真白 『異世界』にて ③
「あ、あります! 名前、ちゃんと……っ! えっと、真白ですっ! 名前はつけてもらわなくて、大丈夫ですっ!」
「そうかい、真白というのかい」
美老婦人はにっかり笑った。
「で? 真白はもう、パンダに感情を抜かれちまったのかい?」
「あ……、いいえ。その……着いたばかりで。そうしたら、泣き叫ぶ声が聞こえてきて、アイルさん……パンダさんが走って行ってしまって……」
「あー、またかい。あたしの孫娘と馬鹿弟子が、すまないね」
お茶でも出してあげるからついておいで、と美老婦人……ラケーレさんに言われた。
「は、はい……」
すたすたと歩くラケーレさん。薔薇の庭を通り抜けて、ガラス張りのドームみたいな屋根がある建物にたどり着いた。
温室、とかなのかな、ここ。
見たこともない植物の鉢植えがいくつもあって、ガラス天井の近くには、きれいな鳥とかも飛んでいた。
ラケーレさんに「こっちにお座りよ」と言われ、指し示されたベンチにちょこんと座る。
座った途端に、ティーカップとティーポットが現れた。カップもティーポットも宙に浮いて、カップの中に、紅茶を注ぐ。
「侍女に茶を用意させるのも面倒だからね」
「魔法でお茶も入れちゃうんですね。すごいな……」
入れてもらったお茶を飲む。ちょっと熱めだけど、おいしかった。
「まあ、パンダのやつも、孫が落ち着けばやってくるだろうさ」
それまで茶飲み話に孫娘のことでも話してやろうかね、と、ラケーレさんは仕方がなさそうに、笑った。
☆★☆
ラケーレさんの話をまとめると、つまりはナトゥーラお嬢様は婚約を破棄されて、心を病んだ。パンダさんは、ナトゥーラお嬢様のために、異世界にまで行って、きれいな感情を集めているとのことだった。
うーん、ラケーレさんの説明は完結過ぎて、逆によくわからない。
もう少し詳しく……と聞いてみた。
大好きな王子様と三歳の時に婚約を結んだナトゥーラお嬢様。
王子様とずっと仲良くしていたのに、貴族の令息令嬢が通う学園に入学した後、王子様との関係がおかしくなった。
男爵家のとあるご令嬢と、その王子様が恋に落ちたんだって。
ナトゥーラお嬢様は、その男爵家のご令嬢を虐めた……って、大勢の人の前でつるし上げにあった。頭を、床に押さえつけられて、謝罪を強いられた。
苛めなんてしていないって、いくら言っても誰も信じてくれなかったんだって。
……怖かった、だろうな。
家で、お母さんと桃香お姉ちゃんがケンカしてるときの怒鳴り声。それだけでもわたしは身が竦む。
ナトゥーラお嬢様は、大勢の人たちから糾弾されて、心が壊れてしまった。
桃香お姉ちゃんが読んでいる漫画とかだったら、やってもいない罪を明らかにして、男爵令嬢や王子様をやり込めて、自分の潔白を証明するんだろうけど。
……ええと、たしか『ざまぁ』とか言ったっけ?
