榎木は待ち合わせることになっていた。僕は厚手のコートを身にまとい、財布と携帯だけ持って歩いて行った。

 たった一年で地元がいろいろ変わっていた。仕様が変更された掃除機の説明書を見るような気分で歩いた。

 待ち合わせの公園に着く。待ち合わせには少し早い。見渡すと、榎木はベンチに座っていた。

 榎木は、あまり変わらなそうだった。ベンチに背を預けて、ボケっとした顔で子供たちが遊ぶ様子を眺めていた。榎木は女子みたいな甘い顔をしている。全体的にダークな服装でまとめていて、おしゃれには気を遣っていますよと主張している。目を細くし親御さんに構わず子供の姿を凝視している。だからか、こちらに気づいていないようだった。僕は手を上げて声をかける。

 「久しぶり、危険人物榎木」

 「おい、こら。違うわ」

 凄い瞬発神経で、榎木はばっと立ち上がった。こちらを見て、僕の姿を確認すると、顔の力を緩めた。

 「まぁ、いいや、久しぶり。やさぐれ元スポーツマン一色」

 「誰がだよ」そうツッコミを入れる。挨拶を交わす僕らに、周りの親御さんが怪訝そうな顔で僕らを見ていた。

 ベンチを離れ、公園の真ん中に二人で立った。監視員みたいなポジションだ。親御さんは帰り支度を始めたそうにしている。

 榎木は「三田ちゃんはどう。明日でしょ、コンテスト」と聞いてきた。

 「あー、どうだろ。まぁ、なるようにしかならないから」

 澄ました顔で言った。榎木は頭を揺らした

 「まぁ、そうだけど。なんか、結構緊張してると思ったのに普通だな」

 「まぁ、僕よか、三田の方が緊張してるよ」

 「そりゃ、そっか。お前は付き添いだしな」

 お前は他人なんだと強調されたように感じて、少し腹が立った。だが、純然たる事実だったから何も言えない。

 「じゃ、一色。今日はどうする? とりあえず、カラオケでも行くか」

 「あーそうする?」

 「え、なんか気分じゃない?」

 「そんなことないよ」

 榎木は僕が気乗りしないことをすぐに見抜いた。「具合悪い?」と背中をさすってきそうな目をしている。

 「カラオケ行きたくないなら、別でも良いよ?」

 「いや、カラオケでいいよ。別に」

 「……そうかよ」

 そう言うが、榎木は納得できなそうだった。でも、本当の理由を言っても冷やかされるのオチだろう。

 僕は三田がどうしているかが気になっていた。東京を一緒に回れないと知った時は崩れ落ちそうになったが、あの時行きたい場所があると言っていた。三田はどこに行きたかったのだろう。まさか、前のコンテストみたいに、逃げるわけじゃないだろうな。

 考えても、仕方ない。そう思い直し、思考を断ち切る。

 僕は「ごめん。榎木やっぱカラオケの気分じゃないわ」と言った。

 「おー、いいよ。何したいの?」

 「と言われても、したいことがあるわけでもない」

 「なんだよ」

 「ちょっと、待って。考える」

 僕はそう言って、周りを見渡した。見慣れた公園だった。幼少期によく来ていた、砂場とブランコがあるだけの小さな公園。

 だが、細部が微妙に違う。ブランコは最近塗り直されたようでスポーツカーみたいにキラキラしているし、砂場には前の人が作ったであろう山がある。

 僕の生まれ育った町も、少しずつ変わっている。そう思うと、やりたいことが分かってきた。

 「散歩かな?」

 そう言うと、榎木はクスリと笑った。

 「どうした。久しぶりに帰って、感傷深くなっちまったか?」

 「まぁ、実はそう。まずは小学校からな」

 「はは」

 榎木は笑っていた。

 

 「よっ」

 小学校のフェンスをよじ登り、乗り越えた。

 「おいマジかよ」

 榎木はフェンス越しに着地した僕にそう言う。フェンスに手もかけずに、呆然としていた。

 「どうした、榎木。来いよ」

 「いやマジかよ」

 「まじだよ?」

 「あー、もう」

 榎木は顔を赤くしてフェンスの穴に指を嵌め込み、ガシンと大きく音を鳴らした。そして、フェンスの上に手をかけ、よじ登った。

 「来たの、久しぶりだな」横に着地した榎木にそう声をかける。

 「そりゃ、そうだろ」

 榎木は周りをジロジロ見ながらそう言った。

 「もう暗い。誰にもバレないよ」

 僕は安心させようとそう言ったが、榎木は僕を睨むだけだった。お前が言うなと目から伝わってくる。

 「なんか、色々変わったな」榎木は、ため息をついてそう言った。

 フェンスを越えた先は、校庭だった。端から、鉄棒やうんていなど定番の遊具たちが並び、リレー用の線やサッカーゴールなども中央に配置されている。よく考えると、小学校の校庭特有の景色だ。他でこんなレイアウトのものは見たことがない。

