次の日、随分早い時間からあいつが来た。随分心配そうな顔をしてくるから多分帰ってこない人間を心配しているんだろう。

「近所の…夫婦が山に入ったまま帰ってこないらしいんだが、お前、見てねえか…?」

 ボロが出るのは防ぎたいし首だけ振ったが、こいつが探さないと気が済まないという顔をしているから一緒に探すことにした。

 山道を二人で歩き、崖を降りたり、川辺で休憩したり、一日二人で歩き回って馬鹿みたいな話もして、随分楽しかった。

「悪いな一日付き合わせて」

「いや、俺も退屈だったしいい暇つぶしになったさ」

 日が暮れる前に返すために今日の分の食料を取りにいつもの場所へ向かった。その途中思いついたようにこいつは俺の手を掴んだ。

「そうだ、今度の村の祭。お前も来いよ」

 きらきらガキみたいに目を輝かせているのを見て、ほんの一瞬いいぜと返事をしかけた。何を馬鹿なことをと我に返って首を振った。

「そういうのは性にあわねえんだよ」

「いいだろたまには。お前も山下りてよー…」

「大体野郎二人で祭回ってむさくるしいだろ」

「確かに」

 それもそうだという表情を素で浮かべるそいつについ笑ってしまう。どうやら上手く断れたようだ。

 日も傾いてきて急がないと日が暮れるぞと背を叩いて、二人で急ぎ足でいつもの場所に向かう途中、開けた岩場でいきまりそいつが足を止めるものだから、視線を追うよう顔を上げた。


 赤。


 強烈に目を焼くばかりに染め上がった空。一刻と待たずに青く黒く落ちるだなんて微塵も感じさせないただただ煌々とした、赤。

 もう何百年とこの山に住み、こんなものは毎日見ている風景のはずだというのに、喉を潤す血の赤黒さより鮮烈な色だった。

 ふと振り返った逆光の中のそいつの表情を見て、一つ悟った。

 俺はこいつが好きだ。

 いい匂いがする、助けられた、約束を守る、いい奴。そんな理屈じゃ説明出来ない。ただ、一緒にいると楽しくて楽しくて、周囲が輝く。

 しかしそれに見入り立ち尽くし徐々に空が青くなって我に返った頃には見ていた通り日が暮れ始めてしまい、少しの山菜や木の実だけであいつは山を駆け下りていった。

 なあ、人間みたいなことを言うが、お前と俺は、ユウジンと、いうやつなんだろうか。


 ──と、あいつが来る前に仕留めた旅人の死体を貪りながら、そんなありえもしないことを考えた。


 人を喰う化け物。

 牛鬼と呼ばれているそうだ。

 鬼ともまた違う鬼畜生。

 ヒトは、餌だ。



 あれからしばらく、あいつは来ない。

 騒がしさに慣れてしまったせいか馴染み深いはずの静けさは少し──なんて、らしくないことを考えていると、草木を掻き分ける音がした。

 そちらを向けば木漏れ日のなかあいつが立っていた。

「…よっ」

 手を振って歯を見せ笑うと少し間を置いてから同じように笑い返してあいつも片手を上げた。

「今回は随分遅かったじゃねえの」

「なんだよ待ってたのかよ、俺だって忙しいんだぜ?」

 けらけらと笑って茶化しあいながら自然な流れで隣を歩いていつもの場所に向かった。

「そういやさあ、お前って普段、どの辺住んでんだ?」

 何気ない口調で俺に質問を投げかけてくるそいつに内心少しびびった。嘘は得意じゃない、素直に答えた方がボロも出ないだろうし、想定出来ていた質問だ。

「寝床にくらいしか使ってねえけど…滝壺のそばの洞窟が一番それっぽいか」

「洞窟…? へえ…」

 ふと一瞬そいつの表情が曇った気がしてそちらを見たがいつも通りの顔だった。

「じゃあ俺も一つ尋ねていいか?」

 別に公平性を求めたわけでもないがなんとなくそう口から出た。

「お前名前、なんつーんだ?」

 きょとんとした顔でそういえばと言って、またそいつは笑った。まさか名乗らずこうも関係が続いているとは思わなかったらしい。俺だってまさか人間と会話を楽しむ日が来るとは思ってなかった。まあいいぜとそいつは続けた