だけど、ナトゥーラお嬢様はそんな逆転劇はできなかった。
王子様との婚約も破棄されて、王子様は男爵家のご令嬢と結婚式を挙げた。
ナトゥーラお嬢様は、公爵家の別荘に閉じこもり、泣いて、叫ぶだけの日々。
それを、もう何年も続けている。
でも、泣いた叫んだりしている今の状態は、まだマシなんだって。
大勢の前で糾弾された直後は、心を閉ざしてしまって、ベッドに横たわったまま、泣きも喋りもしなかったんだって。
まるで人形。
虚ろな目をして、身動きもしなかった。
見かねたパンダさんが、この世界だけではなく、異世界までにも行って、きれいな感情を集めてきては、その心をナトゥーラお嬢様の中に入れた。
ナトゥーラお嬢様のものじゃない、別の人の心。
そんな借り物でも、少しずつ心は動きだした。
バラを見ればきれいだと思う。
美味しいものを食べて、顔を綻ばせて。
少しずつ、新しい心を入れるたびに、ナトゥーラお嬢様のひび割れた心は治っていった……らしい。
「だけど、そんなもの、所詮借り物さ。弱っちい孫娘の心が本当に治ったわけじゃあない。糾弾されて、大勢の前で婚約を破棄されたときのことを、ふと思い出すだけで泣き叫ぶ。パンダも馬鹿さ。美しい心とやらを集めてきて、それを心に入れたところで無意味だよ。本当の意味で乗り越えさせなきゃ、どうにもならんよ」
「……だけど、パンダさんには、きれいな心を集めて、ナトゥーラお嬢様の中に入れる以外に、できることはなかったんじゃないかな」
わたしは、お母さんと桃香お姉ちゃんのケンカを諌めることはできなかった。
お金を稼いで、桃香お姉ちゃんにスマホを買ってあげることもできない。
せいぜいお母さんを手伝って、お洗濯とか掃除をする程度。
子ども、だから。
できることなんて、ほとんどない。
だけど、それをしたところで、桃香お姉ちゃんからは『いい子ちゃん』と言われる。わたしが、我慢していればいるほど桃香お姉ちゃんが『わがまま』って思われて、ますますお母さんとの仲が悪くなる。
どうしようも、ない。
できることをしても、裏目に出る。
アイリーンさんに、そんなことを言ったら。
「お前もパンダも馬鹿だねえ」
と、呆れられた。
ば、馬鹿って、ひどい。
「もっと視点を変えて物事を見られないのかい」
「えっと、視点ですか……?」
「狭い視野であたふたしているだけだろう。お前たち二人とも。もっと広い視野で物事をとらえてごらんよ」
「そう言われましても……、どうしようもないんですけど……」
「そうかい?」
「そうですよ。パンダさんの事情は……ちょっと聞いただけで、ああしたほうがいい、こうしたほうがいいなんて、言えないけど、わたしの……うちの事情なら、言いきれます。どうしようもないです。お金、ないんだもの。お母さんにもっと働いて、新品の欲しいもの、全部買ってなんて、言えないもの……」
もしも、お父さんがいたら、なんてこと、何回も考えた。
そうしたら、お母さんだって楽になるし、お姉ちゃんだってわたしだって、欲しいものが買える。
でも、そんなの単なる空想で、現実には不可能だ。
「金がない程度だろう? そんなもの、いつかはなんとかなるだろうに」
「なりませんよ。お母さんだって限界です。これ以上働けない」
「真白、アンタは働かないのかい?」
「小学生は働けません。大人なら、ともかく」
「小学生?」
「あ、えっと。わたし、今、十歳です」
ラケーレさんたちの世界には、小学校はないかも。
「十歳なら、商家の見習いでも、メイド見習いでも、仕事はあるがねぇ」
「わたしの世界では、十五歳未満の子どもは働けないんです」
十五歳以上なら、スーパーとかコンビニで働けるみたいだけど……。アルバイトって、どのくらいのお金、稼げるんだろう? 桃花お姉ちゃんのスマホを買うには、どのくらい働けばいいんだろう?
