第13話 千年、待ったよ
「……叩いたな」
剣士エルガ、いや、その身体に魂を宿す冥王イーヴェダルトは、横に立つ黒の外衣の魔法使いに顔を振り向けた。
歪めた口の端から蒼い冷気が漏れ出ている。全身をぱちぱちと小さな稲妻が巡っている。内側から光を放って金に輝く瞳を細め、魔法使いを鋭く見下ろす。
エルガの濃紺の短髪も、剣士の灰茶色の内着も、体格も、なにも変わっていない。が、いまそこにいるのが先ほど後ろ手に拘束されていた男と同一人物とは、もうこの場の誰も思ってはいない。
いま、その両手があげられる。
魔法使いに覆い被さるように広げられる。
腕を振り下ろそうとした彼に、だが、魔法使いは一歩も引かずに強い目を向けた。
「こんなところで抱きついたら蹴り上げるわよ」
魔法使いネイゼリアに宿るサナは、腰に手をあて、ふん、と鼻を鳴らした。
その顔を見下ろすイーヴェダルトは、眉の尻を大きく下げ、目を半月の形に撓めている。頬が上気している。息が荒い。
「……よい。誠に、よい。そなたの打擲。なにゆえ身体が変わっても同じ愉悦を感ずるのであろうか。解せぬ。解せぬがゆえに考察が必要だいまいちど」
「嫌です」
「頼む」
「嫌ですもういま、そんな場合じゃ……きゃっ!」
小さな悲鳴は、同時に起きたふたつの事柄に向けられていた。
イーヴェダルトがサナを包むように抱きしめたこと。
その肩越しに、無数の光の矢が二人に殺到するのを目撃したこと。
サナの右手が発光する。防御神法を起動し、自身と冥王の周囲に展開する。が、矢の速度が彼女の反応を上回った。結界の内側に侵入する。サナは目を瞑り、衝撃に備えた。
しかし、痛みも衝撃もやってこない。目を開くと、光の矢は冥王の背ぎりぎりですべて静止していた。
「……このようなもので我を貫けるとでも思うたか」
サナを胸に抱いたまま、冥王は振り向きもせずに後方に声を向けた。声音はこの世のものではない。重く低く、だが、全員の魂を直接、揺さぶった。
「……その気配。冥王か」
光の矢をイーヴェダルトの背に押し込もうとするように両手を前に上げ、力を込めていたイルは、諦念したようにそう呟き、ふっと肩の力を抜いた。冥王の背に浮いていたすべての矢が落下し、途上で消失する。
「なにをしに出てきた。黒の聖女の亡霊を送り込んだのもお前か」
「……貴様の匂いも知っている」
サナを胸から離し、イーヴェダルトはゆっくりと振り向いた。
「あの日、そこの女と冥宮に来ていたな。あまりの腐臭に吐き気を催したゆえ、よう覚えている」
「……あなたは、ウェルディードの……白の聖女の側づとめ、ですね。どういうこと……? あなたたち二人が冥宮に、冥王のところに行っていたって」
冥王の後ろでサナが声を出す。イルは骨と皮ばかりの灰色の顔を無表情で固めて、上目にふたりをじっと見つめている。答えようとはしない。
サナは、その足元あたりでへたり込んだまま、小さく震えている白の聖女にも視線を向ける。こちらも声は出せない。サナのほうをちらと見て、すぐに目を逸らした。
「冥婚だ」
代わりに応答したのは、イーヴェダルトだった。
「千年紀の冥婚、冥界の主と人の娘との婚姻の伝承を、この者どもは知っておった。それがいま、この時代になされるということもな。こ奴ら、花嫁装束まで用意してやってきたのだぞ。笑止な」
「……え」
「自分こそは冥神の魂の顕現だと、冥界と人間界をともに統べるべき者であると、声高に言っておった。王国も、王族も、すべては自分の意のままだ、すべて差し出そう、だから代わりに力を寄越せと、永い命と世界の半分を寄越せと、そう言った」
と、冥王はなにか思い出したように口角を持ち上げ、ふ、と息を吐いた。
「口をきくのも大儀になって追い返そうとしたが、白の聖女、最後に貴様がとった行動だけは愉快だった。しばらくは冥宮の魔物たちと語り草にしたぞ。我に歩み寄り、いきなり脱ぎ出したのだからな。気が触れたかと思うたが、あれは色仕掛けだったのだな」
がらん、と音がした。
