第8話
起きる。気怠さを払拭するように大きな欠伸をする。それからゆっくりと上体を起こす。
ぐーっと背を伸ばし、息を吸う。二度寝しようかな。しちゃいたいな。そういう思考を遮るように、お味噌汁の健康的かつ家庭的な香りが私の鼻腔を擽った。
朝起きたらお味噌汁の香りが広がっている。一人暮らしの私にとってとんでもなく幸せな一時である。寝起きで機嫌が悪かったのはほんの一瞬だけで、あとはテンションがうなぎ登りになる。
ハルヒを家に招く。深く考えずにやったことだった。だからか、色々とドタバタして大変だったけれど、その分忙しさとか大変さとかすべて忘れさせてくれるほどのプラスな感情が私を包み込んでいた。
ベットから身をおろし、とてとてとリビングもといキッチンへと向かった。
キッチンからはコンロに火をつけている音が聞こえてくる。
家庭的な音だ。なんだか久しぶりに聞いた。コンロなんて久しく使っていなかったから。
……こうやって自身を見つめ返せば見つめ返すほど己のダメ人間っぷりが際立つ。最悪だ。悲しい。私はダメな人間だ、と自己嫌悪に陥る。そしてそんなこと思うなんてダメな人間だとか考え始める。まさに悪循環。でもその循環の中にもやっぱりこの家庭的な音と匂いは私に癒しを与えてくれる。まぁ要するに悪循環に陥りつつも、心は穏やかであると言いたい。
「おはよう。健康的な朝ごはんなんていつぶり……だろう……って……え、えぇ……」
言葉は袋小路に入ってしまったかのように勢いを失う。同時に思考もまともに働かなくなる。寝ぼけているのだろう。目の前に見える環境がどうも現実として受け入れられなかった。これもしかして夢じゃない? 多分夢。というか絶対に夢。そう判断して、目を擦る。そして頬をむにむにと触り、んー、と声を出して、再度嘘のような存在に目を向けた。キッチンに立っている人物はやはりハルヒではなかった。なんならハルヒはソファに座って頬杖を突きつまらなさそうにキッチンを眺めている。チラッと私のことを見て、なにこれ説明してよと言いたげな様子だ。もっとも説明して欲しいのは私も同じである。
眉間に皺を寄せ、軽く首を傾げる。そして視線をキッチンへと戻す。
キッチンで我関せずと見向きもせずに、せこせこと味噌汁を焦がさないように掻き混ぜている。
このなんとも言い難い空気感に気付いていないのか、それとも気付いていないふりをしているのか。彼女なら前者もありえるかもと思う。
「……えーっと、さゆちゃん、なにしてんの。いや……マジで。なにしてんのほんとに」
なぜかキッチンに私の推しが立っていた。しかも朝から、味噌汁を作っている。申し訳ないが、私の理解の範疇を超えてしまっている。
わけわかんないし、わけわかんないし、それにわけわかんない。
ハルヒに隣にさゆちゃんが住んでいることはもう既にバレている……が、交流があることは明かしていない。だから私の家に来るのはまずい。アイドルがファンと繋がりがあるとか、第三者にバレるのは本当にまずい。さゆちゃんだってアイドルなわけだし、その辺はしっかりと頭に入れているはずなんだけど……。わかってないなんてことはないよね?
「味噌汁で対抗しようかと……」
「は? 凄いね。一ミリも納得できなかったよ」
せっかく説明の言葉を返してもらったのに、それでもなお全くわからない。
こっちは焦っているのに、さゆちゃんは呑気なセリフを口にするだけ。こうも飄々とされると焦っている私がおかしいのかなと思ってしまう。おかしくない……はず。
……というかなんで今更になって味噌汁なのか。うどんを振舞ってくれた仲だというのに。
とりあえず深呼吸をして、動揺した心を落ち着かせた。それからハルヒの隣へと行く。
「なんでさゆちゃんがまききんの家に入ってきてるわけ? ごめんだけど、意味がわからない」
ハルヒは今がチャンスと私に耳打ちしてくる。説明を求められた。そりゃそうだ。私がハルヒの立場なら同じように説明を求める。というか、ここまで平然としていられるのさえ凄いなと思う。私だったらきっと叫んだりしそうだ。少なくとも家主を起こしには行く。起きるのを待つという判断をしたハルヒの胆力はたいしたもんだと感心した。
「知らないよ。私が知りたい」
気持ちがわかるからこそ、答えを教えてあげたかったのだが、生憎私も答えを知らないのだ。残念だが仕方ない。知らんもんは知らん。単純な話である。
「いくらなんでも度が過ぎてるでしょ。相手がオタクとはいえ」
「昨日部屋を覗こうとか言ってた人のセリフとは思えないけど」
「それはそれ、これはこれ。私は未遂。こっちはただの犯罪者」
「まぁそれはそうなんだけどさ」
こそこそと会話を続ける。
紆余曲折を経た結果、私は犯罪者というレッテルをさゆちゃんに貼っていないが、傍から見ればこれはただの犯罪だ。許可なく家に忍び込む……というか忍び込んではいないな。ずかずかと上がり込む。どっちにしろ犯罪なのに変わりはない。流されそうになったけど、ハルヒの未遂も立派な犯罪では? いや、企てているだけだからセーフなのかな。どこからラインを超えることになるのかわかんない。
「お隣さんが味噌汁を作りに来ることくらい普通だと思うけど」
一応アイドルモードのクールキャラで突き通そうとしているらしい。こんなことしている時点でもう無理なような気がするのだが。ってか普通に無理だろ。人に家へ勝手に上がるような人間がクールなわけないのよ。でも本人がその気であるのなら、私からとやかく言うのはやめておこう。ただでさえ混沌としているこの空気をさらに乱してしまう可能性がある。
あとお隣さんが味噌汁を作りに来るってのは普通じゃないと思う。まるで定番みたいに言われても困る。
「ふぅん……そういうものなんだ……」
と、ハルヒは納得していた。それで良いのか。
「君も飲んでく? 私の味噌汁。えーっと、みぃちゃんオタの女の子」
「……!」
ハルヒは突然目を輝かせた。それから私の肩をグッと掴む。
なんだよ。痛いよ。乱暴過ぎるよ。
「なに」
「推しのグループメンバーに認知されてんだけど」
「あー、そう。うん、良かったねー。おめでとう」
適当な返事をする。いやハルヒは星空未来にも認知されているだろう。なのにわざわざ推しじゃないメンバーからの認知で喜ぶって……どうなんだとか思ってしまった。認知されてるかは知らんけど。
「はいはーい。私、ハルヒって言います。さゆちゃんの味噌汁飲みたいなー!」
私の投げやりな反応には一切触れなかった。無視しているのか、それともそれに気付かないほどに興奮しているのか。
さっきの一言で完全にテンションが上がったハルヒはそんなことを言い出す。若干コールっぽいのはわざとなのだろうか。
「わかった。良いよ」
「やったね」
もう好きにしてくれ。私は欠伸をしながらそう思った。てか、若干仲良くなってない? 気のせい? 気のせい……だよね?
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