3話

 短い髪が揺れるのと、夏休みに入り開けたらしい三田の右耳の水色の小粒なピアスを後ろから見ていた。

 三田の歌声は、いつもながら綺麗だった。三田のイヤホンからは音源が聞こえているが、僕には三田の声しか聞こえない。そのため、僕にはアカペラの歌声が聞こえる。大抵のアカペラは誤魔化しができないため下手さが露点してしまうが、三田は違った。むしろ、他の音がないだけに三田の声に集中できる。

 曲が終わりに向かい、三田の歌声にも力がこもる。長いビブラートの波打つような声は、三田の喉が弦楽器なのではと思うほど圧倒される。

 三田がヘッドホンを外す。

 「おつかれ三田。はいお茶」

 僕は録音を終えた三田に麦茶の入ったコップを渡す。三田はコップを受け取り、ゴクゴクと喉を鳴らす。

 「ふぅ……。ありがとう」

 三田はそう言って、コップを一瞬で空にした。イヤホンを片耳外してパソコンのマウスを操作し、片耳にはさっき録音した音源が流れている。三田はパソコンの画面を見たまま言った。

 「よし取れてるね。最近、ようやく宅録も慣れてきた」

 「おー、もうクローゼットに向かって歌うだけの状況にはなってない?」

 「ちゃんと、マイクと接続できてますよ。てか、あれ確認してなかったの一色じゃない?」

 最初、僕らは録音がなかなかできなかった。歌ってもデータが残っておらず、どう言うことだろうと色々確認した。結局、そもそもマイクと接続できていなかったと言うオチだった。

 それから今まで、僕らは何本か動画を投稿した。動画投稿サイトでは音楽だけで、登録者を地道に増やしていた。まだ、プロになるとかそんな話が舞い込んでくる次元ではないとは思うが、高校生の間に何かに引っかかってプロになれる可能性は十分にあると僕は思っている。

 それにしても、三田を家に呼ぶと、頭の片隅に過ぎることがあった。僕の机に入っていたノートを割いたような『三田茜から離れろ』と書かれた紙だ。

 未だになぜそんなことをされたのか、分からなかった。三田にも確認したが、僕が三田とこのように動画投稿で集まっていると教えた者はいない。つまり、僕と三田のつながりを知っている者なんてほぼいないはずなのだ。僕らは別に怪しいことなんて学校でもしていないし、本当に誰が何のためにしたのかすら謎だった。

 けれど、僕は三田の活動を手伝ってい続けていた。どういう思いなのかは知らないが、三田から離れてやらなきゃならない道理もない。どんなに頼まれても、離れる気もないが。そいつが何らかの理由で僕と三田の関わりを知ったのなら僕から奪ってみろと言いたい。喧嘩とかはあんまりしたくないけど。

 ただ、それからいやがらせが続いたのは嫌だった。あるときはロッカーに牛乳をまかれていたり、またある時は机が倒され、中の教科書が床にばらまかれていたこともあった。

 心が傷ついたわけではなかった。シンプルに、面倒だなぁと思った。もとより友人を作りたいとも思ってないし、その一人から猛烈に嫌われてても別に何も思わない。うざいのは確かだけど。

 その日は、三田が僕のために数日分の食事の作り置きをしてくれて、解散になるところだった。

 三田に包み紙にまとわれた物を渡した。

 「はい、これどうぞ」

 「え? なにこれ」

 「どうぞどうぞ、開いてください」

 「あ、ポップコーン。ありがとう」

 三田はそう笑う。今日一番の笑顔だった。

 僕が渡したものはキャラメルポップコーンだ。作り置きのお返しと言ってはなんだけど、最近は三田の帰り際にお菓子をあげるようになっていた。今回は三田がジャンクな食べ物が好きだから、アウトレットで買ったポップコーンを渡した。

