2話 

 ファミレスで、なぜ怪しい勧誘をするのだろう。小綺麗なスーツ姿の男が、正面座席に座るおじさんにパソコンの画面を見せている。おじさんは食い入るように画面を見ていて、スーツ男は口元に意地悪な笑みを浮かべている。

 僕は窓際の席で、手を杖にし頬に当てて座っていた。

 国道に面したファミレスは窓の外にはかなりの頻度で車が走っている。ファミレス内の食器の音と車がアスファルトを滑る音が混ざって耳の中に入ってくる。集中力が欠かれるけれど、かえってそれが心地いい。

 三田に協力を申し出てから五日が経過していて、その日僕はひとまず会って話がしたいと、放課後に彼女を呼び出した。

 このファミレスは行きつけだった。骨折して不便だと感じることに料理ができないことがある。片手で野菜を切ろうとしたら、包丁とまな板の隙間から抜け出して、シンクに逃げていく。そのため、夕食はコンビニかこのファミレスで済ませていた。今日もここで夜ご飯を食べつつ、三田と話がしたかった。

 しばらくして、キョロキョロと見回しながら三田が店内に入ってきた。手を振ると三田がそれを見つけて笑った。手を控えめに顔の横で振りながら近づいてくる。

 「おつかれ。一色くん」

 「うん。そっちこそおつかれ。クラス委員の仕事だっけ?」

 「そうそう、宿題の回収専門の委員。楽かと思って選んだけど、放課後少し時間が取られるのはいただけないね」 

 三田はバッグを投げるように椅子に置き、向かいの席に座った。

 僕はメニューを開く三田に言った。

 「僕がおごるから、なんでも頼んで良いよ」

 「え、まじ?」

 「うん。誘ったの僕だし。好きなものをどうぞ」

 三田は口を丸く開けて、僕をじっと見ていた。なんだか恥ずかしい。三田から目をらした。

 三田は遠慮がちに「一色くんのお家って、お金持ち?」と聞いた。

 「……別に、普通の一般家庭」

 「いや、高校生で一人暮らしさせてもらえて、十分な食費ももらえてるってすごいことだと思うよ」

 そう言われると確かにそうだ。それに、僕はバイトをしていないから、すべてのお金を親から出してもらっている。甘やかされて、育てられました。

 大真面目な表情でメニューを睨んでいる三田に声をかけた。

 「注文しながらでいいけど、ちょっと聞いてもらって良い?」

 「何?」

 「前の件、覚えてる? 僕が君をプロにするって」

 「うん、もちろん」

 「あ、そう、ならいい」

 三田はメニューから目を離し一瞬僕の顔を見て、またメニューの方を見た。

 注文が決まり、三田は僕に聞いた。

 「よしっと。それで今日はどうしたの?」

 「ああ。これからのプランを話そうと思って」

 「プラン?」

 「君を、音楽のプロにするまでの計画だよ」

 「なるほど」あんまり、なるほどしてなさそうに言って、三田は首を傾けた。

 「そもそも、僕は音楽経験がない」

 「うん」

 「片手がこれだから、これから練習することも不可能だ」

 「……うん」

 三田は痛々しげに僕の左手を見た。かわいそうにって感じの顔だ。

 「でね、だから、僕は君をプロにするために色々考えた」

 「ほう」

 「それで、まず質問なんだけど君はバンドとか組んでるの?」

 「組んでない。今のところは。これから組むつもりもない」

 「オッケー、ソロね。ちなみに、プロになる具体的な方法考えてたりする?」

 三田は僕の頭の上に視線をやった。遠くの雲を見るような目だった。

 「一応、高校出たら音楽の専門学校のために上京しようかなとは思ってたよ。ここじゃ、路上ライブもできないし」

 「なるほどね。でも、今はもうスマホがあるし、音楽するために都会にわざわざ行かないといけないわけじゃないよ。てか、ここでプロになろうと思うと、オーディションか動画投稿しかないから、とりあえずは動画投稿して見たいと思うんだけど、どうかな?」

