第3話
ついに私の推しがやりやがった。
思わず頭を抱えてしまう。絵に描いたような頭の抱え方だ。傍から見れば面白い光景かもしれないが、当事者としては笑えない。
流石に身の危険を感じる。
なに考えてるのかとか、なにするつもりなのかとか、怖くなる。
と、思ったが良く考えみればストーカーされている時点で身の危険を感じていたので、今更であった。
ストーキングをして私の家を特定した時も、家に上がり込んでいる時も、決して私に危害を加えることはなかった。危害というのは怪我とか性犯罪とか、ね。恐怖の感情を与えてしまっている時点で全く危害がないとは言えないけど。外面的にはなにも危害を加えていないと言える。
だから今回も多分大丈夫だろう……という楽観的な思考がある。そう考えていないとやってられないってのが本音ではあるが。まぁ良いでしょ。
「これで河合さんと一緒に居られるね。私、嬉しい」
我が物顔で居座る私の推し新垣紗優ことさゆちゃんは、食器棚からコップを取りだし、冷蔵庫の中にある麦茶を勝手に注いでいる。それを呷って、彼女は微笑む。
本来推しに言われて嬉しいことランキング上位のセリフだ。でもあまり嬉しくない。そりゃ全く嬉しくないかと問われれば首を縦には振れない。多少は嬉しい。だってさゆちゃんは腐っても推しなわけだし。好きなわけだし。でもそれ以上にやっぱり怖い。
「むー、なにその顔。河合さんはもしかして私といるの嬉しくないの? ねぇ」
また麦茶を注いだコップを持ち、こちらまで彼女は寄ってくる。それからつんっと私の額を指で突っつく。
「嬉しくは……ないねぇ」
「えっ、嬉しくないの?」
彼女は心底驚く。嬉しいに決まっている。そう信じてやまなかったらしい。嬉しくないと言われると思っていなかったようで、狼狽している。
「ねぇ、嬉しくないの? 嘘でしょ?」
動揺を隠さないさゆちゃんはぐいぐいと顔を近付けてくる。私は近付かれた分だけ距離を取りつつ、苦笑する。
「なんで嬉し……いいや、なんでもない」
なんというか根本的に感性が違うんだなぁということを思い知らされた。だからどうせなんでそう思ったのと訊いたって求めている答えが返ってこないことはなんとなく理解できる。要するに問うだけ無駄だろうな、と思ったのだ。
「え、なになに。なーに」
ぐいぐいと顔を近付けてくる。言わないなら言わないで徹底すべきであったと後悔する。変に言ってしまったせいで、興味を持たせてしまった。そこまで管理しなきゃならんのかという気持ちもあるが、まぁ私の失態ということで良い。
「なんでもない」
「ってこともないでしょ」
「いや、ほんとに……」
「……本当?」
中々退かない。まだ怪訝そうにこっちを見ている。
どうしてこういう時だけ勘が鋭くなるのか。その鋭さとか聡明さをぜひもっと日常に活かして欲しい。どのラインからストーキングになるのかとか、どういう行為が相手に恐怖を与えるのか、とか。考えてくれれば良いのになぁと思う。
「というかさ、引越しはどうしたのよ。業者さんに任せっぱなしでしょ」
「一番最初に終わったらハンコ押して帰って良いですよって伝えてあるから大丈夫。なーんにも問題ないよ」
さゆちゃんはブイサインを作った。
「いや、問題ないことはないと思うけど……」
というか、新垣紗優という人間そのものが問題だらけだった。それありかよ、って行動に対して逐一指摘するのはあまりにもナンセンス。
だからこれ以上触れるのはやめた。
時は流れ夕方。カラスの鳴き声と下校途中であろう小学生の声が響く。窓の外をチラッと見る。空はオレンジ色に染まっていた。誰がどう見ても夕方。一人だったらこの綺麗な空を眺めながら、物思いにふけていたかもしれない。
もっともそんなことをしている余裕は一切ない。
原因は私の後ろにある。
そう、まださゆちゃんは家にいるのだ。かれこれ数時間が経過したのに。
家が遠いから帰るのが億劫……とかならまだ百歩譲って理解できるし、しょうがないなーってなる。でも彼女は私の家の隣に引っ越してきた。遠いもなにもない。隣だ。隣。