 「ねぇ、一色。少し相談したいことあるんだけど、良い?」

 玄関で、三田はそう僕に聞いた。

 「ん?」

 「私、今度の動画、一色が作るの私も一緒にやってみたいの」

 三田は帰り支度をしながら、そう言った。

 「別にいいけど。どうして」

 「一色、いつもすごい動画作るから、どうやってるのかなって」

 「そう? 見様見真似で頑張ってる感じだけど。しかも結構僕作り方特殊だし」

 「そうなの?」

 「うん。だから、作る時間も馬鹿にならない」

 「大丈夫。見てみたい」

 「分かった」

 そうは言うが、僕はあまり三田を連れて行くのは乗り気じゃなかった。

 

 まだ朝と言える時間に、僕は三田と外にいた。例の動画作りのためだった。

 集合した時点で三田は額にボロボロと汗が浮いていて、目は眩しいからか半開きだった。

 「本当に、一緒に行くの?」

 僕は再確認すると、三田は決戦に赴くような決意の籠もった眼差しで僕を見返した。

 「もちろん、行くよ。普段、一色がやってることだし」

 「分かった」

 僕らはそうして河川敷を歩きだした。

 僕は被写体を探す。今日は僕の動画作りに必要な素材探しのためにひたすらレンズを合わせてシャッターを押す日だった。

 僕は気の赴くままに歩き、写真を撮り続ける。カメラの画面には実物よりは刹那的な世界が映っている。僕はそれらを観察した。河川敷に人は散歩中のご老人くらいしかいない。太陽は燦々と輝き、川が流れる音が聞こえる。先週に台風が通過したから、水は少し濁っている。

 僕は動画作成に使いたい写真を自分で撮るようにしていた。理由としては、ネットで検索するのより自分にあったものを使えるというメリットを優先したわけだが、正直自分の写真テクニックやそもそもの被写体の差などを考えると時間をかけるほどの優位を感じるわけでもなかった。まぁ、最近は写真の本を読んだりしたこともあり、多少はましになってきたと思うが。

 僕は川に足を入れ、歩く水鳥の様を撮っている時に「暑い…」と、後ろから聞こえた独り言で肩が跳ねた。

 首をゼンマイみたいにゆっくり後ろに回す。三田と目が合い、彼女は首をかしげた。つい一緒に付いてきていた三田のことを忘れていた。

 「ごめん。忘れてた」

 「忘れてたんだ、やっぱり」

 三田は口先を尖らせながら、冷気のこもった目で僕を見た。

 「まじでごめん。この通り」

 「別に、怒ってないよ。むしろ、一色がいつもどうしてるのかしれて嬉しい」

 手をすり合わせて謝ると、三田はフッと顔を緩めた。頬にはハンカチを当てている。

 「それにしても、暑いね。一色、顔の汗やばいよ」

 「え? あ、ほんとだ」

 触ってみると、顔には汗がべったりとついていた。一度気づくと、服が重くなるほど体周りが水っぽいのにも気づく。僕は舌打ちして、汗をタオルで拭った。

 「気づかなかったの?」

 「うん」

 「すごい集中してたもんね。でも、水分補給はしないと」

 三田は僕の額にペットボトルを押し付けた。冷たいペットボトルが気持ちいい。

 「わたしが途中飲み物買いに行ったのに、一色全く気づかないからびっくりした」

 「それは……確かにびっくりだな」

 「ほんとだよ。暑いの慣れてるの?」

 「まぁ、中学まで野球やってたから。多分多少は」

 「そういえば言ってたね。ほら、あげる」

 三田は僕にペットボトルを渡し、髪をかき上げながら額にハンカチを当てた。なんだかキザな仕草だけど、三田がやると嫌味に感じないから不思議だ。

 僕が撮った写真を見返していると、後ろから三田が言った。

 「綺麗な鳥。そこにいたの?」

 画面には白い大きな鳥が悠然と空に翼を広げている写真が写っている。触ったら折れてしまいそうな長細い首を折り畳み、のそりのそりと翼で空を押している。三田は空を見上げて、キョロキョロと見回した。