 「動画投稿は別に良いけど、私、動画投稿なんてやったことない」

 「それは、僕も一緒だから覚えていこう。なんなら、そういう雑用は僕に任せてくれても良い」

 三田は「え」と声を出した。

 「どうしたの?」

 「いや、本当に色々してくれようとしてるんだなって。お返しもできないのに」

 「そんなのいいってば。やりたくてやってることだし。それに、今の時代高校生のシンガーソングライターとかは大抵ネットから出てくるんだから、君くらいの才能があればプロに目をつけられたりして、案外すぐデビューできるかもしれない。そうなったらこのファミレスで奢ってよ」

 「デビューできたら、もちろんそうしたいところだけど…」

 苦い物を含んだような顔になった。それから、目を瞬かせながら「なんというか、一色くんは私を過大評価してるよ」言った。

 「え?」

 「私はまだ何者でもないし、そんなに持ち上げられる存在じゃないのに、一色くんはそんなに私を評価してくれてるじゃん? なんだか、居心地が悪いっていうか、なんか一色くんをだましてる気分になるから、申し訳ないよ」

 三田は僕を伏せがちな目で見た。僕はあわてて、言った。

 「騙してるだなんて、そんなことない。君には才能があるよ。あんなに心が惹かれたの初めてだった。プロにだってなれる」

 「初めて生音の演奏を聞いたら誰でも感動するもんだよ」

 三田はそう言って、窓の外にふいと視線を外した。何を言っても、三田は僕の褒め言葉を認めようとはしないようだった。

 どうして認めようとしないんだろうと考えると、なんとなく分かった。僕も野球選手として期待されてきたから。

 「……確かに、まだ三田は大した人間じゃないかもしれない」

 三田は眉間にしわを寄せて困惑の眼差しで僕を見た。僕は構わずに言い続けた。

 「三田はまだプロのレベルには流石に及んでないかもしれない。でも、僕は三田の将来に期待したんだよ」

 「……」三田は何も言わない。僕が言うことの続きを、待っている。

 「三田がこのまま頑張れば、プロになれるとマジで思ってるよ。だからって、三田は僕のことを気にする必要はない。好きなようにしていい。僕が勝手に期待してるだけだから」

 僕は頑張って不慣れな笑顔も作り、なるべくほがらかな声でそう言った。三田は目を丸くしていた。

 これが、きっと僕らにとって他人事で親切な応援だ。

 期待は、重圧にもなる。周りの大人は努力を強いるだけでなく、期待をするという行為でやる気を削ぐこともある。

 応援が邪魔だと思う人もいる。僕は将来プロになれると言われても、それが力にはならなかった。うはやすおこなうはかたしだ。周りが無責任にプロになれると言うのは簡単。けれど、実際にプロになるために努力するのは僕本人である。腕が上がらなくなるほど努力してきたし、これからもしないとならない。

 プロになれると言われる人は、ある程度の才能を持っている。努力もしているし、プロの凄さも他の人よりよく知っている。だからこそ、プロとの差を、より強く感じている。プロとの差を埋める段差は順番に配置されていない。だから、何が違うのかすらよく分からないこともある。なんで、そんなことできるんだろう。どうしたら、そこを切り抜けられるんだろう。どのくらい、練習してきたんだろう。どうすれば、そこに行けるんだろう。そもそも、自分はそこに辿り着くほどの才能はないんじゃないか。そんなことを、僕はずっと考えていた。

 けれど、僕は不安を抱えつつ、努力し続けた。不安から脅迫されるように、努力した。この先に本当にプロの道があるのかという疑いは見て見ぬ振りをして、走り抜いてきた。

 そんな時に、大人がふと言う。

 「将来、プロになれるんじゃない?」

 多分、大人は善意でそう言っていたのだと思う。良いプレイだった。これからも応援してるしプロになれるように期待してる。多分、それ以外に考えていることはない。まして、その言葉で傷つくことがあるとも思ってないだろう。

 僕は、そういう台詞せりふを言われるたびに孤立感を覚えた。自分の不安を嘲笑うようにすら聞こえた。誰も理解してくれないと思うと、野球を辞めたいという気持ちが心の中で出来ていく。心を入れ替えても、そう言う思いは心に嵐の痕跡を残していく。