 榎木の言った通り、変わっているものもあった。鉄棒と、うんていの間が不自然に空間が空いている。

 「上り棒があったとこだな。ぽっかり、空いてる」僕が空間を眺めていると、榎木が横からそう言った。

 「安全配慮ってやつかな」

 「そうだろうな。結構危ないよな、あれ。よく考えると」

 「さっきの公園も、球遊びはダメなんだってさ」

 「時代が変わったんだな。よく考えたら、結構ボールが車道に出たりしてたわ」

 僕らはそんなことを言いながら、校庭の隅を歩いた。どちらも何も言わなかったが、僕は流石に真ん中を歩く度胸はなかった。

 夜の校庭を眺める。月明かりが、校庭の砂を青白く覆っている。比べるのも変な話だが、京都の石庭のようだと思った。冷たい風が吹き、光を受けた砂が鱗粉りんぷんのように舞う。それがなんだか自然的で神秘的な光景に見えて、幽玄という言葉がよく合うと思った。

 「あ、榎木。タイムカプセルってあるっけ?」

 「あったな。いつか、六年の時の担任が招待状を出すらしいぞ」

 「探さない?」

 後ろを歩く榎木は「はぁ」と呆れたような声を出す。

 「探さねぇよ」

 「え、掘らないの?」

 「掘らないってば」

 榎木は投げやりな声でそう言った。不法侵入に付き合わされているのだからストレスも凄いのだろう。榎木は腹立たしそうに足踏みする。

 僕は「タイムカプセルってのは、何年後かにみんなで掘り返した時になくなってて犯人探しするのが定番だろ?」と言った。

 「そんな定番はない。しかも、今回の場合は俺たちが犯人になるぞ」

 「確かに。じゃ、なんか言おう。犯人らしいこと」

 「……どんな?」榎木は心からどうでも良さそうだった。

 「確かに僕が犯人だ。けど、僕は脅されただけなんだ、みたいな」

 「別の黒幕がいるのか」

 「そっから、第二部だ。ちなみに校長が真犯人」

 僕らはアハハと高く笑った。それから、榎木は急に真顔になって「今日勇テンションおかしいよ」と言うが、無視する。

 馬鹿みたいな会話をしながら歩く、不法侵入者二人。絶望的に最悪だ。もっと最悪を更新してやりたくなる。僕は親指を立てて、校舎に向ける。

 「じゃ、校舎に侵入しようよ」

 「まじ?」

 「まじ」

 「いや、ダメでしょ」

 流石に、ダメらしい。僕は両手の人差し指を突き立てて、聞いた。

 「じゃあさ、タイムカプセル掘るか、侵入するか。どっちが良い?」

 「なんで二択なの。しないよ」

 榎木は僕の両手の指をやんわり曲げた。また、立て直す。

 「良いから。どっち」

 「……じゃあ、侵入」

 「おっけ。仕方ないから侵入するか」

 「……で、どうやって侵入すんの。正門とか空いてないでしょ」

 榎木はもう諦めたらしく、特にため息もつかなかった。

 「それはな」

 校舎の裏に入る。誰もそこに来ないからか、草が生え荒れ放題になっている。そこの窓の一つに手をかける。

 「ここの小窓の鍵が閉まんないから。……あれ?」

 「もう直されたんじゃない? そんな侵入しやすい場所があったら」

 金属が擦れるだけだった。開かない。ここは壊れているはずだったが、まぁ三年も経てば修理されるか。僕の記憶だと二年生の時から壊れていたから、少なくとも四年は放置されていたんだが。

 榎木は突っ張っていた肩を下ろし「じゃあ、帰ろう」と言う。声は明るい。

 「仕方ないな。セカンドプランだ」

 「嘘でしょ?」

 落胆が顔から滲み出たような顔で榎木は呻いた。

 足を持ち上げるように歩いて、草まみれの校舎裏を後にする。

 「ここ、正門だろ?」

 榎木はそう言う。

 「流石に鍵閉まってるよ。開いてるわけがない」

 「ここだよ。鍵が壊れてる。内側に石置いてるけど。よっ」

 ドアを指差す。体をドアに押し当て力を込めた。ゆっくりとドアが開く。学校を守る最後の砦は、ギーンと服従の声を上げた。開き切った。

 榎木の顔を見た。彼は力なく両手を上げた。本当の意味で、お手上げだった。

 「なんでこんな事知ってんだよ」

 「まぁ、いいじゃん。行こうぜ」

 僕はそう言って、中に入った。

 榎木に「何年生の所から行く?」と聞くと「まぁ、順当に行けば一年からかな」と答えた。昇降口からは低学年の教室が近い。どうせ行くなら最初から行きたい。どちらの意味の順当さなのかは分からなかった。

