1話 青の景色と彼女

 青い世界にいた。

 もちろん、本当にいたわけではない。野球場のピッチャーズマウンドに立っていた。しかも、試合中だ。

 足が炙られていると錯覚するほど、ピッチャーズマウンドは暑かった。状況は九回裏で、前のバッターをあと一球で抑え込めば勝ちだ。そして、これが、決勝戦なのも分かっていた。

 ただ、確かに青い世界にいた。

 視界に広がる青い世界は、集中している時に見えるものだった。心地の良い全能感が身を包む。僕の頭から野球以外の思考が砕けて落ちていく。体が、野球のみになる。

 他は何もない。さっきまで見えていた観客も、仲間の声も聞こえない。僕とボールと、キャッチャーのミットが空中にふわりと浮いているだけ。地面の熱も感じない。そんな、青めいた世界が広がっている。

 もう一球だって投げたくないほど、体は疲弊しきっていた。百球以上投げた右腕は肩が重く、筋肉は毎秒叩かれているような痛みを主張している。指先の感覚に至ってはどこか余所余所よそよそしく身体から離れていて、既に痛みを感じるステージを超えているらしかった。

 だが、それも前の打者を三振で抑えれば終わる。

 足から上半身に力を流し込むイメージで肩に全てを集める。そして力を受けた肩から溢れ出すように、腕を鞭のようにしならせた。指先の感覚はおぼろげだが、何万回も投げた手放すタイミングや押し出す感覚は勝手に指先が出力してくれる。

 投げ出されたボールは風を巻きつけるようにしてバットから逃げて落ちていく。落ちたボールはキャッチャーがすくい上げるように取った。

 その瞬間、世界が紙に水滴を垂らしたように波打ちながら食い破られる。元の光と音を取り戻していき、黄色い喧騒が耳と目に再登場した。

 「アウトー。ゲームセット」

 審判がそう言うと、会場全体から湧き上がるかのような声が上がる。そして、自分の周りにチームメイトが集まってきた。

 「すげぇぞゆう。完投しやがった」

 「まじで信じらんない。最強だな」

 「よ! 天才投手、一色勇いっしきゆう! 将来のドラフト一位」 

 パーテーションで区切られているみたいに、騒ぎ立てている周りの声はなんだか遠く感じられた。頭はぼうっとしていたが、胸がはち切れそうなほどの興奮が溢れてきて喉が震えた。

 「よっしゃあああああ」

 痛いほど爪が食い込んでいる拳を僕は空に掲げた。柄でもなく叫ぶほど、その日の僕は誇張抜きで東京の英雄だったと思う。制球も球のキレも、全てが上手く決まりすぎていて、こんなに調子が良い日を決勝戦に当てられた運が怖いくらいだった。


 そんな僕がその日のうちに、ドカンと車に轢かれるのも、運だったとしか考えられない。


 「えーと、一色勇です。中学まで東京にいました。趣味はスポーツ鑑賞です。よろしくお願いします」

 僕はそう自己紹介した。

 まばらに出る拍手には困惑の感があった。僕が高校の入学式から左手をアームホルダーで固定していたし、椅子から立ち上がった時に足がよろけたからだ。それに、東京から、この地方の高校をわざわざ選んでやってきたのも不思議に思う要素の一つだろう。

 肝心の自己紹介の内容も変だったのだろうと思う。何せ、僕のような見た目の人間がスポーツ鑑賞を好きそうには見えない。髪は目が隠れるまで伸ばしたし、最近急に視力が下がってきたから眼鏡をかけ始めたが、度が強すぎた。目元の時空が歪んだようになり、とても元スポーツマン的な見た目ではない。もはや、僕が野球のシニアチームにいたことは信じてもらえないだろう。プロを志望していたなんて言ったなら、きっと鼻で笑われる。

