5話
三田がゴキゲンだった。鼻歌を奏でている。音源を聴きながら「最近良い調子だね」と声をかけた。
「お、分かる? 最近は作曲もできるようになってきたから楽しいんだよね」
「オリジナル曲も順調に伸びてるし、凄いよ」
「そうね。まぁ、カバーの方が伸びちゃってるけど」
「それも含めて、すごいよ」
僕はそう言ったが、三田は唇を尖らす。
その日も三田は僕の部屋で投稿するための音源を録った。歌い終えた三田は片耳にイヤホンをして音源を聞き直していた。
三田はイヤホンを外し頷く。「……うん。これでいいかな」
「了解。調整しときます」
僕はパソコンを受けとり、イヤホンを耳にはめようとする。すると、三田が僕をじっと見ていた。
「……何?」
「いやさ、なんか最近一色、目合わせてくれなくない?」
「そんなことないです」
「あるです」
「ない」
三田はふっと笑い、椅子の背もたれにベッタリと深く座りこんだ。僕も耳にイヤホンを嵌める。
耳に三田の涼しげな声だけが流れてくると、なんだか顔周りが熱くなってくる。途中、チラリと三田の方を見ると、三田は無表情でスマホの画面をスクロールしていた。それだけで、なぜか絵になる。
ふと、この一秒を生涯忘れないだろうと思った。僕と、三田がいる。二人は音楽のための関係でしかない。極めて純粋で、情熱的でもある関係。僕が今、一番望んでいる物だった。
でも、僕らの関係は、切れかけの電球のような危うい輝きでもあった。三田が僕を佐々木雄二が起こした事故の被害者兄だと知れば、今のままの関係ではいられない。この関係は、ほんの少しの繊細なタッチのミスで容易に手からすり抜け、壊れうるのだろう。
そんなことを考えている僕とは関係なく、三田はスマホを触りながら「あー」と声を出した。髪の毛を触り、チラチラとこっちを見ていた。
僕は思考を払いつつ「どうしたの?」と聞く。
「そういえば、私の曲を校内放送で流そうってクラスのみんなが言ってるの。どう思う?」
「え?」
「ほら、私のカバー動画が伸びたじゃん? あれと、オリジナル曲をね、学校の校内放送で流そうって」
「ああ」肩を撫で下ろす三田を見て僕は納得した。
最近、前から出していたカバー歌唱が唐突にヒットした。爽やかな音源と三田のクールな声の相性は良く、確かに今まで投稿したカバー楽曲の中でもクオリティは高かった物だった。ネットの流行りとは不思議で、元からあるものが唐突に注目されることがある。今回の三田もそうだった。一気に登録者数も増えた。あまりにそのカバー楽曲が伸びすぎて、オリジナル曲より遥かに伸びてしまった。
そのカバー曲と、オリジナル曲を一緒に校内放送で流すということだろう。当然、僕の中に疑問は出る。
「え、三田はそれ、いいの?」
「うーん、恥ずかしいけど、応援してくれてるしなーって感じ」
「まぁ、うん、三田がいいなら」
僕としては、三田が良いのなら何の問題もないのだけど。こういう時に、三田と僕の差を感じる。僕が中学生の時の野球の表彰とかは、基本嫌々で強制されてするものだった。カリスマ三田さんには、校内放送で歌声が流れるのは、多少恥ずかしい程度のことなのに。
三田は登録者数を増やせている。元からあった実力が認められ始めているのだろう。カバー曲が劇的に伸びたのは、偶然じゃない。今まで翼に力を溜めてきたから、追い風に乗れる時がいつ来てもおかしくなかったのだ。
けれど、最近はこのままで大丈夫なのだろうかという焦りが湧いてきた。いつかはプロになれるかもしれないとは思っていたが、果たしてそれがいつになるのかは分からない。僕は三田の近くにそう長くはいられない。三田をプロとしてデビューさせるのは、早くしないといけない。僕が三田をプロにするという約束には、制限時間がある。
そのために、一つの策を見つけた。
僕はファイルからコピーしたプリントを取り出し、三田に「ねぇ、三田。これ見て欲しいんだけど」と声をかけた。
三田はスマホを机に置いて、プリントに視線をやった。
「ボーカルコンテスト?」
