タイムロス
この春の引っ越しに対して希望めいたものがあるかと問われれば、けっしてそんなことはなかった。
妹の学校でのネガティブな事情が転居の理由にあったし、住まいのグレードが上がるようなものでもなかったからだ。
むしろ下がったといっていい。
以前に僕たち家族が住んでいたのはマンションだったのだが、そこから外見も中身もより古くさい市内の別のマンションに引っ越しただけだった。
立地が悪く、空室もだいぶあるみたいだ。
「ねえ、あの子こっちの学校ならうまくやれるかな? ちゃんと登校してくれるといいんだけど……」
朝。
通学用のデイパックを背負って自室から出てきたところで、母がそう聞いてきた。
僕は玄関でスニーカーを履きながら答える。
「どうだろ。いってみないとわかんないから」
「え? なんか冷たくない? お兄ちゃんからも応援の言葉かけてあげてよ」
「今日の初登校には母さんがついていくんだろ? それで十分心強いと思うけど」
「ダメよ。あの子にもっとパワーあげなきゃ。ほら、靴脱いで部屋いってあげて」
母が妹のことになると過保護になるのは昔からだ。
僕はため息まじりに振り返った。
「こっちは朝の時間に余裕がなくなったんだからさ、勘弁してよ。大丈夫、みんなと仲良しになれるって。そう伝えといて」
じゃあ、と僕は会話を切り上げるように玄関を出た。
エレベーターの前まできて、▽ボタンを押して呼ぶ。
待つあいだで思う。
たしかにさきほどは兄としてよくない対応だったかもしれない。
しかし今回の引っ越しにあたって、僕は高校を変えずに済んだものの、通学時間が大幅に伸びてしまったことに苛立ちを隠せないでいた。
エレベーターが昇ってきた。
中に入って一階を押す。
そこで僕は靴紐がゆるんでいることに気づき、結び直そうとかがんだ。
……すると、少ししてエレベーターが止まる気配があった。
誰かが乗ってくると思い、立ち上がる。
ところが、開いたエレベーターの前には誰も立っていなかった。
(あー)
これはマンション住まいだと間々あることだ。
前のところでも経験した。というか僕もやってしまったことがある。
エレベーターを呼んだはいいものの、待っているあいだに忘れ物か何かに気づいて部屋に戻る。すると場所を外しているうちにエレベーターがやってきてしまい、意味もなく開く。そして人が先に乗っていた場合なんかは、その人が微妙なタイムロスを
いわゆる『マンションあるある』というやつだ。
壁にかかっている表示板は四階。
きっと、この階の誰かがやってしまったのだろう。
(まあ、別に待つこともないよな)
僕はエレベーターを閉じた。
再び動き出した箱は一階にたどり着く。
扉が開くと、新聞の朝刊を抱えたおばさんがいた。待っていたようだ。
「おはようございます」
そういって入れ替わる際、見慣れないような不思議そうな顔をされたので、僕はとりあえず付け足しておくことした。
「八階に引っ越してきたサイトウです。よろしくお願いします」
おばさんは会釈を返してきたが、表情は変わらなかった。
それから数日が経ち、僕は新しい住まいに慣れはじめていた。
しかし、長くなってしまった通学時間に対してはあいかわらず苛立っていた。
朝、エレベーターを呼んで一階へ。
降りていく階数表示を眺めていると、四階で止まった。
(……少しドジな人なのかもな)
また誰も待っていなかった。
短期間で二回。
家を出る時間が被る、おそらく同一人物。
どうやら忘れ物の多い性質のようだ。
僕は鼻から息を逃がし、エレベーターを閉じた。
世の中にはいろんな人がいるからしかたない。妹みたいに集団生活が苦手な存在もそれらの一種だ。だから、ことさらどうこう考えるのはやめておこう——。
そんなふうに思いながら。
しかし。
そのとき鼻から逃がした息は、しだいに深いため息へと変わっていった。
(……またかよ)
あまりにも四階の誰かが忘れ物をする回数が多すぎるのだ。
呼んだくせに、いない。
急いで出てくる気配もない。
エレベーターが止まり、無意味に扉が開かれて、それを閉じなければならない。
ただでさえ億劫な通学時間に押しつけられる、微妙なタイムロス。
それが積み重なる。
ほとんど毎日繰り返すようになってくると、僕が抱えていた苛立ちは静かな怒りへと姿を変えていった。
ある日の夜中だった。
玄関でスニーカーを履いていると、母が気づいて寄ってきた。
「もう十時過ぎてるけど、どこいくの?」
「コンビニ。アイス買ってくる」
「えっ? じゃあ、みんなの分も買ってきてよ。お金出してあげるから」
「ん。わかった」
「ちょっと待ってて。何が食べたいか聞いてくる」
「ラインで送っといて」
そういい残して、僕は家を出る。
時間も時間なので、共同廊下は消灯されていた。
エレベーターを呼んで一階へ降りる。
その途中だった。
下降の感覚が緩んで、僕はスマートフォンから顔を上げた。
エレベーターが開く。
壁の表示板は四階。
そして、そこには誰もいなかった。
僕はカッとなった。
もう我慢の限界だ。
朝だけでなく、こんな時間にも被せてくるなんて。
ここまでくると嫌がらせにしか思えない。
「あのっ、迷惑なんですけどっ」
僕は扉を手で押さえつつ、エレベーターから身を乗り出していった。
「いつもこうやってエレベーター呼んでおいていないじゃないですかっ。もうこういうのやめてくださいっ。どういう神経してるんですかっ」
無音。
それが隠れて笑っている声のように感じ、さらに頭に血が上った。
「何してんだよっ。乗るなら早くしろよっ」
ぎぃ——と音がした。
見れば、少し先の部屋のドアに隙間が生まれていた。
やっと出てくるらしい。
直接文句をいってやろうと思い、僕はそちらをにらみつけた。
ぎぃ————と悲鳴を引き延ばしながら、ドアは開いていく。
「…………」
僕は真っ暗な戸口をじっと見つめた。
見つめて。
見つめて。
そして。
逆方向にある階段へと走った。
全速力で階段を駆け上り、自宅に転がり込む。
「どうしたの? 忘れ物?」
驚いたように聞いてくる母にむかって、僕は首を横に振った。
「アイス、いらない」
マンションの管理人と話す機会があったのは、翌日のことだ。
「ああ、サイトウさんの息子さん、こんにちは」
「……こんにちは」
「どうですか? ここにはもう慣れましたか?」
「……あの」
「うん?」
「四階に住んでる人って……——」
そこまでいって、僕は尋ねるのをやめた。
管理人が不思議そうな顔をしていたからだった。
〈タイムロス・終わり〉
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