 「一色だっけ?」

 「ん?」

 帰りのホームルームまで終わり、僕が荷物を整理していると前から声をかけられた。顔を上げると、二人の男子がいた。

 僕は問いに「うん。一色勇であってるよ」と答えた。

 片方は金髪に細くて小さい目が顔の中央寄りに配置してあるのが特徴的で、持て余したようにぶらぶらと揺らしている足は長かった。僕よりも目線が高いから百八十センチは優に超えているだろう。もう片方は黒の短髪に緩いクセがついていて、目尻が垂れていて見るからに毒がなさそうな顔をしている。こちらは平均的な身長で僕より小さい。

 金髪の長身の方が「一色、すごいな、それ。骨折?」と聞いてきた。

 「去年、事故にあって」

 「えー、事故か。痛そうー」そう言ったのはクセのある黒髪の方だ。黒髪は快活な印象の笑みを僕に向けつつ、左手を擦りながら視線は僕のアームホルダーに注がれていた。

 僕は自己紹介の時に聞いたはずの二人の名前を必死に思い出した。

 「えっと、山井田くんと赤石くんだっけ」

 「そう、やまいだしんや。よろしくな」

 「俺はうえだひろき」

 山井田はティッシュを一枚取り出し、さらさらと紙に漢字で「山井田神野やまいだしんや」と「上田弘毅うえだひろき」と書いてみせた。僕もその横に「一色勇いっしきゆう」と書いた。利き手は骨折していないのに、自分の書いた字が汚くて嫌になる。

 上田がそれらを見比べて「全員変わった漢字だな」と言った。

 「山井田の名前は、なんか名字が二個続いてるみたいだ」

 そう返すと、山井田は歯を見せるように笑った。山井田は金髪の長い髪を後ろで縛っている。一見すると怖い印象だが、邪気のない笑顔をするものだなと思う。ギャップがすごい。一方、上田は見た目と変わらない、湿度を取り除いたようなさっぱりとした笑顔をしている。能天気そうだ。

 上田は「どうしてわざわざ、東京からこんなとこに来たの」と聞いた。視線はずっと僕の左腕に固定されていた。

 「東京の都会に飽きて、こういう緑豊かなところに来たくなったんだ」と言うと、二人は顔を見合わせた。山井田は苦笑いして口を開いた。

 「緑っちゃあ緑だけど、都会からよくここに来たがるな。田舎だけど、ど田舎ってほどでもないから、観光地としてもイマイチなんだ。何をとっても中途半端でつまらない」

 「そんなことないよ。空気は美味しいし静かだし最低限の店は揃ってるから、不便でもない。それに、ここらへんの米は美味しいと聞いてね」

 僕は窓の外を見る。茶色のテニスコートのような田んぼが何面もある。

 「確かに、米は美味い」

 上田は僕の冗談に満足げに笑った。くくくと山井田も笑う。窓の外は、山と田んぼだらけだ。ここは民家と同じくらい田んぼの土地の割合が大きい。米の生産地として優秀なのは言うまでもない。だが、高校生がわざわざ米のために一人暮らしはしない。

 上田はアームホルダーには飽きたのか僕の目を見て言った。

 「そうそう、今日クラスで親睦会やるつもりなんだ。町のカラオケ屋と焼肉屋で。一色はどう?」

 僕は申し訳なさそうな顔を作って言った。

 「ごめん、今日は用があるんだ。皆で楽しんできて」

 「そうなんだ、なら仕方ないな。また誘うから、その時は来いよ」

 「もちろん。今度こそ行きたいな」

 僕は笑顔でそう嘘をついた。山井田と上田は疑う様子もない。軽く話して、手を振り去って行った。

 これから行く場所なんて、自分のアパートの部屋だけだ。用なんて一つもない。

 ここに来たのは自分を知っている人がいない場所に行くためだった。だから話し相手さえいれば良い。いや、正直話し相手すら必要ないかもしれない。でも、本当にそうなったら色々不便そうだから、一応は社交的に振る舞っておく。

 理由なんてない。ただ、放っておいて欲しかった。

 


 放課後、僕はクラスのみんながカラオケ屋へ繰り出すのを見送ってから学校を徘徊した。特に理由があったわけではなく、ただ今すぐに学校を出てしまうと、クラスメイトと遭遇したときに気まずそうだったからだ。

