真白 『異世界』にて ②

 きゃああああああ、とか。

 いやああああああ、とか。

 女の人の叫び声に、パンダさん……アイルさんはいきなり走り出した。

「あ、アイルさんっ!」

 呼び留めてみたけど、アイルさんはわたしを振り向かない。

 すごい勢いで駆けていく。

 わたしはなんとかあとを追いかけていたんだけど……、次第に引き離されて、アイルさんがの姿が見えなくなってしまった。

「ど、どうしよう……」

 キラキラした廊下で、わたし、一人。

 こんなところに置いていかれて、誰かに怒られたら。

 どうしよう。

 先に進めばいいのか、それとも、さっきの場所に戻って、アイルさんが来てくれるのを待つ?

 誰かに道……いや、ここ廊下だけど……とか、尋ねたほうがいいのかな……。でも、あたりには誰もいないし……。

 迷っていたら、また、悲鳴が聞こえてきた。

「い、行ってみよう……」

 聞こえてきた悲鳴のほうに、きっとアイルさんはいる。

 だけど、わたしが行ってもいいのか……。

 迷うけど、このまま、こんな廊下で一人待っていても、どうしようもない。

 意を決して、進む。

 突き当りの階段を下りるのか、上るのか。

 考えていたら、今度は泣き声が聞こえてきた。

 上のほうから聞こえてきている。

 わたしは階段をそっと上っていった。

 一番上の階の、一番奥の部屋。そのドアが開いていた。

 泣き声は、そこから聞こえてくるみたいだった。

 そっと、ドアから、室内を伺ってみる。

「大丈夫ですよ、ナトゥーラお嬢様。ボクが来ましたからね。もう、怖いことはありません。辛いことは泣いて、流してしまいましょう。それでいいんですよ。あなたはなんにも悪くありません」

 労わるとか、慈しむとか、慰めるとか。

 すごく優しい声のアイルさんがいた。

 それから……金色の長い髪のきれいな女の人も。

 エメラルドみたいな緑の瞳。そこから流れている涙は、涙じゃなくて、まるで宝石みたい。キラキラ輝いている。

 触れたら、壊れてしまいそうなほど、細い体。着ているのはレースや刺繍がいっぱい施されているドレス。

 絵本や、物語の、本物のお姫様、みたい……。

 わたしは自分の髪の毛を引っ張ってみた。

 肩までの長さ。美容院とかなんて、行ったことがない。髪が伸びたら桃花お姉ちゃんにぱっつんと切ってもらってるだけ。

 服だって、レースなんてついていない。それどころかお姉ちゃんが着古した、おさがりの服。

 ……急に自分が恥ずかしくなってきた。

 今まで、こんな姿で、アイルさんのそばにいたなんて……。

 わたしは、後ずさって。そして、その場から走り去った。

 走って、走って、走って。

 元の道……というか、廊下を、バタバタと、息が切れるほどに走って、階段を一番下まで降りて、そして外に出た。

 そこは、薔薇の庭園だった。

 きれいに手入れされて、整えられた、美しい庭。

 まるで、さっきのお嬢様のようだ。

 この美しい庭に比べたら、わたしなんて、道端に落ちている石のようだ……なんて、思ったけど、この庭にはそんな石さえも落ちてはいなかった。枯れた葉っぱすら、ない。

 荒い息のまま、足を止めて、その場にしゃがみ込んだ。

 アイルさん……パンダさんは、わたしをこの世界に連れてきた。パンダさんの世界に。

 連れてきてもらった対価として、わたしはパンダさんに、なにか感情を一つ差し出す。そういうことになっていた。

「それって、さっきのお嬢様のため……?」

 泣いていた、美しい、お姫様。

 彼女のために、パンダさんは、きれいな感情を集めているの……?

 ざわり……と、胸の奥から黒い気持ちが湧き出てくるようだった。

 きれいな感情と真逆の気持ち。

 ああ、これって、嫉妬だ。あのお嬢様に対する、べたついた、嫌な感情。

 あの人が、なんで泣いて、叫んでいるのか、そんなのは知らない。

 だけど、泣いたら、すぐにパンダさん……アイルさんが、お嬢様の元に駆けつけて、そして、慰めてくれる。

 うらやましい。

 あんなに美人で、こんなお城に住んでいて、しかも、アイルさんみたいにカッコいい人が、側についていてくれる。

 なにもかも全部、手に入れているような、恵まれたお嬢様にしか見えないのに。

 泣いて、叫んで、アイルさんからも大事にしてもらって。 

 わたしなんて、何にも持っていないのに。

 綺麗な顔も、お金も、服も……、わたしを大事にしてくれる人も。

 いない。

 だれも、いない。

 ……ううん、きっとあのお嬢様だって、泣いたり叫んだりするほどに辛いことがあるんだろう。多分、きっと。

 だけど、つらいなんて、わたしも同じ。

 同じだと思うのに、やっぱり、あのお嬢様は恵まれているように思えてしまう。

「……こんなんで、きれいな心なんて、差し出せないよ」

 パンダさんが求めているのは、きれいな感情。

 きっとあのお嬢様のために。

「うらやましいっていう感情を差し出したら……ダメ、かな。きれいじゃないから、ダメだよね……」

 この薔薇の庭は、こんなにもきれいなのに。

 見上げる空は青くて、雲一つなく晴れているのに。

 わたしの心は、きれいじゃなくて、真っ黒だ。

 異世界に連れてきてもらった。物々交換みたいに対価が必要なのに。

 今のわたしには、パンダさんに差し出せるきれいな感情なんてない。

「ごめんね、パンダさん……」

 呟いたら、「なんだ、おまえさん。パンダが連れてきた子どもかい」と、しわがれた声がした。

 思わず振り向くと、そこに一人の老婆がいた。

 老婆……と言っても、きっと若いころは綺麗だったんだろうな、と思う。

 美老婦人? 

 そんな言い方ってあるのかな?

 あるか、ないかはともかく。

 しわだらけの顔でも、すごく整っている見える顔。黒いすっきりしたドレス。背筋を伸ばしてしゃんとしているから、若く見える。

「あ、あの……すみません。えっと、そうです。パンダさん……、アイルさんに連れてきてもらいました」

「で、そのパンダはどこにいるんだい? 客を放り出して、仕方のないパンダだね」

「えと、あの……」

 言っていいのだろうか?

 あの、お嬢様が叫んで、泣いていて。それで、パンダさんが、今、お嬢様を慰めているって。

 モゴモゴしていたら、美老婦人は「ああ……」と納得したみたいに頷いた。

「あたしの孫娘がまた泣いているのかい。仕方のない娘だねえ。いつまでも自分の殻の中に閉じこもって。ウジウジ泣いてばかりで」

「孫娘……?」

 と、言うことは、さっきのお嬢様の、おばあちゃんなのかな?

「ああ、そうさ。アイルロポダ・メラノレウカの魔法の師匠にして、 ナトゥーラ・フィデンツァの祖母。あたしはラケーレ・フィデンツァさ。初めまして、だね。パンダが連れてきた、何人目かの異世界からの子ども。お前の名前はなんて言うんだい? 名無しなら、あたしが勝手に名前を付けるけど、いいかね?」

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