第2話
「そんな引かないでよ」
私の推しは芝生に寝そべり、すべて諦めたかのような達観した表情で夜空を見つめる。
周囲には建物も街灯もない。故に星が煌びやかに輝いていた。
そしてそれを見つめる彼女の表情も、真上に見える星空に負けず劣らず輝いている。頭は相当おかしいが、腐っても私が推している人なだけある。黙っていればこんなにも美人だ。
「推しがストーカーで気持ち悪かったらそりゃ引くでしょ」
「酷い……っ!」
「酷いのはそっちだよ」
さゆちゃんは私の夢を粉々に砕いたのだ。私には「酷い」と非難する権利くらいあるだろう。
まだ彼氏バレの方が良かった。
「よいしょ」
なんだか落ち着いてしまった。
今は落ち着いている場合ではない。
私の推し……新垣紗優になにがどうなっているのかを問いたださなければならない。
彼女の手首を掴み、自宅から持ってきた縄を使って縛る。
「河合さんったら大胆だね」
「なんでこうも残念な人を推しちゃったんだろうなぁ」
頬を紅潮させながら馬鹿げたセリフを吐くさゆちゃんに対して、私は心底そう思った。
「寒い……」
ふと、彼女は呟いた。
たしかにここは寒い。夜風を遮るものがなにもないので、冷たい風が私たちの肌を直接撫でてくるからしょうがないのだが。
「風の当たらないところに行きたいな」
起き上がった彼女はわざとらしく、ちらちらとこちらを見てくる。
これ以上なにか言うことはない。察しろ、と言いたげな様子だ。
良いことに……なのか、悪いことになのかは不明だが、なにを言いたいのかがわかってしまう。
だがわかったからやるとは限らない。というかやりたくない。見て見ぬふりをしてやりたい。
推しと目を合わせて数秒。逃げるように私は目を逸らす。
あろうことか、彼女はわざわざ歩いて私の正面に立つ。
そこまで堂々としておいて、目が合うとまたちらちらとこっちを見たり、見なかったりする。一言で言うならあざとい。
「ダメかな」
妖艶な声を出す。
この人はなにをしたら私が喜ぶかを理解している。そしてそこをしっかりと突いてくる。嫌な人だ。その裏には打算的なものが見える。私を喜ばせれば、多少無茶なお願いでも押し通せるんじゃないかっていう。要するに多分舐められている。
「河合さんの家、連れてって欲しいなー。なんて」
私の手を優しく握って、撫でる。目線の高さを合わせるように彼女はしゃがんで、柔らかく微笑む。
「うん! 良いよ」
推しと触れ合える喜びは強い。例えどんな状況下であったとしても、それに勝る感情は存在しない。
だから私は躊躇することなく頷いてしまった。やってから気付く。私ってちょろ過ぎないか、と。
「どうして……こうなった」
私の部屋に私の推しであるさゆちゃんが座っている。私の部屋に私のストーカーである新垣紗優が座っている。
キョロキョロと部屋を見渡す彼女を見て、私は深いため息を吐く。そして頭を抱えた。
「河合さん? どうかした?」
「どうもこうもないよ」
アンタが原因じゃ! とは言えなかった。ホイホイと連れてきてしまった私にも原因はあるし。
「てか、河合さん。私のこと好き過ぎじゃない? あのポスターとかファーストライブの時にふざけて物販で売ったやつだよね」
「経緯とかは知らないけど……てか、あれふざけて売ったやつだったの」
「真面目に売るのに五千円では売らないよ。そんなの商売にならないでしょ」
単品で五千円って強気な値段設定だなと思っていたが、そういう裏話があったのか。知らなかったし、知りたくもなかった。
私の気持ちなど知る由もないさゆちゃんは部屋にあるグッズを見てはあーでもないこーでもないと裏話を教えてくれる。
時折本人たちしか知り得ないような話までしたりする。正直興味深いし、もっと聞きたい。こんな経験そう簡単に出来るものじゃない。夢かもしれないと疑うレベルだ。
でもそんな高揚感も一瞬で引く。この人は私をストーキングしていたんだって事実を思い出すと、波のように。サーっと。
「そうじゃん。そもそも家に連れてきたのは推しにグッズを見せびらかせるためじゃないんだ」
「推し? 私のこと。やっぱり河合さんったら私のこと好き過ぎだよ」
