人で無しなりの何か。
冬海
起
「…何してたんだっけか」
手のひらにこびりついた赤黒い泥を見下ろして、つぶやいた声で意識を取り戻した。
やけに暑いと思ったらちょうど日が沈むところだった。
赤いな。
なんだか体が軽いと思ったら、脚が足りないようだった。
少ないな。
べきべきと音を立てて脚を生やすとようやく落ち着いた気がした。
腹減ったな。
この血は食欲が湧かないなと服で拭おうとして、服も顔も同じ血で汚れているのに気付いた。
参ったな。
流さなければ不愉快だと思い、歩き出そうとしたが、ここに来てやっと思い出した。
何も思い出せないことを思い出した。
この場所も、住処も、ここにいる理由も、今まで何をしていたかも。
ただ、腹が減ったと感じた。
どこかで調達しなければ。
脚を引き摺り、持ち上げるのと同時に、かつんと何かがつま先にぶつかった。
「?」
落ちている骨を拾い上げる。
これは誰であったか。
夜の帳が下りる平野で、落ちていく日に目をやった。
***
随分遠い、昔のはなし。
「お前すげえ料理上手いんだな」
「握り飯くらいで大袈裟だろ」
ある夏の昼下がり。
山奥で俺は死にかけていた。空腹で。
人間なんか誰一人来やしないし、このまま野垂れ死んで乾涸びるもんかと思っていたが、存外天は味方してくれたらしい。
ガサガサと草を掻き分ける音がした時は熊でも来たのかと思ったが、出てきたのは麓の人間らしいこの男。今食ってるこの握り飯と干し柿を持っていて、それを分けてくれた。
というか全部くれた。
「あー、食った食った。美味かった」
手を合わせて男に礼を言うと、いい食べっぷりしてんなあ、と目の前の男は何がおかしいのかげらげら笑っていた。随分肌が焼けてるし多分農夫か漁師か、まあ普通の人間だろう。
「でもこんなところでぶったおれてどうしたんだ?里じゃ見ない顔だが…」
「ん?嗚呼、俺はこの山に住んでんだよ」
此処に?と不思議そうな顔をする男にお前こそこんな山奥でどうしたと返した。
滅多に人の来ない山だし、本当に奇跡的な登場の仕方だった男だ、こっちこそ不思議だ。
「ああ…最近不作でな。なんか食うもんとか売れるもんがねえかと探しててたんだよ。こんな奥まで来るのは初めてだが、まさか人が住んでたとは」
「…お前、不作なのに見ず知らずの奴に弁当渡したのか?」
「おう。俺はまだ動けてたし」
困ってたらお互い様だろと歯を見せ笑う男に開いた口が塞がらない。このご時世こうもお人好しな奴がいるもんなのかと少し驚いた。
最初その気はなかったが、礼もあるから一頻り喋った後ある場所に連れて行った。
連れていったのは住処にしてる場所のすぐ側。
声を漏らす男の視線の先には人が立ち入らないおかげか、水辺のそばだからか、よく育った山菜と果物達。
男は駆け出して感嘆しながら木や山菜を眺めてはずっと凄い凄いと繰り返していた。俺には見飽きた風景だが、多分ここ以外日照りで焦土に近いんだろう。
「すげえなこれ!こんな育ってんの初めて見たぜ」
無邪気に近寄り屈んだところで俺の方を向いてすごく申し訳なさそうに幾つかいいか、と聞く。好きなだけ持ってけ、礼だと言うと逆にこちらに頭を深々下げるもんだから、照れ臭い。
今時こういう奴もいるんだなあと実際に口にしても男はきょとんとして笑っていた。籠いっぱいに山菜と果物を詰めてやると、その男は帰り際にまた礼に弁当を持ってくると笑って言った。久しく人足の途絶えた山の住民としては嬉しいもんだった。
そしてそれから男は数日おきにやってきた。最初は塩むすびだけだったが次第に具が入ったり干し柿が増えたり、山から採っていったものは少しは暮らしの足しになってるらしい。人の作ったものがこうも美味いとは知らなかった。
食材と弁当の交換、そんな俺たちの関係は一つ約束があった。
絶対、他の人間にこの場所を教えてはいけない。
最初突きつけた時訝しむようなら、と思っていたが男は人にも色々事情があるからな、とごく普通に納得してくれた。単純か。
持ち帰った果実の種を植えたら芽が随分早く出た。
新しい具を思いついた。
肥溜めに牛が落ちて大変だった。
里に可愛い女の子がいる。
今度祭がある。
嫁入りした妹が心配。
男が持ってくる他愛もない話は俺にとって随分と新鮮で楽しかった。ここ何年も会話をする相手すらいなかったからこそ余計にそう思う。
ある日男が持ってきた話にはこんな話があった。
──この山には人喰いの化け物が昔から住んでいるらしい。
長年住んでいて見たことあるかと聞かれ、首を振った。
***
一月と少し経った頃、あいつが帰った後で人影を見た。
日が暮れてからは危ないと行ったはずだろうが、そう声をかけようと思ったが様子がおかしい。
あいつより随分背が低い。
ざわりと血が騒ぐ。
滝の落ちる音で足音は聞かれてはいない。山を降りてるあいつに悲鳴も聞こえない。
『食事』は久しくしていない。あいつの弁当で繋いでいてもその度にいやというほど嗅ぐ一番の好物の匂い。
抗いようのない本能が叫ぶ。
『久々の獲物だ。』
水を赤く汚して、骨一つ残さず、そう身も影も全て噛み砕いて、悲鳴も歪んだ顔も飲み込んで。
喰らえ、喰らえ。と。
めきめきと背から音がして、いつもの姿に戻った頃には残った血肉は洗い流され周囲の土の栄養となって、俺の口以外には残っていなかった。
ご無沙汰だった人肉にありつけてこれでしばらくはいらないと思っていたが、人間は次の日もきた。
恐らくあまり外に出ないのだろう。俺が見た時には肩で息をして川辺の石に座って髪を結い直そうとしてかほどいていた。
様子から察するに前日に食べた人間の伴侶らしい。昨日の人間よりも柔らかくいい匂いがした。伴侶の名前なのか男の名を呼びながら絶命した。
あいつは俺を助けてくれたから食うつもりはないが、どうしたって人間を見れば腹は減る。
その日も影から蝕むように頂いた。
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