 「なら、そうしよう」

 夜の学校を歩いた。記憶の隙間が埋まっていくような感覚がある。それは、自分が持っている小説の名前を全部思い出そうとして、家で答え合わせをする感覚に似ている。あ、これもあったな、という楽しさだ。懐かしいという気持ちが心地いいのはそういう感情からかもしれない。いつも見ていると、面白くない。中途半端になるまで忘れると、答え合わせができて面白い。トランプの、シンケイスイジャクみたいだ。

 一年の教室に着く。僕と榎木どちらもこの教室で授業を受け生活していた。至る所に手垢がつききった生活感と、緊張感が同居した雰囲気がある。小学校と高校の間でも、変わらない。

 確かにこの教室で授業を受けていた。それは分かっているのだが、

 「なんか、思い出あるか?」

 「ないな。ほぼ覚えてない」

 榎木はそう答える。僕も同じだった。高校一年生にもなると、小学校一年生のことなんか全く覚えていないものらしい。教室に来れば何かしら思い出すだろうと思ったが、全くだった。

 僕は早々に飽きて落書きをした。すると、榎木が「あ、思い出一つある」と言った。

 「どんな思い出?」黒板の日直の傘に、総理大臣とアメリカ大統領の名前を書きながら、聞いた。

 「勇は、一年生最初の自己紹介の時野球選手になるって言ってた」

 「まじ?」

 全く記憶になかった。

 「僕ですら覚えてない。よく覚えてたなそんなこと」

 「まあな。他のみんなのはほぼ覚えてないけど、なんかそれだけ、強烈な記憶だったんだ」

 榎木はそう言って、教壇の方を見ていた。もしかしたら、前で自己紹介をする子供の僕でも空見したのかもしれない。

 なんだか気恥ずかしくて「割と、スポーツ選手って言う奴はいるだろ」と俯いて言った。

 「確かに、よくいるかもしれない。でも、本気だったのはお前だけだったよ。サッカー選手になりたいって言ってたやつも中学に上がる頃には言わなくなる。懲りずに指のタコを潰してたのはお前くらいだった」

 確かにそうだろうなと思う。小学生の頃に語った夢を大人になっても本気で追う人間は少ない。良い悪いとかじゃなくて、そういうものなのだ。

 僕は「スポーツ選手以外にも生き方はある。それぞれ別の生き方に行っただけだろ」と言った。

 「どうだろうな。夢を大声で言うのが恥ずかしいって、そういう空気もあった気がするけど。身分不相応だ、現実見ろって水をかけて。ガキが夢見れなかったら、どうするんだって話だけど」

 「結局、僕も諦めたけどな」

 僕は言った。そして、気づく。これは負け惜しみみたいだ。意地を張っていると思われるのは、嫌だった。榎木をみると、特に何も言わなかった。聞かれていないようで安心した。

 「二年の場所に行こう」

 僕はごまかすようにそう言い、教室を出た。榎木はしばらく教卓に寄りかかり教室を見回していた。

 そこから、学校中を徘徊した。学校は音で満ちている。それが、今は吸い込まれるように静かだ。春なのに桜が咲かなかったような感じだ。あるべきものがそこにない。生徒も先生も、誰も見つからない。

 各教室を見て回るのは、すぐに飽きた。適当に散策した。ぼんやりと当時の記憶が戻ってくる。開放的で入ってくる風が気持ちよかった図書室。人が少ないのも良い点だった。メダカとザリガニが共生していた池。その横には甘い蜜のツツジが生えていた。低学年が吸いまくり、枯れた花が池に浮かんでいた。全校に蜜を吸うのを禁止されたのは面白かった。かびた匂いのする体育館。階段の手すりは、触るとヒヤリと来る。夏でも、妙に冷たかった。冬は、針のようだ。どれも記憶の中の写真と変わらない。