 みんな、楽しそうだったな、と思った。高校生活は人生の一番楽しい時期だという者もいる。今日高校生になった彼らはもちろんこれから三年間の幸せを願い、スタートダッシュをミスしないように人間関係の構築にしばらくの間、悪戦苦闘することになるのだろう。

 それに比べて、僕はといったら! 友達を作ることを放棄して、こうして水色の気配を纏い人生の春へと差し掛かろうという高校生諸君を遠目に見ている。人生の充実度は彼らの方が高くなるんだろうな。でも、悔しいとも思わない。そういう考え方が、終わっている。

 一号館、二号館と順に見ていった。壁は塗り直されているが、ヒビが入っている箇所があったりする。香りも、なんだか湿った土と木の香りがして、古い高校だと分かる。

 しばらくして、校舎裏にちょうど影になっていて身を隠せそうな空間を見つけた。中に入る。地面のコンクリートは苔が生えていて、足が取られた。壁に手をついて、なんとかバランスを保つ。本当に、事故にあってから、転ぶのが怖い。一人よりも怖い。

 舌打ちしながら、ライターに火をつけた。

 「私、煙苦手だから辞めて欲しいな」

 後ろから女の声が聞こえた。僕は肩を跳ねさせる。そして、体の向きを逆にする。

 「失礼」

 「別にチクるつもりはないから。安心して良いよ」

 そう声がかけられ、一度背中を向けた体をまた反転させた。どうやら初日から停学する羽目にはならないようだ。

 よく見ると、隙間に収まるようにして制服を着た女子が座っていた。ブレザーの中に緑のネクタイをしていたから同じ一年生であるらしい。

 直感で、かわいいなと思った。彼女は同年代で見たことがないかもしれないレベルの美少女だった。見た瞬間、「あ、かわいい」と脊髄で理解させられた。

 「校内でタバコって。すごいな、高校生」

 「いや、ライターに火をつけただけだから」

 「雑な嘘だな」

 女子は笑った。確かに、自分でもしょうもないと思うような言い訳だ。けど、箱を取り出してないからまだ疑惑の段階だ。僕の尻ポケットにそれが入っているかいないかは、誰にも分かるまい。僕はライターを無理矢理バックの奥底に押し込んで、女子に話しかけた。

 「てか、君も一年生でしょ?」

 「え、なんで分かったの?」

 「ネクタイの色だよ。ほら緑でしょ君の」

 「あっ、そっか。君も緑…。て、ことは、え? 今日入学してタバコ吸おうとしてたってこと?」

 女子はそう言って、手を叩いて笑った。言われてみれば、僕みたいなやつが学校でタバコとかかなり意外でおもしろいだろう。

 僕はこの場から逃げるのをもう諦めて、ため息を吐いた。

 「分かんないかもだけど、君と僕は同じクラスだよ」

 「ん? ああ君、骨折してたクラスの子か。ええー、ヤンキーじゃん」

 女子は一段と口を大きくして豪快に笑った。けれど、顔立ちが綺麗だからか、崩れない。

 骨折してた子の僕は、女子の姿をよく見なおした。制服のブレザーはきっちりと着られていて、髪はショートカットで涼しげな目元をしている。ちょっとボーイッシュだ。それと、ギターケースを背負っている。名前は確か……。

 僕は気になったことを聞いた。

 「そういや、君は親睦会行かないの?」

 「ん、行くよ。カラオケは行かないけど、焼き肉から」

 「なんでカラオケは行かないの?」

 「あー、歌うの苦手だから」

 「ギター持ってんのに?」

 「嘘だよ。ちょっと寄るとこあるから行かないの」

 女子はギターケースをぽんと叩いた。それから、僕を見た。

 「そう言う君は? なんで行かなかったの」

 「用があって」

 「校舎裏でタバコを吸う用?」

 「うーん」

 つい唸る。返答しづらい問いだった。女子は困る僕を笑った。手をヒラヒラさせて「冗談だよ」と言い、ギターケースを横に置く。

 「私、練習できそうな所探してて、ここ来たんだよね。いていい?」

 「あー、どうぞ。僕行くから」

 僕はそう言ってから、背中を向けて歩き出した。そして、これからクラスでは彼女を避けるように立ち回ろうと心に決めた。けれど、後ろから聞こえたギターの音色が綺麗で、つい振り返った。