 僕は三田にそういう気持ちを感じさせないよう、もう一度言った。

 「期待してる。けど、好きにして良い」

 三田はそれを聞いて、涼しげな目元を緩めた。普通の女の子のように歯を見せるように笑った。

 「勝手に期待してて。私は好きなようにするから」

 「分かった」

 僕がそう言うと、三田は口元を不自然にあげて笑った。雰囲気が、和らいだ。多分、僕に気を許してくれた。

 僕は水を一口飲んで「それで、投稿する動画の内容なんだけど」と話を変える。

 「三田が作ったオリジナルの楽曲と、ヒット曲のカバーでどうかな」

 「それだけでいいの? 有名なバンドみたいに大食いとかもしたほうが良くない?」

 「大食いするバンドがあるのかは知らないけど、正直どっちが正しいかはよく分からない。でも、僕は音楽一本で行ったほうが良い気がする。音楽で人気になれてからそういう事を始めるんだったら良いんだけど、まぁ、別のことでバズって有名になってから音楽やったら、バイアスみたいなのが入って純粋に音楽家になれない気がする」

 「まぁ、一理ある」

 ふむふむと三田は頷く。だが、少し申し訳なさそうな顔になった。

 「実は、私言っとかないといけないことがあります」

 「なんですか」敬語だったから敬語で返した。冗談のつもりだったが、三田は笑わない。

 「ちょっと、今スランプっていうか。作詞も作曲もできないんですよね」

 「あー、なるほど」

 三田の表情に納得がいった。でも、スランプというのは何に関しても起こるものだ。野球のプレーの調子が異様に悪くなることには経験がある。プレイに変なクセが付いてしまっているとか、疲れが溜まっているとかの場合もある。だが、原因不明の不調の場合もある。体感ではそのパターンだと、なんともならない場合のほうが多い。気長に、復調まで待つのだ。

 「了解。おいおいそれは考えていこう。ある日ふとスランプってものは抜けるものだし、スランプの脱し方に関しての本とかも調べてみる」

 「分かった」

 「じゃ、これからはカバー曲の投稿と、オリジナル曲の作成はひとまず後回しってことで行こう」

 僕はそう言って話をまとめた。ちょうど、跳ねる肉汁の音を鳴らして、店員が近づいて来るところだった。


 僕らはそれから料理を食べて、ファミレスを出た。手加減のない値段の伝票だったから三田は最後まで割り勘にしようと言っていたけど、結局僕がおごった。財布から樋口一葉を抜き取ると、お札に冷や汗が染みた。

 ファミレス前で三田と別れると、

 「おーい、一色」

 後ろからそう声がかかった。振り向くと、上田がいた。彼は白い歯を見せながらぐんぐん近づく。ゼロ距離になると腕を回し肩を組んできた。

 「おうどうした、上田」

 「いや、ファミレスで茜とお前が一緒にいるところ見たからさ。いやいや、一色くんも隅におけないなー」

 上田は今にも跳ねそうな勢いでそう言った僕は誤解だとしっかり告げておいた。

 「てか、赤石、三田のこと茜って言った?」

 「うん。茜は俺と幼馴染なんだよ。神野しんやもそうだよ」

 神野というと、金髪長身の山井田神野だ。入学初日も、そういえば赤石と山井田が一緒になって話しかけてきた。幼馴染なのか。

 上田はぐいっと僕を引き寄せ、「で、一色は今日どうしたの?」と聞いた。

 「別に。三田とちょっと話してただけだよ」

 「え、放課後のファミレスで?」

 上田はじっとりとした湿気を含んだ目で僕を見てくる。これ以上、あらぬ誤解をされるのは三田もかわいそうだと思った。

 「幼馴染なら、三田が音楽やってるのはしってるでしょ? 僕がそれを手伝いたいと思ってさ」

 多分幼馴染なら言っても問題ないだろうと思い、僕はそう言った。

 「なるほどね。そっか、ファンになっちゃったか」

 赤石はそう言って、目を細め口を大きく開けて笑った。僕は気になったことを聞いた。

 「って、どういうこと?」

 「あー、茜は中学時代に武勇伝があるんだよ。中学の文化祭で茜が組んでた四人組のバンドが出て、茜はボーカルとギターだったんだけど、あまりにその時の茜がカッコ良すぎてファンがめっちゃ出来たんだよ。全校生徒がファンクラブ会員みたいな感じだった」