 「ちょっと、待て」

 榎木が低い声でそう言い、足を止めた。僕も止まる。

 「何?」

 「シッ」榎木は口の前に人差し指を立てた。なんだか、懐かしい仕草だった。小学校でよく見た。そう、給食の配膳の時間。

 「あれ」榎木が声を顰めて指を指す。その方向には廊下を歩く人がいた。男だった。やけにガタイが良い。

 僕は「うわ。なんでまだ人いるんだよ」と呻く。

 「しらねぇよ。とりあえず、逃げよう」

 僕らは逆方向に体を向けようとした。早く昇降口に戻ろう。最後に、男がこちらに気づいていないだろうかと顔だけ向けた。

 バッチリ、男と目が合った。

 「「あ」」

 声が出た。男は数センチ跳ねた。僕は動けない。

 「教員じゃないよな……。侵入者か?」

 男は、僕らに恐る恐るそう聞いた。

 榎木と目を合わせる。榎木の整った顔が割れたように歪んでいた。無言のやり取りの後、頷き合った。

 「うっかりしてて。迷い込んじゃいました」

 眉を困らせて、そう言う。横の榎木も「いやー、すいません」と頭に手を置いてペコペコ腰を折る。

 静寂が流れた。それから、男の巨躯が揺れた。僕らは今度こそ体の向きを反転させる。

 それから、全力で走った。

 「まじかよまじかよ」榎木は後ろを振り返りながら、そう言った。

 「無駄口、やめろ。早く、逃げるぞ」

 僕は早くも息も絶え絶えといった感じだった。

 「おい、なんか、竹刀持ってるぞ」

 榎木の言葉に、振り向く。男の体がでかくて気づかなかった。男は確かに棒状の物を手に持っている。それが竹刀かは目が悪い僕には分からない。けれど、榎木が言うなら多分そうなのだろう。

 「捕まったら、面されるってことだろ」

 そう言うと、榎木は噴き出すように笑った。僕も笑う。いやはや、状況は笑えない。

 全力で走った。でも、僕が遅い。事故の後遺症でぎこちない走りだからだ。でも、男も竹刀を持っているから、そこまで速くなかった。精々、僕と同じくらいの速さだ。差はそう縮まらない。

 昇降口のドアを引く。全身から暑い汗が出て、外に出た瞬間は肺まで涼しく感じた。でも、竹刀男との距離がゆっくり縮まっているのに気づき、全身が震えた。冷や汗が出た。

 校庭の真ん中を走り抜けた。もう、バレているのだから、外側を走る必要はない。前を走る榎木が砂埃を起こす。水色っぽい砂が舞い上がり、海のようだと思った。

 榎木は、フェンスを越えた。「早く!」と叫んでいる。なんか言おうと思ったが、口から細かく息が漏れるだけだった。肺が痛い。

 ようやく校庭の端に着く。フェンスを越えようと、手をかけた。

 「おい、待って」

 誰が、鬼ごっこで待てと言われて待つ? 待たないよ。そう思った。精神年齢が小学生まで下がったのだろうか。

 「おい、勇。お前、一色勇だろ」

 「え」後ろから聞こえたことに体が固まる。声に聞き覚えがあった。

 「先生?」

 その男は、五六年生の時の担任の先生だった。太い眉とやや青髭がある幼顔の男。影で呼ばれていたあだ名はアレキサンダーだ。そのでかすぎる体から、某選手のミドルネームを拝借された。息を整えながら、低い声で言った。

 「お前、何やってんだよ」

 「え、不法侵入?」そうとしか、返せなかった。僕はフェンスに手をかけたまま、半身だけアレキサンダーに向けていた。アレキサンダーは呆れたような顔をする。

 「そんな、さも見ればわかるみたいな顔すんなよ。見ればわかるけど」

 「見たら分かること、聞かないでくださいよ」榎木はそう言った。竹刀を持った男が見知ったアレキサンダーで安心したのか大分フランクな話方だった。少なくとも、元担任に鈍器で殴られることはないとは思うし。

