元婚約者は、気づかない

伯爵の元婚約者は、事の重大さに気づくことはなく。



「くそっ……なんなのだ」


 ランジュ家の僕用に用意されていたタウンハウスにマリアベルと戻ると、なんだか雰囲気がよくなかった。

 いや、よくないというレベルではない。そもそも人がほぼほぼいなかったのだから。


 とはいえ、婚約破棄をすることを伝えてきたばかりだ。マリアベルも心労か、体調が悪そうだったのですぐに部屋で休ませると、僕は自分の部屋でワインを開けてぐいっと飲み干す。


 流石にこんな姿をマリアベルに見せてしまえば不安がられるだろうから、こっそりと。


 安物のワインだったのか、ちょっと渋さを感じて、思わず悪態をつく声も大きくなる。

 そう――思わず悪態をついてしまうほどに、私はイラついていた。



 マリーニャ……。

 彼女はなぜああもあっさりと。


 僕とは長い間婚約していたのにも関わらず、まるで僕と別れることに、さして興味もないようだったではないか。


 そういう態度が僕はいつも気に入らなかった。

 いつも見下すような態度で、会っても会話も弾まない。なぜ僕がマリーニャのことを考えて話題を提供しなければならないのか。彼女の話はランページ領に関わる話が多くて何も面白いところがない。どこぞの領地で子供が生まれたとか、領地のどこぞの畑が豊作とか、ここには綺麗な湖があるとか。

 そんなのを僕に言ってどうしたいのか。領地のことを知って何が面白いのかと思う。


 その点、マリアベルは僕を立ててくれる。僕を肯定してくれる。僕を常に見てくれる。

 マリーニャとは似ても似つかない。

 なぜ二人が姉妹なのか。母方が違うだけでこうも変わるものなのかと驚きだ。


 だからこそ、気に食わない。

 マリアベルの姉として、代理当主として恩情で生きている彼女が、あたかも、ランページを自分が支えているというかの如く、ランページについて話す彼女が気に食わない。


 彼女は、僕を、もっと敬ってもよかったんじゃないか。

 僕と別れることに、もっと後悔してもよかったんじゃないか。


 どうしてそれさえもできないのか。


 そう思うと、イライラ感が止まらない。



「ムール様」


 こんこんっとドアのノックの音と共に現れたのは、僕のことを小さい頃から知っている執事のトメカ爺。

 父からの手紙を渡すと、大きなため息をついたので不思議に思って聞いてみる。


「なんだよ爺。なにか言いたいことでもあるのか?」

「なぜ、ランページ家との婚約を、破棄されたのですか」


 さも重大なことのように言ったトメカ爺に、思わず笑ってしまう。


「いやいや、だって、別にマリーニャじゃなくてもいいじゃないか」


 何を言っているのか。だって僕の傍には、いるじゃないか。

 次期後継者である、マリアベルが。


「しかも、なぜあのようなことを言いふらしたのか、爺も恐ろしく思います」

「? あのようなこと?」


 ああ、婚約破棄のことか。

 それは僕がマリアベルと繋がるために必要なことだった。

 なぜなら、僕とマリアベルには、すでに二人の愛の結晶が息づいているから。


 だけどそれだと僕は世間的に悪者になってしまう。

 いくら婚約破棄がブームだとしても、まるで二股をかけていたようじゃないか。


 僕は、最初からマリアベル一択だと言うのに。


「僕が、僕の大切な人と結ばれることの、何が悪い?」

「そのようなことを……」

「それにさ、別にランページが遠ざかるわけでもない」

「……は?」


 マリーニャとは、父が決めた政略結婚だ。

 綺麗なかぼちゃ色の髪、かぼちゃ色の目。器量は悪くない。だけど、その色合いが、どこか素朴感を僕に覚えさせる。彼女の周りに群がる男たちの気がしれなかった。だけど、そのような男たちが群がるマリーニャが、僕の婚約者であるということには、とても優越感があった。特に、マリーニャの友人である、僕を蔑むように見てきたフィンバルク第一王子殿下は滑稽だった。


 いくら彼がマリーニャと仲良くても、結局は僕のものなんだから。


 そう思っていた学園時代はとても楽しかった。マリアベルとの逢瀬も、毎日が楽しかった。マリアベルに夢中になってマリーニャをまったく構っていなかった。今にして思うと、少しは構ってあげてもよかったかもしれない。


 構ってあげなかった、構ってもらおうとしなったからからこそ、こんな結果になったんだ、と、喫茶店で婚約破棄を告げたことを思い出す。

 

 最後の最後くらい、少しは構ってあげてもよかったかもしれない。少しは情があったのかと思うが、それとともに、やはり僕が告げた後興味がなさそうだったマリーニャを思い出して、また怒りが再燃して、婚約破棄して間違っていなかったと、自分の行った行為が正しかったのだと思い直す。


 マリーニャは、もうすぐマリアベルに家督を譲るのだから。真のランページの後継者であるマリアベルと、そして僕が、幸せに満ちた領地


「まさか……」


 トメカ爺の顔がみるみるうちに蒼褪めていった。

 そんなに蒼褪めていくほど何かあったか? ふらりとよろめくトメカ爺が心配になってくる。




「い、いや……もしそうなら……――すみませぬ。爺は、お暇させて頂きます……」



 ……なんだ?

 トメカ爺が僕を見ると、とても残念そうな顔をして、全てを諦めたかのようにとぼとぼと項垂れて去って行った。

 しかも、お暇ときたもんだ。

 あの年になって職を自ら失うとは。



「……なんなんだ、本当に……」



 残ったワインをグラスに注いでぐいっと飲み干す。



「ん?……この屋敷は、こんなにも……」



 静寂。

 僕以外の誰もいないかのような静かな部屋。

 実際部屋には僕以外いないのだけども、この屋敷から誰もいなくなったかのような錯覚さえ覚えてしまう。



「誰か、誰かいないのか!?」



 部屋を出て叫んでみる。

 僕の声に反応はなく、ただただしーんとした静寂が音となって返ってくる。



「……まあ、いいか」


 誰もいない。

 元々人の少ない屋敷でもあったのだから、誰一人いないというのもあるんだろう。たまたま今まで僕がいた時に誰かしらがいたってだけの話なんだと思う。


 改めて部屋に戻ると、トメカ爺が持ってきた父からの手紙を思い出した。


 その手紙を開けると、一言だけ書かれていた。



「話がある。戻ってこい、ねぇ……」



 マリアベルと結婚することを伝えたから、その祝いや式についての話だろう。


「近い内に、マリアベルと一緒に戻るとするか」



 これから忙しくなる。

 ランページをどう発展させていくのか、マリアベルとの新婚生活と我が子の誕生に夢が止まらない。



 部屋でワインをもう一つ空けながら幸せを嚙みしめていると、屋敷に誰もいなくなっていたことなんて、すぐに忘れてしまった。

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