 「マジかよ」

 「マジマジ。凄かったぞ」

 赤石は自分のことのように「すごいだろ」と言った。僕はそれより、気になることがあった。

 「三田は昔バンド組んでたんだ?」

 「あ、茜言ってなかった?」

 上田は手を口の前に被せた。封をしたのだろうか。でも、話してはくれるらし。上田は手を立てしきりにした。

 「茜のバンドさ、なんか揉めてから解散しちゃったらしいんだよ。俺もあんま知らないんだけどさ」

 「へぇ……」

 僕も声を小さくした。大きい声でする話でもなさそうだった。

 「そのバンドの内の一人は結構、茜と仲良くてさ。けど、喧嘩になった時結構キツめに言い合ったらしい」

 「三田が?」なかなか想像できない。

 「それで茜ずっと落ち込んでたんだよ。学校も三年生になって休みがちになってさ。あのまま、音楽辞めちゃうんじゃないかと思った」

 赤石は澄まし顔でそう言ってから、カラッとした快活な笑みを顔に乗せ直した。

 「茜が音楽また始めたの。一色がなんかしてくれたのか?」

 「え、いや、僕は何もしてないよ」

 「ふーん」

 実際、僕は何もしていなかった。あの日だって、僕がいなくても三田はあの場所で練習するつもりだったはずだ。

 「まぁ茜のことよろしくな」

 僕はとりあえず顔に笑みを浮かべた。分かったと告げた。

 ただ三田が、僕にバンドの話をしなかったのはなぜなのかと気になった。


 「お邪魔します」

 「どうぞ」

 キョロキョロと見回しながら、三田が僕の部屋に足を踏み入れた。

 その日、三田を僕の部屋に招いていた。

 数日前に録音のためにマイクを購入した。自分でお金を出す気だったが、三田が「前も奢ってもらったし、流石にそんな安くない物一人で出させられない」と言った。お金を出すための競り合いがあり、結局半額分のお金を貰った。割り勘ということだ。

 善は急げということで、僕はすぐに動画投稿用のチャンネルを作り、部屋にちょっとした録音スペースも作った。録音スペースといっても、服を入れていたクローゼットを空にしてそこにマイクを取り付けて、壁に貼るタイプの防音機材を置いただけだが、これなら多少は防音になるだろうし、音も反響しそれっぽくなるのではないかと思った。流石に本格的な録音施設と比べたら、子どもの遊びのようなセットには違いないが、地方の小都市には僕らが使えるような録音スタジオ等はないから自前に頼るのは仕方がない。

 「三田。飲み物、麦茶かアイスコーヒーどっちがいい」

 「あ、麦茶で。お願いします」

 そう言いつつも、部屋を見回していた。少し恥ずかしい。

 三田は本棚から一冊本を取り出し、パラパラとページを捲りだした。三田の姿をしっかりと見直す。裾を踏みそうな広めの青いデニムパンツと、バンドの名前が書かれたTシャツを着ていた。なんだかボーイッシュな印象である。上田が話を盛っている可能性はあるが、中学生の頃に全校生徒をファンにしたというのも頷けるカリスマ性を感じる。

 「はい、麦茶。そこの椅子に座って良いよ」

 「あ、どうも」

 本棚を見ていた三田は、そう言って僕の方を見た。目元の凛々しさとふわりと揺れたショートカットは僕と同い年の女の子とは思えない位、大人びて見える。大人と言っても、大学生くらいにだけど。