 「多分、もういないよ」

 「ちぇー。どこに飛んでいった?」

 「別の水辺じゃない? どこに行ったかは知らない」

 三田はしばらくキョロキョロしながら遠くを見ていた。だが、諦めたのかまた話しかけてきた。

 「写真、何に使うの?」

 液晶を見るふりをしながら、反射している三田を見ていた。三田はコンビニで買ったものであろうフライドチキンを食べている。

 「まぁ、今日撮った写真は鳥とか何気ない景色とかだよ。今回の歌詞ってさ、夢を目指すのを鳥が羽ばたくので表現してるじゃん。だから、鳥の写真とかビデオを使いたいなって思って。ほら、色々撮ったよ」

 「ほー。あ、この鴨の親子かわいい。貸して」

 三田は僕の手からカメラをひったくる。写真はふっくらとした鴨がのそのそと歩くその後ろに何匹かの小さい雛がついている写真だった。三田は子猫を撫でるときのような声で言った。

 「かわいいー癒されるー。ねぇねぇ、どこにいた?」

 「どこだっけな。もういないかも。……あと多分今回はそれ使わないと思う」

 「え、なんで?」

 「撮っておいてなんだけど。鴨親子じゃ、夢を目指すとかの今回の曲には合わないじゃん?」

 「えー、旅立ちのために今は一緒にいるとかじゃ駄目?」

 「まぁ、そういう解釈はできるけど、あんまり分かってもらえなさそうじゃん?」

 「まぁ、それもそっか」

 三田は口を尖らして、画面の鴨親子を見つめた。それから、ぱっと顔を上げて僕にカメラを返した。

 「こういうのって、調べるのじゃダメなの?」

 「ん?」

 僕は首を斜めにする。三田は口を大きく開いて言った。

 「いやさ、今日めっちゃ暑いじゃん? 汗ダラダラかきながら写真を撮るより、ネットから見つけた写真使った方が良くない? あ、別に馬鹿にしてるわけじゃないよ?」

 「いや、別に大丈夫。それに、多分そっちの方がいい。時間かかるし、イメージに合う物をすぐ見つけられると思う。でも……」

 僕は言葉に詰まり、カメラのレンズを撫でた。

 「全部、自分でやった方が納得できる気がするんだ。時間が無駄にかかるのはそうなんだけど、僕ができる限り全力で取り組んで作ったものなら、もう言い訳できないじゃん?」

 最後のあたりは自分に問いかけるような感じになってしまった。どうして、僕は自分で写真を撮ることにこだわってるんだろうと自分にも質問していた。

 「すごいね! プロみたい!」

 三田は目をキラキラとさせてそう言った。

 「そう? 本当に?」

 「もちろん! 手間を惜しまないで夢中になってできるって凄いことだと思うし、憧れるよ。努力できる人は偉いし、かっこいいよ」

 そう言われると、もちろん悪い気はしなかった。けど、澄ました顔をしておく。

 「別に好きでやってることだから。褒められることじゃないよ」

 「努力する時点で偉いんだよ」

 僕は少し鼻先を掻いた。こんなに一直線に褒められることは少ないから、頭にふわりと毛布をかけられるようにむず痒い。

 「……でも、僕は学生の本分の勉強は捨てたから」

 「え、一色って頭悪いの?」

 「まぁ、平均よりは下かな」

 「なら、いいじゃん。本分って、本来の持分って意味じゃない? 持分ってことは最低限こなすべきことって感じだから、つまりは赤点さえ取らなきゃいいんだよ」

 「凄い理屈だな」

 「いや、本当に。学校は赤点さえ取らなきゃ卒業させてくれるわけだし。学生はある程度の勉強さえして法律さえ守れば良いんだよ。それ以上に良い大学行くために勉強するとか、部活するとか、趣味に取り組むとかの努力は義務を果たした上でやってるわけだから。全部、偉いんだよ」

