転
「さて」
よっこいせと腰をあげて首を回す。久々だったから鈍っているのではとヒヤヒヤしたが、あの単純馬鹿くらいなら騙すのは容易いか。
多分これでもうあいつがここに来ることも、復讐に身を焦がすこともないだろう。俺だって牛鬼の端くれ、幻術くらい簡単だ。あいつの手には恐らく生々しい肉を割く感覚まで残っているだろう。俺が傷の一つも負わずのうのうと生きているなんて知らずに。
俺は多分、物の怪の類でも凶悪の部類に入るだろう、何百年も人も物の怪も構わず喰い殺して、退魔士だとか武士だとかの類も喰ったのは数知れない。
そんな俺の体は最早呪いの塊だ。
もし、一太刀でも俺に浴びせて返り血を浴びるなら、普通の人間に耐えられるはずもない。
俺を殺さないとあいつは気が収まらないだろうが、そういうわけだから許してほしい。せめても、というやつだな。
…どうせたかだか三、四十年で死ぬ奴らだ。
俺は人喰いの化け物だ。
肩を並べるにはあいつは、違い過ぎる。
「……………ごめんな。」
独りになった洞窟で一人暗がりにつぶやいた。
*****
時が過ぎて、季節の終わり、頃。
人を喰うのはしばらくやめにしようと猪とかで食いつないでいた。ただあの頃の癖で茂みの音に随分と敏感になってつい見てしまいがちだ。
例年日照りに悩まされてるこの時期、今年は少し降り過ぎじゃないかというほど雨がよく降った。
じめじめと洞窟の中まで湿気が溢れて、何をするにもやる気が出ない。
しばらく寝よう、いっそ何十年か、と目を閉じた。
そして、轟音で目が覚めた。
せっかく人が寝てるっていうのにと体を起こすと洞窟の中に水たまりがいくつもできていた。
外に目をやって、滝が水量を増したんだと悟った。だが実際に外に出るとそれどころではなかった。
字の通り滝のような雨。
それがここ一帯に降り注いでいた。激しい水量に呑まれかけながらもハッとして駆けだした。
滝の先、川は最早原型を留めず、周囲の草木を抉りながら濁流と化して麓を呑み込むように襲っていた。俺が聞いた轟音は木が濁流に呑まれて立てた音だった。
人の姿では前どころか足元ですら覚束ない。木の悲鳴によく似た音を背から響かせ、風に煽られて撓んだ木の上まで跳躍した。
見えた光景に舌打ちして、弾かれたように木の上を麓を目指し跳び降りていった。何度か雨水に足を取られ転びかけたが、その度に爪を伸ばし木を抉り、体を支えた。
麓には家の残骸のようなものがいくつもあり、ここがあいつの言っていた村だということが辛うじてわかった。けれどそこに人はおらず人の姿を模さずとも人間に指を差されとやかく言われることはなかった。上から見たのと同じで村の半分が浸水してるようだった。
風の向こう、どこかから聞こえた人の声に、丸太の数本しか残っていない物見櫓へ跳ぶ。
どうやら村人たちが川に堤防を作って防ごうとしているようだが…いっそ村を捨ててどこかに逃げる方が賢明だろう。どうしてこうも馬鹿なんだ。
特にお前だ。
「さっさと逃げろよ…!」
積んだ麻袋を泥塗れで縄を引き支えようとするあいつが見えて唇を噛んだ。焼き石に水どころの話ではない、下手すればあいつ自身死に兼ねないというのに。
この体に掛かった呪いの一つが頭をよぎる。そんな呪いを気にする日が来るとは一度だって思わなかったが──そんなことを考えていると上流から殆ど土石流といっていいような色の中木が紛れ込んでいるのが見えた。
もしこのまま行けばあの木は儚い堤防を浚うように破壊していく。
「──逃げろっ‼」
吠えるように咄嗟に叫んだ俺の声にあいつはこちらを振り返った。
そしてそのすぐ後、あいつが支えていた薄い堤防はあっさり崩れ、あいつもろとも濁流に消えていった。
他の人間が騒ぎ立てる声も聞こえずに、気付いた時には濁り果てた水の中。
静かな水底とは似ても似つかない奔流を爪で掻き分けてあいつの姿を探す。水中に息苦しさはないが本能が警鐘を鳴らす。
俺がやろうとしていることは禁忌だと。
強張りかける手足を必死に伸ばし、ようやく泥水の先に微かにあいつが見えた。
今なら間に合う。手を引くなら今で、そして今掴まなければあいつは死ぬ。
「………」
一つため息をついて手のひらを握り締めた。
「もう十分生きた。」
***
すっかり雨は上がったにも関わらず、俺は曇天の下で濡れたまま小高い丘の上から周囲ごと流れ去って行く川のような濁流を眺めていた。
これでけじめはついただろう。手のひらを見つめてからどろどろに絡まった草のようなものたちを脚の先たちから落とす。
「生きてたのか、お前」
そう口を開いたのは俺じゃない。
「…なんだ、お前こそ。動かないもんだから死んだと思ったぞ。」
落とした弾みに水が飛んだらしく隣で気を失って横たわっていたあいつが咳き込みながら目を覚ます。
「…まあ、お前が目を覚ましたなら俺も先は短いな」
ジリ、と胸の奥が焦がされるように熱くなる。
「何を、…」
「悪かったな、お前の妹。」
「…………………」
「許せとは言わないが、まあせめて…洞窟でお前を騙したことくらいは許してほしい。」