 その時、僕は確かに見た。

 視界が青くなる。その中心に、黒いギターを持った三田茜がいた。顔を隠すように垂れている前髪が揺れて、その隙間から細められた目が覗いていた。

 黒いギターの上を白い手が跳ねる。手が導くは、水が跳ねるような世界だ。噴水じゃない。もっとたくさんで、動きのあるものだ。海だ。海を魚たちが泳いでいる。生きることが素晴らしいと、叫んでいる。

 楽しげに旋律が泳いでいた。青い世界には、夏の情景が浮かんでいる。手垢もつけられないくらいに、鮮烈な輝きを持ちつつ、切なさを孕んでいる。

 僕はその場に突っ立って聞き入っていた。いや、彼女の音に魅入っていた。ギターの音と三田の姿だけが視界にあった。

 彼女が僕の方を見て、音が止まった。視界がすぐに戻る。広がっていた青の世界が一気に収束した。三田はギターから手を離す。

 「え、まだいる。用事は?」

 「ないよ、そんなの」

 「ええ……」

 困惑する女子に、構わずに僕は近づいた。

 「上手いね。プロとか目指してるの?」

 「え、なれたらいいなとは思ってるけど」

 「なれるよ。今の曲は? なんていうの?」

 「……一応、私が作ったオリジナルだけど。どうしたの? そんなに気に入った?」

 「オリジナル! すごい! なれるよ、プロに」

 「お、おう。ありがとう」

 女子は口元に力を不自然に入れて笑った。

 僕は興奮が抑えられずに捲し立てるように言った。

 「ねぇ、お願いがあるんだけど」

 「ん?」

 「僕を君の夢の手伝いをさせてほしい」

 「え?」

 「雑用でもなんでもいいから。手伝わせてよ、君の音楽活動を」

 「ちょちょ、ちょっと待って待って」

 女子は僕の前に手を出して距離を取るようにした。気づけば僕は相当女子に近づいてしまっていた。

 「えっと、なんで、君が私を手伝ってくれるの?」

 「それは、君の曲に感動したから。君を応援して、プロにしたい」

 「おおう、照れるな。でも、気持ちだけ受け取っておくよ。私バイトとかもしてないからお返しもできない。それに私なんか、まだ大したことない」

 「そんなことない。それにお礼なんか要らないよ。君のことを、ただ手伝いたいだけなんだ」

 僕は自分なりに熱意を込めてそう言った。女子は少し俯いた。口を閉じて、目元は赤らんでいた。体に力が入っている。今にも泣き出しそうだった。

 女子は薄い唇を震えさせて「君、変」と言った。「え」と声がひっくり返る。

 「変かな?」

 「変だよ。ありえないくらい押しがすごいし、タバコ吸ってるヤンキーだし、訳がわかんない」

 確かに、そう言われると僕の行動はおかしい。タバコを校舎裏で吸おうとしたところを咎められて、彼女の曲を聞いて、そのまま専属の雑用係を名乗り出たのだ。すごい不審だし、気持ち悪い。まずい。興奮が抑えきれずに畳み掛けてしまった。もっと順序を守り歩み寄っていくところを、バイクで走り抜けていった感じがする。

 それから、女子は唇を引き延ばし頬の肉を持ち上げるように言った。

 「いいよ、私にデメリットなんかないし。手伝わせてあげる」

 「え!?」

 「え、どうしたの」女子は訝しむような顔をする。自分で申し出てなんだが、断られると思ったから驚いた。

 僕は呼吸を整えつつ「ありがとう」と言った。思いっきり頭を下げると、女子は「え、え」と動揺した声を出した。

 「いや、ごめんごめん。私が感謝したいところだよ。ありがとう」

 多分、女子は笑顔のつもりだったのだろうけど、持ち上げられた頬の肉はピクピクと震えていて不器用な笑い方だった。

 女子は僕に感謝しているらしいが、こんな不審なやつを受け入れる度量の広さには、むしろ僕の方から感謝しないといけなかった。大体の人は気持ち悪がって、すげなく断るだろう。