 それを聞いて、僕は黙ってまたカメラを構えた。三田から目を逸らすために適当に構えただけだから特に被写体もなく、そのままカメラを下ろした。喉元に不快に引っかかるものがあった。

 「……僕は努力できる人のこと、別に偉いと思わないな」

 「え?」

 後ろから三田の声が聞こえた。僕は続ける。

 「努力したら、例えば良い大学に行けますとか、昇進できますとか、将来少し楽ができますとか。そういう下心……っていうのは乱暴かもだけど、そういう目標をエネルギーとして努力するのってどうなのかなって思って。つまり、努力は究極的には自分自身のためなんだから褒められることではない気がしてるんだ」

 「でも、そういうなりたい自分になるために頑張れるのって凄いと思わない?」

 「まぁ、凄いよ。凄いけど、偉くない……。ごめん、変なこと言った。忘れていいよ」

 汗をかきまくるほどの暑さなのに、身体中に鳥肌が立っていた。脳は、なんとかして別の話に変えようと言うことだけに働いていた。

 「それにしても、暑いね。ほんと」

 「暑いね」

 「え、うん……」

 辛い。

 顔をあげられなくて、俯いた。三田が「んー」と口を閉じたままの声を出した。

 「一色は努力する人が嫌いなの?」

 「別に、そういうことじゃないけど」

 頑張って話をすり替えようとしたのに、戻された。ますます顔が上げづらい。

 「つまり、一色は努力は自由であって、義務じゃないってことかな?」

 「忘れてって言ったのに。……まぁ、概ねそうかな」

 三田はそう簡単に言い換えた。たしかに僕は大体そんな感じに考えている。

 「まぁ、一色の言わんとすることはわかるよ。努力することが今はなんというかモラルみたいになってて居心地が悪いのは分からなくもないよ。怠惰は許されない雰囲気すらあるからね」

 三田はそう言って、僕の横に座った。三田が座る時、制汗剤の香りがした。そして、僕の顔を覗き込む。

 「でも、努力にも良い点は間違いなくあるよ」

 「……どんな」

 「努力は人の生きる意味になるってこと」

 三田はそう言って、歯を見せるように笑った。三田が眩しく感じられて、僕は視線を逸らした。

 「そうかもしれない」

 「あ、一色、話聞く気ないな」

 「そんなことないよ」

 「じゃ、私の考え聞いてよ。……コホン。まぁ、努力はさ。辛いこともありますよ」

 三田は気取ったようにそう言った。僕はつい笑ってしまったけど、三田の声にはなぜか説得力があるように感じた。

 「私は、プロを目標として音楽をやってるし音楽が好きだからさ。音楽の努力は楽しくできてるし、あんまり辛いと思うこともないんだよね。でも、努力してる人がみんなそうじゃないのは分かってるよ。辛いしか思わずに取り組んでて、少しも面白くないと思ってる人もいるかもしれない。

 でも、目標に向かう努力は生きる理由になると思う。何かを達成したいと思うのも、何かを守りたいとかでもそれのために生きる理由になるかもしれない。明日になったら、成功するかもとか考えれば明日に期待する理由になるじゃん? だから、夢を持つことは人生を楽しくすると思う。……私も多分、夢を叶えることを目標にしてるから楽しく生きれてる。

 でね、確かに一色の言う通り、努力をする人は偉くはないかもしれないけどさ。努力する人を見るとさ、不思議と励まされない? 自分も無性に頑張りたくなったりしない? 多分、努力は他の人にも元気を与えられるんだよ。そう思うとさ、努力はしてる本人にも周りの人にも良い影響を与えてくれるんだよ。だから、そういう意味では努力は褒められて良いんじゃない?」

 三田はそう言ってから、立ち上がった。

 努力をするだけで、偉い。下心があっても。

 本当に?

 僕でも、偉いのか?

 野球に取り組んだ時間は無駄じゃなかった?

