真白  『異世界』に『家出』する ④

「え?」

 いい子ちゃん?

「お母さんの言うことには大人しく従って。あたしには媚びて。真白は大変だね~」

 媚びてる……つもりなんて、ない。

 ご飯を持ってきたことを、そういうふうに桃花お姉ちゃんは受け取ったの?

 手にしているお盆が、急にずっしりと重たく感じられた。

 わたし、余計なこと、しちゃったのかな。

 でも……。

「あたしとお母さんがケンカしているときにはどっかに隠れて黙ってて。ケンカが終わったら、ふて寝したお母さんには毛布を掛けて、あたしには食べ物を運んでくれて? ほーんと『いい子』よねえ」

 いい子だと言われても、褒められているのではないということは、桃花お姉ちゃんの口調から、わかる。

 だから言えなかった。

 隠れてないよって。パンダさんと一緒に、別の世界にいたんだよって。

 きっと言っても……信じては、もらえないだろうけど。

「あーあ。あんたが『いい子』やってるから、ますますあたしが『わがまま』ってお母さんに怒られるのよ」

 わたし……のせい、なの?

 お母さんと桃花お姉ちゃんがいつもケンカしているのは、わたしのせい?

 何も言えずに、わたしはうつむくしかなかった。

 わたしのその様子に、桃花お姉ちゃんは、ますますイライラとしたようだった。

「ほんと、ムカつく。お母さんも、アンタも。いなきゃいいのに」

 桃香お姉ちゃんの声が、わたしの心臓に突き刺さる。

 痛い。

 実際に殴られたり蹴られたりしたわけじゃないけど、すごく痛い。

「桃花お姉ちゃん……」

 わたし、本当に、いないほうが……いいの?

 喉が詰まって聞けなかった。

 ぽたりと、涙がこぼれて、おにぎりに落ちる。

 ああ……、ラップをしたままで良かった。涙で、おにぎりが、濡れなくてすんだ。

 そう思ったら、もう一粒、涙が落ちた。

「そうやってすぐ泣いてさ。あたしが悪者になるのよね。あんたのせいで」

 どん……って、肩を突き飛ばされて、よろける。麦茶が少しお盆にこぼれた。

 わたしのせいで、桃花お姉ちゃんが悪者になる。

 だから、わたしはいないほうがいい。

 目の前でふすまが閉められた。

 もう顔も見たくない、どこかに行ってしまえ。

 そんなふうに言われたような気がした。

 そう……か。わたしが、悪いのか……。

 わたしが悪いから、お母さんと桃花お姉ちゃんは仲が悪いのか。

 全部、わたしのせいなのか……。

 だったら、いないほうが、いい。

 わたし、ここに、いないほうが、きっと、いいんだ……。

 お盆を、そのまま足元に置いて。わたしは、そのままのろのろと、玄関へと向かった。靴を履いて、ドアを開ける。

 外はもう夜。空は暗い。街灯の光が目に痛い。

 パタン。

 ドアが閉まる音。

 わたしが、閉めた、音。

 その音をスタートの合図みたいに感じて、弾かれたみたいに駆けだした。

 「パンダさん……」

 もう一度、連れて行って。

 あの物々交換の世界でも、お母さんがお金持ちの世界でもいい。どこでもいい。

 ここじゃない、どこかに。

 わたしがいてもいい世界へ。

 泣かなくてもいい場所へ。

 走って走って。転びそうになりながら親水緑道に着いた。

 息を整えながら、パンダさんの看板へと急ぐ。

「パンダさん」

 イラストは、動かない。

 やっぱりさっきのは夢だったの?

「パンダさん、動いて。わたしを助けて。また、どこかの世界に連れていって」

 看板にしがみつく。

 お願い、応えて。

 もう、家には帰れないの。

 わたしが帰るときっとまた、お母さんと桃香お姉ちゃんがケンカしちゃうの。

 だけど、この世界じゃ子どもが一人では生きていけない。お金がない。働くこともできない。住むところもない。

「真白ちゃん」

 かすれた声がした。パンダさんの声だ。

「お願いパンダさん。どこの世界でもいいの。わたしをどこかに連れて行って。もう、ここには……いられないの」

 動かないパンダのイラストに向かって、叫んだ。

 すると、イラストの口が少しだけ、動いた。

「……ボクとしては、真白ちゃんをボクの世界に連れていきたいんだけど」

「行く。連れて行って、パンダさん」

「後悔しない?」

「しない」

「……ひどい目にあうかもしれないよ?」

「パンダさんは、そんなこと、しないと思う」

「今日出会ったばかりのボクを、そんなにすぐに信用したら駄目だよ。ここじゃない別の世界に連れて行って……そこで、真白ちゃんからなにかを奪う気なのかもしれないでしょ」

 物々交換の国でのことを、わたしは思い出していた。

 ジュースを買うのに折り紙で鶴を折った。

 パンダさんの世界に連れて行くための代金を支払えって言われるのなら、それは当然だと思う。

 だけどお金はない。

 わたしが払えるものはなんだろう? 

「物々交換は、お互いが納得すれば成立するって、パンダさんがわたしに教えてくれたよ。わたしは、なにを差し出せば、ここじゃない別の世界に連れて行ってもらえるの?」

「……感情を」

「え? 感情?」

 感情って、あげられるもの……なの?

「ああ、感情って言っても喜怒哀楽とかの全部を貰うわけじゃないよ。きれいな気持ちを一つでいいから、渡してほしいんだ。そのために、実はボクはずっと真白ちゃんのことを……見て、いたんだ」

 怒ったり泣いたり楽しんだり嬉しかったり。なにかの感情のうちのたった一つを渡すだけ。

 大したことのない対価に思えた。

 もともとわたし、あんまり怒ったりしないし。怒りという感情を差し出しても、別に困ることはなさそうだと思った。あ、でも、怒りって、きれいな感情ではないかな? 

「きれいな感情って、どんな気持ちのこと?」

「ああ。例えば歌の好きな子から、その歌が好きっていう気持ちを貰う程度だよ。そうすると歌に対する興味はなくなるけどね」

 お母さんや桃花お姉ちゃんへの気持ちを、パンダさんに持っていってもらったほうが、わたし、新しい世界で過ごしやすくなるかもしれない。

 でも、これはきれいな感情なのかな?

 わからない。

 でも、このときのわたしは、感情一つくらい、対価に支払うくらい、何ともない、と思っていた。ずっと見られていたというのも気になんてならなかった。むしろ、タイミングよく助けてくれたのは、見られていたからなんだと納得できた。

「払う。わたしの感情を一つ。だから、連れて行って。わたし、もう、ここにいたくないの。家に、帰りたくもないの」

「じゃあ、行こうか。ボクの世界へ」


 そうして、わたしは自分の意思で、この世界から『家出』をした。


 さよなら、お母さん。

 さよなら、桃花お姉ちゃん。

 もう、二度と戻らなくても構わない。


 このときのわたしは、そう、思っていた。

 わたしが『家出』をしたせいで、お母さんや桃花お姉ちゃんが苦しむなんて、全然考えもしなかったから。



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