「うーん、河合さんさ、なにか悩みでもあるの?」
振り返ると彼女はそう問いかけてくる。
「悩んでるよ」
「おー、ほんと? 私が聞いてあげるよ。悩み。遠慮なく言ってみて」
さゆちゃんは頬杖を突いて、ドヤ顔を浮べる。
頼りになる女でも演出したいのだろうか。きっとそうなんだろうな。君のせいで悩んでいないのなら頼りになるなぁと思ったかもしれないけど、悩みの元凶はさゆちゃんだから頼りになるなぁとか思わない。
「悩みはね……」
「うんうん」
「さゆちゃんが中々帰ってくれないことかな」
別に隠す必要もないかと、ストレートにぶつけた。
彼女は私が冗談を言ったと思っているらしく、クスクス笑っている。
「面白い冗談言うよね、河合さんって案外」
「いや、わりと本気だよ」
「っていう冗談だよね」
「まぁさゆちゃんがそうだと思うならそれでも良いけど」
こっちがいくら言ったってどうせ理解してくれることはない。そのレベルで諦めてしまっている。
「えっ……あっ、そういうこと……なるほどね」
さゆちゃんはなにか思いついた、かのような反応を見せる。口元に指を当てて、ふむふむと。
どうせろくでもないことを思いついたに違いない。絶対にそうだ。
なんかやらかす前にさっさとここから追い出してしまおう。うん、それが賢明だ。やらかしてからじゃ遅いし。困るし。
「私の存在意義、それはね! ご飯を作ることじゃないかなーって思うんだけど? 違う? 私ならほかほかで超絶美味しいご飯出せるよ」
勢い良く立ち上がった彼女は私の行動を抑制する。私の行動を読んだ上でわかっていてやっているのなら相当凄い。まぁさゆちゃんはそこまで計算で動けるような子じゃないってのはわかっている。
「え、あ、うん……そっか」
ただ啖呵を切られた私は押され気味になってしまう。
想定外だった。かなりマシな提案をしてしたから。てっきりもっとえげつないことを提案してくるのかと身構えていた。
「良い? 料理しちゃっても」
屈託のないアイドルのような眩しい笑顔を見せる。って、忘れてた。この子アイドルだったわ。アイドルみたいじゃなくてアイドル。
「……じゃあ頼んで良い?」
完全に押し負けてしまった。もう帰れという気力すらない。それに料理くらいならまぁ良いかなと思ってしまう。ハードルが低いって得だよね、ほんと。
キッチンに向かい、冷蔵庫を開けたさゆちゃんはしばらく固まる。そして振り向く。
「河合さん」
と、私の名前を呼ぶ。
「はい、河合です」
「冷蔵庫の中なんにも入ってないけど」
「入ってるでしょ。ペットボトル飲料と、作った麦茶とコンビニスイーツが」
「野菜は? 調味料は?」
冷蔵庫をぱたんと閉め、問う。
「そんなものはない!」
私はキリッと答える。
自炊しない一人暮らしの冷蔵庫の中なんてこんなものだ。期待する方が悪い。買ったってどうせどれもこれも中途半端に使って、残り物は腐らせるんだ。不要である。もったいない。SDGSだっけ。それだよ、それ。
「ダメだね、河合さん。女子力足りないよ、それは」
「アイドル力が足りてないさゆちゃんには言われたくないけど」
「むーっ。それどういうこと」
仁王立ちで頬をムクっと膨らませる。あざとい。アイドル力あったな。
「それよりも行くよ」
私の元に来ていたさゆちゃんは私の手首を掴んでそのまま外に連れ出す。
「いや、ん、どこに」
「スーパーに決まってんじゃん!」
夕方の涼しい風を浴びながら、私は半強制的にスーパーへと連れて行かれたのだった。
風がとても気持ち良くて存外悪い気分じゃない。まぁ本人に伝えたらこういうことばっかりし始めそうなので私の心に秘めておくけど。
……さゆちゃんに料理作らせるのってヤバい気がしてきた。
さっきまで抱いていた心地良さと気持ち良さは一瞬で灰となり消えてしまった。いや、怖。変なもん入れないか監視しなきゃ、だなぁ。
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