 僕は俯いたまま、足元にいる自分の影を見ていた。

 

 次の週、三田は僕の部屋でスマホで録音された音源を聴かせてきた。ずっとかけていなかった、三田のオリジナル曲だった。

 スローテンポの曲だった。それでいて、爽やかな音色だった。青春を思わせる音。歌詞もついていないのに、無性に走りたくなる。

 「どうですか?」

 「前聞いた曲と結構違うね。なんというか前はかっこいい系というかそういう感じだったけど、今回はむしろゆっくりとした感じだ」

 「自分が何を作りたいのか考え直したんだ」

 三田は胸ポケットから、メモ帳を取り出した。ブラックカードでも出てくるのかと思った。

 「言ったことあったけ? 私中学の時バンドやってたんだけどさ」

 「初耳」

 僕は驚いたように目を大きく開いてそう言った。

 本当は赤石から聞いたことはあったが、一応初耳と答えておく。三田は今までバンドのことを話そうとしなかったから、そのことを隠したがっているのかと思っていた。喧嘩別れだったとも聞いたし。

 「あの時は結構好き勝手書いて、それで楽しかったんだよ。自分のかっこいいと思うものを書いて、メンバーもそれを評価してくれたから。でも、スランプに入って書けなくなってから、やろうとしてもうまくいかない辛さがわかった。だからこそ、人を元気付ける曲が描きたいなって」

 三田はメモ帳の付箋が貼られているところに指を挟み込んだ。

 「ほら、これ。仮だけど、歌詞」

 「ふむ」

 紙の上に視線を滑らせる。歌詞の内容は、予想通りというか人を応援するものだった。

 正直、陳腐だ。何万回と煎じられて、もう新鮮味なんて感じない茶葉のようだった。けれど、まだ香りは残っている。胸をじんわりと暖かくするような優しいものが、その歌詞にはあった。

 「どう思う?」

 三田がそう尋ねた。眉を顰めて、僕の奥の真意まで見定めようという目をしていた。

 前にもこんな顔をしていたことがあった。初めて録音した人の帰りのことだ。あの時はただ単純に褒めて機嫌を取ろうとした。

 でも、今は自分の心のありのままを伝えた方がいい気がした。

 「題材は正直ありふれてるとは思う。ちょっと、青臭い言葉選びの気もする。……だけど、僕は凄い好きだった」

 「そっか……」

 三田は口に力を入れて不器用に笑った。

 「一色、結構毒舌だね」

 「え、一応褒めたつもりだったんだけど」

 「そう? 完全にダメ出しのテンションだったけど」

 三田は不貞腐れたようにブツブツとそう言って、歯を見せるように笑った。

 「でも、僕は本当にそう思ったから。良いと思ったのも、本当のことだよ」

 「ん、分かってる」

 三田はメモ帳の歌詞の上に「言葉選びを変える」と書いた。なんだか、申し訳ない気分になった。

 「いや、指摘してもらった方が助かるから、大丈夫。ありがとう」

 「……どういたしまして」

 僕の感じたことのフォローすらされてしまった。三田は付け加えて言う。

 「まぁ、音もしばらく弄るし。歌詞も書き直したりもするからしばらく時間かかるだろうけど、待ってて」

 「うん。楽しみに待ってる」

 三田は、またぎこちない笑い方をした。

 

 台風とスポーツの新学期になった。なぜ夏休みの一ヶ月は体感二週間未満なのでしょうか。

 行き場のない問いを抱えて、サボりたい気持ちを必死に抑え込んで、学校に行った。

 クラスに入ると、三田がクラスメイトの女子達に囲まれている。聞こえてくる声たちは、ほのかに黄色い。

 「茜、新しいの聞いたよ。かっこよかった」

 「おお。ありがとう。いっぱい聞いてね」

 三田はそう言って、肩を組みに行った。肩を組まれた女子は電気が流れたように体を跳ねさせ、恋する乙女のような上目遣いをする。

 いつからか、三田が動画登校をしていることはクラスで知れ渡っていた。けれど、三田は堂々としていたし、三田のことを揶揄からかおうというものもいなかった。三田はルックスの他にも、さっぱりとした性格をしているから男女共に好かれている。