 「なんか一色くん、えらい難しい本読んでるね」

 「そう?」

 「ほら、これとか。暇と退屈の……?」

 「僕が暇で退屈してるからだよ。読書しか趣味もない」

 「休日は? 友だちと遊びに行ったりは?」

 「一応、山井田とか、男子には遊びに誘われたりはする。けど、休日は怪我のために一応安静にしたいから」

 「ふぅん、大変だね」

 三田は納得したふうにそう言い本棚を見返した。実際のところ、遊びに行かないのは面倒だからだ。

 僕の部屋は全くもって面白みがない。本棚に、低いテーブルとそれ用の椅子、あと多少の衣類にパソコンとかの電化製品。その程度だ。こちらに来るにあたり、ほとんどの物を手放したし、必要最低限な物しか買わないから物も増えない。

 別にミニマリストってわけではなく、ただ物への執着が薄いのだ。収集した物の輝きはゆっくりと霞む。そうして最後には壁紙と同化するように邪魔なものになる。それなら、もとより集めない方が賢い。

 でも、いくつかの本は持ってきたし、こちらに来てからも買い足した。本の収集をするのには、訳がある。僕にとっての本は、娯楽ではない。開けば、簡単に没頭できる逃避先であり、最終手段だ。

 夜に考え事をしてしまうと、事故のことを思い出す。そして、眠れなくなる。今までは運動に没頭して、電池切れでバタリと倒れ込むように寝ていた。しかし、今は運動ができない。だから、悶々と考え事をして寝れない日は活字にのめり込む。疲れて、考え事をできないくらいまで本を読む。何時間も読んで、寝落ちする。やっと、それで寝れるのだ。

 「あ、これとかは知ってる」

 「ああ、有名だもんね」

 三田が手に取ったのは、去年流行った青春連作短編小説だった。少年がひたむきに努力する話で、様々な賞も取ったし色々なところで取り上げられた。

 「三田も読んだの?」

 「うん。あんまり小説は読まないんだけど、友だちに勧められて少しずつね。面白かったよ」

 三田はそう言ってから、ペラペラとページを捲る。さっきと比べて目の動きが活発で、三田があの小説を好きなことが分かった。

 僕もあの小説は途中まで読み、主人公にどこか自分を重ねていた。主人公の少年はひたむきに努力を重ねる。その努力の方向性はバンドだったり陸上だったりバラバラだけど、どれも彼は全力で取り組む。どこにいても目立つ彼は、周りにも少なからぬ影響を与え、彼とその周りの人達との関わりの変化が現れていく。多分、主人公の彼には何か明確な目標があったわけではないと思う。実際、彼は何かに満足したらすぐ辞めるようなドライさも持っているように感じた。きっと、あの主人公は努力の沼に腰まで取られている。僕は彼がそれほどまでに努力に執着する姿勢に共感していた。僕も野球に人生のほぼ全てを費やした。けれど、野球が好きで執着していたのかと言うと微妙だ。そりゃ、スポーツの中で野球は一番好きだったのだけど、人生を全部ベットするレベルの愛情かと思うと、首を傾げたくなる。その主人公は僕と同様にどちらかというと、努力そのものが目的なのではないかと解釈し、勝手に共感していた。

 だが、後半にさしかかり、やっぱり僕は彼と似ても似つかないと思った。彼が努力に足る競技への愛情を語ったりするシーンはなかった。それどころか、彼が努力する動機なども一切、匂わせるようなこともなかった。僕はページを捲る手が震えた。彼は本当に努力が好きでしているのだろう。自分を騙すための努力をしている僕と比べるなんて、おこがましいにもほどがあった。

