第5話

 悩みはするけど、長時間悩むようなことじゃない。

 そりゃ時間が許すのならばだらだら悩んで、絶対にこっちが正しいって答えを導き出したいところだが、時間とは有限である。そこまで時間を費やす価値がこれにはあるかと問われれば「ない」って断言できる。即。

 だからもう考えることはやめた。


 「えぇーいっ! こっちだ、こっち!」


 思考と呼ぶにふさわしいかすら怪しいような思考を殴り捨てて、私は自分の家の扉を開ける。某格付け番組の答え合わせのように勢い良く。


 そのまま靴を乱雑に脱いで、リビングに向かう。その途中で洗面所とぶつかる。洗面所の扉は開いていた。そこからお風呂場で発生しているであろうシャワー音が響いてきている。ジャーっと。

 今、一つ壁を隔てた向こう側ではさゆちゃんがシャワーを浴びている。推しがシャワーを浴びている。

 意識するなってのはちょっと無理な話だ。

 別にこれが初めてではない。何度経験してもどうも意識してしまう。

 こればっかりはしょうがないと割り切るしかないか。オタクとしての宿命であると。

 え? そもそもオタクは推しが壁一つ隔てた向こう側でシャワーを浴びているというシチュエーションに立ち会わないって? そういう正論は聞きたくない。

 とりあえずそっと洗面所の扉を閉めておいた。

 私の心臓と精神がもたないから。でも思ったより興奮していないな、とどこか冷静さは私の中にあった。



 リビングでだらだらと寛ぐ。リラックスできている。

 誘う土壌はできた。あとは誘うだけ。そう思ったらうんと気が楽になっていた。そもそもなににそんな緊張していたのか。謎である。

 断られるのが怖かったのだろうか。自問自答してみるが、はっきりとした返答はない。


 あー、いや違う。わかった。

 浮気だなんだって言われるのが面倒くさくて億劫で嫌だなぁって思っていたから緊張していたんだ。でもって、もう私自身逃げられない状況に追い込まれたから腹を括ることができた。それだけの話だった。難しく考えすぎていた。


 答えが出てすっきりした。満足感に心が満たされる。そしてニヤニヤしていると、シャワーの音は鳴り止む。それと同時にお風呂場の扉が開く音が聞こえた。

 私は洗面所の扉を凝視する。

 出てきたらすぐに誘ってやる。

 そういう意気込みでじーっと。


 お風呂場の扉が開く音が聞こえてから、数秒もしないうちに洗面所の扉は開かれる。

 早くね、いや早いよな。早すぎる。

 髪の毛を乾かしていないとはいえ早すぎる。長い髪の毛を拭いて、身体を拭いて、下着を身につけ、服を着る。それだけのことをこの短時間で行えたとは思えない。少なくとも私にはできないからだ。

 いや、でも……アイドルのさゆちゃんならそういうこともできちゃうのかな。アイドルって早着替えとか常日頃からやってるんだろうし。ある意味職業病と言えるのかもしれない。

 そういうある種の期待は簡単に裏切られてしまった。


 私の視界にはスベスベな肌が飛び込んできた。

 そう。さゆちゃんは一糸まとわぬ姿をしていたのだ。すっぽんぽんってやつだ。


 「だ か ら! アイドルが裸になるな!」


 アイドルとしてあるまじき姿である。

 私は思わず叫んでしまった。

 興奮とかしないあたり成長したなぁと思う。いや、前も似たような反応してたな。そういや。

 

 「アイドルだって裸になるし、トイレだってするよ」

 「知ってるよ。んなもん」

 「知ってるなら良いじゃん! 裸になったって」

 「いや、ファンの前で裸になんなって言ってんの」

 「ほんと河合さんは文句ばっか言って……」

 「ふぅん。わかった。星空未来呼んでくるけど。怒られたい?」

 「……服着るからちょっと待って」


 思っていたよりも星空未来効果は絶大だった。間髪入れる間もなく、洗面所の扉を閉めて、服を着て出てくる。

 なるほど。

 さゆちゃんは星空未来が弱点なのか。いや、星空未来というよりもそれ経由で日野灯に話が飛んでいくのを恐れているのかな。実際どうなのかは知ったこっちゃないが、その方がしっくりくる。