 中学の頃もそうだが、クラスの中心グループみたいなのがある。山井田や赤石がそれに当たるけど、三田はそこにいるわけでもなかった。三田はそういう無意識の線引きを超越したカリスマとしてクラスに君臨していた。

 僕は特に何も言わずに自席についた。イヤホンを耳にめて音楽を聞き、本を読む。周りの雑音が消えてきたらイヤホンを外す。そうやって、本のみに集中する。

 周りの会話は全く聞こえなくなったのに、それでもなぜか自分の名前だけはしっかり聞こえてくるから不思議だ。

 「私の動画の映像作ってるの。一色だよ」

 一瞬、教室から音が消えた。誰かがごくりと唾を飲んだ音が聞こえて、恐る恐るといった感じに音が戻ってくる。

 「え? あの、一色くん?」

 女子達が遠慮がちに、こちらを見てくる。クラスで目立たない僕の価値を測るかのような目だった。僕に対する好奇心というよりは、どちらかというと悪いことを咎めるような目だ。

 「そう。あの一色勇だよ。彼、凄いよ。勤勉な努力家なんだから」

 「へぇ〜……」

 女子達はお互いに視線を交差させていた。クラスの男子達は僕になんとも言えない視線を控えめに向けているのを感じていた。驚きと、少しの牽制けんせいを含んだ目。僕をジリジリと教室の中心に引き摺り出していく目。

 「下の名前ゆうなんだ……」という声も聞こえた。完全に僕がクラスの陰である証拠だった。僕の名前の漢字が分かる人はもっと少ない。

 話に気づかないふりをすればよかったのかもしれなかった。けれど、僕もつい一色勇の名前が出た時にその方向に顔を向けてしまっていた。知らないふりはできそうもない。

 僕に何か発言を求める雰囲気が出来上がっていた。教室は即席の裁判場と化していた。もちろん被告人は僕で、周りの人々は傍聴人であり検事でもあり、裁判官でもある。彼らの都合で僕の評価が決められる。

