ナトゥーラ 婚約破棄

「ナトゥーラ・フィデンツァ! 婚約は破棄だっ! 俺様は愛するマリーと婚約を結びなおすっ!」

 貴族の令息や令嬢が通う学園。

 わたくしは昼食を終えて、午後の授業に備えるべく、教室へと戻っていく途中だった。

 大理石の廊下はぴかぴかに磨かれ、大きな窓から差し込む日の光は暖かだった。

 食後ということもあり、少々まったりとした気分でいたところに、いきなりの婚約破棄宣言。

 わたくしが戸惑っているうちに、王太子殿下の取り巻きたちに突き飛ばされ、わたくしは床に手をついた。冷たいとか、痛いとか、思う間もなく、わたくしの頭は床に押し付けられた。

「おやめください、王太子殿下……っ!」

 わたくしが叫んだ途端に、足で頭を蹴られる。

 あまりの痛さに、思わず呻く。

 すると、わたくしを取り囲んでいる者たちがくすくすと、嘲るように笑った。

「泣きもしないとは。まったくもって可愛げがない。そんなことだから、この俺様に愛想をつかされるのだぞ、ナトゥーラ」

 床に押さえつけられたまま、それでもなんとか視線を上に向ければ、王太子殿下が桃色の髪をした女の肩を抱きつつ、わたくしを見下ろしていた。

 これが、マリーとかいう女だろうか。

 その女と王太子殿下は、鼻先が触れ合うほどに顔を突き合わせて、わたくしを笑う。

「まあ、床に這いつくばって。ナトゥーラ様ってばまるで虫のようね」

「ははは。それは虫に失礼だろうマリー」

「あはは、殿下ってばひっどーい」

「まあ、ひらひらと舞う美しき蝶のようなマリーと、こんな女を比較するのも馬鹿々々しいが、それでもナトゥーラにも優れた点はある。まず成績が良いこと。それから政務における的確さだ。婚約は破棄するが、今後もお前のことはこの俺様が使ってやるから感謝するがいい」

「かわいげがないから、殿下の役に立てることを喜びなさいって? 殿下ってばお優しいのねえ」

「はははははは。それほどでも。俺様に婚約破棄をされれば貰い手などないだろう。せいぜい俺様の政務の役に立ってもらうぞ、いいなナトゥーラ」

 ……なるほど、わかったわ。

 授業すらまともに受けずに、取り巻きたちと遊び歩いてばかりの無能王太子殿下。

 これまでずっと、王太子殿下は学園での課題や提出物なども全てわたくしにやらせてきた。

 それどころか、王太子としての政務も行わない。

 王城の王太子殿下の執務室には、山のように積み重なった書類がある。王太子としての政務。なのに、その処理も、わたくしに「やれ」と命じてくるだけ。

 ご自分では何もなさらない無能のために、これまでわたくしは苦労してきた。婚約を破棄しても、わたくしをこれまでのように、奴隷のごとく扱うつもり?

 公衆の面前で、わたくしを暴力で押さえつける。恐怖で支配すれば何とでもなると思ったのかしら。

 おあいにく様。わたくしは、その程度で誰かに支配されるほど、か弱くはないの。

 だけど、今、ここで、王太子殿下に対抗できる手段はない。

 耐えるだけ。

 できることがないのならば……と、耳を澄ます。

 床に耳をつけさせられているためか、足音がよく伝わってくる。

「ナトゥーラお嬢様っ!」

 その声も。

 わたくしの身に何かが起これば、わたくしの護衛たちに即座に伝わるようにと、おばあ様とアイルによって、わたくしの体には様々な魔法がかけられている。

 だから、今のこの状態も、護衛やアイルたちにはわかったのでしょう。

 ならば。

 わたくしは、目をつぶって、彼らの到着を待つ。

 そして……そのまま、わたくしは、自分の体にこっそりと魔法をかける。

 呼吸や血液循環体温調節のように、体の内部の状態は維持しつつ、外界からの刺激に一切反応しない状態にする。

 目を開けていても起きてはいない。

 話しかけられても反応しない。

 まるで呼吸をしているだけのお人形。もしくは植物のような状態ね。

 他人によって生命を維持してもらわねば、人間として生きることもできないような状態だけれど。幸いわたくしは侯爵家の娘。侍女や医師や魔法使いたちによって、それなりに生命は維持される。