 それ以降、主人公の彼が大仏みたいに神々しさすら覚えて、その眩しさでもうその小説は読めなくなってしまった。だから、僕はあの小説を読了していない。

 「これ、見てよ」

 僕は立ち上がり、クローゼットの扉を開きながら、ページをじっと見つめている三田にそう声をかけた。三田の顔がぱっと驚きの表情になる。

 「おお、録音機材!」

 「そう。すごいでしょ」

 「すごいすごい!」

 三田はちょっと大袈裟なくらいに大きく口を開いて喜ぶから、自信満々で見せた僕の方が逆に気分が下がっていく。申し訳ない気分で僕は言った。

 「まぁ、手作り感、凄いから。しょぼくて申し訳ないけど」

 「いやいや凄いよ、これ。正直こういうのさえあれば、それっぽい録音くらいできるんだから。あ、てか、これクローゼットでしょ? 中身わざわざ空けたの?」

 「あ、それなら」

 僕はビニール袋を指差した。

 「まさか、一色くん……」

 三田は震える声で床に打ち捨てられたビニール袋を拾い上げ、中の物を出した。そこからは僕の制服のブレザーが出てくる。

 「ちょっと、一色くん、これ何してるの!?」

 「え? 着た物を片付けたんだよ」

 「片付けっていうか脱ぎ捨ててるだけじゃん。ブレザーくらいはハンガーにせめて掛けなよ」

 「ハンガー持ってないよ」

 「嘘でしょ?」

 嘘じゃないと僕は首を振る。三田は手を額に当てて天を仰いだ。ため息もついた。

 「一人暮らしとは思えない生活力だ。これを田舎に送り出したご両親は、きっと甘やかしきった我が子を旅に出させる気分だったろうに。こんなに、だらけきって」

 「甘やかされて、育てられました」

 「褒めてない」

 「ごめん」

 「全く、仕方ないな。他の服だして」

 三田は呆れたようにため息を吐いて、ぐしゃぐしゃに袋に入れていた服達を畳み始めた。

 「そんなの、申し訳ないよ」

 「良いんだよ。そもそも、君から奢ってもらったご飯は結局ご両親のお金な訳だし。君の面倒を見ればご両親への恩返しになるかも」

 僕はそれからも断ったが、三田は結局僕の服を全部畳んだ。僕も仕方がないから、主に下着を畳んだ。一仕事終えた三田は畳まれた服の山を見て、不思議そうな顔で言った。

 「こうやって重ねてみると、服少ないね」

 「まぁ、休日はあんま外出しないから」

 「外着なんて、4着くらいじゃん。今はまだ良いけど、ここで生活するなら、これだと冬には死ぬよ」

 「ああそれもそうだ。お母さんに送ってもらうよ」

 「それが良いよ」

 三田はそう言い満足そうに肩を上げて下すと、「あ」と声を出しキッキンの方に行った。キッチンに入った三田はコップしかないシンクを見て、次に冷蔵庫を開けた。

 僕は冷蔵庫の中身を凝視する三田の背に声をかけた。

 「人んちの冷蔵庫開けるの駄目らしいよ」

 「一色くん、ご飯食べた?」

 冷蔵庫を観ていて顔が見えない三田の声はなんだか尋問みたいな圧があった。

 「え? いや、今日はまだ。後でファミレス行こうか」

 「昨日の夜ごはんは? ファミレス?」

 「……いや、違う」

 「何食べたの」

 「焼きそば」

 「何の?」

 「インスタントのやつ」

 はぁ、と三田は何度目かのため息をついた。三田は足元の白い漬物石を指さして言った。

 「この炊飯器コンセントついてないけど」

 「まだ来てから使ってないから」

 「ここ来て、一日でも自炊した?」

 「……カップラーメンは自炊に含まれますか?」

 「含まれません」

 「含まれたなら、した事になります」

 「やってないってことじゃんか」

 三田は冷蔵庫を見返した。麦茶とアイスコーヒーとヨーグルトだけ入っている冷蔵庫を見ながら、三田の口元が動いた。多分、「仕方ないな」と言った。もちろん、ため息もついた。