 「……僕が勝手に三田の手伝いをしてるだけだから、そんな大したこともしてない」

 僕は本を手で支えたまま、そう言った。男子達は「大したことしてないとはどういうことだ」という目をしていたが僕は気づかないふりをして本に視線を落とした。

 三田はそれからも僕を褒めるようなことを言った。

 イヤホンを嵌めなおし、音量を上げた。本にも音楽にも集中できなかった。


 「なぁ、一色。ちょっと行きたいところあるから付き合えよ」

 放課後、僕は山井田にそう声を掛けられた。断る理由もなかったので山井田の後に続いた。

 「一色夏休みどうだった?」

 「ん? ずっと暇してたよ」

 「そうか? 結構日焼けしてるから外にいたのかと思った」

 「まぁ…、外にはいたかな」

 僕は一日中動画のための写真を撮っていたりしたから日焼けもしただろうが、そもそも僕の肌は野球でかなり黒くなっていた。夏休みだけでこうなったわけではない。

 山井田の髪はもう毛先に少し金が残っている程度になっていてほぼ黒髪だった。僕より高い背は夏休みで一段と高くなったように見えた。

 「身長は多分そろそろ190くらいになるよ」

 僕の視線に気づいたのか、山井田は苦笑いしながらそう言った。

 「すごいな。高1で190なんてそういないだろ」

 「まあね。でも、食う量も多いから親に面倒がられてるよ。特に良いと感じたこともない」

 「そんなもんか? スポーツとかなら、めっちゃ有利じゃん」

 「まぁな……。でも、俺はスポーツしてないから」

 「なんで?」

 「運動神経が絶望的なんだ。足も長いはずなのにリレーの選手になったこともない」

 「そっか……。でも、もったいないな。向いてる競技はあると思うけど」

 僕がそう言うと、山井田は足を止めた。そこは校舎裏だった。

 「それで言うなら一色も身長高いじゃん。なんかスポーツしたら良いんじゃない?」

 「いや、僕は腕がこれだし足も上手く動かなくなったんだ。スポーツは無理だよ」

 山井田は僕の肩を見て頷いた。

 しばらく僕らは見つめ合うような格好だった。日陰になっている校舎裏の場所に風が吹き込んだが、湿気を含んだ風はじっとりと足元の苔を蒸らすように感じて気色が悪い。耐えきれなくて、僕は言った。

 「どうした? 山井田」

 「どうしたもこうしたもねーよ、一色。机に前、紙入れたよな?」

 「さぁ?」

 「とぼけんな。お前がちゃんと手に取ったのは知ってるんだよ」

 「あ、そう」

 とぼけきろうとしたのに。見られていたのか。覗きとは悪趣味だ。

 前に机に「三田茜と離れろ」と書かれた切れ端を入れたのは山井田だった。それは別に気づいていたことだから良いのだけど、てっきり山井田は僕に嫌がらせをして三田から無理矢理切り離そうとしていたのかと思っていたから、本人が話しかけに来るとは思わなかった。