 「私は三田茜。花の茜って書く茜。よろしくね」

 「僕は、一色勇。優しいじゃなくて、勇気の方の漢字で勇って書く。こちらこそよろしく、三田」

 クールな目元が特徴的な少女は朗らかに、不器用に、困ったような顔で僕と握手をした。

 それが、三田茜との出会いだった。


 その夜、携帯に電話がかかってきた。

 「どうした、飯田」

 『おう、勇。親友が山形で一人暮らしを始めた上、そこの高校の入学式だったから連絡してあげないわけにはいかないだろ? 学校、どうだった』

 「まぁ、ぼちぼちだよ。何事もなく」

 『そっか。それは何より』

 電話の相手は幼馴染の榎木だった。高校を地方にすると伝えたのは知り合いでは彼だけだった。ラインは全部ブロックしたから、僕がどこにいるかはほとんど誰も知らない。

 電話の周りが騒がしいのか、ノイズがある。耳をピッタリとスマホにくっつけないと飯田の声が聞き取れない。ギャハハという鳥肌が立ちそうな笑い声が遠くに聞こえる電話から耳を離せないのは苦痛だった。

 榎木は『うちのクラスは今親睦会やってるぞ。そっちは親睦会あった?』と聞いた。

 「あったよ」

 『おー、可愛い子いた?』

 「さぁ、知らない。親睦会サボったから」

 『そっか、まぁ入学してすぐだから、そう仲良くは……。って、何やってんだよ!』

 スマホを手放しそうになる程大声でそう言われて、咄嗟に耳から遠ざけた。

 「いや、めんどくさかったし」

 『はぁ、まったく。緊張するのも分かるけどさ。友達作らないと三年間辛いぞ』

 「はいはい、肝に銘じときますよ」

 『……本当に分かってんのか? 俺結構お前のこと心配してたんだけど。……まぁ、今日のお前はちょっと元気そうだけど』

 「え?」

 『野球やめてからお前元気なかったから。なんか今日は声が楽しそうだ』

 僕は眉間に皺がよるのが分かった。分かったようなことを言うなと思う。

 「まぁ、入学したてだからな」

 『楽しかったのか? なら、尚更、親睦会行かなかったのが謎だけど。友達はできた?』

 「ん、まぁできたかな」

 『……やっぱ、可愛い子いた?』

 「いや、なんでだよ」

 『なんか答えづらそうだったから。女の子関連かなって』

 「違うよ。なんか友達って言っていいのかなって思って初日だし」

 『あー、そういうことか。友達の線引きって曖昧だよな』

 「なんか、そういうのでもないんだよ。なんか、歌でプロ目指してる女の子がいてさ。僕がその子のことサポートしようと思って」

 『は? どういうこと』

 「だから、その子をプロにするのを手伝うってことになった」

 『マジで意味わかんねぇ。お前音楽やったことないじゃん』

 榎木は猿の鳴き声みたいな引き笑いをした。そして、水を飲む音がした。多分、信じていない。

 「いや、嘘じゃないから。ほんとの話」

 『え、おもしろ。マジなん?』

 「そう、ガチのマジ」

 『そうかよ。まぁ、楽しそうならいいわ。ちなみに女の子の名前は?』

 「三田茜」

 『へぇ……、三田ちゃんね。覚えた覚えた』

 榎木はなんだか薄ら寒いような笑い声の混じった声でそう言った。携帯越しの彼がどういう表情をしているか容易に想像できる。

 「言っとくけど、まじでそういうのじゃないから」

 『ふーん。まぁ、いいや。また連絡するわ、じゃあね、勇』

 答える前に電話が切られた。なんだよ、あいつ。

 電話を置いて、ベッドに体を預けた。左手を守るために、右が下。

 僕は倒れ込んだまま、右手の掌を見た。デコボコな右手だ。ずっと、ボールを握りつづけていたほうの手。

 半年前の事故で骨折した左手とは逆に、右手は怪我しなかった。だが、右手には大きな縫ったあとがある。それは野球でできた怪我じゃない。

 