 「確かにそうかもな。見たら分かるから警察に通報するのが先かな」

 アレキサンダーは手にスマホを持ち、耳の近くに寄せた。僕らは慌てて「ごめんなさい」と頭を下げる。アレキサンダーは笑った。

 「嘘だよ。で、お前達何しにきたの?」

 「いや、久しぶりに帰ってきたから。遊びに来たくなって」

 「それで、夜に遊びに来たの?」

 「そういうことです」

 アレキサンダーは真面目そうな顔で、竹刀を地面について何やらいじっていた。けれど、少し楽しそうだった。

 竹刀を地面から浮かせて、ヒョイと肩にのせた。竹刀が小さく見える体の逞しさが凄い。

 「……まぁ、別に通報はしないけど。普通に犯罪だから。これから、すんなよ。盗難とかがあったときにやばいから」

 「「すいませんでした」」

 僕らが二人でそう言うと、満足そうに頷いた。それから、榎木の方を見た。

 「一色。それで、もう片方は誰?」

 榎木は「え」と愕然としたように声を出した。誰かわかってなかったのか。

 「榎木っすよ。お久しぶりです」

 「あ、榎木か。久しぶり」

 榎木がペコリと頭を下げると、先生もつられたように頭を下げた。フェンス越しに頭を下げているのが変な感じだ。僕も二人にチラチラと視線を往復させてから言った。

 「じゃ、すいませんでした。俺たち帰りますんで」

 「え、帰んの?」

 よじ登りかけたところで、先生がそう言った。そら、帰るでしょ。声には出さなかったが、榎木と二人でそんな顔をした。

 「寄ってけよ。そのために追いかけたんだ」

 本当に、こいつ教師かと僕は思った。多分榎木もだった。


 アレキサンダーと校舎に戻った。昇降口のドアから入り直す時「修理しろって校長に言っとかないとな……」と呟いていた。確かに、知ってれば強く押すだけで入れるのはまずい。夜に侵入するのなんて、僕たちが初めてだろうけど。

 「失礼します」

 「俺しかいないよ。残業、俺一人だから」

 職員室に入ると、アレキサンダーは羽織っていたジャケットをハンガーにかけ、竹刀を足元に置いた。暗い中で分からなかったが、若々しい顔も三年分の歳を取っているのだと顔の皺を見て思った。

 アレキサンダーは青髭を爪で触りながら聞いた。

 「ジュース、飲む? あ、もうコーヒー飲めんの?」

 「別に好きじゃないけど、飲めますよ」僕はそう答えた。

 「俺もあんま好きじゃないです」榎木は手を前で組み、恐縮したようにそう言った。

 「たく、ガキンチョめ。オレンジジュースにしてやるよ」

 先生は僕らに椅子を勧めた。おとなしく、腰を下ろす。多分、この椅子は教師の椅子だが、いいのだろうか。机にムーミンのデスクカレンダーが置いてあることから察するに多分女性だし。

 「ありがとうございます」

 「……あざす」

 オレンジジュースを受け取り、飲んだ。榎木もコップに口をつけた。アレキサンダーも椅子に腰掛けずずっと音を立ててアイスコーヒーを飲んだ。一瞬、顔をしかめると、ガムシロップを入れていた。

 「それで、今日はなんで不法侵入なんかしたんだ?」

 榎木はチラリと僕の顔を窺ってから「勇が言い出して」と言った。

 「ああ、やっぱりそうか。で、勇はどうしてこんなことしたんだ」

 僕が言い出したことであるとはわかっていたらしい。納得いかないと思いながら「久しぶりに地元に帰ってきたから馴染みの場所にいきたかっただけです」と答える。

 「言ってたな。てか、勇。今ここ住んでないんだな」

 「はい、高校は他県にしたんです。田舎に一人暮らしです」

 「へぇ、すごいな。野球は辞めたって聞いたから気になってたんだ」

 「え」アレキサンダーの言葉に少し驚く。

 「僕のこと、なんか聞いてたんですか」

 「まぁ、勇はここらへんの有名人だからな。お前の野球チームの勝敗記録とかたまに確認してたよ。それに、事故のことも」

 チラリとアレキサンダーは僕の足を見た。逃げた時に走り方がぎこちなかったのは分かっているのだろう。刺激していい話題なのか、確かめるような慎重な声音だった。

 「もう、怪我は大丈夫です。それに、あっちもそこそこ楽しいですから」

 「そっか。なら、良いんだ」

 アレキサンダーはそう言った。それから、堪えきれなかったように小さく笑った。それは大きくなり、豪快なものになった。

 「それにしても、一色は相変わらず問題児だなぁ」

 「え、僕そんなんでした?」

 相変わらず? 全く身に覚えがなかった。

 「そんなんだったろ」榎木はからからと笑った。

 「昔から、不思議なやつだったよな。勇は」

 アレキサンダーはそういう。

 「運動できるのに、体育の授業は手抜いてたりとか」

 「授業中は、うとうとしてるか空を眺めてるかだったし」

 「やめてくださいよ」

 二人は共鳴したように笑った。リレー選手のアンカーなのに、走者で歓声が一番少なかったことなど、僕の特徴を何個も挙げられた。二人は楽しそうだったが、気分は悪かった。

 それから、榎木が思い出したように「あ、先生。俺、衝撃的なエピソード持ってます」と言った。

 「なになに」

 「おい」なんだか、嫌な予感がする。榎木は僕を見たが、話し続ける。

 「一色、小学生の頃告白されたことあるんですよ」

 「おお、小学生のくせに生意気だな」

 肘でアレキサンダーに小突かれる。うざい。

 「で、一色は告白に対して、そもそも誰ですかって相手に聞いたんですよ。ちなみに、同じクラスの女子でした。もちろん、その子は悲しんだんですが、一色はこれから友達になろうと言って、その場を収めたんです」

