第9話 未来の彼氏



「え、か、カナエ…病院ってここ?」



「そうだよ警察病院」


 性病検査って聞いてたから、私がよく行くようなビルの一室にあるレディースクリニックかと思った。マジか。こんなゴリゴリな名前の病院で性病検査。考えすぎかもしれないけど、なんか建物も殺伐としている気がする。


 私はサングラスを外して駐車場から警察病院の建物を見つめた。


「未来ちゃん、なにボーと立っているの早く!」とカナエは私の手を引っ張った。勢いが良く引っ張っられたから私は前屈みになった。その時、私の太ももにカナエの水色のワンピースの裾が風に煽られて当たった。


「カナエ…そのワンピース似合ってるよ」


「別に可愛いから選んだわけじゃないから」と少し意地を張ったように言った。知ってる。そうだよね。あの椅子に座らされるの私も好きじゃない。10年前かな、風俗始めたてのときズボンで病院行って後悔したもん。


 警察病院の内観はよくある総合病院と同じだった。子供は怪我で、年寄りは定期検診で…と言うような感じだった。だからこそなのか、見た目だけは元気そうなカナエは少し浮いていた。


 「あー嫌だな…」とカナエは小声で何度も言った。15分くらいそんな様子だった。回転数が高いのか、カナエはすぐに看護師に呼ばれた。


「じゃあ行ってらっしゃい」と私が言ったら、「ダメ!中まで付いてきてよ!」とカナエは耳を赤くして怒った。


 看護師が診察室を開けて私たちは中に入った。医者はパソコンの方に集中しているが我々が入ってきたのには気づいているようで「あーちょっと待ってください」と小声で言った。どこか聞き覚えのある声だった。医者の隣にいた看護師も「ちょっと待っててね」とジェスチャーで伝えてきた。


 1分ほど医者はパソコンで何かを打ち込んでいた。私はその時間で医者の顔を真剣に覗き込んだ。カナエと顔がそっくりなことを突っ込まれないようにかけてきた変装用のサングラスを下にずらし裸眼で真剣に見た。マスクしてるから自信ないけど、あれ…コイツ…。


 私の疑問が確信に変わる前に、医者はこちらの方を見た。「すみません、おまたせ…」と医者は言いかけて私の方を見た。私は焦ってサングラスを所定の位置に戻した。医者は「え…」と言って5秒ほど私を見つめた。



 やばい。間違いない。


 コイツ…元カレだ。




 「海野さん…あれから調子はどうですか?」


良かった。話しかけられなかった。もしかして気づかれていない。


 医者の問いかけにカナエは「普通です。もう何も痛くないです」とぽそっと言った。


 「そっか、ごめんなさい。それでも傷跡はどうなったか確認させてください」と医者は優しい口調で言った。


 カナエは泣きそうな顔で内診台に座った。女の看護師さんがカーテンをかけ、医者と看護師の姿見えなくなった。医者が「お連れの方、良ければ海野さんの手を握ってあげてください」と言った。


 私は医者の言葉には何も返さず、カナエの手を握った。カナエは声を殺して泣いていた。このカナエの痛みは理解したくても理解できないし、理解しちゃいけない何かだと思った。カーテンの向こう側で医者は何も言葉を発さなかった。


 カナエの手からは、私の手が折れそうなほどの強い力で握られたり、はたまた、手を握っているのか分からなくなるくらい軽く握ったり、震えたり、カナエの小さな手からは言葉では表せない何かが伝わってきた。


 検査が終わり、私たちは再び診察室に戻った。カナエの表情は一層暗くなった。


「前よりも良くなっていました。来週来てもらったら終わると思いますよ」と医者は優しい口調で言った。カナエは黙って頷いた。


 「すみません。ここからはプライベートの話になるんですが…」と医者は急に明るい口調に変えて言った。あまりの変わりっぷりにカナエは思わず顔を上げてしまった。


「海野さん、そちらの方はどなたでしょうか?」


クソ、やっぱりコイツ根は変わってない。医者はニヤニヤとこちらを向いている。


「え、え!」とカナエはこのタイミングで予想打にしない質問が来たからテンパってしまった。


「と、と!友達です!!未来ちゃんとは!!」


「未来ちゃん?お連れの方の名前?」


あー馬鹿。名前を出すな。私は何も言わず、医者に向かってぺこっと軽く頭を下げた。声を出したらバレる。これ以上、場を混沌とさせたくない。


 私はカナエの耳元で「あの人、私の元カレだから余計なこと話さないで。さっさと帰るよ」と小声で囁いた。


 元カレと半径2メートルの空間にいることほど地獄なものはない。しかし…私はこの場から抜け出したいあまり、大事な設定を忘れていた。


 カナエは私の耳打ちを聞いた後に、腰を抜かして椅子から転げ落ちた。


「未来ちゃんの元カレってことは…え、わ、わたし…未来でこのお医者さんと付き合わなきゃいけないの!!」と隣の診察にも聞こえてしまいそうな声でカナエは叫んだ。


 自分のとんでもない失言に気づいた私は全身から悪寒が走った。内臓たちが急に元気になった。


そうだ、私はカナエの10年後という設定だった。私の元カレと言ったら、それはカナエの未来の彼氏であると言うものだった。


 「えぇ、なに!なに!え、海野さんとぼく付き合うの!?未来で!?なんで?」


 当たり前だが、元カレである医者もパニックになっていた。このカオスな状況を抜け出すには自分が何か策を考えなければ行けないのは明白だ。自分がついた嘘は自分で処理しなきゃ行けない。

 

 私は足りない頭で懸命にぐるぐる次の手を考えた。時計の針の音が急に聞こえ始めた。


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