 ミーンミーンミーン、と季節外れの音を聞いた。

 自分がいるのが夢の世界だと気づく時がある。今がそうだ。

 景色に覚えがあった。僕が小学生の時に見た光景だった。

 ゆらゆらと地面がスカートのようになびいて見えるほど暑い日だった。蝉が高い声でメスをおびき出そうとしているのが印象的だ。

 僕はぼうっとしながら、妹の頬を伝う汗を見て「プールに行きたいなぁ」と妹に声をかけると、「うん」とぐったりしたまま、答えた。

 その日は野球の試合があった日だった。運動公園での試合は思ったより早くコールド勝ちし、昼過ぎには終わっていた。僕と妹は母がスーパーに買い出しに行ってからまだ帰ってきてなかったため、駐車場で母を待っていた。

 妹の汗が顎先から落ちてコンクリートに染み込むのを見た。僕と妹の間の口数は少なかった。蒸されているかのような暑さで汗とともに体力が流れ出ていくのを感じていて、とても雑談に興じるような余裕もなかった。

 僕は飲みきってしまった空のペットボトルをゴミ箱に捨てて、すぐにでも別の飲み物を乾いた体に入れたくて周りの自動販売機を探した。販売中の文字を見つけて、自動販売機はすぐ先にあることを確認した。

 箱の上の方が青く灯った。

 僕は妹の手を引いた。僕の右手にふっくらとしたひとまわり小さい手が包まれる。

 日光が目に刺さるみたいに感じて、僕は野球帽を深く被り直した。手には妹と僕の汗が混ざり合っていて、帽子に粘るような汗が付いた。

 後ろを見ると、妹が座り込んでいた。僕は妹の方に手を伸ばした。

 手が吹き飛ばされた。僕の目の前を車が通ったからだった。

 妹は体を空中で何回も回転させて、着地した。いや、墜ちた。

 夢の世界は、細部が曖昧だった。僕が直視するのを避けたからかもしれないし、トラウマになっていて脳内で再生するのを拒絶しているのかもしれない。とにかく、僕の生涯の傷になるであろう陰惨な光景だった。

 一色葵はその日死んだ。

 そこで、夢は終わった。

 僕は目が覚めて、しばらく布団の中でぼうっとした。スマホで時間を確認すると朝の五時前で、普段よりはかなり早い。

 バッチリ、目が醒めていた。とても二度寝する気にはなれなくて、僕は起き上がり早めに着替えることにした。骨折してもう半年ほど経ったから、治りかけてはいるが、それでも痛いものは痛いので一人で着替えるのには割と神経を使うのだ。

 歯を磨きながら、三田茜のことをふと考えた。

 僕はあの時、三田に何かを感じた。視界が青く輝いて、僕の心はその中心の三田に吸い寄せられた。野球に夢中になっていた時と同じ景色を、三田の声は見せた。

 腹の奥で力がくすぶっている。自分の全てを野球に捧げてきた僕は湧き出し続ける情熱を向ける対象がなく、ひたすら体力を持て余していた。虎視眈々と燃えうつるものを見定めて揺れている炎のように、僕は何かに燃え尽きたいと考えていた。

 何もしないというのは、心穏やかでいれるというわけではない。人は時間があると何かを考えるようになる。大抵、そういう時に考えるものは悪いことで、絶望的に悲観的なものだ。

 何かをして、考える時間を減らさないと、僕の心が壊れそうな気配があった。

 僕はもう自分で夢を追うことはできない。野球選手には、なれない。夢中になれるものがなくなった。

 あの思考が頭から零れ落ちていく感覚は、もう味わえない。

 だから、三田を僕の代わりに使うことにする。

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