 山井田は心底意外そうに眉を上げて「へぇ」と声を出した。

 「手紙が俺だって分かってたのか? お前が俺のことを気にしてるとは思えなかったけど」

 「前見た山井田の字が綺麗だったから、なんだか筆跡見たらピンと来た」

 「はっ。ストーカーはやっぱり観察力があるな」

 山井田は皮肉げにそう吐き捨てた。見下ろす目が、僕との身長差をさらに高めそうな圧迫感を出している。

 それにしても、山井田がストーカーと言うのか。僕が切れ端を手に取るのを確認していたというのだから、彼の方こそストーカーみたいだ。

 「それで、山井田はなんで僕が三田と離れて欲しいんだ?」

 「お前が三田を不幸にしようとしてるからだよ」

 「不幸?」

 口から失笑が漏れた。

 「なんでそんな勿体ぶるんだよ。はっきり言えよ。大好きな幼馴染の茜ちゃんから離れてくださいって」

 「俺たちはそんな関係じゃない」

 「知らないけどさ。じゃあ、なんだよ。お前は何がしたいんだよ?」

 僕はそう言って、山井田に向き合った。頬に固い衝撃が走り視界が真っ白になり、顔が空の方を向いていた。

 倒れていた。殴られた、と気づいたのは山井田の立ち姿が思いっきり腕を振った後の体の向きだったからだ。

 顔面が熱を持っていた。目の周りにお湯を垂らされているような感覚があって、視界が薄汚れたガラス越しみたいに滲んで黄ばんでいる。後方で眼鏡が地面に落ちる音がした。

 「二度と茜に近づくな。茜を傷つけるなら、お前がどうなるかわからない」

 山井田はそう言った。僕は痛む頬を抑えて立ち上がった。口の中に血の味がして、ピンクの唾を吐く。

 山井田は冷静に罪状を読み上げるような低い声で言った

 「もう茜に近づかないか?」

 「嫌だ」

 僕がそう言うと、山井田は大きく息を吐いて、もう一度僕の顔に拳をめり入れた。多分、これが罰なのだろう。

 僕の体が地面に落ちると、鈍い音をたてた。骨折から治りかけていた左手で地面をついてしまったため、パンチよりむしろ強い痛みの電気信号が脳から送られてきた。

 喉から出る情けない呻き声と暴力の音が、周りを取り囲むくすんだ白い壁に溶け出ていく。他の誰もこの空間で行われていることに気づかない。

 波打っている視界を手で拭い、僕は立ち上がった。

 「もう茜に、近づかないか?」

 審判は続いている。耳の中のキーンという音と、頭の上から山井田の声が鼓膜を揺らした。

 「……近づかない」

 僕はそう言った。

 山井田は神妙な顔で頷き、僕のぐちゃぐちゃの顔をハンカチで拭った。

 「じゃあ、保健室に行こう。先生には自分がやったと伝えるから」

 山井田が僕の肩を持ち上げ、背に担ごうとした。僕は山井田の背中を叩いた。

 「自分で歩ける」

 「……そうか」

 山井田は来た時のように僕を先導するように、先を歩いた。僕の目の前には山井田の広い背中があった。

 僕は息を吐いて、助走。跳び膝蹴りを入れた。

 「あっ!?」

 山井田は短い叫び声をあげた。前に倒れて顎から着地し、金属みたいな音が響いた。

 顎を抑えながら声にならない呻き声をあげる山井田を僕は見下ろした。

 「てめっ……」

 「お前が先にやったんだろ」

 立ちあがろうとする山井田を逃さないように馬乗りになった。体の下でジタジタと動く山井田だったが、足を使って山井田の手を抑え込む。

 山井田の目は僕を焼き尽くさんとばかりの怒りの炎が宿っていた。けれど、抵抗には力がない。顎を石かなんかで切ったらしく、ドロドロと血が出ていた。赤い線は首筋をなぞるようにしてシャツに流れ着き、赤いシミを作る。

 僕は無抵抗な山井田の腹に思いっきり肘打ちを入れた。

 「っぼ」

 山井田は一瞬、白目を向いて、肺から空気の塊を出した。

 僕は立ち上がって、その場から去ろうとした。

 「……頼む、あか、ねに……。ち、かづか……ないで、く、れ」

 山井田は尚もそう言っていた。すぐに帰ろうと思ったが、しつこくて僕は思わず立ち止まった。

 「お、まえが……、いもうとのことで、茜を、恨む、きも……ちはお、れにはわから、ない……けど、も、う茜にはき、ずついてほ、しくないんだ」

 しらねぇよと言いかけて、僕の体が固まった。

 妹?

 山井田の方を見返し、近づいた。そして、肩を掴んだ。形が壊れるほどシャツに皺が寄る。

 「妹が、なんだって?」

 山井田の肩を揺らしながらそう声を掛けた。山井田は何も答えなかった。失神していた。

 サイレンの音が遠くに聞こえた。涼しかった校舎裏に熱風が吹き込み蝉が一斉に叫ぶ。そして、喉元に汗が流れるのを感じながら山井田を置いて、その場を去った。

 病人のような足取りで帰路につき、赤石に電話をかけた。

 着信を掛ける前に深呼吸をした。呼び出しの間も胸が無性に痛くて、シャツの上を掴んでいた。

 「もしもし、一色だけど」

 『お、どうした?』

 「いや、聞きたいことあって。……今、ひま?」

 『ん、大丈夫よ。どした?』

 「いやさ、大したことじゃないんだけどね。……聞いた話なんだけど、三田ってさ、名前変わったことあるの?」

 変な話の振り方だとは思っていたが、話の枕の世間話なんてする気にはなれなかった。

 『あー、茜な。実は昔いろいろあったんだよ。だからそうね。名前は変わったよ』

 「そうなんだ。……で、前の名前は?」

 『確か、佐々木。佐々木茜。っと、どうした?』

 足元に落としたスマホから声が聞こえてくる。マイクに砂利が入ったのか音にノイズがかかる。

 僕は壁に背中をつけてへたりこみ、息を吐いた。

 「佐々木。佐々木。佐々木……」

 この苗字で、僕の妹と関係がある。

 最悪なことだけど、流石に僕でも理解はできた。

 『おい、いっし』

 電話を切り、口を手で押さえた。妹の体が嫌に軽快な音で道路でバウンドする光景がフラッシュバックした。

 「おえっ……」

 喉の奥が熱い。胃液までは出なかったけど、吐き出したい気分だった。

 佐々木茜の父親は昔、僕の妹を撥ねた車の運転手だった。

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