衛士たちに囲まれた王太子の手から、震えながらも支えていた剣が落下したのだ。拾おうともしないまま、目を見開いてウェルディードたちを見つめている。
「……嘘、だ……」
「もっとも愚かであったのは、貴様だ。王太子」
鋭い視線を投げながら冥王が送った言葉は、とうてい王族に向けられるべきものではなかったが、この場の誰もそれを諌めようとはしない。
「そこの女は、妻が……サナが、我が魂の片割れであることに気づいていた。だから先んじて我に取り入ろうとし、失敗すれば今度は貴様に擦り寄り、謀略をもってサナを葬ろうとした。あろうことか、自らに恥をかかせたこの我、冥王を討伐させ、返り討ちにさせることによってな。貴様、薄々は気づいておったろう」
「……い、や……」
次の瞬間、王太子の眼前にイーヴェダルトは立っていた。
エルガの身体だ。本来の冥王より体躯は小さい。が、その魂の巨大さが若い王族を圧倒した。見下ろす冷たい蒼の瞳に、下穿きの腿のあたりを大量の暖かい液体で濡らしながら、王太子はがくりと膝を折った。衛士が慌てて左右を支える。
イーヴェダルトはゆっくりと振り向き、座り込んでいる白の聖女の横に膝を立てた。俯く彼女を覗き込むように、光のない瞳を向ける。ウェルディードは震えながら顔を背け、目を合わせようとしない。
イルはその様子に空洞のような目を向けるだけで、動こうとしなかった。
「白の聖女……白の、聖女、か。ありもしないものを推戴し、すがり、本物を見分けることもできぬ。そしてそれを利用し、惨めな策謀を巡らせるものもある。まったく哀れなものだ、人間というものは……そう思わぬか、ウェルディードとやら」
「……ちょっと……ありもしない、って……どういう……」
サナの声に、冥王は片眉をあげてみせた。ウェルディードを見る目とサナへのそれと。その温度差は絶対零度と沸騰点におけるそれであった。
「文字通りのことだ。白の聖女など、存在しない」
「……え」
「聖女の力は、冥界にのみ由来する。神界は人間に与せぬ。力を下ろすなどということは、決してない。あの神々は見守って導くだけだ。この女が……いや、代々、この女の家が使ってきた力は、冥界の力だ。その時々の黒の聖女の力をわずかずつ奪って、白の聖女を名乗った。そういう簒奪の技術によりのし上がってきたのが、貴様の家であるボディフ家だな、ウェルディードよ」
「ああ、そのとおりだ」
返したのは、ウェルディードではない。
イルが両手をだらりと下げ、空洞のような眼窩に小さな光を灯しながら、亡霊のように身体をゆらり揺らめかせ、唇を動かさないまま声を出している。
「冥王。いつから見ていた」
「始まりは知らぬ。貴様らの九代前よりは我が目で見ていた」
「四百五十年、か……始まりは、前の千年紀よ。前の冥王、いまの冥神は二人の妻を持っていた。ひとりは貴族であった我が家の出、もうひとりはどことも知れぬ田舎の娘。だが、選ばれたのは……子をなしたのは、田舎娘だった」
ごう、と、見えぬ炎があがった。
炎はイーヴェダルトを包んで踊っている。
「……母を、現在の地母神を、田舎娘と呼ぶか」
「済まんな。まもなく終えるから、許せ。祖は失意のうちに国に戻ったが、冥王から冥界の秘儀を受け継いでいた。冥界の聖女……黒の聖女の力を我がものとする技術。それにより祖は、そして我が家は白の聖女を名乗ることとなった。機を待つために。祖の恨みを晴らし、冥界を、ひいては世を我が手に収めんがため」
イーヴェダルトの瞳が強く発光し始める。
「……魂を残さぬ。永劫の闇に落とす。言いたいことがあるのなら、すべて言っておけ。覚えてはおかぬがな」
「では、もうひとつだけ」
ふう、というように肩をすくめて、イルは首を振った。
「さっきの、祖。あれはな、わたしの娘だ。娘の呪いにより、死ねぬ身体になってしまった。千年、待ったよ。この一撃を送るためにな」
言葉の瞬間、イーヴェダルトは振り返った。
が、間に合わない。
サナの、魔法使いネイゼリアの胸を、イルが放った呪いの雷が貫いていた。
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