「そう、東京で開催されるんだ。まぁ、東京は本戦で、ネットの選考を通ったらなんだけどね」
「へぇ、いいね」
三田はプリントを近くに手繰り寄せた。
「お、本戦は交通費宿泊費出してくれるって」
「そう、いいでしょ。金銭面も安心してくれ」
「安心してくれって、一色は?」
「いや、行かないでしょ。僕はお金も出ないし」
「私一人で東京に行くの? 怖いなー、迷っちゃうなー。どこかに東京出身の人いないかなー。チラチラ」
三田は子供っぽく笑いながらそう言った。指の隙間から覗く目元が可愛らしい。
「冗談」「じゃ、本戦出れたら、僕も行くよ」
「え?」
三田は目を丸くする。手をブンブンと振り言った。
「いや、冗談だよ? 一人でも行けるし」
「いや、僕もよく考えたら夏休みも東京帰ってなかったし、実家に顔出したほうがいい気がする」
「えー、それは引く」
三田は目を細めて本当にドン引きしたように言った。
もちろん、実家に帰るというのはただの言い訳だった。本当は実家なんかより、ただ三田について行きたかった。
そんな本心は言えないから、茶化すように「まぁ、そのために三田さんにはオンラインの一次選考を突破していただくということで」と言う。三田は椅子にのけぞり「えー」と呻いた。
「プレッシャーかけないでよ。緊張するなぁ」
「存分に慄くと良い。あ、ちなみに歌う様子と音源のビデオを送るんだけど曲は自由なんだって。オリジナル曲かカバーどっちにする?」
「オリジナルで。今作ってる新曲、良い感じになりそうなんだ。応募期限は大丈夫そ?」
「うん、二ヶ月後が最終の応募期限だから大丈夫」
「おっけー、余裕」
三田はそう言いながらスマホをポチポチと触っていた。画面を覗き見ると、アプリでキーボードの音を打ち込んでいた。多分、新曲のメロディを作っている。
最近の三田は、好調だ。つい最近までスランプだったとは思えない。いや、スランプからブレイクスルーしたのだ。いわゆる、一皮剥けた、のだろう。
今の三田なら、きっと新曲もうまく仕上げる。流れを掴んでいる。
「お土産、何持ってこうかな」
つい、そう独り言が漏れた。今から、東京旅行が楽しみだった。
滲んだセピア色の視界と、頬につく砂利のひんやりとした感覚で自分が倒れていることを理解した。……なんで?
「った……」
少し気を失っていたようだった。となると、コンクリートの上で寝ていたわけだから、腰が痛いのも納得できる。そして、記憶も戻る。
右の頬が、引き伸ばされるような痛みを主張している。撫でるように触ると乾いた血が指についた。鼻血が出ていたらしい。
今日も放課後に山井田に呼び出され、殴られた。「面を貸せ」と言われたから、山井田の見た目通りのヤンキー的セリフは違和感がなかった。
最近、こういうことは多い。靴箱に泥を入れられるとかもそうだし、他にも色々な嫌がらせをされる。でも、やっぱり一番応えるのがこういう暴力だ。こればっかりは何回やっても慣れる気がしない。
山井田は「三田から離れろー」と言う。僕は「離れないー」と言う。ボコボコに殴られる。これがいつものルーティンだ。
面白いのが、山井田が無理をしているように見えることだ。最初に殴られた日は、まだ僕を三田から追い払うことへの使命みたいなのを持っていた。けれど、僕が抵抗しないことが分かると、山井田は明らかに殴ることへのモチベーションを無くしていた。僕が殴られているわけも分からないから、不気味に感じているのかもしれない。ともかく、僕は抵抗せずに山井田に殴られ、山井田も唇を血が吹き出しそうな程噛みながら殴っている。
それは何か儀式的な拷問みたいだった。山井田の長い髪、涙の滲んだ目、飛んでくる拳を、僕は無表情で見つめる。僕が気を失ったら、終わり。儀式は完遂され、しばらくの間、僕は三田との交流を許される。
僕もこのことを公にはしないから、この我慢比べはずっと続いている。金髪の長身男が泣きながら人を殴る様は他の人が見ればかなり面白そうだから、人に教えたい気持ちもあるのだけど。
