真白とナトゥーラお嬢様 ②
「わたくしに王太子としての政務をすべて行わせて、王太子殿下は愛するご令嬢と遊んで暮らしたい。だけど、わたくしはこうして『心を閉ざし』て、人形のように過ごしているだけで何も見えず何も聞こえない。政務をさせようにも無理なのよ」
ナトゥーラお嬢様はふふふと笑った。
「じゃあ、あの無能王太子はどうするかしらね? 憲兵にでもわたくしを無理矢理に王城に連れて行って、さあ仕事をしろと言われても、わたくしにはできない。鞭で叩かれようが何だろうが無理なのよ」
「む、鞭って……」
叩かれたり、するの? そんなのひどい……。
「ひどいって言われても、ね。わたくしの国のはねえ『夫が妻を躾ける時に夫の親指より細い棒であれば叩いて良い』とする『親指ルール』なんていう理不尽な法が存在するのよ。そして、その法は、婚約者にも適用されるの」
そう言って、ナトゥーラお嬢様は左の腕を見せてくれた。蚯蚓腫れのような跡がいくつもある。
「逆らえば、もっとひどくなるだけ。だから、王太子殿下に鞭を取り出されたら、わたくしはこうして腕を出さねばならなかった……。婚約破棄を告げられた時は逆にチャンスだと思ったわ。あの無能者から逃げるためにね」
平然と話すナトゥーラお嬢様。
わたしはもう、なんて言っていいのか……わからなかった。
「だけど、とっさにとった方法だったから、おばあ様やアイルに何も伝えられなかったの」
とっさに、逃げた。
ナトゥーラお嬢様も。……きっとわたしも。
「だからねえ、あなた。おばあ様やアイルに伝えてちょうだい。わたくしはあと数年、三年か五年か、そのくらいはこのまま、わざと心を閉ざした状態を作り出しておくわ。そのくらい経てば……無能の王太子が失脚するか、もしくはわたくし以外の誰かが無能王太子を支え、わたくしはこの家でゆっくりと過ごすことができるでしょう」
「伝えるのはいいけど、ナトゥーラお嬢様は、ずっとこんな状態でいるつもりなの?」
「他にどうしようもないじゃない。運よく無能の王太子が失脚してくれればいいけど。そんな幸運、巡ってくるとは到底思えない。わたくしはねえ、王太子殿下が、わたくし以外の誰かを見つけて、その人に王太子殿下の執務を行わせるのを待つしかないの。わたくしが逃げ切るために、別の人が犠牲になるのかもしれないけれど……。とにかく、わたくしは逃げたかった。そのチャンスがやってきたから逃げた。ううん、まだ、逃げ切ったとは言えないのよ。だから、当分このままね」
ああ……、そうか。
いきなり、なぜだか、すとんと理解ができた。
わたしたちは、自分の力で、現状を変えることができない。
だから、わたしは心の中に愚痴を溜めるしかなくて。
ナトゥーラお嬢様はさっきわたしに向かって
「そんなのわたくしに言っても仕方ないでしょうっ! 文句を言いたいのなら、あなたのお母様やお姉様に直接言いなさいな」
って言ったけど。
ナトゥーラお嬢様だって、王太子殿下や国王陛下に文句を直接言えなかった。
「自分で現状を変えなさいな」
その言葉はきっと、ナトゥーラお嬢様がわたしに向けて放った言葉ではなく、ナトゥーラお嬢様自身に向けて言いたかった言葉なんじゃないかな。
わたしも、ナトゥーラお嬢様も、自分の力で現状を変えられないのは同じなんだ。
変えたい。
声を上げたい。
嫌だって言いたい。
現状を変えることができなかった。わたしとナトゥーラお嬢様にできたのは逃げること。
そう、どうしようもなくなって、わたしは逃げた。
この『異世界』に『家出』をした。
ナトゥーラお嬢様は婚約者から逃げた。
自分の精神世界に自分の心を閉じこめて。
時間が経過して、状況が変わるまで待つしかない。
そんなところまで、きっと、同じ。
……悔しいな。
もっと力があったら。今すぐに、現実に対抗する手段を持っていたら。
そうしたら、わたしたちは逃げずに済んだのに。
唇を、嚙んだ。
俯いて。
悔しくて。
パンダさんにこの世界に連れてきてもらったときは、感情を一つ対価に支払うから、異世界に連れていってって、頼んだ。それでいいと思っていた。
だけど、今は。
逃げるしかない、自分の、力のなさが、悔しい。
我慢して、大人しくしていたら、それでいつか、お母さんとか桃花お姉ちゃんがわたしを大事にしてくれるなんて、思い込んでいた。
そんなこと、ないのにね。
不満を口にしなかったら、現状で満足しているって思われるのにね。
わたしは、文句ひとつ言わない『いい子ちゃん』って、桃花お姉ちゃんに言われた。
桃花お姉ちゃんからすれば、わたしは確かにお母さんに文句ひとつ言わない『いい子ちゃん』なんだろう。
わたし、おさがりが嫌とかも言わなかった。
言わないから、お母さんにも桃花お姉ちゃんにもそれでいいと思われていた。
わたしが我慢しているなんて、桃花お姉ちゃんもお母さんも、考えもしないんだろう。
多分、わたしは、無理と分かっていても、おさがりは嫌だというべきだった。
黒いランドセルは嫌で、わたしは赤い、新しいランドセルが欲しかったって言って、それでも、買えないのは仕方がないから、我慢するねと、ちゃんとお母さんに言うべきだった。
言わないと、わたしには何の不満もなく、おさがりで満足しているって思われてしまう。
我慢して、我慢して、我慢できなくなって、爆発して、『家出』をした。
だけど、今、わたしは魔法が使える。
この魔法で、何かできないのかな?
元々のわたしの世界で、魔法でお金が稼げる?
わからない。
この世界で、わたしの魔法でナトゥーラお嬢様の状況を変えることができる?
わからない。
わたしに、なにができて、なにができないのか。
わからないから……、わかる人に、聞いてみるしかない。
とにかく、ナトゥーラお嬢様のことをアイルさんとラケーレさんに話せば。
二人はきっと少しは安心する……よね。
王太子殿下とかいう人が、もう二度とナトゥーラお嬢様に関わらないように手を尽くしてくれるかもしれない。
うん、今、わたしができることと言ったら、それくらい。
「アイルさんとラケーレさんにナトゥーラお嬢様のことを伝えるね。そうして、ナトゥーラお嬢様の現状が少しでも変わればいい」
わたしはそう言ったけど、ナトゥーラお嬢様さみしげに笑うだけだった。
「そうね、三年か五年か……十年後とかかもしれないけれど、いつか、アイルとおばあ様と一緒にゆっくりお茶でも飲みたいわ。わたくしの現状と、それから今の言葉を、二人に伝えてちょうだい」
いつか来る未来に、希望を託すしかない現状。
ああ、悔しい。
ナトゥーラお嬢様は、悔しいというよりさみしいのかな。どうかな?
とにかく、できることをするしかないよね。
すうっと、意識が遠くなる。
そして、夢から覚めたみたいに、目を開けたら……ナトゥーラお嬢様の薄暗いだけの精神世界ではなくて、アイルさんとラケーレさんのいる元のナトゥーラお嬢様の部屋に戻っていた。
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