遮るようにあの日に言えなかった言葉を伝え、黙り込んだ相手に続けるも、少し急いたせいかケホッとこちらも咳き込んでしまった。
「………命を救われたのは事実だからな」
振り返ることはないが多分妹を殺した事実と自分を救った事実の間でご丁寧に悩んでいるんだろう。本当に人じゃなかったんだな、と呟きながら複雑な表情でこちらを見た。
「嗚呼、お前の言う通り化け物だ。お前じゃあ殺せないさ」
「、っ」
少し詰まった声が漏れるのが聞こえる。妹の復讐というのがまた膨れ上がったのだろう、顔は見えないが恐らく随分堪えている、そのまま続ける。
「だから諦めろ。その代わりに、俺はもう二度とお前の前に現れない。」
じゃりっと音がして、後ろから肩を掴まれた。
「お前はッ──」
なんて言おうとしたかは知らないが、ただ感情任せなその行動に俺は答えられなかった。もう殆ど体に力が入らなかったからだ。
「なん…」
「妹の仇だぞ?わざわざ気にすることはねえよ。」
引きつった声で俺を見下ろしてるであろうお前には悪いことをしたと思ってる。
人にとって血というのはそう気分のいいものじゃないだろう。口から鼻から爪の間から腐ったかのようにどろついた血が溢れて止まらない。
簡潔に言えば、俺は死ぬ。
牛鬼はそういう生き物だ。人を喰らい生き、人を救えば死ぬ。ただそれだけ。
残虐?そうしなければ死んでしまう。
冷酷?そうでなければ死んでしまう。
ただそれだけなんだ。
それだけの矮小な、化け物だ。
「だからお前はさっさと…」
「そんなことを言ってる場合か!早く医者に…」
「………」
馬鹿だなあと口からとめどなく血を流しながらため息をつくとガンッと額を拳で殴られた。
「…お前、医者にって言いながら手ェあげんな」
「うっせえな!早く、二つ先の村なら多分無事だ!」
俺を抱えあげようとして背中からぼとりと泥人形の腕が落ちるように脚の一つが朽ち、落ちる。肌越しでもびくりと震えたのが見えた。
「…あのな、お前には殺せなくってもほっとけば俺は死ぬんだ、変に善人面しないでさっさと一人で…」
「誰が仇の言うことを聞いてやるか!」
背からも溢れ出した血は止まらずにずるずると紅く染まった俺を背負って怒鳴る。
「仇に助けられるなんて、屈辱だ!挙句に死んで償うなんてムシがいよすぎだ‼生きて、生きて償え、!」
随分軽くなってしまった俺は背中にもたれるのを余儀なくされて、いやでも泣いてるのが伝わってくる。
「…お前って意味がわからないよたまに。」
なんで俺を生かそうとすんだか、それも泣きながら。そもそも人を喰うっつってんのになんで背負うんだよ。
「……妹は俺が小さい頃から育ててきた、大事な家族だった。」
「…嗚呼、」
「…でも、もうお前に喰われていなくなっちまったんだぜ?」
「……嗚呼、」
「…村も多分、あの後殆ど、流された、だろ」
「………………」
最後は笑い飛ばそうとしていたようだが明らかに震えていてて、痛々しかった。
「………もし、そうなら、俺は…お前が妹の仇だったとしても、大事なものは、お前しか残ってねえだろ」
「……は?」
何言ってんだお前と出血量に朦朧としていたところにそんなことを言われて我に返った。何言ってんだ。
「、だっから…!…もういい、後でだ、早く治せよ、そしたら村の立て直しにボロ雑巾になるまで使ってやるからな!」
ぎゅうと俺を支えてる腕に力がこもる。
…嗚呼、本当に…あの日助けられなければよかったのに。
こんな死に際に大事なものを俺に作らせやがって。
何か文句を言おうとしてきゅっと喉が締まって言葉が詰まる。…さっきからこいつの声がつっかえるのはそういうことか。
楽観的で分かっていないのかと思ったが、そうか、わかっていたんだな。
「………もし、俺が人間ならよ」
もしさっきの言葉が本当なら、こいつは全て失うだろう。そんな奴の夢物語にそっと付き合うくらいいいだろう。
「お前みたいに正直に真っ直ぐに生きて」
人の生肉ばかりで知らなかったが、人肌とはこうもあたたかいのか。
「もしかしたらお前と人里で暮らすこともできたかもしれないな」
「…んなの、人じゃなくたって、傷を治して帰ってきたらしたらいい、こき使いはするけどな」
…そうかあ、と笑っては見せたものの体はもう限界だ。背を向けたお前にはバレてないだろうが。
殆ど何も見えなくなった目は紅だけをぼんやり移す。
あの日見た真っ赤な夕陽が思い浮かび、曖昧な意識の中また少し笑った。
「…お前と同じだったら」
気恥ずかしくてずっと言えなかった。
見えない目だというのに夕焼けの中お前が振り返った気がした。
「お前と友達になれたかもしれないな、──■■」
ぱしゃり
何かいいかけたお前の口が動くと同時に、俺の体は跡形もなく紅く弾け、消えた。
最期、名を呼ばれた青年は呆然とそこに立ち尽くしていた。
沈んでゆく夕陽の中、いつまでも名も無い友の血だけが赤く残っていた。
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