 「勇っぽいけど。女の子がかわいそうだな」目を細め青髭を触りながら、アレキサンダーは言った。榎木は眉を下げ「本当に」と肯定する。

 「それで、勇は一週間後にはその女の子を忘れてました」

 「え?」

 「告白されたことはかろうじて覚えてたんですけど、顔と名前が一致しなくなってたんです。だから、クラスで喋りかけられた時に名前が出てこなくて。結局、勇は女の子にその場でビンタされました」

 「お前、大丈夫か?」

 アレキサンダーは医者のような目をして肩を触ってきた。僕は弁明する。

 「名前を忘れただけです。その女子から告白されたのは覚えてましたよ」

 「じゃ、名前は?」

 「……みか?」

 アレキサンダーは榎木の方を見る。

 「そんな奴学年にいたか?」

 「いましたよ。……中学の時に。こいつ適当に言ってます」

 「まじか」

 アレキサンダーは僕を絶対零度の視線で見ていた。僕も申し訳ない気持ちになってきて、点きっぱなしだったテレビに目をやった。

 「まぁ、元気そうで良かったよ。一色も榎木も」

 「まぁ、はい」

 「そうですね」

 アレキサンダーは表情を緩めて、僕らを見た。

 「榎木は高校楽しいか?」

 「楽しいですよ。部活も三つ兼部してます」  

 「三つもか」

 「え、そうなの?」

 「いや、勇には言った。テニス、文芸に料理。まぁ、ほぼ幽霊だけど」

 「なんか、榎木らしいな。節操なさそうなところが」

 「なんか棘ありません?」

 「いやいや。勇は? どうして田舎に行ったんだ?」

 テレビを見ていたら、話のバトンが回ってきた。榎木はピンとアンテナが立ったようだった。「それ、俺も知りたかった」って感じだ。僕は胸に手を当て咳払いした。ミュージカルをイメージし声も高くした。

 「生き方に迷ったからですよ。自分さがしってやつです。おかげで大自然から人間の生き方を学びました」

 「こういうところで茶化すのが勇らしいな」

 榎木はそう言いつつ、じっと見ていた。逃がさないぞと目が言っていた。

 別に隠すことでもないから、僕は「何も面白くないぞ」と言った。

 「誰も僕を知らないところに行きたかったんですよ。事故にあって、周りに心配されるじゃないですか。それが面倒だなって」

 そう言うと「それだけ?」と榎木は聞いた。

 「うん、それだけ」

 榎木は下を向いた。肩が揺れていた。笑っているらしかった。アレキサンダーも目元は苦々にがにがしく皺を作っていたが、口の端を上げていた。

 「理由はどうあれ、自分で選んだのなら良かったよ」

 アレキサンダーはそう言った。

 「なんだか、皮肉っぽくないですか」

 「まぁ、皮肉だから」

 あっさり、そう認めた。僕は椅子に深く腰を預けてオレンジジュースをずずずずと飲んだ。そんな僕を見てから「まぁ、でも」と話をついだ。

 「自分で選ぶって、実は難しいんだよ。選んだ時は自分の意思だと思ってる。でも、後から見たら板挟みで妥協してたってことはよくある。それは、大抵大人になると気づくんだよ。その点、お前はすごいよ」

 「そうですかね」本音とも思えず、そう答える。

 「そういうもんさ」アレキサンダーも「そういうもんか?」と聞くような響きでそう言った。

 アレキサンダーはフンと鼻から息を吐いた。

 「俺はお前らのこと、これからも応援してるから」

 榎木はまだ肩を揺らしていた。僕は最後のアレキサンダーの言葉だけは、切実で真摯な響きに聞こえた。


 「アレキサンダー良い人だったな」

 「な」榎木の声が後ろから聞こえたが、遠く聞こえた。二人で学校を出た。それからも、街を歩きながら話をした。すっかり太陽がシフトを終えて気だるげな月が顔をだしている。白い息が出て、夜の空に登っていく。

 河川敷を歩いた。一回普通の声の大きさで話しても、伝わらなかった。川がうるさいのだ。僕らの声は自然と大きくなっていた。

 「アレキサンダー、僕のこと調べてくれてたんだな。もう卒業して三年も経つのに」

 「そうだな。でも、お前に興味あるのはアレキサンダーだけじゃねぇよ。中学卒業の時のライン全員消したろ」

 「バレたか」

 「みんな、気になってるよ。俺だけ普通に連絡取れるけど、それ言ったらみんな欲しがるだろうから内緒にしてるんだぞ。それで、なんで俺以外消したんだ?」

 チラリと後ろに視線だけ送った。榎木はマフラーに顔を埋めて寒そうにしていた。視線を戻す。

 「さっき言った通りだよ。心配されるのが気に入らなかったんだ。好きに同情されるのも、あの時の僕には煩わしかった」

 「まぁ、そんなことだろうとは思ってたけどね」榎木はそう言う。

 事故にあい、選手生命が絶たれた。その時、僕と世界の間がねじれたように思った。自分を除いたみんなが幸せそうに見えた。恨めしかった。自分がこれから笑える想像ができなかった。笑顔は、僕をこの世界から追放した。

