化粧くずれ

これは新宿のバーで出会ったみゆきさんの話。

30代半ばのきれいな女性だった。


「私ね、怖い体験をしたことがあってお化粧直しができないの」


困ったように笑う彼女の話は、なんだかつながりの見えない、そんな話の始まりだった。


若いころなんて気にしなかったけど、最近は夕方になると化粧の崩れがひどいの。

やっぱり歳かな、なんて思うんだけどあんまり崩れるから友達にも指摘されちゃうのよね。


「やば、みゆき。顎のところ、線みたいに崩れてるわよ」


なんでか毎回同じところが、きれいに線になってファンデーションが剥げていたのよね。

左頬の下側。

いつの間にか剥げていて、こすったかな、なんて思いながら指でぼかすように直していたの。


「男の人にはわかんないかもしれないけど案外、恥ずかしいのよ」


照れながら美幸さんは続ける。


でもね、そんな特徴的な崩れ方をするものだから自分でも気を付けるようにもなって。

あご周りを触らないようにするとか、それこそ最初は頬杖でもついているのかと思って癖を直そうと思っていたの。


でも、頬杖をつくと姿勢が悪くなるでしょ、ずいぶん前から気にして頬杖はつかないようにしていたし結局、何が原因でこの崩れ方をするのかわからなかったの。


だけどある時、原因が分かったの。


その日は久しぶりに同期との飲み会で、酔いが回ったくらいでお手洗いに行ったの。

やっぱり気の合うと同期との飲み会って盛り上がるでしょ?

しゃべるし笑うしよく飲むメンバーだったからもう顔なんで崩れっぱなし。

だからお手洗いに行くついでに化粧も直そうと思ってメイクポーチを持って行ったの。


でも割と古めのチェーンの居酒屋だったからお手洗いなんて古いし暗めなの。

でも鏡を見てふと気づいたの、「あ、今日はあの崩れ方していないのね」って。

そう、あの左あごにつく直線の崩れ、他の部分なんてひどいものだったけどね。


それで、ちょっと化粧直しをしていて、でも酔ってふわふわしながらだったから細かい部分なんで直せないしで。

なんとなくって感じでやってたのね。

鏡なんてろくに見ないでやってたかもしれない。


その時、あごのあたりがひんやりしたの。

驚いて、ぱっと鏡を見たら動けなくなっちゃった。

いつもの顎のあたりにね、手のひらがあるの。

血の気のない青っぽい、灰色みたいな手のひらが顔の輪郭に沿うようにぴったりくっついていたの。


本当に背筋が凍る感覚ってあの時に知ったの。

それと同時に店内のがやがやした音が全部遠くに感じた。

本当に怖かったんだから。



そのまま動けなくてかたまっていたらその手が静かに後ろに下がっていったの。

そしたら店の音も戻ってきて、変な感じもなくなった。

酔いなんて醒めちゃって、恐る恐る後ろも見たけど何もいないの。


気のせいだったかも、酔っぱらいすぎたかもって思って正面に向き直ったときに倒れそうになっちゃった。

だって、ついてるの。いつもの化粧くずれが。手のあったところに沿ってファンデーションが剥げてた。


ああ、これが原因なんだって思うと同時にぞっとした。

だってそうだとしたら私、前からこの手が近くにいたんだ、って。


それから暗い場所で鏡を見れなくなったし、化粧直しなんてとてもじゃないけどできなくなったの。


おかしな話でしょ、と笑うみゆきさんの頬には今日も特徴的な化粧くずれの線が入っている。

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