 「じゃじゃーん! パジャマー」


 姿を見せたさゆちゃんはバジャマパジャマしている服を身に纏っていた。絵に書いたようなパジャマである。生地とか、色合いとか。諸々含めて。本当にパジャマ。パジャマでしかない。本人がパジャマって言ってるし、パジャマなんだろうけど。


 「ハイハイ可愛い、可愛い。可愛いね。めっちゃ可愛いよ」


 こちとら色々覚悟して、待っていたのだ。

 空気を乱されることに対して多少の苛立ちくらい覚えたって許して欲しい。むしろこうやって大人な反応を見せていることを褒めて欲しいくらいだ。


 「酷くない? 思ってないでしょ」

 「思ってるし、推しが着る服はどんだけダサくても可愛く見えるもんだから」

 「それ、褒めてる?」

 「褒めてるよ。褒めてる」

 「ほんとに?」


 うんうんと頷く。

 推しが着たらたとえどれだけダサい服でも可愛く見える。やっぱりファッションってなにを着るかじゃなくて、誰が着るかだよね。と、パジャマ姿のさゆちゃんを見て思う。


 「……それよりも。私今週、ファーストってガールズバンドのライブに行くんだけど」

 「えっ!? 浮気?」


 綺麗に私の予想していた反応をしてくれる。

 ここまで鮮やかにしてくれると、面倒臭いという感情よりも、綺麗だなぁという他人事のような感想が真っ先に顔を出す。


 「浮気だったらここで呑気にさゆちゃんと話してないでしょ」

 「……たしかに」

 「私が好きなのはさゆちゃんだけだよぉー! ねぇー。はい。これで満足?」

 「投げやりなのは癪だけど」

 「注文の多いアイドルだね」

 「ファンにそんな文句言われるとは思ってもみなかった……」


 それはこっちのセリフだ。推しが私をストーキングするなんて微塵も思わなかった。もちろん言わないけど。


 「話の続きして良い?」

 「あっ、ごめん」


 さゆちゃんは素直に謝る。

 うん。言い訳を一切せずに素直に謝れる。それはさゆちゃんの良いところだと思う。


 「ファーストっていうガールズバンドのライブ行かないかって、長谷川に誘われたから行こうかなって思うんだけど、さゆちゃんもどう?」

 「長谷川? 誰だっけ」

 「ほら、さゆちゃんが私の大学に着いてきた時に会ったでしょ」

 「あー! あの金髪の」

 「そう。アレ」


 勢いでアレ呼ばわりしてしまったけど、まぁここに本人いないし良しとしよう。


 「でもなんでファースト?」

 「ALIVEの対バン相手だからだよ。偵察がてら一緒に行かないかって誘われたの」


 そんなこと言われてないが。まぁ一々説明するのも面倒なので、そういうことにしておく。概ね間違っているわけでもないし。


 「なるほど……ってか、もう情報出てるんだ」

 「いや、ALIVEの運営が情報出すの遅いだけだよ。再来週対バンなのに、まだまともに情報出してないのおかしいからね」


 とはいえいつものことだ。

 今更どうにかしろと言うわけでもない。というか、どうにかできるのならもうしているはずだし。


 「で、どう?」

 「一緒に行くかどうか、だよね」

 「そう。一応さゆちゃん対バン相手なわけだし、顔割れてるかもしれないでしょ。見つかったら色々面倒なことにならない? サイン求められたり、さ」

 「大丈夫だと思うよ。多分」


 多分ってつけられると一気に不安になる。

 でも運営に止められるとか、そういう心配はなさそう。


 「じゃあ行く?」

 「行くに決まってんじゃん! 河合さんが浮気しないように監視しなきゃ」

 「……そ、そう」


 でもさゆちゃんいつもスマホで監視してるじゃん。って思ったけど言わない。

 自重できたの偉いなって思う。

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