 プライドが残っていた。失笑したいけど、僕は自分が誰よりも苦しい練習に耐えたという誇りがあった。それだけは、共有されるんじゃなく独占したかった。自分だけの宝物としておきたかった。誰にも触れてほしくないし、手垢もつけたくない。栄光を栄光のまま、過去に置いておきたい。誰かに踏みにじられるのも、実物以上に高められるのも嫌だ。僕への哀れみも、こうむった理不尽に対する憤慨もひとしく邪魔だ。何もかも癪に触る。このように当時は、ネズミのように、すべての外部からの刺激を恐れていた。善意ですらも。ひとしく、害悪。

 でも、アレキサンダーが自分に興味持ってくれていたのは、嬉しかった。それは、大きな発見だった。僕が変わったということだろう。

 高校で、僕が野球をしていたことを知るものは三田くらいしかいない。もしかしたらと思ってる人はいるかもしれないが、多分、バレてない。そういう場所を選んだからだ。地元の東京で野球選手の自分は少し有名人だ。例えば、地元の東京に進学する。そこで夢敗れた天才のような持ち上げられ方をされたら、どうだろう。今の高校みたいに友達が三田しかいないような状況にはならない。哀れまれ、優しくされる。だが、その裏には、下に見る部分がある。僕をよく思わなかった人は、爆笑ものかもしれない。そうじゃない人はいるだろうが、それが嫌だったし怖かった。

 でも、そうじゃなくなったのかもしれない。僕はかわいそうだと言われるのを受け入れたのだろうか。

 そう思っていると、後ろから声がかかる。

 「なんで俺だけ残したんだ?」

 「ん?」

 「勇が俺だけ連絡先残しておいた理由だよ。なんでだ?」

 連絡先を残していた理由は、榎木が最も親しい友人だったからだ。気の置けないというありふれた表現すら、僕にとっては縁遠い、奇矯の極みのようなものである。でも、言わない。友人に対する感情としては重すぎるから。

 「なんでだろうな。僕もよくわからない」

 そう誤魔化した。でも、思い直した。今日、全部思っていたことを言ってしまおうと思った。そういう気分だった。

 「本当は、僕がお前のこと友達だと思うようになったの最近なんだよ」

 「え?」

 「怪我した時にいつも見舞いに来てくれただろ。あれで」

 「かなり最近じゃん。え、友達だと思ってなかったの? ずっと?」

 「うん」

 「ショックすぎる。マジかよ」

 榎木はそう言うが、とても明るい声音だった。

 その時分かった。おそらく、榎木を鬱陶しいと思っていたことすら理解している。僕は足を止めて、後ろを向いた。榎木は足を上げたまま止まる。

 「榎木。逆になんでお前は僕にこんなに構うんだ?」

 「友達だからだよ」

 ほぼノータイムでそう言った。でも、僕が聞きたいのは、そんなことじゃなかった。歯痒い気持ちで聞き直す。

 「違う、そうじゃない。お前は僕のことを贔屓しているだろ」

 「そうかもな」

 榎木はあっさり認めた。意外だった。榎木は誰にでも優しい。そういうのをポリシーにしてるのかと思っていた。

 「どうしてなんだ。教えてくれよ」

 「そんなの、どうでもいいだろ」

 「余計、気になるよ。理由がありそうな言い方だ」

 「昔の話だよ。お前はきっと忘れてる」

 僕はじっと榎木を見た。彼は左側に町からの光を受けて、両眉を寄せた表情をぼんやりと現していたが、右側は真っ暗で輪郭すらもなぞれなかった。彼も僕をじっと見返していた。口の中で小さく笑ったと思えば、川の方を向いてしまった。表情は見えなくなった。榎木は言った。

 「小学生の時、クラスで花瓶が割られたことがあったの覚えてるか?」

 「あった」

 僕も、その事件は強く記憶に残っていた。

 「昼休みが終わると、先生の机の花瓶が床に落ちて割れてた。授業のために戻ってきた先生が破片と、水に浸かったチューリップを見かけて発覚した」

 「そうそう、それ。よく覚えてるな」

 榎木は川の方を見ていた。僕もそちらに視線を送る。

 「あの時、割ったやつが名乗りでなくてさ。五六時間をぶち抜いて、犯人探しになった。で、いろいろあって、俺が犯人ってことにされた。もちろん、俺はやってない。授業が始まるまで騒いでるのを遠巻きに見てただけだ。でも、周りはそうは言わなかった。気づけば、俺は犯人になっていたらしい。覚えてるか? 俺にしては慌ててたんだぜ。違う、違うって言うことしか、できなかった」