「十五歳になれば、アルバイト……臨時雇いっていうのかな? そういう感じで短時間は働けるけど、きちんと就職するのは、ええと、高校を卒業した後の十八歳からとか、大学を卒業した後だと、えっと、二十二歳? とかなのかな……。とにかく、働けるようになるまでは、まだまだ先です」
「あんたのところはずいぶんとのんびりした世界なんだねぇ。ということはだ、真白が働けるようになるには、最短であと八年というところかい?」
「そうですね。小学校、中学校、高校……で、就職だと、だいたい八年くらいですね」
大学とかも行ってみたいけど、それは無理だろう。お金がない。奨学金とかもらっても……どうかな? そもそもそういうお金って、簡単にもらえるのかな? わからない。
「じゃあ、八年間だけ、耐えればいいじゃないか。たったの八年だ。過ぎてしまえばあっという間だよ」
「……そう、でしょうか……」
たったの八年って言うけど。八年って、小学校に入学してから中学二年生になるまで? そんな長い時間、耐えないといけないなんて……。あっという間なんて思えない。
このとき、わたしはそう思った。
八年って長いよ。きっと我慢できないよって。
だけど。
「そうそう。八年後に、真白が仕事に就いたとき、大金を稼げるように、今から準備しておけばいいさ」
「準備、ですか?」
「そうさ。職について即座に大金を稼げるわけはないだろう? 見習いのうちは、給金なんてわずかなもんだ。自分で自分を養うまでに、更に何年かかるのやら」
「そ、そういうもの……なのですか?」
「職に就いて、即座に大金が稼げるほど、真白は仕事ができるのかい?」
就職したら、給料は出る。
それは当たり前だと思うけど。でも、見習い期間とか研修期間とか、お給料は少ないのかな? それに……そもそも、高校を出てすぐに、就職先は見つかるのかな……?
ニュース番組で、大学生が就職先を見つけるのも困難な時代だとか……言っていたような気がする。えっと、就職氷河期? とか?
なんか、血の気が引いてきたような……。
「わ、わたし、大人になったときに、お仕事、見つかるんでしょうか……」
「だから、今のうちから準備すればいいだろ? せっかく親が養ってくれる期間なんだ。家を追い出される前に、自立できるだけの技術なりなんなりをつけておけばいいじゃないか」
就職して、自立できるような、技術……。
えっと、パソコンを使えるとか、英語が話せるとか? そういうのができたら、就職に有利? でも、それってすぐに覚えられるようなもの?
学校でパソコンの授業あるけど。短い文を入力するだけでも四苦八苦した。ローマ字表を見ながら、人差し指でポチポチって打つだけ。わたしが十分以上かけて、なんとか打つことができた文章を、パソコンの先生はわずか数秒で、打っていた。
だったら、わたし、パソコンを仕事としてつかえるようになるには……どのくらい、掛かるんだろう。
英語とか、おぼえるの大変そう。パンダさんに見せてもらったお金持ちの世界のお母さん。英語みたいな外国語をお仕事で話していた。外国の人と、英語で、お仕事ができるまでの語学力。身に着くまで何年かかる?
「……仕事ができるようになるまで八年くらい。間でどんな準備ができるよになるんだろう……」
青ざめた。
準備期間って考えたら、八年なんて短いのかもしれない。
わたし、八年後に、お金をバンバン稼げるように、なれるの……?
どうやって?
わからない。
小学校から中学校に入学するみたいに、自動的になれるものじゃないよね?
お母さんみたいに看護学校に行けば、看護師さんになるって決まっているの?
でも……、お母さんが大変だって、ため息ばかりつく仕事は……、わたしなんかにできるのかな?
お花屋さんになりたかったら、お花屋さんの学校に行くの? そんな学校、聞いたことないけど……。あ、フラワーコーディネート講座っていうのは聞いたことあるけど。趣味での習い事? 資格を取れるって聞いたことがあるような……。
資格とか、持っていたら、そのお仕事につけるの?
わからない。
だけど、わたしが大人になって、できる仕事……、ない、ような、気がしてきた……。
無言で青ざめたわたしに、ラケーレさん「仕方がないねえ」と肩をすくめた。
「あたしがあんたに教えてやれるのは、魔法くらいかねえ……」
「えっ!」
魔法。わたしにも、使えるの?
「お、教えてもらえるんですか⁉」
「……その代り、アンタにしてもらいたいことが一つあるんだけどね」
してもらいたいこと。
それが何かわからないけれど、教えてもらうのに代価なし、というわけにはいかないだろう。
わたしは「わかりました」と引き受けた。
「じゃあ、まず、真白、アンタの体に魔法を巡らせてやろうかね」
わたしはラケーレさんと向かい合うようにし立ち上がった。
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