もっとも、このような暴力は大したことはない。三田と会うための試練だと思えば、
コンテストの説明をしてから一週間も経たずに、三田は僕の部屋で新曲のデモを聞かせてきた。
「すごい。めっちゃかっこいい。声とあってるのかな」
聞き終わると、僕はそう言った。
「でしょ、力作」
「いや、ほんとにこれ、一次選考は通ると思うよ」
「そうかな」
ぎこちない笑いを浮かべつつ、三田は得意げだった。それから、表情が変わり心配そうな顔をして「それにしても、顔大丈夫?」と僕に言った。
「え、何それ? 暴言?」
「いやいや、そのどでかい湿布のことだよ」
「あー、これ? 全然大丈夫」
僕はなんともないように、湿布を触ってみせた。すると、三田は無表情に僕の右頬をそっと撫でたから、びっくりした。
「った……」うっかり、そう言ってしまった。不意打ちで、他人に触られると、やっぱりまだ痛む。
「やっぱ痛いんじゃん。どうしたの、これ?」
「家で思いっきりコケたんだよ。ほら、そこの漬物石から出てるヒモに足を取られて」
「炊飯器は漬物石じゃないよ。……まぁ、気をつけなよ? 治りかけてる腕の怪我にも障るだろうし」
「肝に銘じときます」
三田は頷いて、渋い顔で僕を見つめた。僕らの視線が空中で絡まり、僕は思わず三田から視線を逸らした。こんな時でも好きな子から見つめられるのは照れる。
「こっち向いて」
三田は僕の顔をやんわり触り、顔の向きが三田からそらせなくなる。触られた部分が電気ショックをされたように震える。
「湿布の貼り方がなってないよ。貼り直してあげる」
「え? いや、良いよ」
「黙ってて」
「はい」
僕は細い声でそう言った。三田の笑顔には、圧があった。
三田が湿布を剥がし、貼り直した。
三田の整った顔に、見惚れる。顔が近くて三田の髪が揺れると、かすかに花の甘い香りがした。切れ長の目には長いまつ毛が生えそろっている。目元にカタツムリのような
「はい、できたよ」
「……ありがとう」
顔から手が離れた。長かったような、一瞬のような。冷たかったような、熱かったような。
細い指で触られた場所が痺れるように感じた。麻酔みたいだった。頭にぼーっと靄がかかっているようにさえ感じる。このまま寝れそうなくらいだ。
三田はもう一度まじまじと僕の顔を見た。僕の目を見て、「これ本当に家で転んだの?」と聞いた。
「もちろん」
僕はまっすぐに三田を見てそう言った。視界がなんだかぼやけていたから、逆に目を合わせられた。そうでなかったら緊張して目を合わせられなかった。
三田は目元の力をふっと抜いて、さらりと僕の頬をまた撫でた。
「じゃ、今日はなんのご飯がいいですかー?」
「え、唐揚げとか」
「分かった」
三田は椅子から立ち上がり、キッチンの方に歩いて行った。醤油などの調味料類の量を確認して、二人でスーパーに行く準備をした。
頬を、触る。じんと目元が熱くなってくる。
そして、僕の気持ちを再確認した。
予選突破者の発表は、三学期が始まった頃だった。
雪が積もって溶け始めては、また降る。この町では、冬に雪が溶けきることはないそうだ。道路では薄氷の上に雪が乗っていて、ツルツルと足を取ろうとしてくる。コートは実家から送ってもらったが、三田に言われた通り、なかったら冗談抜きで死ぬところだった。
そんな休日の昼間に、メールが届いた。
『予選突破のお知らせ。(中略)三田茜様 先日の一次選考は合格となりました』
僕は
多分、メールを受け取った他の誰よりも僕が喜んでいた
メールは三田に転送した。すぐに返信が来た。
『ほら。ちゃんと東京に連れて行けたでしょ?』
画面越しの勝ち誇った笑みが目に浮かび、口が上に引っ張られる。
返信しようとして、ベッドに仰向けになった。指をスマホの画面に置く。
『もう、プロになれるかもしれないね』
そう書いた。僕は画面を見つめたまま、しばらく返信できなかった。
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