 植物状態も、書物の記録では十数年にわたる生存例はある。植物状態の期間が短く、かつ適切な治療が行われれば、健康をとりもどし,社会に復帰する可能性もある。

 ……まあ、なにがあってもわたくしには優秀な魔法使いであるおばあ様とアイルがいる。

 ショックで心を閉ざしたような状態を数年続けたとしても、なんとかしてくださるだろう。

 そうして、安心して、わたくしは「心を閉ざした」のだ。

「心を閉ざした」状態のわたくしは、何もできず、何も見えておらず、なにも聞こえす……、薄暗い部屋の中、精神世界で一人、膝を抱えて暮らしているようなものだ。

 暗い所に居続けたら精神を病むかもしれない……と思ったところで、暗闇の中で光るロウソクの炎のような、なにかが、わたくしの精神の世界にすっと入ってきた。

 絵画を愛する女の子の心。絵を描くのが好き。そんなキラキラと輝く心の結晶。

 歌うのが好きだという女の子の感情。明るい歌、未来への希望。そんな美しいメロディーが、わたくしの閉ざされているはずの精神世界にふわっと降り注ぐ。

 ああ、きれいねえ……。

 こんなきれいなものを寄越すのは……きっとアイルね。

 白と黒の色を持つ魔法使い。おばあ様の弟子。

 わたくしが自分で「心を閉ざして精神世界に閉じこもっている」のを憂いているのか。

 それとも、わたくしが行っていることの意味を分かったうえで、このようなものを差し入れでもしてくれているのか。

 わからないけどありがたいわ。

 うーん、アイルやおばあ様に、何らかの説明をしてから「心を閉ざす」べきだったかしら……。

 少なくとも、わざと、この状態を、わたくし自身の意思で作りだしていると言っておくべきだったかもね。

 ……いきなりの婚約破棄はともかく、暴力的に床に押さえつけられて、わたくしも動揺していたのかもしれない。

 ちょっと失敗したわ。

 だけど「精神を閉ざしている」のはそう長い期間ではない……はず。

 だって、あの無能には王太子として、そしてのちの国王として、立てるだけの能力がない。

 けれど、国王陛下も、あの無能王太子殿下には甘い。

 無能な王太子殿下が失脚する可能性は低いから、わたくしの代わりの誰かが用意されるのかもしれないわね。

 まあ、どうでもいいわ。このわたくしが、王家から逃れられればいいのだし。

 消極的な反抗かもしれないけれど、王太子殿下などとは縁を切ってやる。

 そう思って、こんな植物状態に甘んじているというのに……。

 異世界から、アイルが連れてきた子どもが、うるさいのよっ!

 今もブツブツとした声が聞こえてくるのよこんなふうにっ!


『異世界』に『家出』したわたし。

『自分の心の中』に『閉じこもった』ナトゥーラお嬢様。

 似ているなって思って。

 ねえ、ナトゥーラお嬢様。あなたはどう思いますか?

 似ているなって思うのは、わたしの勝手な気持ちで、ナトゥーラお嬢様は、ぜんぜん違うよって言いますか?自分のほうが辛いとか思う?

 わたしはね、ナトゥーラお嬢様。

 ナトゥーラお嬢様がされたことを、パンダさんとラケーレさんから聞いてね、それで、ナトゥーラお嬢様は辛いけど、だけどナトゥーラお嬢様のために異世界まで行って、ナトゥーラお嬢様を助けようとしてくれるパンダさんがいて、わたしナトゥーラお嬢様のことがすごく羨ましいんだよ。ナトゥーラお嬢様いいなって、思うんだよ。

 わたしには、そんな人いるのかな?

 桃香お姉ちゃんは、わたしみたいな『いい子ちゃん』がいないほうが、清々するんじゃないかな?

 お母さんは、悲しむかもしれないけど、ひとりいなくなればそのぶん生活は楽になるとか思うんじゃあないのかな?

 わからない、けど。

 わたしのためにって、そんなこと、考えてはくれないと、思う。

 だからわたし、ナトゥーラお嬢様のことが羨ましいよ。


 なんて。

 そんなうだうだと煩い気持ちが、紙で折られた鳥に乗せられて、静寂なわたくしの精神世界にチクチクと飛んでくる。

 あああああああああ、なんなのよ、この異世界の子どもはっ!

 わたくしがどう思うか、ですって?

 うじうじしているあなたがうっとうしいわよっ!

 わたくしは、消極的であろうとなんだろうと、自身の尊厳をかけて戦っているのっ!

 おばあ様やアイルに説明する時間がなかったのは申し訳なかったけれど。

 わたくしの、意思で、自分で、この状態を、選んで、行っているのっ!

 なのに、一方的に、共感されて、同じようなものねなんて、思われて。

「うるさいわね、異世界の子ども。グダグダ言ってるだけで。現状が嫌なら自分で変えればいいでしょうっ!」

 思いっきり『手』を伸ばして。

 異世界の子どもを、わたくしの精神世界へと引きずり込んでやった。

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