「俺の名前は──」


 今日も山の中あちこち居るはずもない村人の捜索に付き合い、気付いた時にはもう日は傾いていて、木々の奥に赤い陽が輝いていた。

 じゃあな、と手を振り降りてくあいつの表情は見えない。小さく口の中で名前を呼ぶとなんとなく妙な胸騒ぎのような落ち着かない感じがあった。

 不安のようなそれは今までにない高揚を交えていて、ひどく温かいものだった。








夜、喉元に刃を突きつけられるまでは。



「なんの真似だ、──」

「二つ、答えてくれ」

 いつもの洞窟で獣の皮で作った寝床に横たわっているところに突然こいつは現れた。本気を出せばものの一瞬でカタがつく。だが、嗚呼、俺はこいつを殺したくない。加減が出来てもやりかえせば確実に俺はこいつに──


「お前、本当に人間なのか」

 正体がばれてしまう。

 

 目を見開いた俺の反応を肯定と取ったのか喉元を掻き切ろうとする手に力がこもる。


「…よく考えたらおかしな話だよな、こんな山奥に一人きりで人間が暮らすなんてよ」


 滝の音にかき消されそうなそいつの声は震えていた。手首を掴んでいた力がつい弱くなる。

「………俺の妹、嫁に出たって話したろ?」

 薄暗く、一寸先すら朧げな洞窟でそいつの表情は読み取れない。ただ震えた声だけが伝わる。

 嫌なものが声に乗って俺の周りを靄のように這ってくる。

「…答えろ。隣の夫婦を、俺の、妹とその旦那を…………お前は、殺したのか?」

「──嗚呼…」

 応える気があったわけでも相手に放ったわけでもないが、口からそう漏れた。嗚呼そうか、あの女はお前の妹だったのか。知らなかった。ただそれを言ったところで事実は変わらない。

 カツンと音がする。

 隣を見れば滝越しの憐れなほど薄っすらとした月明かりに光る短刀が落ちていた。

 

「…なんで…」

 

 ぽたりと頬に冷たい何かが落ちてきた。

「…なんでッ、騙した、!」

 遮るように叫ばれた言葉に水面に石が投ぜられたかのように胸がずきりと痛んだ。

「なんで、なんで俺を喰わねえで、俺に嘘ついて、騙して…友達だと、」

 俺だって、そう開きかけた口を無理矢理閉じた。あんな脆い刃など取るに足りない凶器だったというのに、目の前の口の紡ぐ言葉の方が俺には遥かに恐ろしい。


 すまなかった。そんなつもりじゃなかった。


 そう口にしようとしても今の俺の言葉は俺の爪と同じようにお前を傷付けるだろう、そう思って触れることすら出来ない。ただ一言──ただ、一言、それすら。


 俺の無言をどう取ったかはわからない。嘲りか白けか、或いは化物に人の言葉が通じないと思ったのかもしれない。

 刀が拾われる。


「…俺は、お前に確かに色々恩がある。お前のもとへ通う間、すごく楽しかった。妹がいなくなったとき俺の為に一日探してくれたお前を、人として尊敬して、こいつこそ親友と呼んでいいんじゃねえかとも思った。あの場所で、妹のかんざしを見つけるまで」

「…それでか」

「…その前から村の年寄り共に言われてたんだ。あの山にいるのは魑魅魍魎の類だって」

 それでも信じ続けてたのはお前が上手だったのか、俺が馬鹿だったのか、そう自嘲するよう笑って、かぶりを振って抵抗しない俺に、あいつは震えたながら──握り締めた刀を振り下ろした。



目を閉じる間際、俺の元を離れていくあいつが目に映った。動かない俺を見てやり直せるなら、と呟いた。


「あの日、あの場所で、お前を助けなければよかった」

 

滝越しに月に照らされ笑いながら泣くあいつは――とても綺麗だった。

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