 記憶を確かめるように、つっかえながら榎木は言った。小学生の榎木がクラス中から暗い視線を向けられるのを想像した。

 対岸には家々があり、高速道路が宙に浮いていた。高速道路を走る車の音も聞こえるが、ほぼほぼ川の音しか聞こえない。川は大きすぎる。黒い風が吹いた。コートのすき間に入ると、凍てつくようだ。

 「多分、俺が気に入らないと思う奴がいたんだろうな。今考えれば、こき下ろそうとしたとしか思えない。だって、その場にすらいなかったんだぜ? 普通、怪しまれすらしねぇよ。みんな、めんどくさかったんだろうな。誰が犯人でもよかったんだ。

 飽きたから早く終われ、お前が犯人だって言えって、そんな声すら聞こえてきそうだった。で、周りがそんなんだったから、俺も自分が実はやったんじゃないかって思ったくらいだ。心細かった」

 榎木は首をめぐらす。顔の片側に光が当たっていた。榎木は笑っていった。

 「助けてくれたのは、勇だった。

 俺が、やりましたって言いかけたところに、勇が突然手を挙げて、僕が犯人ですってな。かばってくれた。職員室に連れていかれる勇の背中を見て、泣きそうだった。嬉しかったよ、本当に」

 僕は川を見る。

 「覚えてないな」

 そう言ってから体を反転した。回転する時にぼんやりと暗い高架下が視界に入った。そこを指さす。

 「なぁ、榎木。そこ、覚えてるか?」

 「もちろん。ここで俺たちよくキャッチボールしたよな。またやるか?」

 「勘弁してくれよ、もう投げれない」

 「キャッチボールくらいなら、できるんじゃないか?」

 「やめとくよ」

 僕はそう言って、河川敷の丘を上がった。

 「勇、夕飯何にする?」

 「何かな。牛丼か、マック?」

 僕はそう言った。交差点で信号待ちをしている時だった。ふと思いついた。

 「こっちの道から行かないか」

 指差した方を見て「別にいいけど」と榎木は言う。遠回りだけど、特に文句も言わない。

 意識的に避けるようにしていた道を、通りたくなった。自分はどうやら変わったらしい。憎らしいものも、温かく感じるようになった。

 足取りは軽い。周りは繁華街で、騒がしい店が並んでいる。先を見るのに目を凝らす必要はない。明るいところから流れてくる風は、温かく感じた。しばらく歩くと、繁華街を抜ける。家もまばらになる頃に、右折した。

 意識して、通らないようにしていた道だった。

 ここは、妹が轢かれて三田茜の父が死んだ交差点だった。何度も回想した景色。信号機、交差点に運動公園の駐車場。相違点は、自動販売機。あれだけは、なくなったようだ。

 今日は冬で、夜。あの時とは、真逆のシチュエーション。あの日は、そう。夏で、湿気って火も立たぬ昼。蝉すら暑さを嘆いていた。指の隙間に水がたまる。汗が垂れては、駐車場のコンクリートに染みる。暑い。水を飲む。水は、血管から全身に巡り、染み込んだ。足りない、水が欲しい。水は、どこだろう。自動販売機を見つける。立ち上がり、木陰から出る。日差しに思わず、立ち眩んだ。

 じゅり。砂利を踏むような音がした。じゅり。歩く音はならもっと軽快なはず。じゅり。何の音だろう。じゅり。周りを見回す。じゅり。横を車が通る。じゅり。違う。じゅり。この音は何? じゅり。だって、こんなの車の音じゃない。じゅり。何の音だ。じゅり。不快だ、気持ち悪い。じゅり。なんで、耳を塞いでも聞こえる。じゅり。幻覚…? じゅり。

 じゅり。

 妹が死んだ時の音だ。

 ポケットの内側を掴む。コートの繊維が軋む音がした。深呼吸をした。そうだ。今は冬だ、暑くなんかない。そう思い、気を保つ。

 呼吸が落ち着いたから、周りを再度見てみた。

 「え」すると、声が出た。

 花束が信号の元に捧げられていた。新しいものだった。花は白いが、薄暗い灯りの下では青っぽい。花の前には、三田が立っていた。

 「三田!」思わず、呼びかける。

 三田は驚いたように顔を上げる。僕と目があって、三田は破顔する。

 三田は背を向ける。目の前を車が走る。背中を向けた三田が走っていた。

 

 

 

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