「好きだけど嫌いだよ」
「やーん、ひどーい」
心にもないことを言う。
酷いのはストーキングしてたお前だよ。
「なんでさゆちゃんは私のことストーキングしてたの? ファンとアイドル。別にストーキングされるようなことした覚えはないし、どこかプライベートで遭遇した覚えもないけど」
なにかきっかけがあり、好かれるようになって、ストーキングされるようになった。それなら百歩……いいや千歩譲って受け入れられなくても理解はできる。
でもなにも記憶にない。詭弁じゃなくて本当に。
「んーと、秘密」
「そっか」
想像していた通りの答えが帰ってきた。あまりにも想像通りで待ってました! とか言いたくなる。
もちろん言わないけど。
冷静かつ淡白な反応を見せ、スマホを取り出す。
そして敢えてちらちらと画面を見せる。
「ちょっと、ちょっと。河合さん。一体どこに電話をかけようとしているのかな」
「どこって。警察にストーカー捕まえたので、逮捕しに来てくださいって連絡しようかなと」
「ダメだよ、ダメ」
「でも教えてくれないんでしょ。ストーキングしてた理由」
「それはー……まぁそうだけど。でも教えることもできない」
あれもダメ、これもダメ。ワガママすぎやしませんかね。
「じゃあやっぱり電話かな」
ワガママが通用するのは中学生までである。
「河合さん。良く考えて」
彼女は両肩に手を置く。そのせいでグッと距離が縮まった。鼻の頭と頭がぶつかりそうになる。相手はストーカー犯である前に、私の推しである。心の準備なしに、ここまで距離が近くなるとさすがに思考回路がショート寸前になってしまう。いや、さゆちゃんまつ毛長すぎ。肌綺麗すぎ、瞳も透き通ってるし、唇は色艶が良い。こ、これがアイドル……か。
じゃない。
危ない。呑まれるところだった。
これも計算のうちなら侮れない。
「警察に通報したら私のアイドル生活はその瞬間にエンドを迎えるよ。明日にはきっと『重大なご報告』ってタイトルの文書が運営から出されることになる。河合さんはそれで良いの?」
さゆちゃんにとって最大の弱点。それは彼女だけのものではない。私の弱点でもあった。
「卑怯だ」
「ううん、私は卑怯じゃないよ。私はアイドルだもん」
「ストーカーな」
「うぅ……。ほら、それよりもスマホ貸して」
渡す前に奪われてしまった。
なんか会話の主導権すらも握られてしまっている。私よ、それで良いのか。
「はい。ありがと」
さゆちゃんは一分もしないうちにスマホを返してくれた。
一体なにをしたのだろうか。
連絡先をスマートに交換したのかな、とスマホを眺める。メッセージアプリに連絡先は追加されていない。期待した自分がバカみたいじゃん。はず。
「それじゃあ私は帰るよ。明日朝から撮影だから」
一人で勝手に感情を上下させていると、さゆちゃんはもう身支度を済ませていた。と言っても荷物のほとんどは私が送ったものっぽいけど。
「河合さん。くれても良いんだよ。合鍵。ほら?」
「あげないよ。ストーカーに合鍵あげる馬鹿がどこにいると思ってんの」
「推しに合鍵ならありえそうじゃない?」
「それはそれで気持ち悪いでしょ」
「そうかなー。それもそっか」
彼女は口元に手を当てて、笑う。一挙手一投足が可愛い。ずるい。
「合鍵の代わりにハグは?」
「しないよ。代わりになってないし」
「んー、つれないなぁ」
そう少し不満気な表情を浮かべる。そして彼女はひらひらと手を振って私の前から姿を消した。
推しでありストーカーでもある新垣紗優は私の前に現れて、そして消えた。
「しときゃ良かったかな。ハグ……」
冷静になった私はぽつりと呟いた。
ということがあってから一週間が経過した。
あれからストーキングされている気配は一切なくなった。
決して犯人が堂々と家にやってくるようになった……というわけでもない。
さゆちゃんは私の前に姿を現してくれない。
もしかしたらあれは全部夢だったのでは。
そう思うほどに跡形もなく。なんにも。
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