 「買い出し行ってくる。今日の夜ごはんと作り置き作るから」

 「え!? 良いって良いって」

 「良くないよ! 高校卒業までに本当に倒れるよ」

 「倒れないって」

 「倒れるよ!」

 しばらく押し問答をした後、三田と買い物バッグを持ってスーパーに行った。

 スーパーに着くと、三田は勝手に食材をカゴに入れていき、僕は三田から発されていた圧に負けて何も言えなかった。

 「一色くん、好きな食べ物は?」

 「……天ぷらかな」

 「七草がゆ、ね」

 「普段から食べるもんじゃないだろ。僕は坊さんじゃないんだよ」

 そう言う間にも、本当に三田はかぶと大根をカゴに入れていくので僕は覚悟を決めざるをえなかった。今日の食卓には精進料理が並ぶことになるらしい。

 買い物を済ませて家に帰ると、三田はせっせと料理し始めた。未開封でケースに入っていた包丁を使い、おろしたての買って一ヶ月以上経ったまな板で料理をし始めた。

 「ごちそうさまでした。美味しかったです」

 「お粗末さまです」

 そうして僕は三田が作ってくれたご飯を食べた。結局、かぶは浅漬けになり、大根はぶり大根になっていて、出家した後のような食事が出てくるのを覚悟していたから余計に美味しく感じたのもあるとは思う。

 「残ったものは冷蔵庫入ってる。いつでも食べれるから、ぶり大根はチンしてね」

 「ありがとう。本当に何から何まで」

 もう一度、手を合わせて拝み倒しておく。三田は手をひらつかせて「大丈夫だから」と笑った。

 三田は、僕がご飯を食べている間に録音を済ませてしまった。

 歌った曲は今流行りの楽曲で、男性ボーカルの曲だけど三田は上手く歌い切った。

 三田の声は透明感があり聞き心地がいい。テクニックもあるから引っ掛かることなく最後までつい聞いてしまう。

 けど、彼女の歌はそれだけじゃない。

 彼女が歌う時、空気が変わるように感じた。無味乾燥な僕の部屋がシアターのようになって景色が変化し、色づいた。その色彩は他の何よりも早く、僕の心に入り込み、情緒をいとも簡単に変色させた。

 彼女の声からは、切ない世界が広がっている。三田は美しく透明感のある声でロックを歌っているのに、なぜかじれったいような、指先がピリピリとうずくような感情を覚える。

 だからこそ、僕も身が締まるようなプレッシャーを感じる。

 僕は動画の作成にあたり、三田の歌う姿を直接見て感じたものを映像を見る人にも伝えたい。それはきっと初心者にはとても難しいはずだ。

 三田をプロにすると決めたのだから自分で納得するだけでなく、誰から見ても良いものにしないといけない。責任重大だ。

 「じゃ、今日はありがとう。動画ができたら、報告する」

 「うん。ありがとう」

 三田を玄関まで見送ろうとすると、三田は歯切れ悪くボソボソと口を動かした。

 「何?」

 「えっと、あの、私の歌、どうだったかな?」

 三田は俯いて上目遣いでこちらを見ていた。僕は音源を思い返した。もちろん、上手だった。

 「すごい良かったよ」

 「……そっか。ありがとう!」

 三田は作ったような笑顔を浮かべてそう言い、帰って行った。


 それから一ヶ月以上経った五月中旬、ようやく僕は動画を完成させた。

 動画作成に関して右も左も分からない僕だったが、プロの作ったミュージックビデオを調べたりしながらなんとか作り上げた作品は、自分で作った作品でもそれなりに良い仕上がりになったと思う。実際、完成したタイミングで丁度よく電話をかけてきた飯田に見せると僕が作ったことを驚かれたし、三田に至っては腰を九十度曲げて「ありがとう」と言われた。僕は慌てて「好きでやってることだから」と言ってやめさせた。

 僕の本棚には、写真の撮り方と加工方法、動画作成の本などが追加され、付箋がほとんどのページに貼られている。

 ただ時間潰しに本を読むより、三田の歌に少しでも見合うものを作ろうと思いながら勉強していたからかなり時間がかかってしまった。

 白状すると結構楽しい作業だった。目的を持って作業をするのは雑念がなくなって、それだけに夢中になれる。長時間パソコンの前に座ってする作業は邪魔するものもない。

 そうして、三田の歌声は動画投稿サイトで聞けるようになった。


 僕の机の中に『三田茜から離れろ』と書かれたノートの切れ端が投函されたのは、それからさらに一週間後のことだった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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